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主のいない場所(三)

 二日後、成績会議のため杉田は本多の打ち込んだデータの入ったフロッ ピーディスクを持って登校した。本多には約束どおり二十点を加点 し、答案も新しくその場で五十二点になるように書かせて採点を済ませた。その紙切れ一枚を持って本多は飛び上がって喜んだ。共犯。杉田はもう一度誰にも口 外せぬよう言った。坂口から持ち込まれた秘密、本田に与えた秘密。その両方を同一の人間が持つのは明らかに矛盾である。杉田は危険を回避したいのか、それ ともそれを担う緊張感の虜になっているのか。秘密を持つという共通項は、後者に正解を与える。だがそれが彼の中で自覚された大義名分になっているとは思わ れぬ。それが人間なのだ、という大きなことは言えぬ。ただ、そういう人間としての一貫性を持たないのが杉田であると言うことはできる。
 会議は十時からだが九時までにデータを提出することが義務づけられている。点数が集計されると科目毎、総得点の順位が出、ある一定の点数以下の生徒はそ の名前が一覧になる。佐々木の開発したソフトはその計算を瞬時に行うことができる。十時までの一時間の間にそれが職員全員分印刷され配布される。
 学校までの送迎バスで杉田は久保田にあった。 「おはようさん。こんな日だから生徒もいなくて快適なバスだ」
 バスの中には大きなチェロを抱えた女子生徒一人と久保田だけで、彼は一番後ろの席でふんぞり返っていた。
「その様子だと全部無事に終わったみたいだな」 「もちろんよ」  と久保田は得意げにかばんを叩いた。
「あのへんてこなソフトもやっと使えるようになったしな。人力だと時間がかかって仕方が無かった。この点だけは佐々木に感謝だ」 「管理教育だなんて導入に反対していたのはどこのどいつだけ?」
「あれはほら、佐々木に反発したかっただけだよ」
 二人は笑った。杉田は二人がけの席に座り、かばんを横に置いた。バスが動き出す。駅と校門との間を結ぶ岩代高校専用のバスは狭い住宅街の道を相当な速さ で往復する。違う路線の最寄り駅が二つあり、遠いほうの駅から近いほうの駅を経由して学校まで進む。久保田は遠い方の駅から、杉田は近い方の駅から乗る。 久保田は杉田がバスに乗り込んできた時、相手の顔つきがいつもと違うことに気がついた。いつもより疲れているように彼には思われた。しかし直接そのことを 言うことができるほど久保田は杉田のことを親密に感じていなかったし、礼儀でもあると思ってそれには触れず成績会議のある日の朝ならば誰もが口にするよう な言葉を並べていった。事実、杉田は久保田に付き合って笑ったがそれは上辺のものであった。不安が再び彼の中で膨張していた。学校に近づくにつれてそれは 体積を増していくのだった。一時は忘却の彼方へ押しやったかに見えた坂口のことである。あれから杉田は誰からも連絡を受けていない。そのことが逆に彼に とって不気味で仕方が無かった。いっそあれほど恐れた事態が一日でも早く起きてくれる事を願ったくらいであった。彼はバスの中で、自分が学校にやってきた ところを花岡が待ち受けている姿を想像した。職員室に入るや否や靴音を立てて足早に彼女が近づいてくる。何も言わずに目で杉田を導き、校長室に入ると坂口 が俯いて立っている。こちらを見たときの、その怨恨に満ちたその視線! そういうものを彼はほとんど確実な出来事として、バスが進むにつれていよいよ確信 せざるを得ないのだった。
 最後の大きな曲がり角をバスが曲がった。街路樹が勢いよく窓にその枝を叩きつけてきた。そして岩代学園正門前の停留所に止まり、二人の教師も降りた。正 門から校舎までもまた急で長い坂が続く。久保田は良くしゃべった。坂を上りながら彼は生徒たちがいかに化学というものを知らないかから始まり、借金の話、 電気代の話、銀行の話と金の話を立て続けにすると最後に宮澤との結婚を話の中だけで勝手に進めた。それらはあらかじめ用意されていたかのように、プログラ ムが実行されていくように彼の口から順序良く並べられていった。杉田はああ、とかまあ、とか適当に相槌を打って聞き流していた。もとより二人に会話をしよ うという気持ちは最初から無い。久保田は誰かと一緒にいる時、沈黙に耐えることができぬ。だから最初からそれを埋め合わせるための小話を常日頃から収集し 貯蔵している。ラジオで流れていた読者投稿の話の主人公を自分の友人にすり替えることなど日常茶飯事で、人に言われた意見をあたかも自分の意見のように 言ってのけることも少なくない。最初にそれを言った本人の前で臆面も無く同じ事を言ってしまうために、後で赤面することも少なくなかった。久保田のそうし た行いを「配慮」と呼ぶならば、一方で杉田は明らかに傍若無人で配慮に欠ける人物である。話し掛けられなければ会話に参加しない。それでも言うことといえ ば面白くなさそうな返事だけで、久保田のような人間でなければわざわざ話をしようとは思わぬ。やっかいなのは杉田自身に悪意が無いことで、自分の態度に よって相手がどのような気持ちになるかという視点を完全に欠いているためにたとえ相手が沈黙によって路頭に迷っていても理解することができない。
 後方から自動車が上ってくる音がして二人は道の端に寄った。振り返るとフードのかぶっている赤いオープンカーがやってくる。 「佐々木教授のお出ましだ」  車は二人の横まで追いつくと速度を落とした。
「おはようございます、杉田先生に久保田先生」
 佐々木はわざわざ窓を下げて挨拶をした。しかし二人は驚いたのである。助手席に宮澤が座っていたからである、いかにも自分でもそこにいることが場違いで あることを誰よりもわかっているかのような様子で。久保田の視線は佐々木の奥にいる彼女にいやがおうにも向けられた。杉田はむしろその久保田を注視した。 久保田は自分の恋人への疑いと怒りと佐々木へのそれを二重に、二つしかない目で宮澤へ投げかけていた。事態が穏やかならぬ方向へ動き始めていることは明ら かだった。
 あたかも久保田の表情から宮澤が自分の助手席に座っていることを初めて知ったかのように佐々木は言った。
「ああ――、途中で大きな荷物を抱えて歩いていたのが見えたから」
 口ひげの下に真っ白な歯が笑った。佐々木は親指を立てて車の後部を指す。確かに宮澤のものらしい大きなカンヴァスが乗せられていた。久保田はそれを見て ますます不快な表情になった。女は終始彼のほうを見ようともせず、逆に怒ったように前を見据えていた。杉田は彼女が早く車から降ろしてくれと言おうとして いるように思えた。久保田は口をあけて何か言おうとしたが「ではまた後ほどお会いしましょう」と佐々木が先に言ったために、半身のまま空間に取り残された 形となった。坂の途中にある駐車場の方へ車はテールランプを光らせて曲がっていった。久保田は車が見えなくなってもその方を見ていた。杉田はつばきを一度 飲み込んだ。二人は無言で校舎に入っていった。
 階段を上り、職員室に近づくに連れて久保田は懐疑を膨張させていた。この哀れむべき男は嫉妬深く疑り深く、人の言動には必ず裏があると思い込んでいる節 がある。あるはずも無いものをあると思い込んでなかなか人を信用しようとしない。人生は苦悩に満ち、他人と分かり合うことは不可能で、人間は死ぬまで孤独 であると信じ込んでいる。その思い込みが最後には彼の中で全てを解決する答えとして用意されているのである。なるほど、今朝のようなことがあった後で人生 を呪うのはなかなか魅力的な所作ではないか。
 一方杉田の心は再び坂口に支配されていった。彼は久保田を前にして歩いた。彼が職員室の扉を開けた。腕時計は八時四十分を指していた。
 校内の全ての教員が集まる会議である。職員室は既にタバコの煙とコーヒーの匂いと人々の話し声とに満たされていた。二人が部屋に入っても特別彼らに注意 するような人間はいなかった。杉田は花岡の姿を無意識に探した。彼女はほとんどいつも職員室の中からでも出入りすることが可能な校長室にこもっている。職 員室には便宜的に校長用の机があるが、そこに彼女はいなかった。
 ――とすると校長室に引っ込んでいるわけだな。それにこの様子だと坂口の一件について誰も知らないようだ。
 久保田は杉田が多少の安堵を手に入れているうちにさっさと自分の席へ行ってしまった。杉田はコーヒーを一杯入れてから席についた。彼はもともと胃腸が弱 いのだが暇さえあればコーヒーを飲んでいる。九時までの時間を彼は、心を落ち着かせようと机の整理ばかりしてすごした。それから時間になって生徒の点数を 記録されたフロッピーディスクが回収され、パソコンを操作できる若い教師たちが中心になって集計が始まった。校長も校長室から出てきてあれこれと甲高い声 でできもしない指図しようとしていた。佐々木が校長の質問にいちいち答える。そういう、人の扱いがうまいところを若い教師らも一目置いていていた。杉田は 彼らがパソコンとコピー機との間をぐるぐる走り回っているのを見ていても仕方が無かったので職員室から出た。
「杉田さん」
 後ろから声がして振り返ると学年主任の園山が彼を追うようにして職員室から出てきた。彼女は杉田の母親ほどの年齢であるが未婚のためかそれほどの年を感 じさせない。
「なんでしょう」
 一度静まった波にもう一度揺らぎが与えられたことは言うまでも無い。
「来年度の新入教員、非常勤を含めて十七人よ」
 園山のその言葉を聞いて杉田は彼女がどうやら坂口のことについて言おうとしているのではないことを知ると共に、今度は彼女の言葉そのものの持つ意味、そ れが伝える事実がどうやら考えなければならぬ事実であるらしいことに気がついた。
「――十七人、ですか? だって多すぎやしませんか? いつもだったら異動なんて非常勤を入れ替えるくらいでしょう」 「そうよ、多すぎるのよ。この数字で校長がやろうとしていることが、あなたにはわかる?」
 園山は得意そうに言った。彼女の紫がかった大きな宝飾眼鏡の下に杉田は好奇心一杯の瞳を感じた。
「生徒を増やすわけでもないだろうし……」
「その逆よ。教師を減らすの」
 教師を減らすために教師を大量に雇う――杉田はやはり理解できなかった。園山は自分だけわかったつもりになって話を進めるために重要な部分をすっぽかし ても気がつかない。その上話の進め方に異常に凝るので彼女と話をする時は何かせりふを言い合っているような感覚になる。杉田はいらだった。これ以上彼女と 話をするのが億劫になった。
「いい? 校長はこの学校を本気で進学校にしようとしている。だから無能な教師はどんどん切り捨てていくつもりよ。十七人も入れるって事はそれだけ首を切 られる教師も多いってことよ」
「まさか」
「私たちは岩代さんにかわいがられてきた。敵の味方は敵よ。覚悟しておいた方がいいわ。それに――」
「もういいです、わかりました」
 杉田は両手を上げてお手上げのポーズをして見せた。彼はそれが本当だとしても嘘だとしても、園山の話をこれ以上聞きたいと思わなかった。坂口の一軒が沈 着せぬ限り他のことを考える余裕などなかった。
「大丈夫ですよ、いくらなんでも首になんてなりやしませんよ」
 杉田が言い終わるのを待たずに園山は怒ったようなふくれっ面をして見せて職員室に戻っていった。それを見て杉田はもちろんいい気持ちはしなかった。彼の 心に新たな不安の種がまた一つ蒔かれた瞬間であった。ここに来て彼の被害妄想がいよいよ加速し始めた。皆よってたかって俺にいやな思いをさせてくる! 杉 田の耳には「先生、僕はこれからこのことを隠し通す勇気が無いんです」という坂口の言葉が再びよみがえり、目をつむるとまぶたの裏には佐々木や校長の笑う 顔が映った。彼は目をつむったまま廊下を進もうとした。手を伸ばすと冷たい壁が甲を打った。彼は吸い寄せられるように壁に近づき、しまいには肩でぐいぐい 押した。大声を出せと全身の血液が命令するような感覚になって、彼は口を開けた。が、何も出なかった。
 しばらく、声や映像や衝動が収まるのを待った。立ったまま、彼は誰も通らない廊下の壁際で気を静めようときつく両手をもんでいた。こんなことは初めてで あった。彼はうなじの汗腺が異常に活発になっているのを、耳の後ろが歯痛のように痛むのを、胃腸から消化液が多量に放出されるのを、足の親指の筋肉が縮ま ろうとするのを感じた。  杉田は煙草を吸いたいと思った。佐々木や校長やのいる職員室に戻るのはためらわれたので二階にある美術科の職員室で吸おうと思って階段を下りていった。 宮澤がそこにはいるはずだ。今朝のことを問い正そうという好奇心や、逆に今朝のことで顔を合わせにくくなる感覚を杉田は元来持ち合わせていない。他人に対 する関心が自分へのそれを上回る瞬間は一瞬たりとも彼には無い。
 美術科職員室の扉を杉田が開けると既に宮澤と向かい合って久保田が座っていた。
「なんだ、いたのか」
 他の教師らに軽く会釈してから杉田は椅子を引っ張ってきて二人と三角形の頂点をなす位置に座った。それから宮澤に向かってちょきの形にした手を口に持っ ていく仕草をして見せた。彼女は何も言わずに机の上にあった煙草とライターとを彼に渡した。久保田は床をにらみつけている。杉田が入ってくる前に二人の間 には会話が無かった。ただ、久保田が勝手にやってきて座って黙り込んでいただけであった。彼は自分の気持ちを言葉にしようとしたがそれがどれもこれも陳腐 で人口に膾炙された月並みな文句ばかりだったので、むしろそのことに彼は怒りを覚えていた。この俺が「嫉妬」などするものか、というわけである。彼はも う、だんまりを決め込んで相手から話の口火を切るべきだとさえ思って座っていた。杉田は彼を見ながら煙草に火をつけた。
 美術科職員室には教員たちの描いた大きな作品が幾つも掛けられている。それは一種異様な光景である。初めてこの部屋に入る者は必ずそれを見て、わざわざ 一度部屋を出て扉の上に「美術科職員室」と書いてあるのを見て妙に納得した表情で部屋に再び入ってくる。それらの作品の中でひときわ目を引くのが宮澤の 「女」と題された自画像で、黒一色で塗られた背景に群青色の女の裸体が浮かび上がっている。その女が暗闇の中で立っているのか夜の海に浮かんでいるのか もっと他の状況なのかわからない。いずれにせよ、正視に耐えられる作品ではない。引きつける力も強いが引き離す力も強い。職場の壁にかけておくくらいだか ら作者は自信作のつもりである。同僚は深い指摘をはばかった。久保田も、宮澤の作品に対しては理解をしようとする努力を払わなかった。
 杉田は久保田の横顔を見るのをやめて「女」のほうに視線を上げた。彼の頭には何の感懐も浮かばなかった。最後に彼は宮澤を見た。「女」が自画像とは思わ れなかった。三人は黙ったまま時が過ぎるのを待った。久保田は杉田に出て行ってほしいともこのままここにいてほしいとも言わなかった。宮澤は不興顔のまま 美術雑誌をめくっていた。
 杉田が一本目を吸い終えると彼が二本目をもらおうかどうか迷う時間を許さないかのように宮澤は二本目を彼にさし出した。杉田は反射的にそれに手を伸ばし て受け取った。火をつける。その二本目も終わり、宮澤が再び箱に手を伸ばそうとすると久保田が「時間だ」と言って立ち上がった。十時まではまだ二十分も あったが彼の言葉は意味をなさぬ何かの合図のように響き、灰皿に吸殻をもみ消して杉田も立ち上がった。
 部屋を出ると久保田は突然陽気にしゃべりだした。野球の話や車の話。相手が考えなしに次々と思いつくまま口を動かしているように杉田には感じられた。
 職員室に戻ると佐々木が二人の方に近づいてきた。
「資料が意外と早く刷り上りまして。これ、お二人の分のコピーです」
 彼は二人のホチキスで留められた会議の資料を渡した。
「もうそろそろ始めるみたいですよ」
 と言って佐々木は毒気の無い笑顔を見せて自分の席へ戻っていった。二人も自分の席へ別れて行った。  定刻より十分早く開始された成績会議は「資料を参考にしながら」一人一人の教師が一年の講評を述べていくもので、今年で五年目になる。教頭であった花岡 が発案し、反対意見が出ないのをいいことに開催を続けている。岩代幹二が、杉田が採用面接の時に目にした成り上がり者のような相貌を崩し古色が加わり始め 「天然記念物」と言われるようになったのは、彼自身の天命を全うしやり残したことは何もないという思いが彼から活動力を奪ったためでもあるが、病気によっ て自律神経をやられたのが一番大きな原因である。彼は自分に対して反抗する態度を隠さなくとも、一度出奔をした不良でも最後には一人娘を頼ることしかでき なかった。校長の補佐的な役割にとどまっていたそれまでの教頭を理事長へ「退か」せ、靖子を教頭にしてから岩代幹二は学校経営の第一線から身を引いた。花 岡の学校改革への野心はその父が死んで、実現への一方通行の道でいよいよ加速度を増していくのである。
 報告は一年、二年の順で始められた。既に卒業式の済んでいる三年については進学や就職の状況が報告される。報告は一人につき十分程度とされているが、余 り短いと花岡が的外れな質問を浴びせてくるので、教員たちは長すぎず短すぎず時間を使うことに最も意識を払わなければならなかった。杉田も一度、自分でも 驚くほど報告が早く終わってしまいまごついていたところに「でもねえ、杉田先生。私は教科書というものにこだわりすぎるのは良くないと思うんですよ。それ に縛られていてはだめよ。そこのところはどうお考えになります?」と花岡にやられて余計にまごつかされたのを覚えている。その時は一分ほど考えたあと「口 ではなんとでも言えるのですが、生徒たちの理解は教科書をも満たしていないのが現状です」と言って済まそうと試みたが「仕事をしてくださいよ、杉田先 生!」と一喝された。
 一年の担任団が報告をしている間、杉田は手元にあったメモ用紙に話すつもりでいることを箇条に書き出し、十分のうちの何分を割り当てればよいかを計算し ていた。そんなことをしているのは杉田くらいのものであった。
 一人立ち、一人座り、また一人立ちまた座る。会議は何のとどこおりも無く進んでいった。一年の報告が終わり二年に移った。園山が総括を述べたあと自身の 古文について報告し、続いて杉田が英語について報告した。彼のクラスには大学進学を目指している生徒が坂口も含め数名いたのでそこに焦点を絞って話をし た。花岡は今日、めったに口をはさまなかった。一人一人の報告を聞きながら何かをメモしている様子だったが、始終何か考え込んでいた。全ての報告が終わっ ても彼女はしばらく同じように座ったまま頭に手を当てて机の上の一点を見つめていた。それから不意に頭を上げると立ち上がった。
「皆さん、どうもありがとうございました。さて、今日は私から一つお伝えしなければならない大切なことがございます。そうです、これは非常に重要なことで ございまして、これから皆さんとぜひ考えていかなければならないことなのです。この学校の未来のためにも、生徒たちのためにも、ここで一念発起して大きな 改革を実現させなければなりません」
 ほとんど一国の代表がせんばかりの弁舌を彼女は振るい始めた。杉田は足を組みなおし、ため息をついた。長くなりそうだ、と誰もが思った。
「来年度より新たに十人の教員と七人の非常勤講師を採用することに決まりました」
 室内にざわめきの波紋が広がった。杉田は不意にその時佐々木がどのような顔をしているのか知りたくなった。彼は園山からあらかじめ聞いていた事実に対し てはさほど動じなかった分、そうする余裕があった。数学科の机の隅に座っている彼の表情は全く平然としており、ペンを動かしていた。彼は全ての事情を知っ ているのだった。
「これは」
 と花岡は私語を制するように続けた。
「これは、いいですか、皆さん。私が社会と切り離された教育をしたくないと言い続けているのはご承知の通りと思います。それを実現させる段階にまできたの です。私たち教師は余りにも楽をしすぎてきました。私学に許された自由教育はもっと、個性的であるべきです。その理想を私たちは今こそ体現しなければなり ません。――直截に申し上げます。無能な教師は辞めていただくつもりでおります」
 先刻よりも大きなざわめきが持ち上がった。罵声が上がる。杉田は佐々木を横目で見ながら手にしていた報告のメモを握り締めた。佐々木は見られていること に気づかぬふりをして不遜な様子でいるのだった。彼に注目しているのは杉田だけではなかった。
「校長」
 と手を上げて立ち上がったのは久保田だった。
「それはどういうことですか。あなた、そうやって自分の都合のいいように――」
「お座りください」
 花岡はきつく言い放った。ざわめきは幾分静まったが久保田は席につこうとしなかった。
「ちゃんとご説明いたしますから聞いてください。最後まで聞いてください!」
 一度感情に支配されれば花岡を黙らせることは難しい。久保田が周りの人間の手真似によってようやく座るのを見てから花岡は一気に残りの演説をぶった。
「一にも二にも私たちは生徒のことを考えなければならないのです。無能な教師は彼らにとって有害と言う他ありません。これは私個人の都合ではありません。 ここには全く批難される筋合いはございません。さて、どのようにして無能な者を摘出するか、その方法が重要です。あらゆる主観を排し、客観的かつ合理的に 決せられねばなりません。そこで、来年度から教員評価というものを実施いたします。簡単に言えば教師の通知簿です。既に他のいくつかの学校では実施されて いるようでいろいろと調べてみましたけれど、余り成功していないようです。それというのもその通知簿が生徒にとっての重みと余りにも隔たっているからなの です。生徒にとってのそれは自分の進退をも決せられるほどのものです。ならば教師にとってもまた然るべくあるのが道理というものです。自己満足の参考資料 ではないのです。具体的な手続きや処分、あるいは逆に報奨についてはこれから皆さんと共に作り上げていくつもりですが、皆さん、どうか悪い方にばかり目を 向けないでください! だって生徒たちにより良い授業を受けさせてやりたいではありませんか――……
 杉田は花岡の演説を最後まで聞く気になれなかった。彼女の声は途中から、何か動物の鳴き声のようにしか聞き取れなくなっていた。彼は目立たぬように背を 曲げて職員室から出て行った。
 杉田は階段をゆっくりと下りながら、会議とはまるで別のことを考えていた。部屋のサボテンにそろそろ水をやらなければならないとか、今朝の朝刊にはどん なことが書かれていたかとか。彼は自分の周りで何かが大きく変わりつつあることだけはわかっていた。変化について行かなければ学校を追われるようになるだ ろうとも思っていた。だが、何をどうすればよいのかわからなかった。彼は答えを先に延ばすだけでなく、答えを出すための考えるという行為も先に延ばしてい た。その埋め合わせに小さな事を大真面目に考えるようなことをしていた。
 しかしそんな彼を現実に引き戻す強い色が彼の目に映じた。階段の下に置かれた、花瓶の中の花々である。それらを、一階と二階との間の踊り場から見て、彼 はそこが岩代幹二の死んだ場所であり自分がその時の坂口と同じ位置に立っていることに気がついた。彼は立ち止まって階段の下の床を見つめた。あの断末魔の 叫び、倒れふした男のもとに集まってくる生徒たちの足音、ざわめき、悲鳴。それらはもうずいぶん前に起きた出来事のように杉田には感じられた。  ――あの時、一番初めにじいさんのところに来て散々肩をゆすって、俺の言うとおりに救急車を呼びに職員室の電話まで走っていったのは坂口だった。彼は焼 香もした。
「どうして」
 杉田の口から自然に言葉が漏れた。
 ――もう歯車はとっくに動き出しているんだ。花岡が念願の校長にのし上がってどしどし新しいことをやり始めた。あの花も四月に新入生が入ってくるときに は取り払われて、彼らはじいさんの事なんか知らずにもう何年も前から花岡が校長なんだと思い込んで、何事もなかったかのように新しい一年が始まる。俺たち 教師も花岡の新政策に追われて、新しいクラスを担任して、人間関係も変わっていって……忘れちまうんだ。それでいいんだ。それでいいはずなんだ。  その時一階の廊下を横切る一人の生徒がいて、その顔を見ると坂口であった。彼もすぐに杉田の姿に気がついて「先生」と、彼の方を見上げた。
「なにやってんだ、こんな日に」
「部活です」
 坂口は肩にかけていたヴィオラをゆすって見せた。杉田はふんふんという風にうなずいて「そうか」と興味のなさそうな返事をした。彼は坂口に何か問い掛け たかった。しかしその問いがなんであるか、はっきりとつかむことができなかった。「熱心だな」と彼は付け加えて階段を下り始めると坂口は「失礼します」と 邪気の無い笑顔で言い、一階の一番奥にある音楽室に向かって小走りで行ってしまった。その後ろ姿を杉田は見送った。

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「主のいない場所(四)」
 
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