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朽ちる日も

 暑い部屋だった。夏なのに窓も開けず扇風機もつけず、もちろんクー ラーがあるわけでもない。ぼくはせめてドアを開け放しにしたかっ たけど、部屋に一歩入るやいなや彼はわざわざぼくの後ろに回ってドアノブを引いた。汗をふきながらぼくはペットボトルの水を飲みながら部屋の中を見回し た。
 ぼくは座りたかった。彼は悠々とせんべいぶとんの上に座ってタバコを取り出し、コップ酒をすすった。ぼくは立ったまま、かばんだけを足元に置いた。何か ら話せばいいのだろうか。
 こんなところにいて食事はどうしているんですか、とぼくが聞くとそんなものはなんとでもなるんだ、という返事が返ってきた。タバコの灰がふとんの上に落 ちる。
「お仕事は」
 ドアの開く音がした。振り返ると老女がスーパーのビニール袋を下げて入ってきた。
「奥様でいらっしゃいますか」
「一緒に住んでいるだけだ」
 彼のその言葉に老女はただ、笑いながらうなずく。髪止めにヒルガオをはさんでいる。
「せまいんでね」
 ぼくは老人の口から吐き出されたタバコの煙を正面から受けた。

 アパートには奈緒子が夕食の準備をして待っていた。いつの日からか、彼女は三人分の食事を作るようになった。お腹の大きい彼女に、自 分の食事の済んだあとで小さなお茶碗に入ったおかゆをスプーンで食べさせてやる。そういう瞬間がぼくにとっても蘇生のときだった。
「今日はどんな家に?」
 同じ職場だったから、自然と職場の話題は食卓でも出た。あの人はもう課長候補とうわさされている。あの人は辞めさせられた。あの人はやっぱり一人でトイ レに行かない。
 大きな窓から月があざやかに見えた。
「電気を消してごらんよ」
 ベランダに出て、ぼくと奈緒子とは満月を見上げた。満ち足りた、温かい色の光が降る。ぼくは後ろから彼女を抱きしめ、そのお腹を両てのひらでなでさすっ た。

 二度目の訪問はもう少し具体的だった。
「ですから、たった、いいですか、たったの二十五万でもう少しお広いところへ行かれるんです。それさえ、それさえご承諾していただければ後の生涯は一切わ れわれの方で保障いたしますので」
 営業部長の横でぼくは仕事を覚えなければならなかつた。メモ帳は白紙のまま、手の汗を吸い取る。
「和室がおよろしいですかね。いやもう、どうぞ、なんなりとご相談ください。すぐにお見積もりいたしますので。どうでしょうねえ、ちょっとご覧になってく ださいよ。これが完成予想図なんです。まるで写真のようでしょう。どうですか、隣りの和田さんはもう契約書にサインなさって、ほら、この通りなんです」
 部長の饒舌は事前の打ち合わせの通り進んだ。だからぼくもあたかもそれがぼくの仕事の全てであるかのように、五階建て鉄筋コンクリートのマンションの上 に契約書を乗せた――九月末日までに立ち退かぬ場合、甲は乙の区分所有権を買収する。
「あんたたち、若いもんにはわかんないよ」
 けれども、部長には「若いもんにはかなわないよ」と聞こえたようだった。いよいよ相好を崩して部長は手をすり合わせた。

「雨漏りがするのよ」
 確かに玄関の天井部分の壁紙の継ぎ目から水が漏れていた。一分に一滴の割合で滴が落ちてくる。玄関の真ん中にいつまでもバケツを置いておくわけにはいか ない。
「雨漏りじゃないだろう。この上にだって部屋があるんだ。どこか上のパイプがゆるんでいるんじゃないか?」
 買って五年しか経っていない。ここを奈緒子と住むと決めたからこそ子供を生む決意もできたのだった。
「今日はもう遅いから、明日大家さんに言ってみよう」
 それからいつものように長い食事を済ませてぼくたちは布団に入った。もう厚い布団でなければ寒い季節だった。滴の落ちる規則的な音から逃れるようにぼく たちは布団を頭からかぶった。

 三度目の訪問でぼくが見たのは、いや、ぼくはいつもソースの臭いをさせていた老人を見ることはできなかった。老婆だけが毛布にくる まって座っていた。それはぼくにとって全く個人的な訪問のつもりだった。だからティーシャツに濃紺の綿ズボンという出で立ちで行ったのだ。片手には、老人 の好きだろうコップ酒をいくつか提げて。
 ぼくが書面を書き印刷した立ち退き勧告の書類や張り紙がドア一面に張り付けられていた。老婆がぼくがドアを開けて入ってきたことに気がついているのかい ないのかさえわからなかった。ただ、顔を窓へ向けて背を丸め、壁にもたれかかっていた。ぼくも窓の外へ眼を向けた。すでに取り付けられた工事用の足場と、 次々に運び込まれては庭先に積み上げられていく鉄筋の山。今だけは死んだように首を折り曲げているパワーショベル。
 静かな休日のはずだった。突然ぼくの後ろから部長が走りこんできた。
「なんだ、キミぃ、休みだってのに説得に来てくれたのか。若いのに優秀、優秀。その努力は大いに買ってやるぞ。しかしな、オイ、ばあさん、あんたじいさん の奥さんでもなんでもないじゃないか。戸籍謄本をな、ちゃあんと調べりゃわかることなんだよ。あんたにはもともとここに住む権利なんて無いんだ。まったく 世話やかせやがらあ」
 土足のまま部長は畳の上へ上がっていった。
「おい、聞こえてんのか。さっさと出て行け」
 老婆の肩をゆすると彼女はその場に力なくくずおれた。部長はあっ、という顔をしてすばやく手を引っ込めた。眼を覆いたかった。口と目が不自然に引きつっ て開き、骨の上にその形のまま皮が張り付いたように見えるまでやせ細った顔だった。思わずビニール袋を取り落とした。びんがいっせいに割れた。

 一年後の春、木造アパートはマンションに生まれ変わった。

 子は流れた。

 毎週火曜日の資源ごみの日。早朝、アルミ缶を拾いにリアカーを引いてくる老人がいる。朝から缶をがさがさ言わせてうるさいという苦情 が多数寄せられ、ぼくは対策に乗り出さなければならなかった。
 ぼくはマンションの住民代表と市役所の人と三人で朝の四時から張っていた。ぼく以外の二人はとにかく静かな生活のためにやっきになって、徹底的に懲らし めてやるといきまいていた。やがてリアカーのごろごろアスファルトの上を転がる音が聞こえてきた。
 その老人は間違いなく、あの老人だった。同じ野球帽をかぶって、背を丸め、手にはコップ酒を持って。
「おいおいおい、うるさいんだよ、どろぼうが」
 既に二人はごみ集積所へ飛び出していた。
「へい」
「ここはうちで出したごみだ」
「行政の仕事を奪うんじゃない、窃盗だぞ」
「へえ」
「朝からうるさいんだよ、がしゃがしゃ」
「へい」
 あの気骨は面影さえなかった。うつむいて、ただ彼らの言葉を聞いているだけだった。
「その酒は捨てていきなさい。まったく朝から……」
「いや、これはただの水でして」
「捨てなさい」
「水でして。ほら」
 コップが持ち上げられて、初めてぼくはその中にアサガオがささっているのを見た。
「うるさい!」
 打たれた手からコップが落ちた。……割れずにそれは転がり、転がり、ぼくの足元にまで転がった。ぼくがそれを拾い上げると三人は黙ってこちらを見つめ た。誰も、どうしたらよいのかわかっていなかった。目くじらを立てていた二人も、いまさらにやりすぎたことを感じ始めたのか苦い表情を見せた。
 ぼくは三人の立っている方に近づいていった。老人にコップをさし出すと、彼は両手でそれを受け取った。
「命日なんじゃ……」

 今日も三人分の食事を作って奈緒子が待っているアパートへ帰る。命日。ぼくは駅の小さな花屋の前で立ち止まった。

(おわり)

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