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ぼくのかたち(三)

 バス停に立ちすくんでいたぼくの目の前に止まったバスに乗って、ぼく は総合病院へ連れて行かれた。一番後ろの席に座って頭をシートのもたせるとほとんど 上を向いた形になり目をつぶった。曇り空の白い光がまぶたを通して真っ赤に映った。車体がゆれるたびに首に無理な力がかかったが、その振動もいつしか心地 よいものに変わった。それほど長い間眠ったわけではない昨夜の波が押寄せてきた。浅い眠りは夢の続きへぼくをいざなった。
 真っ赤な部屋。真っ赤に見えた部屋。どちらが正しいかわからないが、ぼくを囲みながら自慰をしていた女の子たちは消え、その部屋の中でぼくは鉄也と二人 でいた。ぼくは強迫観念にとりつかれたかのように「なおみ……、なお……」と名前をつぶやき続けていた。
「だからさあ、だれでもいいんだろ?」
 その声は親父のものだった。けれどもそれは鉄也の口から流れ出てきた。ぼくは鉄也の口元をじっと見つめた。その間もぼくの口は同じ言葉を繰り返し唱えて いた。
「だれでもいいんだろう? オイ、おまえに聞いてんだよ!」
 ぼくは鉄也につかれてその場に倒れた。するとその上から鉄也がのしかかってきて顔を近づけてくる。あごひげだけが伸び、外で仕事をするために肌は日に焼 けたその顔。鼻の先から汗の滴が今にも落ちかかろうとしていた。
「ちょっ……」
 と言うまもなく鉄也はくちびるを重ねてきた。そうしながらも彼の手はすでにぼくの股間へ伸びていって、ズボンのファスナーを下ろし、トランクスの間から それへと伸びた。ぼくは口をふさがれていたからなにも言うことができなかった。いや、なにも言わなくとも手を使って鉄也の体を押しのけることもできた。だ けど、それをぼくはしなかった。
「やってることは同じなんだぜ? 女がやろうが男がやろうが自分でやろうが、気持ちいいことには変わりねえじゃねえか。目をつぶって俺をあすみと思ってみ ろよ、なおみと思ってみろよ、U子と思ってみろよ」
 鉄也のされるがままに、そして言われるがままにぼくは純粋に感応だけを取り出してそれへ意識を向けようとした。再び口の中へ舌が這いこんできた。
「ふう……」
 次第にぼくの頭の中から鉄也に犯されている自分の映像が消え、快感が高まっていく感覚だけが残された。肌が記憶しているねえさんとの快感がよみがえっ た。その愛撫が鉄也によるものであることを忘れた。
「ああ……」
 トランクスの前の部分が濡れていた。バスは病院の中庭に横付けされており、ぞろぞろと人が降りていくところだった。慌てて財布を取り出して、床に小銭を ばら撒きながら急いで降り、まっしぐらにトイレに行って濡れた部分をペーパーでぬぐった。自己嫌悪を通り越して、ぼくは気を抜かれたようになってズボンを 上げた。
 日曜日だから外来は受け付けていないが、産婦人科と小児科だけは予約制で開診している。ぼくは産婦人科の入っている棟へ向かって建物の中を歩いていっ た。誰もいない。明かりだけはこうこうと灯されている廊下をぼくは靴音をわざと立てながら歩いた。かかとが当たり、靴先が続く。カ、ツン。カ、ツン。秒針 の音。心臓の音。赤ん坊の心臓。赤ん坊の心音は早いのかな。なおみの心臓となおみの赤ん坊の心臓の音は同時に打つのかな。
 ぼくは自分の性欲から逃れるようにわざと口の中でぶづぶつと言葉にしながら考え事をして歩いた。
 二つ目の曲がり角を曲がろうとしたときだった。もしそのとき考え事をして下を向きながら歩いていなかったらその小さな手のひらを右足で踏んでいただろ う。ぼくは我に帰って立ち止まり、一歩下がってそこにしゃがんだ。
 もう頭の毛の生え揃った赤ん坊が目の前に座っていた。小さな目の中の大きな目玉を動かしてこちらを見上げてくる。どうしてこんなところに?
「どこから……来たの」
 そう言ってもちろん通ずるわけがない。ぼくは自分のいる場所の前後左右を首を回して眺めやったが、親らしき人も、看護婦の一人も見当たらない。産婦人科 か小児科かどちらかわからないが、逃げ出してきたのだろう。あるいは母親が診察室の外に出ていてもかまわないと思ったのか。いずれにせよぼくは赤ん坊を抱 き上げてこの先の待合室へ行くべきだった。
「名前は?」
「だー、ぶぶぶぶ」
「ぶぶぶぶ?」
 赤ん坊は両手をこすり合わせるようにしながら笑った。その笑顔を見て、ぼくの顔もほころぶ。汚れたリノリウムの床に座らせておくのもかわいそうだったの でぼくは思い切って赤ん坊のわきの下に両手を入れて持ち上げた。そんなことは初めての経験だった。思ったよりも重く、彼の体重は手にかかってきた。右肩に 状態を乗せて揺らしてやると声を立てて笑った。甘い臭いがした。母親の臭いなのか、赤ん坊の持つ独特のにおいなのか。そして、意外に高い体温にぼくはほほ をすりつけた。ますます笑う。一向に泣く気配がない。
 不思議になついている彼を、ぼくは手放したくなかった。抱き上げた瞬間から手放すつもりもなくなっていた。
「お母さんはどこにいるの」
「あー、うーうー」
「お名前は?」
「あー、あーあー」
「そうか、そうだよなあ。お母さんとはぐれちゃったんだよなあ」
「うーうー」
「ええ? なんだって? お母さんとはぐれたんじゃなくて捨てられちゃったのか。なんだってこんなところに捨てるんだろうねえ。でもだいじょうぶだよ、ぼ くが拾ってやったからねえ」
「うぷ。ぴゃははひゃー。ぶぶ、ぷー」
「エー、なんだって? どこに連れて行ってくれるの、だって? そうだなあ、とりあえずぼくの部屋に行こう。外はまだ寒いし、おうちの中でごろごろするの が一番だと思うんだ」
「ぶぶ、ぶぶぶぶ」
「ぶぶぶぶーぅ?」
「だー、……、だー」
「ねー、そうだとも。君にはぼくがいなければならないんだ。もしぼくがいなかったら死んでしまうところだったよ。そう、君は雪山に遭難していたようなもの なんだ」
 赤ん坊の小さな手がぼくの耳に何度も触れようとする。
「くすぐったいよ」
 笑って、ぼくは人差し指と親指を使ってその手を握り返してやった。
 気がつけば建物から外へ出ていた。病院前のバス停にはちょうどバスが到着して、中から人が降りてきていた。ぼくは乗り場へ歩いていこうとした。ところ へ、ポケットの中で携帯電話が震え出したのでぼくは赤ん坊の尻を左手で器用に支えると右手で電話に出た。
「吉田雅彦さんの携帯電話でよろしいでしょうか」
 丁寧な女性の声だ。
「ええ」
「お父様の……雄治様が総合病院の方に救急車で運ばれまして、ご家族の方に連絡をいましているんですが、今、どちらにいらっしゃいますか?」
「今ですか?」
「あ、いえ、総合病院の方にいらしていただければ――」
 ぼくは振り返ってエントランスの前に立てられている「総合病院」の金文字を見て鼻を鳴らした。
「前にいますよ。でもバスが来たので」
 電話を切った。ついでに電源をも切った。まるで平気だった。むしろ家に見捨ててきたおやじが病院に運ばれたことを聞いて安心したのだ。そしてその安心 は、おやじなどぼくがいなくともかまわないという思い込みを補完した。病院にいるんだからかまわない。そこにいる限りおやじは一人の患者として手厚くもて なされ、死ぬことを最大限引き止められる。家にいてみろ、いつぼくがおやじを殺すかわからない。ぼくは十六歳の高校浪人生だ。何者でもない感覚、何者にも なれない現実。「浪人生」という言葉など本当は自分に使いたくはないのだ。ぼくは通学途上の眠い頭の中で同級生の女の子(それはおもになおみだったけれ ど)を素っ裸にし、思い余って学校のトイレで小便をするように精子を飛び散らかしていた中学生ではないし、放課後の図書準備室に女の子を閉じ込めて友達と 一緒にフェラチオを強要するような高校生でもない。離婚家庭の長男としておやじの分まで朝食・夕食を作っていた中学生でなければ、一転新しい母親にでれで れして初体験の手ほどきまで教授してもらうような高校生でもない。担任教師の「高校か、しからずんば死か」という言葉に対して「おれは(その頃は「ぼく」 でなく「おれ」と言っていた)中卒でも立派な大人になってやる」と食いかかっていった中学生でなければ、あんまり分不相応な一流高校に入ったばかりに「こ の高校でびりっけつでも世間のやつには勝てるだろう」とたかをくくってシンナー吸って退学になる高校生でもない。ないないない、で打ち消してなにが一体残 るのだろう?
 肩に急に重みが乗りかかってきたな、と思ったら赤ん坊が眠り込んでいた。まだ首が座っていないのだ。細い首がぐにゃりと曲がって折れてしまうんじゃない かと思い、ぼくは頭を自分の頭と肩との間にはさんで落ち着かせた。そうだ、名前を付けてやろう。いい名前をを付けてやろう。ぼくの名前が雅彦だから――
「雅彦!」
 目を上げればバイクが一台やってきて男が一人こっちに走ってくる。彼は走りながらヘルメットを取った。長い金髪がヘルメットの中から飛び出して、それを 二、三度手でかきあげる。鉄也だ。
「おっ、まえ、なあにやってんだこんなところで。なおみから……病院から電話がかかってきたんだ。仕事だってのに、監督に平謝りしてぶっ飛んできたのに よ。おまえがついていて、一体どうなってんだ。……っていうか、おまえ、その子供なんだよ。まさか、まさかまさかなおみの子供じゃねえよな、そんなわけね えよな」
「マサヒコだよ」
「へえ?」
 ぼくの答えに鉄也は言葉を失って口をパクパクさせながらぼくの顔と赤ん坊の後頭部とを見比べた。どう反応していいかわからなくなっている鉄也を置いて、 ぼくはバスに乗りこんだ。バスはぼくが乗るのを待っていたようにぼくが整理券を取るとブザーを鳴らしてドアを閉めた。鉄也がなにか叫んでいるのが窓越しに 見えたが、ぼくは無視した。急ぐべき状況だった。けれど、ぼくは自分の全ての動作がまるで映画のようにいちいち大げさに思えてひどく余裕があった。わから ない。この赤ん坊がそうさせたのか。変化の一点を探るなら確かにそうだった。
 なにも考えたくなかった。けれども、既に眠気の失せていたぼくは眠りに逃げることもできなかった。すやすやと眠る子供をひざの上に乗せてバスの窓に頭を くっつけていると、おぼろげな記憶を自動再生していった。
 そこがどこなのかわからない。場所ははっきりとわからないが、景色はくっきりと見える。ぼくは母親の背中におんぶされて、広い庭を散歩しているのだ。ぼ くは左耳を母親のうなじにぴったりとつけて、右手にある大きな桜の木を見ている。葉桜だから夏だったのだろうか。ゆっくりと背中がゆれる。ゆさぶられてい るのだろうか。「よしよし」と声がする。
 庭にははなれがあって、……ということは母親の実家なのだ、ぼくがいるのは。母親は右手に桜の木を見ながら木の周りを半周するとそのままはなれの入り口 に向かった。たたきでは猫が三匹、日陰のコンクリートの冷たさを楽しんでいる。母の実家にはやたらと猫がいた。人が近づくだけで逃げてしまう猫が大半だっ たが、寝そべっている三匹はほとんど人に関心を寄せなかった。――と思う。
 中に入ると湿っぽい臭いがした。和室が廊下をはさんで二部屋あるのだがそのどちらにも雑誌や新聞の束がうずたかく積まれているのだ。母さんは廊下を進ん でいって右手の部屋に入った。ぼくはもう点かない電灯から垂れ下がっている紐に手を伸ばそうとした。そのとき、母さんが小さな悲鳴をあげた。と同時にくる りときびすを返すとそのままはなれから外へ出た。ぼくの目に最後に見えたのは雑誌の山の上に乱雑に置かれたブラウスとジーンズだった。
「お母さん……、お母さん」
 記憶は次へ移る。一人でぼくは同じはなれにいた。蒸し暑く、油蝉の声が締め切った窓のガラスを震わせている。そのくもりガラスに暗い木の影が揺れて、そ れが横目に人の姿と見まがうたびにぼくはぎくりとしてその方を見やる。小学生らしく半ズボンから伸びたひざは、雑誌の印刷を何度もこすって黒くなってい た。ぼくは紙の山を這いまわりながらあちらこちらのページを拾い読みしていたのだ。それが大人に見つかってはいけないような気がして、ぼくはいやな汗を流 していた。劇画調のスポーツ漫画やおどろおどろしい活字が政治家のスキャンダルをあおるなかから、ぼくは目を離すことのできないものに突き当たった。ぼく はそのときが初めてだった、女性の肉体というものを見たのは。ぼくはひざ小僧を胸に押し当てながら足が震えているのか心臓が余りに激しく動いているのか区 別もできないくらいに体をぶるぶると震わせていた。優しいおじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんに守られていた、今までそれが全てだと思ってい た世界にはなかったそれらの画面いっぱいに踊るオレンジ色の影にたいして、ぼくは体がやはりいままで知らなかった反応を示していることに気がついていた。 小さなズボンの中で張り詰めたそれをぼくは手でまさぐった。痛くない位置に直してもなお、ぼくはそれをしっかりと握っていた。いちばん知っている女の人は お母さんだ。でも、ここにいる女の人たちとお母さんはどうしても結びつかない。そう思って、ぼくは怖いもの見たさの好奇心からなのか不可知そのものの持つ 強迫性からか、画面から目を離すことができなかった。なんなのだ、これは。そしてなんなのだぼくの体の反応は。
 と、ばたんと扉が開く音がして「ご飯よお」という祖母の声がした。
 お母さん……、お母さん、……お母さん? どこへ行ったの。……お母さん……
 口からよだれが糸を引いて床に落ちた。けれど、既にぼくの上着のそでは赤ん坊の唾液でじっとりと湿っていた。寝汗をかいたような、いやな悪寒を感じた。 だが、それも眠ることが世界の全てであるかのような赤ん坊の顔を見ることですぐに消えた。自分のひざの上で眠っているということが、逆にぼくにも安心感を 与えた。ぼくは、少なくともこの赤ん坊の寝床になってやることができる、という。
 降りるべき停留所で降りて、ぼくはなおみを見失ったことよりも連れてきてしまった赤ん坊に夢中だった。
「お母さん、今ごろどうしてるかなあ、ねえ、マサヒコ。お母さん、困っているだろうなあ。君を探しているよ。必死になって探しているよ。きっとそう、そう にちがいない。うん、ここまでちゃんと探し当てたら返してあげようね。ここまで来られないようならお母さんは本当のお母さんじゃないんだよ。なあ、マサヒ コ、ためしているんじゃないんだよ、悪く思わないでくれよ。ただ、君には幸せになってほしいなあ。ううん、違う、君には不幸せになって欲しくないんだ。マ サヒコ、ぼくがマサヒコをつかの間でも幸せにしてやろう。約束しよう。お母さんが迎えに来るまでに、ぼくのところから帰りたくなくなってしまうくらいに ね」
 笑っているのだか泣いているのだかわからない声をぼくは言いながら上げた。

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未完です。ごめんなさい。

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