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主のいない場所(一)

 雪である。上蓮寺で行われている岩代幹二の葬儀はまもなく焼香に移ろ うとしていた。この、ほとんどものを言うことのなくなった、天然 記念物とさえ陰ではあだ名されていた校長が死んだのは一週間前のことである。校舎の階段で転落し胸部を複雑骨折したのがその死因で、実際相当高い段から転 落したのである。偶然廊下を歩いていた英語教師の杉田和志が第一発見者となったが、彼はこのことを――つまり、人の喉から出たとはとうてい思えぬ叫び声と 小枝が折れるような音が廊下に響き、振り向いたら自分の目と鼻の先に岩代校長が硬い木のタイルが敷き詰められた床の上にうつぶせで倒れていたことを全く不 運以外の何物でもないと考えていた。第一発見者であるということだけで、一人の人間が死んだあとの全ての瑣末な事務が杉田を無理やり軸に据えて始まってし まったからである。この一週間の全ての職員会議を彼は無内容でいまいましいものと考えていた。彼は司会をやらされていた。
 これより始まる焼香も岩代高校の全生徒が一人ずつやるのかクラスの級長がやるのか一昨夜深更まで会議を開いて論議されていた。前者では時間がかかりすぎ る、後者では早く終わりすぎると花岡教頭が言うのであった。時間がかかりすぎれば待っている他の人々がいらだち校長は生徒だけのものではないと言われるだ ろうし、逆にすぐ終わってしまえば校長の葬儀なのにあの程度かと言われるのは目に見えている、と彼女は付け加えた。だがその意見が衷心からのものでないこ とは会議の出席者の誰もが知るところであった。次代の校長が正式に就任するまでの間は教頭が校長の代行者として校務を統べることとなっていたが、実質「花 岡校長」が誕生することは必至であり自身もそれを急いていた。もちろん客観的に見ても花岡が次の校長になることは衆目の一致するところであった。ところが 自身はそういう事実を当然のものとして行動することに対する恥のようなものを持っていて、極力目をそらすふりをするという過剰な反応をしていた。彼女の口 から出る言葉そのものは確かにそのような反応に基づいて発せられていたが、その言い方、表情は明らかに本心を表していた。苛立ちを発言の端々に覗かせなが らも彼女が自分一人で決めてもいいようなことを職員会議に持ち込むのはそういう理由があった。誰かがそれは教頭の独断で決めても差し支えないのではと意見 すれば彼女はたちまちそんなことを言われるのは全く心外だと言わんばかりに狼狽し顔を赤らめ次のように早口にまくし立てるのだった。 「でもねえ、皆さん。私は皆さんと話し合って決めたいんですよ。私が仮に校長だとしても同じことをきっと言いますよ。こういう小さいようで大きい問題は教 員の総意に基づきたいんです。後で文句を言う人が必ずいらっしゃるでしょう、……いえ、この学校のことではなくてどこの世界にも、という意味で。ですから あらかじめ皆さんの意見を聞いて、全て聞いてですよ、その上で決定した方が結果的にはうまくいくものと私は確信しているんです」
 その度に杉田はいらだち他の教師も顔をしかめた。本心で話そうとする者は少なかった。一人のいらだちが次々と伝播し会議そのものが極めて非能率的なもの に陥るのが毎回のことであった。
 焼香の件は結局クラスの級長、二人の副級長、それから三、四人の成績優秀者を選抜し六クラスあるので占めて四十人前後の代表を作ることとなった。昨日の 朝のホームルームでその旨が生徒に伝えられその時間のうちに担任の独断で選抜が行われた。
 杉田は今年四十歳を迎える。四年制国立地方大学を卒業後すぐに岩代高校の教師となった。東京へ出たいという積極的意志というよりはむしろ親との関係がう まく行かずそこから逃げる目的で上京し、当時はまだ開校したばかりの私立岩代高校に英語教師の口を見つけ渡りに船の勢いで試験と面接を受けたところ通り、 以来十五年余りの間この西多摩の一画にある近未来的な意匠をまとった校舎に通い続けている。
 死んだ岩代幹二は改めて言うまでもなく岩代高校の創設者である。元々教育者ではなく資産家で、事業の一部として自らの所有する土地の一部に高校を建てた のである。彼の父親は戦中飛行場を経営し軍用機も製造する会社の社長だったのであるが、敗戦後GHQの占領政策の一貫として飛行機の製造は停止、飛行場も 更地に戻され父親の死後譲り受けた幹二にその後のことが一任された。彼は借家や雑居ビルとしての土地利用から始めたがバブル期にさしかかると駐車場や高級 ホテル、テニスコート、さらにはゴルフ場経営にまで手を広げ一気に資産家、経営者としての名を上げた。その全ては成功した。彼が学校を建てようと考えたの は子供の数の増加を見込んでの純粋に経営上の計画であった。全国的に学校を増やそうという自治体の動きが活発化している時代背景もあった。ところがそれは 表向きの、つまり大会社の代表としての岩代幹二の大義名分、あるいは経営者である彼が教育に手を出すことへの「かっこつけ」に過ぎなかったというのが彼を 知る人々の一致する意見である。岩代幹二は戦中ある私立学校の中学部に在籍していたが開墾作業やら工場動員やらで満足に教育が受けられず戦後は父親の会社 で土地を基盤とする新しい経営術を仕込まれ、結局皆と机を並べて授業を受けるという体験を欠いたまま五十の坂まで登ってきてしまった。彼にとってそういう 体験は永遠の郷愁となりコンプレックスとなった。彼はどのような形でも良いから学校という場に戻ることでそれを解消しようとした、というのが定説となって いる。つまり一から学校を作り校長として学校へ通うということである。
 普段は着崩されている制服のブレザーも今日ばかりはネクタイがきつく締められている。生徒たちは二列に並ばされ、焼香が始められた。雪はうっすらと積も り上蓮寺の境内は白と黒とのモノトーンに占められた。大きな黒い傘の持ちなれぬ生徒たちの列は敷地の後ろいっぱいにまで延びた。杉田は境内に張られている 鯨幕の際まで下がってあまり目立たぬようにその様子を眺めていた。雪が傘の表面に当たる。傘の上にアリが這っているような音である。彼の立っている位置か らはたくさんの花に囲まれた祭壇上の岩代幹二の遺影がよく見えた。本当に死んだのだろうか、と彼は思った。彼は確かに断末魔の声を聞いた。息が切れる寸前 の彼の体の重みも彼の腕は感じた。見ることをやめた目も見た。しかし「それくらいのこと」で岩代幹二が死んだということがどうしても彼には信じがたかっ た。階段から落ちて死ぬような男ではない。彼はハンカチを取り出して鼻を拭き白い息を胸のそこから吐き出した。
 生徒の列の後ろには卒業生や父母、学校関係者、学校以外で故人と関係していた人々が長蛇の列を作り始めていた。学校関係者の方がむしろ少ないくらいで、 いかに故人の経営者としての顔が大きかったかを思わせた。時間の都合上現役の学生が最初になるよう優先されたのだが、これならば級長だけでも良かったので はないか、時間がかからぬ方が良かったのではないかなどと杉田は勝手なことを考えた。 「意外と早く終わりそうで良かったですね」
 と横から杉田に話しかけてくる者がいる。佐々木雄一である。彼は三十五歳になるが岩代高校ではまだ新任で二年前数学教師として入ってきた。それまで八年 間複数の大手予備校で教えていたのだが、花岡靖子が進学面での強化を図るためにいかなる手段を講じてか引き抜いてきた「専門家」である。佐々木自身は次の ように動機を語った。
「ぼくがね、予備校で授業していると学校の先生が『授業研究』と称して見学に来るんだよ。おかしいだろう? 彼らはちゃんと教員免許ってものを持っている はずなのにさ、プロが素人のところに来るんだ。ぼくは昔から間違ったこととか捻じ曲がったこととかが嫌いでね、一体学校はどうなっているんだと、教師と呼 ばれている人達はなにをやっているんだと、逆にこっちから出かけていこうって気になったんだ」
 その言葉の意味するところが彼自身の自信に由来するのか学校を変えようという野心からなのか、その両方なのかあるいは別の何かがあるのか誰にもわからな かった。しかし彼が何かを抱えていることは明らかだった。その不明瞭さと明瞭さの混交が彼にカリスマ性を加味した。彼は口ひげとあごひげを適度に伸ばし、 学校へはモンゴルの民族服のような詰襟状のものを着て来るその風貌から「教授」とあだ名された。 杉田はこの妙に自信過剰気味の人物を快く思っていなかった。「教授」どころかただのスノッブではないか、と彼の口ひげを目にする度に彼は思った。
「まあ……、そうですね」
 とっさの返答に皮肉をこめるような芸当は杉田にはできぬ。つまらぬ返事をしながら彼は佐々木ならばこんな時どういう返事をするだろうか、きっとひねりの 効いたことを言うに違いないなどと勝手に詮索し憤慨した。杉田が佐々木と接する度に感じる独特の疲労感というのはこういう種のものであった。ところで各ク ラスから五、六人の生徒を選出して四十人前後の代表に焼香をやらせるという案は佐々木が出したものである。「早く終わりそうで……」という彼の言葉にはそ の事情も含まれていたが杉田はそれを読み取ることができなかった。杉田の返答があじけなくとも佐々木は満足そうに他の教師の方へそのまま歩いて行った。
 それから一週間後の二月十五日に岩代幹二の長女花岡靖子が校長に正式に就任した。この日から職員室の空気は変わった。この花岡という人物は大学を卒業し てから突然家族の前から姿をくらまし十年後に今の夫である花岡雄介を連れて戻ってきた。夫は教育関係の出版物を主に出している学正社という中堅出版社の相 当な地位にいて、靖子とともに岩代学園の設立に尽力した。妻は教頭となり、金と土地と校舎という箱を提供した父が校長になった。夫は会社に残ったものの岩 代高校の「他にはない独自の教材・カリキュラム」の作成に当たり、それによってかなりの収益を会社にもたらした。そのカリキュラムは妻の意図したものでは なかった。もちろん妻と夫とは教育観に共通するものを多く持っていたが念願の学校という玩具を手に入れた岩代幹二の意図が最も優先されるのは仕方のないこ とであった。すなわち、花岡靖子が競争主義的な進学校を企図していたのに対して校長が理想としたのは牧歌的な学校像であった。
 校長の座が花岡に渡りいよいよ彼女は父やそれに追随した夫への不満を表明し始めた。それは予想外に露骨な言葉から始まった。
「皆さん、私は父を継ぐことは断じて致しません。父は道楽で学校を経営してまいりました。確かに学校経営という視座に立てば彼は成功者だったでしょう。そ ういう点では彼は一流でした。この学校は立派に黒字を計上しておりました。そして彼はまさに学校を会社扱いしてきたと言っていいでしょう。しかし学校は学 校です。第一に教育の場です。私はこのことを、もっとも明々白々なこの事実をこれから実践していきたいと思っております」
 真っ赤な紅を引いた厚い唇が忙しく開いたり閉じたりするのを教職員たちは見ていた。もっとも杉田や古文の園山、美術の宮澤、化学の久保田らはぼんやりと 窓の外を見ていた。三階にあるこの職員室は校庭に面しており生徒たちが野球やらサッカーやらをして走り回っている様子を一望することができるのだった。と いって彼らが校庭に特別興味を持っているわけでもなかった。
 園山映子は無名な短大の国文科を四十年前に卒業したが婚期を逸しさらに以前勤めていた女子校でも管理職になるべき時期を逸し、岩代幹二が遠い親戚にあた るという縁故だけで創立から古文を教えている。年の功で毎年A組の担任となり万年学年主任の異名を持つ。
 宮澤文子は同人誌に小説や詩を発表したり小さなギャラリーを借りて個展を開いたりライヴハウスの内装デザインをしたりと、三十になっても親のすねをかじ りながらいろいろなことに片足を突っ込んではそれほど大きな成果を上げることもなくという生活を続けていた。彼女はそれでも気まぐれに就職先を探して大抵 は断られていたのだが、その局外者的な匂いがかえって岩代幹二の気に入り採用された。
 化学を教える久保田はもと薬剤師をであったのだが、調合や処方のミスが度重なり相当な額の賠償金請求書とともに首になりそのことを隠して採用に至った男 である。彼に必要なのはただ金であった。この久保田と宮澤とは恋仲にあり二人とも今年で三十四歳になる。
 この三人に杉田を含めた四人が現在高校二年の担任を受け持っている主要な構成員であるのだがいずれも岩代幹二に見出された古参組である。彼らに共通して いるのは下手な教育愛や熱心さが無いという点である。彼らは会社に行くように毎朝学校に来、上司への報告書を書くようにお座なりの授業をし、残業と思って 放課後のクラブ活動の監督をした。仕事以上の関係を生徒と持つことを嫌い、「職場というのは金をもらいに行くところだ」と言ってはばからなかった。
 これらのことを生徒たちもよく理解していた。第一、岩代高校のような新規参入の私立学校に来るのは「やぼな」都立高校よりも施設や「従来の枠にとらわれ ない」教育という点で「進歩的」であることを求める富裕な家庭の子供たちなのだ。彼らは定員割れの入学試験を難なく通過し、さあこれで向こう三年間の自由 は保証されたと言わんばかりに入学早々放課後を共にできる人間を見つけ出して授業には来なくなる。アルバイトでもしようかとうそぶきながら親の金で街へ繰 り出し盛り場に群れる。学期の中間・期末試験の時は登校し答案用紙に戯画を、哀切な訴えを書く。教師の方も生徒を落第させるのに伴う家庭訪問や必要な書類 の作成といった事務の煩雑さを知っているから何かしらの理由や条件をつけて進学させる。それでも落第や退学をしていく者も少なくない。また、岩代高校の年 間行事予定表には体育祭と文化祭とが記されているが実際は休校日である。クラスという固まりで団結することがそもそも不可能で、生徒たちは気の合う仲間や 席が近いものとしか関係を持たない。隣のコースを走る者よりも速く走ろうと考える者も屋台で仲間と汗を流そうとする者もこの高校にはいないのである。時に は理不尽な形すらとる伝統と呼ばれるものが最初から欠如していたのだから無理もない話であるが、それでも岩代高校の生徒ほど団結という概念を知らぬ生徒も いないように思われる。しかしそれは牧歌的を理想とした岩代幹二の学校経営を如実に反映しているのだった。校風と呼べるとしたらそれがそうなのかもしれ ぬ。
 三学期の期末試験が始まった。三年ぶりに降り積もった雪も今ではもう大部分が融けてしまっていた。校庭は水はけが悪くしばらく使用禁止であったが、他か ら土を運んできて整備をすることになり朝から大型トラックが校庭に入って作業が進められていた。一時間目の数学の試験監督をしながら杉田はその様子を眺め ていたのだが、昨夜遅くまで自分の受け持つ英語の試験問題を作成していたためにまぶたが重くて仕方が無かった。明日の二時間目までに印刷を終えなければ間 に合わない、と思いつつもあせる気も起きず大きなあくびを一つした。それを見ていた最前列に座っている女子生徒が声には出さず口の形で「ばあか」と杉田に 向かって示した。二人は目を合わせて互いに鼻で笑った。その時教室の前のドアが開き数学を担当する佐々木が入ってきた。試験の際は問題作成者が各クラスを 回ることが慣わしとなっている。「何か質問は」と彼が言うと後ろの方に座っていた丸刈りの男子生徒が立ち上がって「教授! 二番が全然わかんないよ!」と 素っ頓狂な声色で言った。教室はそれにつられて沸いたが白けた視線を送る者もいた。しかし一番高らかな声で笑ったのは佐々木自身だった。杉田にはその高笑 いの空虚な匂いが鼻について顔をしかめた。佐々木は細い目をさらに細くして「その問題には小問が三つあるが一番目が解ければ二番目が、二番目が解ければ三 番目が解けるようになっている。したがって一番目を良く考えてみることだ」と説明した。
「来年は君たちももう三年だ。二年間の総復習の意味をこめて試験範囲を広くしてしまったけれど来年のためだからな。がんばってくれ」
 と最後に言って佐々木はまるで杉田の存在に最初から気が付いていないかのようにきびすを返すと一直線に教室を出て行った。しばらくすると隣の教室でも笑 いが起こるのが聞こえてきた。杉田はまたあくびを一つした。
 ――時代が成果主義へ向かっていることは周知の事実です。
 彼はぼんやりと窓にひじをついて先日の花岡新校長の熱弁を思い返した。
 ――競争は必ずしも悪いものではありません。むしろ、競争を忘れれば全ての人間は堕落しそこには怠惰が染み付きます。一方で教育界では生徒に優劣の順番 を付けることへ逆風が吹いています。みんなで手をつないでゴールさせる徒競走が一体健康な状態なのでしょうか。彼らは現実を全く見ていません。強い者と弱 い者とがいるのが現実なのです。事実なのです。それを十二分に認識した上で私たちはより良い、次へつながるような教育を考えなければならないのです。私が 厭うのは弱者が弱者でいることに甘んじてしまうことです。弱者を強者へ引っ張り上げること。弱者が強者への強い憧れを持ち自力で強くなっていくことの手伝 いをすること。これこそが教育の担うべき使命であると私は思っているのです。そして、我々の抱えている生徒たちが弱者と言わざるを得ないのが実情なので す。
 もうほとんど花岡の声は裏返らんばかりであった。杉田ら古参組は彼女の興奮した様子をこっけいとしか思えなかった。彼らは理想や信念といったものを持た ない。青臭いもの、必要ないもの、感情を時には束縛するものとして彼らは意識的に排除してきた。それだけに理想を語る人間を軽蔑して止まぬ傾向があった。 彼らにあるのはただ、生活。もちろんそうした生き方も人間、あるいは教師には許されているだろう。花岡のような人間がそれを良しとせぬのはひとえに彼女が 教育者の聖職性を信じているからであり、信じているからこそそれが信念となるのだが、その範疇に外れる教師を人とも思わぬところがあった。 「結局ね、俺だってできないような大学の入試問題を全員が解けるようにする状態なんて無理して目指す必要は無いの。基本だけ繰り返して繰り返して、試験は 教科書からしか出していないんだからちょっと勉強すれば百点取れるはずなんだ。その方が彼奴らも楽だしこっちも楽。それだってその『ちょっと』すらやって こないやつもいるんだから馬鹿らしくなってくるよ」
 これは久保田が機会あるごとに口にしている言葉で古参組の統一見解と言っていい。 「俺にはまだ借金がしこたまある。結婚だってしたい。生徒の進路相談なんかわざわざ放課後残ってまでやっている場合じゃないんだ」
「そうよね、それに他人の身の上話を平気で聞いていられる神経が理解できないわよ。きっとよほどご自身の人生に余裕がおありなのよ。私なんかいつも崖っぷ ちよ」 と相槌を打つのは宮澤だが、久保田は借金を返済した後に彼女に結婚を申し込むつもりで、傍から聞いている者にもそれとわかるくらい言葉の端々にそのことを 覗かせるのだが宮澤の方では器用にその部分を切り抜いて話を進めるのだった。
「お前たちは本当に生徒の進路相談どころじゃないな。二人ともそろって学生みたいなもんなんだから」
 借金は自分で返済を続けているものの給料の半分以上をそれに充てているために生活費の半分以上を親に頼っている久保田も、組織や団体に属したことが無く 「就職」というものを三十代になって初めて岩代高校で経験した宮澤も、岩代高校の生徒たちと立派に同類であると杉田は考えてよくそう言った。彼はそんな二 人の同僚を軽蔑すると同時に愛してもいた。彼は相手が自分よりも下等だと思えなければ愛することができなかった。そして相手から下等と見なされることをな によりも嫌った。しかし全ては彼の主観で判断されており、例えば佐々木が実際に杉田を軽蔑しているかどうかというのは問題ではなく杉田自身がそのように感 じるということを根拠に彼は佐々木を快く思っていなかった。そういう部分を杉田はもちろん明確に自覚してはおらず、その意味で彼もまた久保田や宮澤と同類 であり、彼の子供っぽさ、捨てられぬ自意識も最後には古参組という一つの範疇の輪郭線を担うのだった。
 ――このことは何も生徒に限ったことではありません。いえ、むしろ大人である私たちが彼らに示してやらねばならないことなのです。学校が社会から切り離 された兎小屋であってはなりません。私たち教職員だって一介の社会人です。不況です。社会問題も山積しています。それらは必ず私たちとつながっています。 私たちとつながっているということはすなわち生徒たちともつながっているということであり、私たちはそのことを自覚しなければならないのです。ですか ら……、ですから、その……、私たちの中にもし社会に対して有用な人材を育成しよう、この岩代高校という場所から輩出しようという意志の無い人がいたとし たらそれはとても残念なことですし、こちらとしてもそれなりに考えていかなければなりません。社会を、学校を変えようという意志の無い教師にはとてもこれ からのこの学校での教育をお任せするわけにはいかないということを改めて強調しておきます。岩代幹二のような方法論とも呼べない方法論は捨て去りましょ う。
 所信表明演説はかくして幕を下ろした。その瞬間ただ一人の男が「その通りです、校長」と言って手をたたいた。それにつられるようにして何人かが拍手をし 始めたがその男の打つ手の音はひときわ高く職員室の中に鳴り響いた。杉田らは拍手の主が佐々木であることを見なくともわかって互いに顔を見合わせてしかめ 面を作った。佐々木の言動はいつでも岩代高校の中では異質に響く。
 杉田はその時の拍手とつい今しがたの佐々木の高笑いとを思ってみて、いつもと変わらぬ生理的な嫌悪感を感じた。トラックの荷台が上がり、校庭の一画に土 の山が次々に現れた。それを体育科の教師が中心になって土ならしで広げ始めた。あれで一体どれほどの効果があるのだろうか、と杉田は考えてみた。意識を窓 の外へ向けることで佐々木のことを頭の片隅へ追いやろうとした。そこでチャイムが鳴った。
「はーい、やめたやめたあ」
 彼は言って答案を集めさせ始めた。
 期末試験が終わると生徒は解放の喜びに浸ることができるが教師の側はとたんに忙しくなる。終業式までは二週間あるがその前に職員会議が幾つかある。一週 間後の成績会議までに答案を全て採点し点数を報告しなければならない。まだ印刷すらしていない翌日の自分が担当する英語の試験のことを考えて、杉田はため 息をついた。

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「主のいない場所(二)」
 
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