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スタイルのある風景

 齋藤孝に寄れば「スタイル」にはそれによって自己が肯定されるという 大前提がある、そしてスタイルとは拡張されべきものである、つ まりは独りよがりなものではない。これは非常に精神論に偏っていて、内面の問題だ。もちろんそれも大切。自己修養としてのスタイル。けれど、同じことを目 論んだ明治大正の私小説家が結局自己にしか興味を示さず自己否定にしか行き着かなかったことを考えれば、スタイルを自己修養の精神論としてだけとらえるこ とに限界があるのは明らかだ。

 ぼくたちはもちろん現実の中で生きているのだが、ところが現実と向き合わなくても生きていくことも技術的には可能だ。人と過剰に距離を取り、部屋に閉じ こもり、必要最低限の運動と仕事とで生き長らえる。それを可能にする都会という場も用意されいる。死後半年くらいたってから隣人に発見されるような人生を 可能にするアスファルトの不毛。けれど、既にそれをぼくは冒頭で否定した。ここでは現実の中で生きることを前提として話をすすめるのでその「技術的」な問 題については扱わない。

 さて、古本屋にて二束三文で購入した光野桃『私のスタイルを探して』は非常に示唆的であった。筆者は「ファッション・ジャーナリスト」なる職業の人物 で、つまりは彼女の言う「スタイル」とはファッションという切り口からとらえたものである。最初に述べたようなぼくのとらえる「スタイル」との違いは「外 面性」を意識しているかどうかということだ。そもそも「スタイル」という言葉は「プロポーション」と言い換えられてファッションの中で扱われるのが普通 だ。少し、原点に戻って耳を傾けてみようと思った。

 ぼくはこの本に出会うまでただ漠然と「内面」さえ整えば「外面」はあとからついてくるという考えていた。たとえば精神的安定を得れば顔つきが穏やかにな るように、「内面→外面」という図式が無条件に成立すると考えていた。はじめに己ありき。これがぼくの考えるスタイル構築の方程式であった。

 ファッションなんてチャラチャラ着飾るだけのもの、軽薄でくだらないも の、外見 を取り繕うことにうつつを抜かすなんて知的じゃない、人間大切なのは中身だ――そういう考えが、二十一世紀が間近になった今日でも日本にはいまだに根強く 残っている。(『私のスタイルを探して』)

 「ぼろは着てても心は錦」とはよく言ったものだ。やはりこういう形式の精神論を日本人は好む。第一ぼくがそうだ。ところが、である。ところが、人間はど うしても人と関わって生きていかなければならない。どんなに孤独を愛そうとも、ガス屋がガス代をよこせとドアを叩き、コンビニには店員が待ち構えている し、電車に乗れば「てめえ足踏むんじゃねえ」と難癖つけてくる人がいる(あれは驚いた)。好きな相手とだけ付き合おうとすることはナンセンスだ。

 そこで、もちろん相手のことも知りたいとも思うが同じことの裏側として、いかに相手に自分のスタイルを伝えるかということが問題になってくる。一人で生 きているのなら本でも読んで精神修養を続ければよい。しかし現実には不可能だし、スタイルとは人と本当の意味で「出会う」ことが目的なのだから人間関係の 中でスタイルを語らなければそれは確かにうそだ。

 人は誰でも自分のことを、正確に相手に知ってもらいたいと思うのではな いかし ら。特によいところは積極的にアピールしたいと思うものでしょう。でも、誰とでも1時間じっくりと話し込む機会があるというわけではないわ。(同書)

 だからといってぼくは人との対話をあきらめるつもりはない。そういう努力は続けるつもりだ。けれど、効率という面から考えて見た目にスタイルを反映「さ せる」ことも必要だ。

 「内面←→外面」という双方向の図式が実はスタイル構築の近道なのかもしれない。

 ちなみに「内面←外面」という図式はどうか? これは女性のほうがうんと大きい問題なのかもしれない。「私のスタイルを探して」では「買っても買っても 着る服がない」という筆者の苦労が描かれている。自分のスタイルに合うものを探すという方向性があるわけではなく、ただ漠然と「自分」という最もあてにな らないものに合いそうなものを手あたり次第に探し続ける、終わりのない苦痛。

 結局「スタイル」とは、自分を捜し当てることだった。捜し当て、確固た るものと してそれを表現しようとする時、服はただのモノから、その人にとってのスタイルとなりえるのだ。(同書)

 ぼくは内面から始まって外面からの方向性に思い至った。

 逆に筆者は外面から始まって内面からの方向性に思い至った。

 男と女の違いかもしれないし人間の違いかもしれないが、そういう違いが感じられてぼくはこの本を読みながら何度もうなずき、自分のことを裏側から書いて あるように思えてしかたがなかった。

 さて、筆者は次のような結論に達する。

 スタイルを持つためには、二つの要素が必要ということなのだ。
 一つは、自分の知る自分を表現すること。もう一つは、他人の知る自 分を知っていくことである。(同書)

 自分が思っている自分と他人が思っている自分とがぴったり合致するということはなかなかないだろう。しかしズレに意識が向けば修正も可能だし、逆にズレ を楽しむことだってできるかもしれない。ドゥルーズばりに差異を肯定していくことも時には必要だ。まず己を知ること。そして他人の目に映る己を知ること。 そして他者へ開示していくこと。いかに自分のスタイルをプレゼンテーションしていくか。その方法としてのファッションだ。そこには「型」から自己を律する 日本独自の身体論に通ずるものがちゃんとある。「スタイル」はすべてを有機的に含みこんだ人生哲学だ。

 矢井田瞳が「i can fly」という曲を作ったとき、北海道の青い空の下ではうじうじしている自分が似合わないと思ったというようなことをインタビューで言っていた。そういう 風に自分の身にまとっているものを外へ拡大していくのも楽しい。今一歩引いた目で自分の身にまとっているものを眺めてみる。さらに引いて、自分を囲むラン ドスケープまで視界に入れてスタイルを考えてみる。それが他人の視点に立って物事を考えるということだろう。それは、小学生でも知っている。To know is one thing, and to do is another.いまこそ。

03/09/20初稿
04/08/30改稿

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