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「的」は敵である

 教職の授業や介護体験のときも感じたんですが、教職を目指している人 の中にはいかにも教師然とした人がいます。それはどういう人か といえば、なかなか言葉に直すのは難しいのだけれど例えばニコニコ笑顔で「みなさん」とか「〜しましょう」とか「ハイッ、そうですね」を連発し、やたらカ ツゼツはよく、おまえジャージ着たらまんま絵に描いたような小学校の先生だよとついつっこみたくなってしまうような、そんな人です。

 悪い人じゃない。そりゃそうです。でも、ぼくがそういう人を見ていてどうも腰が落ち着かないというか、そわそわしてもう、教室から飛 び出していきたくなってしまうこの違和感はなんでしょうか。それはきっとその人があまりに教師的なスタイルで接してくるからです。

 スタイルの過剰を気質と言ってもいい。「世間教師気質」なんて江島其磧なら書いて茶化しそうなところです。

 楽だと思います。世の中にはパッケージされたスタイルがたくさんあります。「小学校の先生」というスタイルはその際たるものでしょ う。葉巻くわえた社長の図とか、なよなよした文学青年とか、絵の具を飛び散らす芸術家とか、他にもいろいろあると思います。自分のスタイルがあるのかどう かは別として、そういうものに一度乗っかってしまうと、こう来たらこう返せばいいというのがあらかじめ決まっているので楽なのです。他人の頭で考えてい る。こういうとき教師ならどうするか、という思考形式が常に働いて、自分ならどうするかという問いが欠落しているのです。

 過剰なスタイルはへたくそな演技でしかありません。だから見ていられない。逃げ出したくなる。

 既成のスタイルの方へ自分を預けるのではなく、引き寄せて自分のスタイルに取り込むという姿勢こそが求められているのに(特に教師に は)、借り物のスタイルを身にまとおうとする。本当の演技は、演技ではない――成井豊のこの言葉がすべてを物語っているように思います。
 
 同じ事は一方で創作にも言えて、ある詩を評して詩的だと言う、ある小説をもって文学的だと言うことはもっともその作品に対する侮辱だ とぼくは考えます。本当の文学は文学的ではないはずだし、詩的な表現などというものは詩にはあってはならないのです。いかにも文学くさいスタイルにのっ とって書かれたものは結局今まであったものの亜流でしかなく、何も新しいものを生み出したことにはならないのです。

 教師たらんと思うのならまず教師的なものを、教科書的なものを全て敵に回すくらいの勢いでなくては。其の上で既存のいいものは自分の 中に取り込んでいく。今言った「教師」という言葉は他のなんにでも当てはまると思います。小説家たらんとするなら全て文学的と称されるものを敵に回せ。

 「的」はどこまで行っても本質にはたどりつけないと思います。

03/12/12

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