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物語が共振し始める

 大学の多分野交流授業で「患者中心医療再考」というお話を聞きまし た。吉井怜の闘病記を読んだばかりだった ので非常に面白く聞くことができました。しかしぼくの興味は医療から離れて、物語というところに行き着きました。

 というのも、こういう話がありました。

 病気には必ず治療法があって治るものだという物語が医学教育や医療ドラマの中で繰り返し語られて、それがすりこまれてしまっているた めに、病気というのは治るものだというのが単なる思い込みでしかないことを忘れている人が患者の中にも多い。そうなるとどんなに治療をしても回復しない人 や慢性疾患の患者 のよりどころがなくなってしまっている。

 これは医療だけの問題ではないとぼくは思ったのです。 ぼくたちだって、何も考えずに生きていると物語にいつのまにか食われていることが往々にしてあります。 たとえば大学生という物語、恋愛という物語、結婚という物語、就職という物語、2004年という物語、春夏秋冬という物語。

 どれもこれも一つのステレオタイプとして強烈にぼくたちの人生を呪縛している。そのことに気づくことはなかなか難しい。いや、ある意味では簡単だとも言 える。というのは、ぼくたちはそれまで自分が生きてきた物語から軌道がずれてしまったとき、初めてそれを強烈に意識するからだ。たとえば30代未婚子無し であることに悩む女性がいるとして、でも、その悩みというのは「結婚」という物語から外れてしまった 自分の持つ物語がないという不安に起因するのではないでしょうか。あるいは、「キャリア・ウーマン」という物語に食われてしまっていた自分にやっと気がつ いた、その痛みなのではないでしょうか。

 確かに、日本の社会の中で圧倒的大多数の人が通る人生の道筋というのは確かにあります。けれどもそこから外れてしまったからといって 「自分には普通の、平凡な幸福が訪れることはないのではないか」と考えてしまうのは物語に食われている証拠です。でももし自分の物語が「不遇」だとした ら、それを引き受けることができないときどうしたらいいのでしょうか。他人の輝かしい物語や普通の物語にあこがれるこ とで、益々苦しみは増します。じゃああこがれなければいい。確かにそう、でもそれが難しい。それができれば誰も嫉妬なんてしない。

 テレビをつければコマーシャルが大量の「家族」や「恋人」の物語を垂れ流している。そうでなくとも街を歩いていればいやでも目に するものはあるし電車に乗っているだけで耳に入り込んでくることもあります。だったら、自分を完全にシャットアウトしてそういうものから逃げる。これがひ きこもりでしょう。自分の世界の中でぬくぬくとしていればこれほど心地いいものはありません。

 でも、世間で人が思っているような美しい物語を生きている人なんているのでしょうか?

 美人を見ては恨めしく思い、ホームレスを見てはかわいそうに思い……それこそ世界を単純に見すぎています。不幸な美人もいれば幸福な ホームレスだっているでしょう。

 語りえぬものには沈黙するしかない。

 その通りなのです。その人の物語はわからない。わからないから決め付けることは危険だし、黙るほかないのです。

 それでも一方で、知りたいとも思う。
 語られない物語を発掘したくなる。

 今はまだ語られていない物語によって普通の人生から外れてしまった「異常な」人たちが救われるならば、肯定されるならば、生きていてもいいんだと思える ならば……。たとえば小説家の仕事の一つには「語られぬ物語」を語ることがあるとぼくは思います。それが全てではないけれど、太宰が貫いた「芸術家は弱者 の味方」という態度は本当だと思います。 けれど、そんなものを待っているうちにもぼくたちは時々刻々と生きてしまっている。そうしたら、もう誰もが小説家になるしかないじゃないか。  

 確かに物語は唯一無二だ。けれど全てが全ての点において異なっているわけではない。すべてがすべて、オリジナリティーにあふれているわけじゃない。個性 が大事なんて、方法論を示されないまま戦後民主主義教育にすりこまれたぼくたちはそのことに抵抗を感じるかもしれない。けれど、ある程度ぼくたちは人間と して共有するものがあると思うのです。共感というのが大切になってくると思うのです。そ して意外に共感というものの力は物語の根底には案 外似たような低音が響いているのではないでしょうか。そうでなかったらどうしてこれほど広く小説が読まれるのでしょうか、音楽が聴かれるのでしょうか。な んだか有島武郎みたいだけれど、この共感がきっとぼくたちの物語を、それでも毎日懸命に稚拙に編み出されていく物語を助けてくれるのだと思う。そうして、 新たに生み出された物語 はきっと新たな共感を呼び、どこかで誰かを助けているはずだ。そのことがまた、ぼくたちを勇気づけてくれると思う。

 この世にある無数の物語が暗闇で共振しあっている。ふるえるほど美しい光景だとぼくは思う。

03/10/01 初稿
04/11/26 改稿

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