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主のいない場所(六)

「まったくひどいものですよ。校歌も満足に歌えないなんて」
 花岡はひどく立腹して職員室に戻ってくるなり誰に対してというわけでもなく、予定通りに進行しなかった追悼式への呪詛を声を荒らげて吐いた。佐々木が後 から一つ残らずそれらを掬い上げることで彼女をなだめていた。
「担任のある先生方が生徒たちを帰して戻ってくるまでもう少し待っていてください」
 佐々木は職員室にいる教員たちにそう言い、花岡と共に校長室に消えていった。それとほぼ同時に園山がいち早く職員室に戻ってきた。彼女は入ってくるなり 険しい目つきで部屋の中を見回し、近くに座っていた一教師に「校長は?」と聞いてから校長室に入っていった。園山が中に入ると相変わらず花岡が佐々木に八 つ当たりをしていて、その姿を見られたのを恥ずかしく思ったのか彼女は慌てた様子で「ノックぐらいしてください」と言った。部屋の中を歩き回っていた彼女 は身を投げ出すように大きな校長用の椅子に腰を下ろして背もたれをぎいと鳴らした。ノックをした園山は花岡の言葉には取り合わず佐々木にしばらく席を外し てくれるよう言った。佐々木はすぐに部屋を出て行ったがドアを閉める時ちょっと首をかしげる所作をした。
「なにごとですか、わざわざ」
 しかし園山は何も言わずに白い封筒を机の上に差し出した。「辞表」と書かれた封筒を。花岡はそれを見て即座に首を持ち上げ、机の前に立っている人物を見 た。
「これは、どういうことですか」
 職員室に入ってきた時とは打って変わって園山の表情は和らいでいた。しかしその顔に浮かぶ微笑は怒りや悲しみを押し隠す、無表情の笑みであった。それは 長い間かかって自然に体得された性質だった。花岡はだから、相手の顔を見ても何一つ読み取ることができなかった。彼女は純粋に、子供のような質問をしたの である。
 園山は質問に直接答えることはしなかった。
「校長は以前、ご自分の父親である岩代先生のことを道楽や利益第一主義で学校を経営するとおっしゃって批判なさっていました。学校を会社扱いしている、 と」
「それが、……どうかしましたか。事実ではないですか。こんな校舎建てて、外人だパソコンだと金のかかることばかりやれば学費だって高くなるのは当然です し、送迎バスも創立当時から値上がりの一途をたどっています。学校法人なんて名ばかりですよ。この校長室だって、見ればわかるじゃないですか。役に立たな い高そうながらくたばかり……この灰皿もその机だってもう売ってしまうつもりでいるんですよ。もっと悪いことに私学の助成金だって――」
「校長」
 加速度を増す花岡の言葉を園山は止めた。それから彼女はゆっくりと、表情を変えることなく言った。
「この学校を会社扱いしているのはあなたの方ではないんですか?」
 それを聞いて体中が過呼吸を起こしたかのように、花岡は震えた。言葉を失って彼女はそれでも座っていられずに立ち上がった。園山は「失礼します」と言っ て会話を打ち切るとドアの方へ向かって行った。
「あなたまで私を悪者扱いするのね」
 ノブに手をかけた後姿に向かって花岡が言うことができたのはやっとそれだけであった。それも、涙で震えていた。それを受けて一瞬園山は立ち止まったが振 り返ることはせず、静かに校長室を出て行った。園山の判断が正鵠を射ていなかったことは悔やまれるべきだが、彼女自身は自分の人生というものを考えてみて 引き際であるとか潮時であるとかそういう時期に差し掛かっているのだと、岩代幹二の死を受けて思い始めていた。彼女の住むことができたのは岩代幹二のいる 岩代高校であった。彼女はもう若くはない。何か新しいことを始めるには時間はあるとしても気力の方が残っていなかった。彼女にとってこれから先の人生で最 も重視したいのは心の平静であった。以前に勤めていた学校での管理職競争に敗れている彼女にとって花岡についていくことに心を砕くことなど耐えられるもの ではないのだ。園山はそのまま職員室を出て行った。入れ替わりに杉田が職員室へ戻ってきた。ちょうど廊下ですれ違いざまに「もうお帰りですか?」と彼が聞 くと相手は幸福を体現したような笑顔を見せて通り過ぎるだけであった。つられて杉田も頬を緩ませた。
 部屋に入ると園山のことは誰も気にかけておらず、主のいなくなった久保田の机の方に注意が集中している様子であった。彼らは黙して視線をそれへ送るだけ であった。花岡へ問いただす必要を誰も感じていなかった。逆なのだ。この事実が花岡から彼らへの問いかけなのであった。杉田も久保田の机がもぬけの空に なっているのを見てあっ、と声を上げそうになった。ほんの二時間前に見た彼の姿が最後の姿になろうとは彼もにわかに信じることなどできなかった。しかし久 保田の性格を少し考えれば納得のいくことではあった。理論上久保田が辞めることは十分にありえたが、実際にそれが現実のものとなると全然別の事態のように 杉田には思われた。
 佐々木は目をつむって窓際で腕を組んだまま誰からも話し掛けられず、ぽつりと立っていた。その時彼一人、部外者だった。彼一人、他の教師が感ぜずにはい られない恐怖を免れていた。水を打った様に静まり返った室内だった。
 放課後、佐々木は美術科職員室に宮澤を訪ねていた。訪問者がドアを開けると都合よく宮澤の他に部屋には誰もいなかった。放課後遅くまで学校に残っている 教師が岩代高校に珍しいことは言うまでもない。宮澤は机に向かってペンを動かしていた。
「小説?」
「ううん、散文詩。今度ね、昔の同人仲間とメールマガジンを発行することになったのよ。私は紙の方が好きなんだけどね……読者層が広がってくれることが第 一の目的だから」
 「おじゃまかな?」と言いながら佐々木は椅子に座った。宮澤はもう少しだからと言って机に向かいながら後ろ手で既に佐々木が腰掛けている椅子を指さして 「そこに座っていて」と言った。
 佐々木は部屋の様子が違うことには入った時に感じていたが、それが宮澤の自画像「女」が取り払われていることによるものであることに気がついた。絵が あった時には暗色系の色使いが主だったその作品の印象が壁そのもののようなものだったからその場所が手垢の汚れのない元のクリーム色の状態になると物足り なさが始めに喚起せられた。宮澤がペンを置く音を聞くとそのことを尋ねた。
「ああ、もうやめたのよ。自画像なんてもうたくさん。きりが無いわ。もう少し外のものに目を向けようと思って」
 「そう」と佐々木は壁を見つめながら言った。「なんだか、この壁がさびしそうに見えて……。むしろ、さびしいのはぼくの方なのかもしれないけれど」とも 言った。
「この壁にはこの壁にふさわしい、あるいはこの部屋にふさわしいものを描いて飾ることにするわ。あんな自画像、押し付けがましいだけよ。この部屋がどんな 絵を欲しているのか、私はどんな絵を描いてこの部屋を演出したいのか――この二つの違いって意外と大きい気がするのよ。私は自分の部屋だと思って後者のほ うを無理に押し進めていたのかもしれない。だからもう少し、場所の声を聞こうと思うの」
 言いながら宮澤はどこか不自然な感覚を抱いた。佐々木に向かって言うべき言葉ではないような気がした。慌てて彼女は付け加えた。
「あなたを見ていてそんな風に思うようになったのかもしれない」
 宮澤は微笑んだ。しかしその最後の言葉だけは全然別の、もっと正確に言えば全く正反対の場所から落下してきたように響いた。もし佐々木が絵を描くとした ら、という問題を宮澤は考えるべきであった。それによつて自分の抱える方向性の矛盾も自ずと明らかになっただろう。しかし今の彼女に自身の不自然さなど問 題ではなかった。どんなにねじれていても一番大切なのは最後の言葉だった。そこへの連結を彼女は最も苦心したのだ。慣れない彼女の精一杯の遊戯、演技、誘 惑が切り貼りのようになるのは以前にも述べたとおりである。そうやって彼女は常に何かに対して片手間である。一つことを突き詰めることのできない人間であ る。彼女はいつでも遊んでいる。絵や詩や小説や恋や人間と遊んでいる。あらゆるものに手を出し「成功する可能性」を残したまま次の場所へ渡り歩く。彼女は いつでも「新進気鋭」である。「恋はね、いつでも初恋なのよ」と豪語する。
「一つ、頼みたいことがあるんだ」
 人差し指を律儀にピンと立てて佐々木は言った。いきなり近づけられた相手の顔から遠ざかるようにして。
「なに?」
「学校のピーアールポスターのデザイン。広告も何種類か作ってほしいんだ。キャチコピーも好いのが欲しい。万が一カメラマンが必要ならこちらから費用は出 すし――でも、わかるだろう? どうして君に頼むか。もちろん才能と腕とが大前提だけどね」
 佐々木は宮澤の目を見据えた。宮澤は佐々木の向こう側に学校という組織を感じた。もっと言えば、花岡の顔が重なった。けれどそれに対しては目をつむらな ければならないと思った。佐々木の口から出た願いを受け入れる、それで十分ではないか。同時に彼女はそう思う自分をこの上なくいとおしいと感じた。彼女は 目を伏せて言った。
「わかったわ。材料費だけはきっちりいただくけど、ノーギャラでやってあげる」
 ありがとう、と言って佐々木は立ち上がった。窓辺に近寄るとブラインドを指で押し広げて外を見た。校庭の向こう側にグループの経営するゴルフ場が広がっ ているのが見える。宮澤は相手の横顔をつい見つめてしまった。
「今夜は――天気がいいから湾岸を走ろう。夜景がきれいだ」
 午前の喧騒を切り抜けて午後の光の優しい中、宮澤の一番気に入るような種の言葉、場面をよく心得ている佐々木はそう言って今度は彼の方から文字通り、顔 を近づけた。
 園山が辞表を提出したことは瞬く間に広がり様々な憶測が飛び交った。彼女は辞めさせられたのではなく自分から辞めたのだと主張する者が大勢を占めていた が、辞めるきっかけを作ったのはいずれにせよ花岡の方だから辞めさせられたと言うべきだと言う者もあった。本心ではほとんどの者がそう思っていた。園山の 後を追うようにして年配の教師が三人辞めたが、こうした事態を花岡は想定していなかった。そしていずれは辞めさせるつもりであった人々の方から辞表が提出 せられると、それに対していかなる感情を持っていいものかわからなかった。もちろん手放しで喜ぶべきことではない。彼女は落ち着かぬ心持で判断を決しかね ていた。五人もの人間が辞めていくのは健康な状態ではない。とはいえ、彼女は人事の決定に忙殺されていた。彼女がやっと自分と向かい合って価値基準を設け る作業に取り掛かることができるのは来年度が始まったからかもしれないし、もっと後になるかもしれない。そしてその時に実の父親を失った悲しみも初めて体 験するのかもしれない。いずれにせよ今の彼女にできることは岩代高校の新しい主として、佐々木や宮澤と同じように「転向」を決めた教師らと共に連日校長室 に詰めることだけである。  園山の辞職を受けて辞表を提出した三人の中に長年英語科の主任を務めてきた吉本という男がいた。彼は岩代幹二が死んだことへの悲しみを最も感じていた人 間だった。「辞めても、岩代先生の胸像は毎日みがきに参ります」と言って彼はしわの深く刻み込まれた顔をゆがめた。
 入学式の一週間前、杉田は花岡から電話を受けた。「花岡です」という声が受話器から聞こえてきた時、杉田はいよいよかと身が引き締まる思いと同時にくた びれるくらい待っていた言葉をやっと聞かされることへの安堵を抱いた。言わば彼は煮えたぎる釜の上に宙吊りされたまま目隠しをされていたようなものであっ た。彼女の電話が目隠しをとっても良いという合図だった。見ることに対する覚悟は十分できていた。ぐつぐつと音を立てて気泡を浮かべるそれは、本当に煮え 湯なのか否か。あるいはスープなのではないか? そうだとしても自分が出汁に使われるのか、それともそれをすすっても良いのか。
 杉田はちょうど教育雑誌の巻末に載っている全国私学の教員募集状況を眺めているところだった。英語の教師を募集しているのは北海道の二校と三重県の一校 のみで、彼は北海道に移住し湿原に蛇行する川のような時間の流れの中で田舎教師を務める自分の姿を夢想していた。「ああ、どうも」と間抜けな返事をしなが ら杉田はタイム・ハズ・カム云々と頭の中で英作文をするほどの余裕があった。
 「突然で申し訳ないんですけど」という前置きをしてから花岡は次のように言った。
「吉本先生が辞められて英語科主任のポストが開いてしまったのよ。それで、杉田先生にお願いできないかしらと思って」
 それは全く予想外の言葉だった。予想とは反対の言葉だった。杉田は花岡の言葉を自分の頭の中で繰り返した。相手が自分に伝えようとしている意味こそわ かっていたが、その解釈をする自分に自信を持つことができなかった。
「えっと――」と口を濁して花岡がもう少し話をしてくれるのを彼は望んだ。
「ただし、条件があります。それを飲み込んでいただかなくてはなりません」
 花岡の口調が変わった。
「あなたが担任していた坂口のことですが――本人からは聞きましたね? 父の……岩代幹二のことについて」
 「まさか」という邪推が「主任」という地位と矛盾することなど彼の頭では考えることができなかった。彼は大海で溺れそうになりながらわらのような花岡の 言葉を寄せ集めることに必死だった。自らの体重によって沈むことがどれほど彼にとって多かったことか。彼は花岡が、坂口が自分に語った事故の告白を知って いるという事実から類推をしなければならなかった。なぜ彼女は知っているのか。その答えは容易だった。杉田自身が花岡に言っていないのだから坂口本人が彼 女に同じ話をしたことになる。しかしその確実とも言える類推を彼は受け入れることに難色を示した。黙っていろ、そうすれば忘れてしまうと彼は坂口に言っ た。その言葉の方を彼は信じたいと思った。自分で言った言葉の方が、動揺した今の自分の推測よりも余程確実であるような気がした。だから英語科の主任を打 診されているという最も確実な状況でさえ彼にとっては空耳だったのではないかと本当に疑い始めていた。
「ええ。聞きました。それで私は……」
 その先を相手が知っているのかどうかで自分の立場が逆転すると考えて杉田はことに語尾を濁した。それで妙な間が発生した。花岡はこの時ばかりは器用に相 手の意向を察した。もちろん彼女は坂口から杉田の取った態度を聞いてはいるのである。
「坂口の話が本当ならば、いえ、おそらくは本当なのでしょうが、真実を知っているのは彼と私とあなたとの三人です」
 坂口は杉田の言ったことをある程度守っていた。彼は杉田に言われたとおり、自らを洗脳するかのように「あれは事故だった」と言い聞かせた。しかしその度 に「いや違う」という激しい否定の念が後に続いた。後に続けば次々と自責が浮かんだ。その力の方が途方もなく大きいのだった。十七歳の少年には重すぎた。 校長へその後告白したのは必然の結末だったのかもしれない。ところが少年の話に対して花岡は少しの間考え込んだ後、杉田と全く同じことを言った。もう歯車 は動き出してしまっている、いまさら「現実」を「事実」によって転覆させる危険を負う必要などない、そしてそれが一番坂口にとっても都合がいいのだと。こ のことはいくらか若い心を失望させたが、それでも絶望に至りはしなかった。十分、想像の範囲内の出来事だったからだ。同時に杉田への変な感心が生まれた。 それは失望とは別次元の感情だった。つまり、「人とはしょせんこんなものだ」という彼の中ではまだ生まれたばかりの価値基準が形成される第一歩となったの だった。これは不幸なことである。そして大人たちにとっては幸運なことに、坂口はついに解決を諦めてしまった。それは、もうこの問題についてはこれ以上深 く関わらないという決心だった。与えられた「答え」を彼は自分の答えにすり替えた。思考停止とはこのことである。
「あなたにもあなたが坂口に言ったであろう言葉をお返しします。父のことは忘れてください。そして、今度あなたのクラスに坂口を入れましたから精神的な支 えになってやってください。これが条件です」
 杉田は返答に窮した。それは引き受けるか引き受けないかの迷いではない。自分にそれを引き受ける能力があるかどうかの迷いだった。花岡のしていることは 脅迫に等しいということは彼もわかっていた。杉田は追悼式の時に坂口が口にした短い言葉、「先生、ごめん。だけど、大丈夫です」という言葉の意味を理解し た。しかし「大丈夫です」という言葉まで信じるわけにはいかなかった。杉田は彼を守ることへの恐怖を感じた。けれども、断れば彼は首になるであろうことも 感じていた。二つの恐怖が両側から杉田を挟み込んで彼を不自由にしていた。支配された彼は支配されないところへ行きたいと願った。しかしそのような場所が 純粋に存在するのかどうか疑わしかった。支配されないためには支配する側へ行かなければならなかった。彼は久保田や園山や、そして宮澤のことを思った。
 しばらくしてから彼は言った。
「わかりました。けれど、英語科の主任は辞退します。私にはそこまで務まらないと思います」
 一週間後の入学式に、岩代幹二はいない。

(おわり)

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