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主のいない場所(四)

 宮澤文子は佐々木雄一を遠くから眺めて、その独特の姿や行動を杉田や 久保田と同様に不可解なものと考え眉をひそめていた。しかしそれ でも、彼女の中に依然として根強く巣食っている女学生趣味の好奇心が、佐々木という存在を憎むべきもの、排除すべきものとするには至らなかった。自分の理 解の及ばぬ人間――そういう存在に対して杉田や久保田は自分から関わろうとせずにわからぬままにしておく。わからずとも生きてはゆける。大げさなようだけ れど彼らにとっては平穏無事に一日を終えることが第一であり、それに揺さぶりをかけてくるものは徹底して排除の対象である。一度巻き込まれると彼らはほと んど大海の真ん中で溺れたようになってしまう。杉田は坂口に巻き込まれ、久保田は佐々木に巻き込まれようとしている。
 宮澤は逆である。自分の理解を超えたものに惹かれる。わかりきったものには興味を示さぬ。それが彼女を芸術に駆り立てる。四年前、彼女が三十歳を迎えた 夏に銀座の小さな画廊で「自画像展」を開いた。その名の通り、宮澤の自画像だけの展覧会で小さな雑誌でも紹介され特集も組まれたりと成功を収めた。当時の 彼女にとっては自分自身が何かわけのわからぬものであった。その一点で展覧会を開くほどの熱心さや徹底は確かにある。
 その宮澤がなぜ久保田とねんごろになったのかを説明せねばなるまい。しかし長い説明はいらぬ。全ての恋愛と同様に誤解の産物であるからである。それは既 に二人の性質を述べることでほぼ明らかなのである。宮澤の目に映じた久保田はいかなるものであったか。月給の安さに文句を言い、一円でも上がると文字通り 飛び上がって喜ぶ彼はそれまで金銭的には苦労を知らずに来た宮澤にとってまず興味を引くものであった。なぜお金に固執するのか、なぜお金一つで顔が晴れた り曇ったりするのか。しかしそうした形式の問いは決して珍しいものではなく、その人間を解くための正攻法である。宮澤にとってお金とは、つまりお金をお金 として意識させるのは展覧会の会場費や同人雑誌の発行代やといった大金のことだった。彼女は「ボーダーレスの時代よ、わかる? 無境界性になっていくの よ。ヨーロッパを見ればわかるじゃない、国境なんてばかばかしい。男も女もばかばかしい」と言っては久保田を呼び出し高い夕食を食べさせた。そういう機会 が幾度と無く続いた。久保田の方は「呼ばれれば行く、それだけのことです」と杉田に漏らしたようにほとんど惰性であった。女は男の裏に何かがあると思い込 んでいた。わけのわからぬことの理由には必ず暗く重く深い何かが待望された。しかしそれが見つかるはずは無い。久保田の抱えているものは借金だけである。 それも自ら招いた失敗によるものである。もちろん女はそれでは満足できなかった。
 ところへ佐々木が現れた。長身でひげをはやし、なんでも大手予備校から引き抜かれてきたと言う。宮澤が興味を示さぬわけが無い。「あの、自分に対する底 抜けの自信が不可解なのよ」と彼女は言った。「おそらく思春期の揺らぐ心があの堅固な精神に惹かれるのね」と言いながら彼女の心が生徒の誰よりも揺れてい た。
 成績会議のあった日の夜、宮澤は佐々木に電話をかけた。三度目の呼び出し音の後、相手は出た。「もしもし」と宮澤が言うと「ああ、宮澤先生ですか」とそ の声だけで佐々木は相手を認めた。彼の声の後ろからたくさんの人の話し声が受話器を通じてですら聞こえてくる。
「あの……今、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと待ってください。静かなところへ移動しますから」
 そう言って佐々木はその場から離れたようだった。急に人の声がしなくなった。
「今ね、ちょうど岩代グループの人を接待しているんですよ。銀座の料理屋ですよ、私なんかが来ていいのか」
 佐々木は笑った。宮澤もつられて笑った。
「そう、手短に話すわね。今朝は車に乗せてくれてありがとう」
 理由は何でも良いのだ、と彼女は思った。
「お礼って言うと大げさだけど今度ご飯でも食べません?一度あなたと二人で話してみたいことがたくさんあるの。銀座は無理かもしれないけど」
「いえいえ、いいですよ。よろこんで」
「ありがとう」
 言ってから柄でも無い、と彼女は思った。久保田の時もそうであった。それだけではない。いつでも彼女は絵を描いたり詩を書いている以外の、特に人と接す る行動が自分のものと思うことができなかった。自分の頭の中には映画や小説のシーンの切抜きが無数に収集されていて、必要に応じてそれを読み上げているの だと彼女は感じていた。お気に入りのせりふがたくさんあった。それを言うために彼女は人と接した。しかし彼女の核にある臆病な自分を傷つけないために、あ るいは臆病な自分が核にあると想定することで彼女はせりふを読む自分を正当化した。最後にはそういう自分を愛していた。自分を責める部分さえも。
 電話を切ってから宮澤は自宅のアトリエに下りていき、描き途中のカンヴァスの前に座った。ある日本人画家生誕百四十周年を記念した公募展に出品するため の作品で、窓辺に置かれたたくさんの、花の鉢植えを題材にしている。画面の中の花々は互いに触れ合ってはいないが全体として一つの集合体をなしている。窓 の向こうの空は夕暮れ時なのか赤に近い橙色で、壁紙の黄や窓枠の茶と共に画面いっぱいに温かみを横溢させている。何かが際立ってその雰囲気を先導している のではない。画面の中の色全てが目に入った時に初めてそれを感じることができる。ほとんど完成と言ってよい状態だったが、彼女は締め切りの間際まで手を入 れるのを常としていた。
 自分の名前を呼ばれて宮澤が振り返ると、母親が電話の子機を持ってアトリエの扉を開けて入ってきたところであった。
「久保田さんて人からよ。学校の先生だったかしら?」
「ああ、うん」
 宮澤は家族とあまり会話をしない。父親は土曜も日曜も仕事と称して出かけるか自室に引きこもって食事のときにしか顔を出さない。その性質は多分に宮澤に も受け継がれている。逆に母親は性格が弱く、娘を育てるのにもしつけらしいことは一つもできなかった。宮澤はそういう母親の性格を意識するようになってか ら自立を心がけるようになり、つまりは自分を育てることができるのは自分だけだと言わんばかりになり母子の溝は深まった。家族三人が三人とも互いに興味を 持たない状態が日常のものとなってしまうとそれが楽になっていく。それでも誰かが欠ければ持続は不可能となる。父は経済力で家政婦としての母を養い娘の芸 術家としての名声を買う。母は外に出る能力が無い代わりにうちのことだけは誰にも負けぬ。娘には金も世話も必要だ。こうした共依存が三角形の三辺を形作っ ていた。  電話を受け取って母親がアトリエから遠ざかるのを確認してから宮澤は、開口一番受話器に向かって次のように言った。
「ちょっと、家の電話にかけないでよ」
「いや、だって、携帯電話のほうにかけたらずっと話し中だったから……。誰と話していたんだよ」
 宮澤に対する久保田の声の調子は確実に弱くなっていた。
「なに? なんの用? 今朝のことは悪かったって思っているわよ。いいかげん許してよ、あれくらいのことでいちいち……」
 久保田の質問を無視して宮澤は口を動かし続けた。この二人の会話は時として単なる言葉の投げ合いにしかならないことがあった。互いに相手の言うことを受 け取らずに自分の言いたいことだけを言い合ってしまう。
「いや、もう、それどころじゃないんだ」
 久保田の声はますます沈んだ。彼の話はおおよそ次のようなものであった。
 成績会議の終了後、久保田は校長室に呼び出された。既にその時点で花岡の大演説の直後であったこともあり彼はいやな予感で一杯だった。いざ花岡と対峙し てみると彼はいよいよ背筋の凍る思いがした。かけろと言われてかけたやわらかいはずのソファーも電気椅子か処刑台か何かのように思われた。
「久保田先生も父にはかわいがられていましたね」
 と言って花岡は机の引き出しから書類を取り出し久保田の前に放るようにして置いた。
「変なうわさが耳に入ってきましてね。借金だとか薬剤師でいらっしゃったときのことだとか――」
 花岡は久保田の正面に座った。逆光が彼女の表情を隠した。久保田は一言断ってから書類に手を伸ばした。中を一枚ずつめくって確認すると、それは彼の借金 の明細の写しであった。
「他にも良くないうわさを聞くので、少し調べさせていただきました」
「借金は――確かに、しています。でも、それは悪いことではないでしょう」
 久保田は脂汗が出るのを感じながら渇いた喉をなんとか震わせていった。
「正直におっしゃってください。この借金はどうして出来たんですか」
 花岡が身を乗り出した。久保田は相手が全てを知っているのだと悟った。過去の過ちは賠償金という形で和解に持ち込まれた。彼のミスで病状が悪化した精神 病患者との裁判はもう十年も前のことである。それから彼は職を追われ、借金を抱えているという事実によって同情を岩代幹二から買い教師となった。
「それにあなたに、女子生徒に対するセクハラ疑惑がもうずいぶん前から持ち上がっています」
「それは――」
「とにかく」
 花岡は久保田に言を許さなかった。
「来年は担任から外れていただきます。授業もなさらなくて結構です。毎日時間通りに出勤なされば借金の返済のめどが立つ八月まではお給料を差し上げますか らそれからは――おわかりになりますよね?」
 どれほど久保田がその日学校に来なければよかったと後悔したかは計り知れぬ。事実上、解雇通知を渡された彼はそれ以上何も言うことができなかった。仮に 彼が懇願するようなことを言っても、花岡は聞く耳をもたなかっただろう。
「運が悪かったよ……、なにもこんな時に……」
 久保田は宮澤に泣きつこうとしていた。
「でも元を正せばあんたが悪いんじゃない。運が悪かったなんて言うものじゃないわよ」
 宮澤は一蹴した。彼女にはわかっていた。久保田が自分に電話をかけてきたのはその事実をいかに切り抜けるかを相談したかったからではなく、単に花岡への 不満をいつものように言い合うためであることを。「いつものように」というわけにはゆかぬのにもかかわらずこの男は何もわかっていない、と彼女はいらだっ た。事態はもう最悪の状態に到達したのだ。
「なんだ、冷たいんだな」
 久保田も朝の一件のこともあり、声を荒らげた。
「次の就職先を探すしかないわよ。それが一番賢明だし今一番やらなければならないことだと私は思う。私に言えるのはそれだけ。今から絵を描こうと思ってい たの。切るわね」
 相手の返事を待たずに宮澤は電話を切った。彼女には久保田への好奇心など微塵も残っていなかった。彼のことは誰よりもわかるように思われた。それは彼女 にとって一つの終幕である。久保田は花岡の解雇通知を本気にすることができないだろう。勤務態度に対する譴責としか受け取らないだろう。彼女はそう思っ た。そしてそれは確かにその通りであった。久保田は誰が見ても明々白々な事実を直視しようとせず、自分の都合の良いように解釈しいつの間にかその解釈こそ が正しいのだと思い込んでしまうのだった。むしろ久保田がいなくなることが他の教師たちに対する脅迫になるのだ。カンヴァスに向かって腰掛けた宮澤の手に 握られたパレットとナイフとは動こうとしなかった。
 ――私は? 私は辞めさせられるだろうか? いいえ、美術が大学の試験にあれば別だけれど、わざわざ私が辞めさせられる理由は見当たらないわ。……いず れにせよ転向する必要があるわね。校長には逆らわず、職員室でも目立たずにいること――待って、これではむしろ今と変わりが無いわ。協力していかなければ 自分の立場を固めることはできない。攻撃よ、攻撃。
 彼女がこれほどの余裕を持つことができるのは、逆に言えばいつでも学校を辞める覚悟があるということだ。彼女は教師を本職と思っていない。自分はあくま でも芸術家であり、他の仕事は一時的なものと認識していた。仕事が無くとも食ってゆける身分の彼女は生活のための仕事という概念を持っていなかった。そし て、転向を言い訳にして佐々木に近づこうとも考えていた。
 彼女は気を取り直し、集中力を高めるべく床の上でストレッチを始めた。
 一方電話を切られた久保田は不満を聞かせるはずの相手を失って、さらにそのことが新たな不満を呼んだ。彼は次の獲物を狙うように杉田に電話をした。アド レス帳は彼にとって話を聞かせる相手をそこから選ぶカタログであった。杉田は話し中であった。それから彼は衝動的に佐々木に電話をかけた。朝から晩まで全 ての元凶は彼にあると、もう久保田は怒髪天を突く勢いでボタンを押した。焦りと怒りとが彼を支配して、ただでさえ満足にできない冷静な判断を奪い去ってい た。呼び出し音が続く。散らかった部屋。久保田は床に散らばっている文庫本を足でどかした。彼の耳に留守電の録音音声が作動したのが聞こえた。彼は待っ た。どかされた文庫本の下から二ヶ月前の給与明細が顔を覗かせた。彼はそれを取り上げてくしゃくしゃに丸めるとゴミ箱へ投げ入れた。電子音が鳴って録音が できる状態になると彼はありとあらゆる罵詈雑言を吐き出した。嫉妬や羨望やのあらゆる汚い感情が言葉になって流れ出た。テープへそれらは刻み込まれ、後に 佐々木の手から花岡の手に渡り久保田の首をいよいよ締めることになろうとはその時の彼には考えも及ばなかったことである。  電話を切ってから彼は力の限り自分のことを殴打せんとする衝動に駆られた。こぶしを握り締めてこめかみにそれを打ち込んだ。それから太ももを力任せにつ ねり上げる。痛みはあったがそれが広がるにつれて皮膚が麻痺状態になったかのような感覚になった。怒りの代償に彼はその痛みを心地よく感じた。心を静める には体を痛めることが彼には必要だった。二階の部屋からは椅子を引きずる音が響き、隣の部屋からはエレキギターを練習している音が聞こえてくる。大通りに 面した窓は大型トラックが通るたびに振動する。今や、世界の全てが悪意に満ちているように久保田には思われた。彼はほとんどごみに埋め尽くされた畳の上に 寝転がった。背中に異物を感じながら何度か寝返りを打ち、机の頭に頭をぶつけたところで動きを止めた。見上げると机の引き出しが五段そびえている。彼は思 い切り手を伸ばして二段目の引き出しを開け、手首を折り曲げて手探りで中のものを取り出した。銀紙を破って中の白い錠剤を取り出すとそのまま口の中に放っ て噛み砕いた。それから毛布を足の指で引きずり寄せそれに包まると目を閉じて眠りが現実から彼を拉し去るのを待った。

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「主のいない場所(五)」
 
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