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ビヨンド・ワーズ

 彼女の顔をよく見るとロシア文学のゼミで知り合った大野さんだった。 二年目の冬学期が始まったばかりの十月、うららかな日のこと だった。ぼくは昼ご飯を食べた後、午後の講義には出ずそのまま部室で惰眠をむさぼっていた。ところへ廊下から突然、頭の先からつま先まで震わせるような音 が響いたから驚いてソファから飛び上がってドアを開けてみると、そこに見覚えのあるパーマ頭の女の子が立っていた。
 彼女の方も弦に当てていた弓の動きを止め、ドアノブをつかんで半身を部屋の外に乗り出したままのぼくをちらりと見るとすぐにわかって、閉じていた口を丸 く開けた。
 バイオリン? と初めの目的を忘れて聞くと
「ヴィオラ」
 という答えがすぐに返ってきた。ゼミの発表で聞かせてくれる鼻にかかったいつもの声。練習室の鍵を借りられなくて。そう言って、彼女はスコアへ視線を落 とした。

 それがぼくにとってクラシックへ耳を向けるきっかけだった。もっとも、大野さんの持っている世界を知りたいと思ったと言うのがより正確なところかもしれ ない。
 それまで人並みに音楽は聴いてきた。ヒットチャートを毎週追いかけた中学時代に記憶は始まり、その後はミスターチルドレンの迷妄せる自我に旅したりジョ ン・レノンの甘美な叫びに共鳴したりもした。そうした嗜好はけれど、ローンを組んでエレキギターを買うとか、地元のライヴハウスに足繁く通うとかいうたぐ いのものとは違った。強いて言うなら、小説が好きだったぼくは詞に文学的なもの、意味を求めた。意味のある詞を読めば満足だった。逆に言えば、詞のない音 楽を聴いてこなかったのだ。
 それからも時々大野さんは、必ずしもぼくのサークルの部室近くではなかったけれど部室棟の廊下でヴィオラを練習するようになった。本当はずっと以前から そうしていたのかもしれない。ぼくが気がつかなかっただけだったのかもしれない。

 大野さんと知り合ったゼミというのは、通年でいろいろな時代のロシア文学を原文で読んでいく、受講者十人にも満たない小ぢんまりとしたものだった。確か に大学でロシアを学ぶ人は少ない。そして少ないからこそやる、というのがモチベーションの一つになっていることは確かだ。大野さんがバイオリンではなく ヴィオラをやっているのもそのことと無関係ではないと思う。
「そんなに逐語訳じゃなくて、もっと滑らかな日本語でもいいんだよ。君はまだテキストにしばられている感じがするな」
 自分の発表の後でぼくはまた同じことを言われた。しかたなくぼくはうなずいた。じゃあ今日はこれまでにしておこう、という教官の言葉で十一月に入って最 初の授業は終わり、生徒たちはノートや筆記用具をかばんにしまい始めた。すると大野さんが前に出てきてちょっと配りたいものがあるの、と言ってビラを皆に 回した。見ると桃色の薄い紙の上に上品な細い活字で「カルテット・霜月祭公演」と題されていた。「霜月祭」とは十一月の後半に毎年行われる学園祭である。
「いつも練習しているやつをやるの?」
 ぼくが楽器を持つ格好を真似ながら聞くと彼女はうなずいて、寄って来るとビラに刷ってある曲目の一つを指さした。
「この曲がいいよ」
 ボロディン作曲・弦楽四重奏曲第二番。もちろん初めて聞く名前だった。その文字を指先でぼくはなぞった。

 その日の帰り道、ショップでその曲が収録されているCDを探したのは言うまでもない。苔のようにくすんだ緑色とさえない紫色との二色がグラデーションを 織り成す背景に「BORODIN QUARTET NO.2」と白抜きされたその直輸入盤のジャケットは見る人が見ればひどく安っぽいのだろう。けれど、 ぼくは三軒目でやっと大野さんの片鱗を探し当てたというそのことの喜びに、沈んだ色調にも宝石の放つ光を認めるのだった。
 帰宅してすぐにステレオの前で文字通り端座して聴いた。およそ三十分後、第四楽章の最後の音がスピーカーの奥へ消えてCDが止まった時に初めてぼくはあ あ、終わったのか、と思った。ただそれだけだった。なるほど感情を揺すぶるメロディーだ。けれど、食べなれたいつもの甘いプリンだと思って口に入れたら思 いがけず歯ごたえのしっかりしたチーズだった――そんな風に感ぜられた。畢竟、ぼくが聴いたのはボロディンの曲というよりは膨大な言葉のない時間だったの だ。その「無意味」のあまりにぼくはCDに付いていた解説から作曲者の生涯についての知識を求めた。さらに次の日には大学の図書館に行って人名事典をめ くった。そうやってぼくはチーズをプリンと自らに思い込ませて詞のない音楽に対して詞を求め、自らそれを捏造しようとしていたのかもしれない。その手がか りとして音楽の外にある言葉を拾い集めていたのだ。

 公演の十一月二十四日までぼくは幾度となくそのCDを聴き続けた。当日、まだ扉の閉まっている講堂の前で試験直前の中学生のように、階段に座ってぼくは イヤホンでなおも聴いていた。開演の一時間前になって鍵が外される音がすると中から女の子が一人出てきて「お待たせしましたあ! どうぞ中へお入りくださ あい!」と言って、身長の二倍の高さはあるかと思われる扉を押し開けて固定した。その女の子が大野さんであることに気づくのにぼくは多少の時間を要した。 普段とちがう黒いドレス姿の彼女は、なるほどこれから舞台で楽器を奏でる身なのだ。
「もう、練習はばっちり?」
 というあわてたぼくの言葉に大野さんは、さあ、という風に首をかしげた。
「あの、ボロディンってのは……ほら、あのゼミでやってる十九世紀後半の国民主義的な時代なんだね。だから文学でドストエフスキーやツルゲーネフがやった ことを音楽でやった人ってことになるのかな」
 ぼくはもう少しでも長く大野さんと話したいと思ってそんなことを口走った。けれど、彼女は怪訝な顔をして
「あんまりそうのって私、わかんないや」
 と言った。彼女の方が全てを知っていて理解しているものと思っていたぼくには意外な答えだった。
「わ、かんないで弾いているの?」
「だってあの曲、とてもいいじゃない」
 その時、奥から誰かに呼ばれたので大野さんはじゃあ、と軽く手を上げて講堂の中へ消えた。ぼくもそれに続いて入って行った。
 彼女の「いい」という言葉はどこから来たのか? 曲だ。曲の外ではない。彼女は曲を聴いていいと言う。ぼくは曲の外を見ていい、はずだと言う。いいと言 うためにはだから、極論を言えば「ボロディン」という名前すら忘れてもよいのだ。詞も同じことだ。詞は曲の内にある。そもそもそれだって、メロディーの翻 訳ではない。大野さんの奏でる説明不可能の音に赤ん坊の耳を傾ければいい。不可能ならば説明はしない。プリンもチーズもまずは口に入れることだ。
 そう考えながらぼくは冷たい椅子に座って幕が開く瞬間をやっと心待ちにすることができた。
 もっとも大野さんが弾くからこそ、彼女がいいと言うからこそボロディンはいいのだという前提は結局手放すことができなかったのだけれど。

(おわり)

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