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ぼくのかたち(一)

 ダッワッタイオンセイッユー、となんのことかと思えばラジオをつけっ ぱなしのまま眠りこけていたらしい。流れてきた曲は取ってつけたような哀愁ただよう 女性ボーカル。ぼくと大して年の変わらないそのアイドルは本当かうそかわからない英語で夜のしじまに向かってスピーカーから性欲を撒き散らすこと撒き散ら すこと。たまらずぼくは腕を伸ばして電源を切った。厚手のふとん一枚をまるめて抱き枕のようにして寝ていて、体はふとんの外に出ていたから少し寒気がし た。ベッドの上に起き上がって顔だけねじり枕もとの目覚し時計を見ると午前一時二十分を指している。暗闇の中で緑色の棒が「く」の字をなしていた。一時の 時報はゆめうつつで聞いたおぼえがあったからそれほど長いあいだ眠りに落ちていたわけではなかった。そう思いながら時計の横に置いてある箱からティッシュ を取って鼻をかみゴミ箱に捨てると、そろそろとぼくは立ち上がって廊下に出た。
 その先には暖かなぬくもりが待っているのだ。家の中でスリッパを履く習慣のないぼくは足の裏をへの字に曲げて、廊下の冷たさを避けようとした。同時にそ れは足音を立てない方法としても最善であることに気がついて、ぼくは心を弾ませた。どんなささいなことでも思わぬ収穫を得たかのような錯覚に陥らせるの は、深夜という時間帯のなすわざなのだろうか。おやじがしょっちゅう拾ってくる傘とねえさんの趣味で集められた靴に空間のほとんどを占領された玄関を背に してぼくは、古雑誌の束やたたまれるのを待つ洗濯物の山、しまわれる場所を失ったジュースミキサーやクリーニング屋でもらうハンガーのつまったダンボール が足の踏み場を狭めている廊下を進んでいった。背後からは街灯の真っ白な光が玄関のくもりガラスからさしこんでいた。自分では息を殺してゆっくりと歩んで いるつもりが、進行方向へ伸びる影は左右にゆらゆらとかげろうのようにゆれる。つきあたりの台所に入り左手にある部屋のドアを開けると、するりとぼくは中 に滑り込んだ。だいじょうぶ、おやじには気づかれていない。
「寒いんだ」
 洋間にはカーペットが敷かれていたから、ぼくはもう足の裏へ不自然な力を入れる必要がなかった。緊張の糸は解かれ、つめていた呼吸も意識の外へ解放され た。それがうれしくてぼくはベッドの中の人物へ声をかけたのだけれど、言いながら少し声が大きすぎたと思いもした。ふとんの中から枕もとの電気スタンドへ 手が伸びていくのが夜目にもはっきり見えた。その腕の白さは月の光を反射する魚の腹のようで、しかしひとたびスタンドのひもが引っ張られて明かりがつくと 今度はバカンスの夕陽に変わった。それから相手は黙って上半身を起こした。軽いパーマのかかったセミロングの髪は光加減で栗色に燃え、ぬれた黒目ははっき りと見開かれていた。それはつい今まで眠っていた顔ではなかった。
 寒いんだ、とぼくはくり返した。勉強も進まなくて。ドアの前に立ったままぼくは相手からの言葉を、一歩を踏み出すためのいつもの言葉を待った。それが肉 の厚く盛り上がった唇からヴィオラの音のようにやさしく漏れれば、その瞬間からぼくたちは母と子とではなくなる。吐息がかすかに聞こえたあと、ねえさんは かけぶとんの一方をめくって言った。
「少しだけだよ」
 ぼくはそれを聞くや否や扉の前からベッドへ飛んで行った。ねえさんよりもずっと大きな身体をすっぽりと掛けふとんの中へ入れて、その暖かさに頭から包ま れることをまず楽しんだ。目をつぶってひざを抱え、手のひらで冷たくなっていたつま先をもんだ。羊水のぬくもりに包まれた胎児のようにぼくはねえさんの体 臭を呼吸した。それは一瞬にして身体のすみずみまで甘いホイップクリームでいっぱいにしてしまう。
 初めは、つまり一年前このアパートに新しい母親代わりとして「ねえさん」――これは彼女が自分のことをそう呼ばせるのだ――がやって来た十五日後の二月 二十二日に(ぞろ目の日だったからたまたま覚えているのだ)ぼくは「同衾」を求めたのだが、そのときはなんの比喩でもなく同じふとんで眠るだけだった。今 となってはその動機もはっきり言うことができない。本当にただ寒かっただけだったのかもしれない。少しは本を繰って調べもした。けれど、幼いころに親に甘 えたことがなかったための退行という説明はあまりに味気なかった。ぼくは悪者になりたかったのだ。おまえはとんでもないことをした、神にそむく行いをし た。例えばそういう烙印を欲した。はっきりしているのは互いの異なる部分へ触手が伸びたのが、鉄也がなおみを妊娠させてしまったという事件をぼくが知った 日であったこと。そして、盛りのついた猫が外で立てる、母親の乳房を求める赤ん坊のような鳴き声が部屋の中まで容赦なく侵入していた日であったこと。
 ぼくは手を伸ばしてねえさんの腰を抱き顔を豊かな胸へうずめた。木綿の下の弾力が骨ばったほほをゆっくり圧迫した。その息苦しさも、思考停止への階段を のぼっているのだと思うと問題ではなかった。ねえさんもまたぼくの肩をてのひらで強くさすり足と足とをからめてきた。クスリだ、とぼくは唇を押し付けたま ま声をくぐもらせて言った。なあに、とねえさんの声が耳をくすぐる。ねえさんの香りはどんな病気も治せると思うんだ、心の痛みだって消えてしまうよ、とぼ くは自分でも恥ずかしいと承知しながらもそんなことを言った。ふとんの中で顔を見られていないのをいいことにねえさんを女として賞賛する言葉をぼくはそれ からいくつか口にした。ねえさんはきれいだ。両端のたれた眠そうな目に見据えられれば睡眠術にかけられる。少し肉付きのいい体は華奢な女の子がぼくの周り には多い中でひときわ存在感を主張してくる。なでれば逆になでられているような気持ちになる髪の毛。そのほほ、そのくちびる、その胸、その足。言えばきり がない。きっとねえさんのような人なら小さいころから聞き飽きるくらい言われているはずなのにぼくの言葉のいちいちに彼女は笑ってくれた。
 そうした二人のやりとりは母子という関係からは自然な愛情表現だったかもしれない。幼い男の子が母親に結婚を誓うような。誰もが子供の頃には言っただろ う。ぼくはお母さんと結婚する、あたしはお父さんと結婚する。学校の先生と両親しか大人の異性を知らない時代でさえ、ぼくたちはそんなことを言う。けれ ど、意思とは関係なく血の巡る肉が関係を不健全なものにしていた。いや、逆にこうも言えるだろうか。男女という関係からは肉欲も当然である、と。理想を言 えばきりがないが、理想を言う前にぼくは彼女のふとんの中にいた。
 十六歳。ぼくは十六歳だ。そのことでしか言い訳をすることができない。そもそもねえさんはおやじの恋人なのだ。
 ぼくはねえさんのボタンに手をかけ、ねえさんの手はいよいよぼくのズボンの中へ伸びてきた。十分に張り詰めた皮膚がやわらかい手管に包まれるとそれだけ で全身をその穴から搾り出されるような感覚に襲われた。ぼくはふとんから顔を出して唇を求めた。不自然な体の屈折を余儀なくされるごとにベッドがきしむ。
「あんまり音を立てないで。隣でお父さんが寝ているんだから」
 もちろん毎週土曜日の夜にはおやじが「つぶれるまで飲むんだ」と言ってビールびんをきっちり五本開けてコタツに足を突っ込んだまま眠ってしまうことを百 も承知でぼくはやっぱり毎週土曜日にねえさんのふとんに忍び込む。ふすま一枚へだてた隣りの和室からはちょっとでも耳をすませばいびきが聞こえてくるの だ。
「だいじょうぶだよ」
 ぼくは母さんを知らない。おやじは「母さんは死んだ」としか言わない。小さい頃からそう言われ続け、他に確認しようがないからぼくはそれを信じてきた。 おやじは「金がない」を連発する。これは離婚の慰謝料を払い続けているためであることを、ぼくは仏壇の引き出しの奥に隠されていた書類から知ってしまっ た。母さんは生きているのだ。それを尋ねるとおやじは「法律では、女房が死ぬと親権を買い取らないといけないんだ」とでたらめを言う。でも、ぼくはやはり 他に確認しようがないからそれを信じている。おやじの言うことを聞いておけば一応、それですむのだ。お涙頂戴の母子再会を永遠の将来に期待して、期待の中 でだけ都合のいい母親像をもてあそぶにとどめておくべきなのだ。彼女は夫と子供を捨てた。ろくな女じゃないはずだ。そうだね?
 ディレクターとして大手民放の下請け会社で働いていたおやじの企画する番組はいつもヒットすることはなかった。けれど、極端に視聴率が悪いということが なく常に一定の視聴者を獲得していた。そういうつぼをおやじは感得しているらしかった。「知られざる爬虫類クリニック」「漫画家を目指す若者たち」「ディ ア・ジョン・レター」「レニングラードの女詩人」「検証・安田講堂攻防戦」云々。ドキュメント系ばかりに携わっていたおやじが一度だけオーディション番組 に関わったことがあった。そして番組そのものはさして話題にならなかったが、その番組でグランプリを取ったU子はその後うなぎのぼりに人気を博していっ た。歌を歌い、美貌を漫画雑誌のグラビアにさらし、夜のドラマにも出た。さっきもぼくの頭の上でも甘ったるい声を垂れ流していたのは彼女だ。困ったのはぼ くで、親しくもない同級生になれなれしく話しかけられて彼女のサインをねだられ、おやじは「お前がそれで友達とのつながりを保てるんだったら」と勝手に悲 観的になって大量の色紙をぼくにくれ、ぼくはその色紙をなにかの契約書のつもりでにきび面の男子生徒たちに渡していた。鉄也も最初はその中の一人だった。 体がこの世に出てくる前から眼だけは生まれていてテレビを見ていたんじゃないかと思わせるほどに、彼はとにかくテレビの中の人間について詳しかった。彼は ぼくのあげた色紙の代わりにアダルトビデオを一本くれた。そういうことをしてくれたのは彼だけだった。そのビデオは今でもぼくのビデオラックの一番見える ところに置いてある。
「ああ、あ。どうしてあたしたちってこうなの? 動物実験よ」
「動物実験?」
「たまたま近くにオスメスがいたからってさ。私だってもう三十になるんだけど、別にあんたが若いから寝てるわけじゃないんだからね。そんなふうに考えてた ら、あんた、ただじゃ置かないよ」
 ねえさんはぼくの鼻の先を指先で押してきた。
「じゃあ、どうして」
 鼻声になってぼくが言うと、ねえさんは笑った。
「例えばいま飛行機がこのアパートにつっこんできても驚くような人間ではありたくないのよ」
「ちょっと、言っている意味がわかんないな。ていうか、かなり問題発言だよ、それ」
「いまさらなにに驚くって言うの? つまらないことに驚いたふりなんかして、真実は案外単純だなんて言ってよ、男女の本能をおまえが発見したのかって言い たくなるわよ」
「誰のことを言ってるのさ」
「とにかくね、あたしたちはこれでいいのよ。それから、あんたもわたしになにがあっても驚いたりしないでよ」
「おやじはどうなるのさ」
「あの人もわたしを必要としている」
 ぼくは顔色一つ変えずにねえさんがそう言うのにたじろいだ。いや、たじろいではいけないのだ、ねえさんの言うことを守るならば。でもぼくがねえさんのこ とだけを必要としているのだから、ねえさんもぼくのことだけを必要としてほしいという気持ちはあった。けれど、ねえさんがいなくなったからってぼくの存在 まで消えてしまうということはない。もしそういう関係が人間に可能ならば、ぼくは喜んで引き受けるだろうけど。
「ぼくとはちがう。おやじとぼくはちがう。おやじよりぼくの方がねえさんのことを愛している」
 そうぼくが言うとねえさんはしばらく黙った。体も動かさず、じつと僕の胸の上に耳を当てていた。
「……それは、違うとは言わない。だけど、だから、それも含めて全部にイエスを言いたいのよ。だって、世の中にはノーとひとこと言っただけで自ら命を立っ てしまう人もいるのよ。私はたくさんそういう人を見てきた。貸していたCDを友達が返すと言った日に返さなくて、自分に対する約束なんて成り立たないんだ と思い込んで、中学三年で自殺した同級生がいた。私も、言い寄られた男性にノーと言ったら彼は自殺した。それは二回もあった」
 つぶやくように、早口で姉さんは僕の眼を見ずに言った。
「いいよ、そんな話は、いい。ずれてるよ」
「私とエッチすることで雅彦も、あなたのおやじさんも生きているのよ。私があなたを否定したら、あなたは死ぬ? 死んでよ」
 ねえさんの声はさっきまでのやわらかいものとは全然別のものに変わっていた。先端恐怖症の患者の手に握らされたたくさんの画鋲がこすれあった出てくるよ うな声だった。
「どうしたのさ。聞きたくないよ、そんな話。それよりさ」
 そう言ってぼくはねえさんの口を口でふさいだ。舌をからみつかせる。
 ねえさんは、ぼくやおやじを殺したいのだろうか? けれども、本当に死んだら次の男に同じことを言うのだろうか? それを考えると、ぼくの心には瞬時に 暴発する不安の種が宿るのだった。さあ、もう目をそらすしかない。ぼくは、汗だくになって体のあらゆる部分をこすりつけ、いつもの上滑りなどこかの恋愛小 説から切り取ってきた言葉をそれからねえさんの耳元でささやき続けた。そうして、ねえさんの潤滑油の供給源を指で押し広げるとそこへぼくは解放の銃口を突 きつけた。
 と、突然ぼくたちのいる洋間とおやじがぶっ倒れているはずの和室を仕切っているふすまが開く音がした。ぐわらり、ぼくはそれを耳にするや否やほとんど反 射的にベッドから、ふすまとは反対側の壁とのすき間に転がりこんだ。自分でも驚くほどに体の方が先に反応して、ベッドの真下へ移動しながら初めて心臓が口 から出そうになるのを感じた。全身の血流が逆にめぐって、いやな汗が染み出す。
 気づかれたのだろうか。ぼくとねえさんの声が聞こえてしまったのだろうか。それともただ単に酔っぱらっているだけだろうか。数えられるだけの選択肢を数 え上げて、ぼくはいつものように最悪のパターンを思って震え上がった。ぼくはビール瓶で頭を殴られ、ねえさんはいやらしくなぶられて、それからおやじは叫 びながら通りに飛び出して車にひかれて死んでしまうかもしれない。そういう絶望的観測はやけに冷静に行えた。体ばかりが震えて、頭の中だけはのんきに構え ている。
「あすみい」
 かすれきった声がねえさんの名前を呼んだ。おやじはのどが痛いとこのごろはしきりに言う。酒を飲むたびに言う。どうしたのよ、なんだかねえ、なにがよ、 いやいろいろとさ、そんなところつっ立ってないでこっち来なさいよ、と二人の間で意味のない言葉が投げ交わされた。ねえさんは動揺の色一つ声に表さない。
「あんた、泣いているの?」
 それからぼくの目の前でベッドのマットレスの裏側が激しく波打った。ほこりだらけの床の上でぼくはパジャマのズボンをなんとか腰まで上げた。ねえさんの 小さな悲鳴のあと、ふとんが動く地鳴りの音がした。もちろんその振動波はぼくを否応なく刺激した。これから行われるであろう目の前の展開を想像して相変わ らず麻痺したままの下半身の部分を手で強く握り締めると同時に、ねえさんへの禁忌的な征服欲を侵害される嫉妬に苦しめられる予感もした。おやじは嗚咽をも らしながらねえさんの名前を何度も呼ぶ。ぼくは両耳を懸命に手でふさいだ。それでも指と耳の穴とのすき間から粘質の響きが入り込んでくるのをとめられず、 ぼくは目を閉じ鼻の穴をふさぎ口をつぐみ尻の穴にも力を入れてそれに抗った。ただそうやって、とてつもない重量の時間がゆっくりぼくを圧しながら去ってい くのを待つしかなかったのだ。
「お前はずっとここにいてくれるかい。俺が死んだら泣いてくれるかい。もし、俺が無一文になってもお前は俺をののしったりしないかい」
「何を言ってるのよ。そんな心配よりしっかり働きなさいよ。私は別にあんたを嫌いになったりしないから」
「ちゃんと答えてくれ。約束してくれ。俺はあすみが好きだ。な、好きなんだ。お前しかいないんだ。お前に捨てられたら、俺はもう自殺するしかない……そ う、自殺だ。俺が死んだら葬式に来てくれるだろうな。いやいや、誰も葬式なんか着てくれやしないんだ。葬式なんかやめちまえ!」
「やめて! そんな話、聞きたくない。わかったわよ、あんたが死んだら私も死ぬ。だけど、私は生きるからあんたも生きなさい。大体、雅彦のことはどうする のよ。いっつも自分のことばっかりなんだから、あんたは」
「あいつは……俺を捨てるつもりだよ。いや、息子っていうのはそういうものなんだ。そうあるべきものなんだ。息子よ、父を捨てよ! 父を殺せ! 今度そう いうドラマを作るんだよ」
「勝手になさい。そういうロマンに凝り固まっているうちは……不能も直らないわよ」
「なあ、もう少しこっちに寄ってくれ。俺が死んだら灰はお前に食べてもらいたい……さあさあ」
 それからねえさんは吐息を漏らしながらぼくに対しては言わないような間投詞を連発し始めた。ぼくはまんじりともせず、人が寝る場所の下で身を縮めて時が 過ぎるのを待った。
 翌日の日曜日はぼくもおやじもねえさんも午前中に目を覚ますことはない。たとえば電話が鳴ってそれに気がついても誰一人出ることはない。ぼくは和室を本 棚で仕切って半分を自分の部屋にしているわけだが、朝の五時ごろにねえさんのベッドの下からそこへ戻っていった。ベッドの上ではおやじがねえさんの腰に手 を回し胸に顔を押し当てて眠っていて、ねえさんもおやじの乱れた髪の毛に手をあてがって目をつぶっていた。おやじの姿が自分と重なるのをぼくは感じた。そ れは、否定しなければならない想念でもあった。死ねばいい、と思いながらぼくは自分のふとんへ戻った。誰が死ねばいいのかはわからなかった。
 眠気が頭の中にまんえんしていても下半身の興奮は中断されたままだったので、ぼくは頭を自分の枕に押し当てながら手でそこをまさぐった。いつものように ねえさんとの行為を成し遂げたとしても改めて自慰にふけることはあった。彼女の部屋から戻ってから冷めやらぬ興奮を鎮めるために手を動かしている瞬間とい うのはときには耐えられないほどの重い塊を胸に押し付けてくる。言ってみれば、ぼくは自分ひとりで自慰もできない男だった。ねえさんといくら粘膜をこすり 合わせてもそれはぼくの快楽の介助にしかならなかった。無理に絞り出された最後の精液をティッシュに受け止めるとそのままぼくは眠ってしまった。
 その次に目を覚ましたのは電話が鳴ったからだった。家の電話ではない。机の上に置いてあった携帯電話が騒々しく鳴らすメロディーは始め夢の中を流れてい た。
 ……ぼくは喫茶店に一人でいて注文したコーヒーを待っているところだった。硬い金属製のテーブルの上に灰皿があって、なぜかぼくは吸ったこともないタバ コを吸っていた。
コーヒーはいくら待っても出てこない。明らかにぼくよりあとに来た客のほうへ先に運ばれていたから、ぼくは店員を捕まえて注文を繰り返した。けれど相手は 視線を泳がせたまま「はあ」と情けない声を漏らす。
「おい、ぼくは客だぞ」
 怒鳴ってみせてもまるで反応がない。
「おい、ぼくがこの席に座ってるいる限り、お前はぼくを客として認識しなければならないんだ!」
 と理屈っぽく言っても無駄である。ぼくが手を放すと店員は店の奥に行ってしまった。後から隣りに座って先にコーヒーをすすっているサラリーマンに「どう なっているんでしょうか」と問うたがまるで無反応である。ぼくは彼のべっ甲めがねの前で手をひらひら振ってみたがやはり相手はテーブルに広げた新聞に視線 を落としたままである。なるほど、ぼくは誰からも認識されていないようだった。つまりは透明人間になっていたのだ。そう気がついて自分の体を見るとすっか り洋服もなにも消えて、自分の座っているはずのいすの天井が目の前にあるだけだった。
 ぼくは早速気ををよくしてチョコレートケーキとコーヒーとを厨房から取ってきた。何でも取り放題だ。大口を開けてケーキを口に押し込みながらぼくはメ ニューを眺めた。面倒なのでお盆の上に全部のメニューを乗せてもう一度厨房とテーブルを往復した。甘いものが大好きなぼくは幸せだった。けれども、ぼくは 次の瞬間には暗い教室で入学試験を受けていた。なぜか周りはみんな女の子だ。そこはかわいい子が多いといううわさのF女子高だった。ぼくは透明人間だった から教室中を歩き回ってカンニングをして答案を埋めた。その最中に気がついたのだけれど、ぼくの隣りに座っていたのはなんとおやじの発掘したアイドルU子 だった。なるほど、間近で見るとやっぱりかわいいものだ。ほほっぺたが盛り上がっているのがぼくはテレビで見ていて気に食わなかったのだけれど、今見れば 小山の頂上に赤味が差しているのが悪くなかった。ぼくは透明人間だったからU子が壁にかかった時計を見るために顔をあげた一瞬を狙ってキスをした。ぼくは 席を立って教室を飛び出すとそのまま女子更衣室に飛び込んだ。ところが重い扉を開けて中に入ると待っていたのは鉄也だった。「よう」とぼくが入ってきたの に気がついているのは、彼にはぼくの姿が見えているからなのだろう。
「まあ、脱げよ。ここは更衣室なんだから」
「もうとっくに脱いでいるさ。透明人間なんだ」
「はっは、そう思っているのはお前だけだよ」
 と、周りを見回せばさっき教室で一緒に試験を受けていた女の子たちがぐるりとぼくを取り巻いている。U子もいる。
「さあ、みんな、遠慮することはない。ここは更衣室だ。脱げ、脱げ」
 鉄也のその声を合図に彼女たちはためらうことなく制服を脱ぎ出した。全員が裸になるまで長い時間はかからなかった。ぼくを中心にして若い女の裸が円陣を 成す。ぼくを真正面から見据える者、横目で見てるのか見てないのか判然としない者、見て見ぬふりをしている者……。ぼくは生唾を飲み込んで彼女たちの意図 ありげな視線から目をそらした。そらした先は自然、それぞれの乳房へいった。飲み込んだつばを干上がらせるように今度は頭に血がのぼった。
「ほらほら、遠慮することはないんだって」
 その言葉はぼくに発せられたものではなく彼女たちに発せられたものだった。突然女たちは体を崩し、手を胸へ陰部へやってそれからそれへと自分の体を刺激 し始めた。そして、今度は露骨にぼくを見やってくる!
「どう? ――オイ、おまえに聞いてるんだ」
「どうって……」
「これで満足だろう? みんな君に欲情している。これで君は満足なんだろう? いいよ、君も彼女らの前で自涜にふけったって。ぼくは止めやしないから。だ けど手を触れちゃいけない。彼女たちも君には一指たりとも触れない」
「ちょっと、やめてくれ……」
「どうして、みんな君をすばらしい男として認めているんだ。こんなすばらしいことはないじゃないか。ほらほら、ビートイット、ビートイット! 人間、こう でなくっちゃあ」
 鉄也の姿はもう無かった。
「やめてくれ……やめてくれやめてくれ、やめてくれやめてくれやめてくれ……
 そして、更衣室はは真っ赤な光に満ち、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
 そのぴいぴいびいびい、鳴り響く電子音が夢うつつの橋渡しとなった。
「おいおいおい、ひとつたのみがあるんだ。急いでんだよ。ちょっと、聞いてんのか? ねてんだな? 起きろ、起きろ。何時だと思ってるんだ。お天道様が出 たら人間は起きるものだぞ。俺だよ、鉄也だよ。今日よ、バイトがたてこんじゃってなおみと一緒に病院に行ってられないんだ。おまえ、ひまだろ。たのめるよ な、ちょっとついていってやってくれ」
 相変わらず鉄也の話は唐突で、必要最小限のことしか言わないものだからぼくは彼の話を噛みくだいて消化し残りかすをまた噛み砕くというサイクルを三回ほ どくり返してから欠けているものを補わなければならなかった。加えて、夢の中の彼があんまり生々しかったものだからそれと電話から聞こえてくる声とを区別 することにも数秒の脳溢血を要した。
「何時にどこへ行けばいいんだ」
「そんなことはなおみに聞いてくれ。よろしく頼むな。信号が青になっちまったから、じゃあな」
 そこで通話は切れた。
 ぼくはカーテンの隙間から空が晴れていることを確認してから頭をかきながらシャワーを浴びようと思ってたんすから着替えを取り出し、廊下へ出ようとし た。本棚の仕切りから隣りの部屋をのぞくとこたつの上にビールびんが五本、つまみの皿と飲みさしの残ったコップが目に入った。日の光が当たった黄色い液体 は似合わずきらきら光っていた。
 十年近く使って水圧のめっきり弱くなったシャワーを浴びながらさっき見ていた夢についてぼくは考えた。小さいころ、例えば子供向けの科学読本の類を読ん で、透明人間にあこがれた経験はぼくもある。けれど、あの頃と同じ気持ちで今も透明人間になりたいと思うかと聞かれてぼくはイエスともノーとも答えられな い。問いの立て方は正確には「透明人間になって何をしたいか」だ。誰にも気づかれることのなく己の欲望を難なく実現していく透明人間は悲惨であり滑稽だ。 例えばカンニングをしていい学校に入ったところで合格を喜んでくれる人はいない。店から盗めば食い物に困るわけではないから働く必要もない。けれどなによ りも他人と、肉体的にも精神的にも交わることができない透明人間は垣間見の欲望は満たせても感情の共有の道を絶たれている。だから彼は究極のオナニストな のだ。ぼくは全く純粋な空想の遊びとして考えることができなかった。彼はぼくであり、また、おやじであり、ねえさんで……あるのか?
 けれども朝からわざわざ不健全な思考パターンに陥る必要はない、これはある哲学者も言っていたことだ。それでぼくは考え事とシャワーを止めると石けんで 体を洗い始めた。あわ立てたナイロン製のタオルをつま先から首の付け根まで順にこすりつけていく。そうしてからもう一度ぼくはだらりと股間にぶら下がった それを念入りに洗った。つけ根に生える草むらも泡だらけにして、ぼくはこすりつけられるタオルの感覚に快感を覚えながらも見えない汚れを落とすかのように 何度も洗った。

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「ぼくのかたち(二)」
 
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