宛先不明 〜少年から淑女へ〜
ずいぶんと遠くまで来てし
まったと思う。そうは思わない? 君は時間というものを信じる? それとも、君は「道」という比喩が好きだったりするのかな。
――なんて、いくつも質問されたんじゃ答えられないね。
「ぼくは今日までたった一つのものを追い求めてきた」っていうせりふを言えるようにぼくは生きている。そういう人生は退屈だよ。相手が誰であれ、ぼくは
話し相手がいなければその存在は無なんだ。ぼくはこうして誰かになにかを伝えようとしている。まだ、言葉をおぼえたての少年のように、ただその衝動につき
動かされるままに助詞も主述のつながりもいいかげんに口を動かす。
いや、実際そうだった頃のことを、つまり君が小学生の時のことをおぼえている? 最初にぼくはこう問うべきだったのかもしれない。ぼくは、よくおぼえて
いる。でも、それを思い出させてくれるのはいつでも今という瞬間がぼくを刺激するからなんだ。それは時には重く冷たく容赦無い。その痛みはきみもよく知っ
ていると思う。
大変なことに気がついてしまったんだ。ぼくはたった一つのものを追い求めてきたんだ。そのことに気がついてしまったんだ。だからこうして前置きの長い手
紙をもう一度書く。そうなんだ、ぼくは前に一度君に手紙を書いたことがある。でもそのときはぼくはまだ言葉を知らなかった。だから他の人の言葉でなんとか
白い便箋を埋めたのを覚えている。自分の中の感情を言葉にすることがこれほど不自由なことだとは思わなかった。君はあの恥ずかしい恋文を読んだのだろう
か。それとも読まなかったのだろうか。でもこれ以上自分で自分の痛みを広げることはよそう。
ぼくは時々日の丸を振りながら皇居前広場に走って行きたくなる衝動に駆られる。実際靖国神社には何度か足を運んだ。けれどこれはメタファーなんだ。ぼく
はただ、一つのものを追いかけてきたに過ぎない。そのことのほうが重要なんだ。ぼくはぼくの空白を何かに、いやできれば誰かに託したいと思ってきた。その
ことを言っているんだ。
それでもぼくは努力して来たつもりだ。それは胸をはって言おう。あの頃よりもぼくは自分の感情に言葉を与えることに熟達した。でもそれがなんだと言うん
だ。もう君に会うことは無いだろう。だからぼくはこうしてここに宛先不明の恋文をつづることしかできない。いつか届けばいいと思う。それ以上のことはぼく
にはできない。きっとこれから先ぼくは言葉についてどんどんうまくなっていくだろう。それは、ぼくが君の知っているぼくではなくなっていくということだ。
それがいい方向へ行けばいいと思う。それとも、君はやっぱりあの頃のぼくだからこそ笑顔を見せてくれたのだろうか。
駅前は変わりません。まったく変わらない。北口はずいぶん変わってしまったけれど、南口は変わらない。それがせめてもの救いだ。街の変化は時間を隠蔽し
ながら時には強く主張してくる。不思議なものだ。ぼくたちは常に過去を塗り替えながら生きている。厚い油絵の具でどんどん塗り重ねて、あたかも過去が塗り
替えられたかのような顏をしている。でもそれこそが最大の欺瞞なんだと思う。こんもりと山のようになった絵の具は容易に剥がれ落ちる。そうするとまだ乾き
きっていない傷口が現れるんだ。今のぼくはちょうどそういう状態だ。どうせなら、街の全てが徹底的に破壊されて、そうしてまったく新しい街に生まれ変われ
ばいいのに、人間は少しずつしか動くことができない。ビニールシートで隠しながら少しずつ更新していくしかない。そんなゆっくりした変化なんて誰も変化と
思ってはくれない。ぼくたちはクリティカルポイントにしか目が行かないように仕組まれているんだ。DNAはそうやってぼくたちに命令するんだ。
でも、やっぱり過去は存在する。存在し続ける。心の中に。上からどんどん新しいちりが積もって地層になっていって、いつか忘れられると思っていたらそう
ではない。地層に押しつぶされて何億年か経つと過去はいつしか化石になる。そうなると急に化石は掘り起こして欲しがるんだ。化石は化石たる自分の価値を
知っているから。なんてことだ。そしてまたおろかな人間はやめておけばいいのに道具を買い揃えて(そういう道具は日常生活では使わないからな)うきうきし
ながら例えばぽかぽかと暖かい秋の日曜日の午後にうっかり化石を掘り出してしまう。よせばいいのに。今のぼくはちょうどそういうおろかな人間に含まれるの
だと思う。
でもいつだって治りかけのかさぶたをかきむしってしまうのは少年だ。ぼくはのおろかさは少年のおろかさだ。ガキのおろかさだ。ぼくは決して後悔しない。
ぼくはむしろガキであることを選びたい、単なる自己満足ではなくて。だから、結局ぼくが言いたいのは、ぼくはどうしてもあのときのぼくのままでしかいられ
ないということなんだ。だからぼくはいつまでも同じものを追いかけているのだと思う。やさしい大人は「それは一つの才能だと思う」と言う。そうじゃない、
そうすることしかできないんだ。こうしか、生きることができないんだ。そうでなかったからこんな手紙は書かない。
ずいぶんと遠くまで来てしまったと思う、あのときのぼくのまま。だから、本当のことを言えばぼくは自分の思っていることをまだちゃんと言葉にできていな
い。そこだけはくんで下さい。
04/12/04