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物語より大切なもの

 煮詰まる、行き詰まる、何のためにこんなことをやっているのか――何 のためにもならないからこそやることに価値があるんだというよ うな思考停止の理屈はまかり通らない。次の一歩を予測し得ないとき、ずっと立ち止まってしまう。自分の足なのに、どちらの足から出していいのかもわからな いような。何かに一生懸命になることができない。そういう時、物語に食われている、と感じる。

 スタイルと物語との関係を考えたいと思う。物語の中を生きるぼく自身を包み込むのがスタイルなのか、物語に埋没することでしか現れて こないのがスタイルなのか。

 たとえば、ぼくが物語とどう付き合ってきたかと言えば、受験生の時分は太宰治の「パンドラの匣」やあるドラマの一話をしつこく自分の中 にインプットしていた。前者は、主人公が十六歳、受験生の男の子で一高(だから今の東大教養学部ね)を目指して日々文学に親しみながら勉強に励み、結局一 高はダメで私大に受かるのですが、雰囲気になじめず役者の道に目覚めます。そして演劇の大家に弟子入りし、初めての舞台を踏む……という所で終ります。後 者は高校三年生の女の子がやはり受験生として主役で、ある日勉強部屋の壁の修理のため、工事の人が来ます。この人が同じ十八歳の男の子で、二人は窓越しに いろいろな話をします。その中で、女の子の方が先の見えない勉強に、そして大学に入ったとしてもやりたいことがはっきりしない(「どうせ国文学だし」とい うセリフが国文学生となった今となっては聞き捨てなりませんが)ことに不安を表すと、男の子の方が自分の仕事の話を交えながら「迷ったらとりあえず目の前 のことを一生懸命やっとけ」と言います。で、こういう物語をぼくは時分の勉強でへこたれそうになるたびに思い返し、あるいは自分と主人公とを同一化してな んとか気持ちを保っていたのです。

 あるいは、「シンデレラになる方法」で紹介した「tokyo.sora」という映画で も、小説家志望の女の子に一番入れ込んでいるし、「耳を すませば」の主人公の女の子も小説を苦労して書き上げ、おじいさんに見せたあとで大泣きするシーンなどもらい泣きどころではありません。

 で、それでいいのか、ということです。物語はおそらくぼくの例ほど極端ではないでしょうが同じような消費のされ方をしていると思うの です。背広を着た社会人がサラリーマン金太郎とか島耕作とかを読むのもしかり、失恋した男が恋愛小説をむさぼり読むのもしかり。すでに本屋に行けば、映画 館に、レンタルショップに行けば膨大な量の物語が蓄積されていて、お金を払えばそれを手に入れることができます。今、こうしている間にも世界のいたるとこ ろで作家が物語をつむぎ出しています。明日店頭に並ぶ物語もあるでしょう。
 問題はそうしたたくさんの物語の中に自分の人生とぴったり一致する物語があるのか、ということです。ぼくが言いたいのは、受験生の時 分に「パンドラの匣」やそのドラマに出会っていなかったらどうなっていただろうか、ということです。もう少し一般的な例を出して見ましょうか。

 友達の言っていた話で、オリンピックがやっている最中はスポーツクラブに行くとやたら人が多い――これも、テレビで放映される栄光の 物語を自分にダブらせようとする心理が動いているからです。栄光の物語に供したいのです。それを逆手に取ったのがアダルト・チルドレンという物語療法で あったり、あるいは物語論の本を読むと必ず出てくる過去の歴史記述の問題であったりします。戦争反対、それはわかる。けれど、太平洋戦争中、多くの人が 「大東亜共栄圏」という物語を信じていたとしたら、戦争反対も民主主義が生み出した一つの物語に過ぎないのではないかという不安さえ感じてしまう。あげて いるときりがない。

 話をもとにもどすと、それではオリンピックがなくてもスポーツクラブにいけるのか、言論の自由が完全に保障された所で(ちなみに今の 日本は天皇の悪口を言うことが相当タブーな風潮だし、ワイセツ漫画は発禁になるし、ある程度のルールやマナーはあります。そうではなく、何を言っても誰に も何も言われないというユートピア的なところ、という意味)戦争反対と言えるのか――物語のないところで人間は一生懸命に生きることができるのかという問 題にスタイルがどう対処できるのか、ということです。

 スタイルが自己肯定の回路であり、実際の行動の中で具体化するというこれまで書いてきた考え方に従えば、スタイルという抽象的な概念を実 現するのが物語だ、という答えが一番まっとうに聞こえる。つまり、既成の物語の中からの中から自分に合ったものを選び出し、それに乗ることで既成のスタイ ルを自分に取り込むということよりも、選び出す暇と労力があるのならユニークな物語の源であるスタイルへ目を向けた方が賢明だ、ということです。

 一生懸命になることができない、というのは自分の生きるべき物語が見つからないということではない。もしそういう風に勘違いしてし まったら本屋に駆け込んで片っ端からページをめくり映画を何百本も早送りで見て「苦悩している自分」を鏡に映し出してくれるような物語をえんえん探し続け なければならなくなる(もっとも、そういう需要を見込んで書かれる物語があることは確かであるが、三島由紀夫の言うようにそういう物語は概して二流であ る)。見つかる保証もない物語を探して生きることをやめるのは哀しく滑稽だ。

 ではスタイルとは? それをいかにして構築するのかは、まだわからない。けれど、ここで言えるのは物語はスタイルから派生するもので あり、他のどこかからかつれて来られるものではない、奇跡的に(ぼくの受験生時代のように)それが見つかったとしても一時的な消費に終わってしまうという ことだけだ。

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