あの頃なんて全然楽しくなかった 冒頭

 教育心理の授業が終わるとちょうど午後三時で、四時限目の国語教授法は休講の掲示が先週から出ていたからもう帰ってもよかった。でも今日は六時から写真部の飲み会がある。校舎から出た明子はそれまでの時間をどう過ごそうか考えるため、まずは一服しようと思う。
 教育学部のラウンジが禁煙になったおかげで、明子は図書館を挟んだ反対側にある文学部の喫煙場所、通称「非常階段」まで歩いていかなければならなかった。今度新しく変わった学部長が自ら「将来教職者たるべき学生をあずかる身として、学部内に喫煙所が存在することは到底認められるものではない」と息巻いて、一夜にして撤去してしまったらしい。彼自らあの重いドラム缶のような灰皿をハイエースに積み込むところを見たという者さえいた。あるいは「こういうファシズム的な対応しかできない学部長のいるところでまともな教師が育つわけ無いだろう?」と、ある老教授が言ったとか言わなかったとか。いずれにせよ、残念ながら彼は今年度末に最終講義を迎える予定である。確かなのは、同じ学内とはいえあまり見知った顔のいない場所を憩いの場所にするのはあまり気の進む話でないということくらいか。
 「非常階段」は文学部校舎の外側に設置されている、吹きさらしの屋外階段だ。三階と四階の間の踊り場に、小さな灰皿が置いてある。公式なものではなく、誰かが勝手に灰皿を据え付け、誰かが勝手に灰を落とし、誰かが勝手に掃除をしていく。もちろん雨の日は傘をささなければならない。
 授業の終わったあとの教官と学生たちが談笑している姿はよく見られる。椅子もないのでちょっとした雑談をするには都合が良い。入りやすく、出ていきやすい。柵として踊り場を囲っている鉄板には、今から見れば大時代なスローガンの書かれたペンキのあとが、錆びに紛れて黒ずんで残っている。政治の季節にはここで激論が交わされたのかもしれない。
 さて、明子はその喫煙場所に向かうべく、螺旋階段の地上の突端にまでやって来る。すると上から自分の名前を呼ぶ声を聞く。見上げると、同じ写真部のメンバーであった矢野が紫煙をくゆらせて柵から身を乗り出している。長くぼさぼさの髪の毛が垂れ下がって、いつも以上に浮浪者風情に見える。

〈続きは本誌にて〉


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。