エチュード幸福論(猫たちによる)冒頭

 片足の動かない猫を二匹飼っていた。
 彼女たちは一向に自分の名前を明かしてくれなかったから、「タルホ」「マホロ」とぼくが勝手に名付けた。もしかしたら猫同士で呼び合う、人間にはわからない名前があるのかもしれない。あるいは最初から名前なんて無かったのかもしれない。その方が文学的な効果をより多く持っていると言えそうだ。だからもしこの物語が小説として書かれるとしたら、思い切って名無しの猫の視点によって「吾輩は猫である。名前はまだ無い」などと始められることだろう──と、冗談はともかく。いずれにせよぼくの付けた新しい名前を彼女たちは特に抵抗もなく受け入れてくれた。すぐに気に入ってくれたようだった。ぼくたちの関係はまだ始まったばかりで、だからこそ新しい名前が必要だった。そんなふうに考えてみるのもいいだろう。
 二匹の猫はそれぞれにライフワークを持っていた。
 左手が動かないタルホは写真を撮ることに余念がなかった。
 一見するとずいぶん重そうなデジタル一眼レフカメラを器用に片手で持って、色々な角度に体を傾けては一日中家の中か庭先でシャッター音を響かせている。放っておけばけっこうな容量のあるメモリカードをすぐにいっぱいにしてしまう。彼女はパソコンを持っていなかったから、カメラの背面についている小さな液晶画面で撮ったものを確認しては時々ぼくのところに擦り寄ってきて、自分でよく撮れたと思う一枚を見せてくれる。ぼくはそれに対していくつかのコメントを述べる。そうすると彼女は非常に満足そうな笑みを浮かべ、その日の収穫をすべて消去してしまう。そしてまた新しい一日に備える。
「もったいない。ぼくの原稿書き用でよければパソコン、貸すけど?」
 ある時ぼくは申し出た。
「別にいいの。私は残すために写真を撮っているわけじゃないから」
 彼女はピンとひげを伸ばしてダイニングテーブルの上に座っていて、ぼくは畳に寝転がりながら本を読んでいた。
「外付けのハードディスクを買ってくればいいんだ。そこにどんどん貯めることができるし、あとで見返す楽しみもあるじゃない」
 ぼくはタルホなりに強がっているか気を遣いすぎているんじゃないかと思って、ページに視線を落としたままもう一押し言葉をかけてみる。けれど、返事がないので彼女の方を振り仰ぐと、一心不乱に自分の体をなめて毛づくろいをしていて、全然話を聞いていない。彼女の写真哲学がどこまで本当なのかはわからないけれど、とにかくシャッターを押しているその顔がいつでも真剣そのものであることは疑い得ない。
 一方で右手が動かないマホロはピアノを弾くことに情熱を燃やしていた。
 毎日午前中はアップライトピアノの前に座ることを彼女は日課としている。このピアノもタルホのカメラと同様、最初から当たり前のように彼女たちの持ち物としてこの家に存在していた。ピアノの上にはずいぶん色あせた楽譜が積んであって、中を見れば鉛筆の書き込みが沢山あった。
「小さい頃からやっているの?」
「もう十年くらい。でも弾きたい曲は沢山あるから、まだまだこれからよ」
 世の中にはぼくたちが思っている以上に左手だけで弾くことのできる、それもひとつの作品として演奏されるに足る曲が存在している。ラヴェルによる「左手のためのピアノ協奏曲」、プロコフィエフのピアノ協奏曲などは良いとしても(それにしたってずいぶん難曲なのだろうが)、ショパンのエチュードが左手のために編曲し直されたものもあった。
 それにしても猫の十年は人間で言えば四十年以上に当たるはずだ。実は彼女はもう結構な齢なのではないかといぶかしみながら、横になったそのお腹をさすってやる。気持よさそうにゴロゴロとのどを鳴らして甘えてくるのを見ていると、そんな歳には見えない。あまり深く考えないほうがいいかもしれない。

〈続きは本誌にて〉


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