ノブレス・オブリージュ

     ──すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される(ルカによる福音書)

     一  画家の出発

 いつかこの景色を描いて世の中の人々に伝えたい、と熊谷磨理は思った。
 卒業式の朝、彼女は学校の屋上にいた。まだ肌寒い春の風が彼女の長い髪を白い首に絡ませる。昨夜の雨で濡れたコンクリートが灰色のまだら模様を作っている。乾ききっていない浅い水たまりには空の青が映っている。その上を、磨理は赤い上履きでわざとらしく踏みつける。
 髪の毛を手で押さえながらゆっくりと突端の手すりまで歩いていく。あまり端の方まで行きすぎると、校庭でいまごろ紅白の横断幕を広げたり畳んだりしている要領の悪い阿部先生なんかに見つかってしまうな、と思いながらも彼女は常にそうしていたように、自分の背の高さの二倍もあろうかと思われる柵に両手でぶら下がる。金属の冷たい手触りが掌の内側に冷たく気持ちいい。体は熱い。彼女はそのまま顔を上げた。
 今、一番空に近い。
 磨理は高校三年の夏になってもいっこうに受験勉強というものをしていなかった。ましてや就職のことなど相談する相手に困るどころか、就職する必要なんてまだないと思っていた。迷っていた、というのはそういう自分の考えがあまりに周りの友達と違っていて誰にもわかってもらえなかったがために自信を持てなかった、ということだ。迷っている自分に自信を持つ、というのも変な話かもしれない。それが当たり前ででもあるかのように専門学校のパンフレットや分厚い大学案内、あるいは地元工場の、人の想像力を微塵だに刺激することのない求人案内──そういうものが教室のそこここに見え始めたとき、磨理は吐き気を催した。遅い生理のようだった。

 足を地面から放したまま上を見上げると、青空と、そして視界のずっと上の方にポールにはためく校旗がぱたぱたと音を立てながらひらめいているのが見えた。前髪は背中へ吹かれている。目が乾いてくる。こことも今日でお別れだ。そして夜にはこの街ともお別れだ。そう思って目をつぶる。遠くの空港から北へ飛び立つ飛行機の音が低く響いてくる。学校の周りを囲む杉林からかすかな花粉の匂いがただよってくる。おぼえておこう、灰色の制服に染みついたこの土地の色や音や匂いや光を。
 次に目を開けたとき、ポールの下からするすると日章旗が上がってくるのが目に入ってきた。まずい、人がいると思って柵から手を放して着地すると頭の上から声が聞こえた。
「おや、今日卒業式の生徒さんかい?」
 見れば、箱形の給水塔の上で用務員がするするとロープに手を上下させて旗を揚げている。
「コッカケイヨウの練習ですか?」
「国歌は斉唱、国旗は掲揚、ね。まあ、一年で一度の、私にとっても晴れ舞台だから」
 男は目を細めながら風にばたばたと音をさせながらはためいている大きな日章旗を見上げる。磨理もタンクの近くへ行くと、二つの旗を見上げた。
「卒業したらどうするね?」
「卒業したら?」
「ああ。大学か? それとも就職か?」
「どっちでもないかな」
「ええ?」
 男は信じられない、という声を上げる。
「それじゃ、おじさん。三年間、どうもありがとうございました。この学校のことは忘れないし、いつかそのことをおじさんも知ってくれる日が来るのを私は信じてる」
 磨理はそれだけ言い残すと、ぽかんとしている用務員を置いてさっさと校舎の中へと戻っていった。ばたん、と屋上の扉は風にあおられて強い音を立てた。
 階段を下りていくと、なじみの匂いが……と思えば踊り場でちょうど上へ上がってきた本田教諭と磨理は出会った。本田教諭は四十歳を少し越えた美術の教師で、いつでも油絵の具の匂いのする白衣──それも「白衣」と呼べるほど白くはなく、様々な色が飛び散っている代物だったが──を着て歩き回っていた。
「あら、熊谷さん。屋上にでも行っていたの? 卒業式の日に停学なんて聞いたことないわよ?」
「煙草なんて吸ってません!」
「アッハハ。それならいいけど。この学校の生徒だけはそういうことしないと私は信じてるからね」
「今時の高校生なんて学校で隠れてなんて吸いませんよ。駅でぷかぷかやってるの、見たことありません?」
「そうなの? 駅の方は私あまり行かないから見たことないけど」
「いや、こんな田舎の駅じゃなくて」
「知ってる? しういうのを見ると、教師って通報する義務があるらしいのよ。学校の中ならともかくねえ。なるべく見ないようにしているわ」
「だめ教師……」
 そんなことを言い合いながら二人は笑った。
「でも本当に、ありがとうございました」
「いいえ。私の方こそ、いろんなことにけしかけてしまったかもしれないわね」
「そんなこと、ありません。おかげで、進路も決めたし」
「進路? そういえば、熊谷さんって卒業したらどうするつもりなのか私、全然知らないわ」
「へへっ」
 磨理は舌を出すとだだだっと脱兎のごとく階段を駆け下りていく。
「熊谷さん!」
 階段の下まで降りると磨理は振り仰いで踊り場の本田を見上げる。天井近い窓から差し込む朝の光が本田の姿を真っ黒にしている。
「式が終わったら美術室まで来てくれる? あなたの作品、たくさん置きっぱなしだから」
「わかりました」
 磨理は軽く手を振り上げると、教室へそのまま走っていった。午前七時四十分。校舎はひっそり閑としている。足音を廊下中に響かせながら三年三組の教室にまでたどり着くと、その重い入り口の扉を開ける。電気がついておらず、朝日だけでちょっとだけ薄暗い教室。窓際の自分の席まで行くと、磨理は机の上にカバンを置く。そして大きな窓を開けた。
 ──卒業したらどうするの?
 みんなが私にそう聞いて来る。
 最後の夏休み、磨理はなにもしていなかった。ただ毎日きちんと制服を着て、お弁当を作って、学校の屋上に来ていた。彼女の横にはいつだって真っ白なスケッチブックが開きっぱなしになっていた。
 私には描くべきアクシデントもハプニングもなく、ただただ動かないリンゴやら花瓶やら会ったこともない古代ギリシャ人の石膏像をひたすら描いていた。それはただの形でしかなかった。磨理にはそれでは、足りなすぎた。正直に言えば、画は描けたのだ。描けと言われれば何でもそこそこ上手に描くことが彼女には出来ていた。
 そして、彼女は更級の少女のように物語を欲した。
 東京に行けばストーリーがごろごろ転がっていて、道を歩いているだけで自分の身にも降りかかってくるような気がしていた。あるいは、そう思うことでテーマもメッセージもない、ただの絵、純粋な絵、それを描き続けることの無意味さに抗っていた。
 考えることに疲れると、磨理は屋上でぼんやりと白紙を眺めたものだ。白紙は彼女にとって恐怖ではなかった。白紙は彼女にとって埋めるべきなにかではなかった。ときどき強い湿った風がふいて、そのページをバラバラとめくっていく。……

 窓を閉めて、磨理は登校してくる友達を待った。

「それじゃあ、最後の出席を取るぞ」
 そう言いながら担任が入ってきたのは八時三十五分。いつもは伸びきったセーターを着ているのに今日は礼服姿だ。手には箱いっぱいに入った胸章を持っている。化学繊維の赤が鮮やかに映る。
 明日からここに来ないということがまだ冗談のように思えて仕方がなかった。みんなはあえていつも通りを演じているのではない。明日からの環境の変化から目をそらそうと普通のふりをしているのではない。明日も明後日もここに来るような気がして、いつも通りにしか振る舞えないのだ。磨理はまだあと一年くらいはこの朝の眠たげな出欠確認が続くような気がした。やたら担任ばかり気張って「熊谷っ」と名前を呼んだ。

 式はなんということもなく終わった、というのが磨理の感想だった。泣いている友達もいた。中には明日から毎日、当たり前のように磨理に会えなくなるのが寂しいからと言ってくれる女の子もいた。でもそれは磨理にとっては少々演技じみていた。式を境にして誰もが現実にかっさらわれていく。
 みんなただ、泣きたいだけなんだ。
 そうだ、こんな感情もいつか描いてやりたいと思ったことがあったっけ。でも、感情なんて状況もなしにいきなり描くことなんて出来ないね。学校では抽象画なんて習わない。

 式が終わって、教室に戻ってだらだらしているのも性に合わなかったので磨理は挨拶が済むとすぐに美術室に行った。四階の教室から美術室のある一階まで駆け下りる。卒業式のあとの校舎はなんだかウェットだ。四階の空気が三階、二階と経るにしたがって乾いてくるのを磨理は心地よく感じた。
 カーテンの閉められた誰もいない美術室は机の上に椅子が上げられていて、一つの学期が終わりまた新しい年度が始まるのを待っているかのようだ。白いカーテンが透かしている光の白さが、少しだけ感傷的な気分にさせる。
 美術準備室は本田教諭の仕事部屋を兼ねているので彼女の好きなように出来る。入ってくる生徒の方もリラックスしやすいので、昼休みなどはここで過ごす者も少なくなかった。
「時間あるならコーヒーでも飲む?」
「あ、いただきます」
 本田は大きなアルミの袋からコーヒー粉をスプーンで取りだし、ペーパーフィルターの上へざっざっと入れていく。
「今日くらい早く帰ったらどうなの?」
「でも引き留めたのは先生ですよ。先生こそ、卒業式のあとの片付けとかしなくていいんですか?」
「それもそうねえ」
 苦笑しながら本田はお湯をゆっくりと注いでいく。香ばしい匂いが油絵の具の匂いと混じってただよった。
「はいこれ」
 磨理がコーヒーの一口目を口の中へ流し込んだとき、本田は備え付けの大きな棚の中からそれを取り出すと磨理に手渡した。
「え……?」
 磨理が渡されたのは厚いハードカバーで装丁された立派な画帳だった。紺色の表紙には「Eriko Kumagai WORKS」と金文字が押してある。磨理はそのくぼみをそっと指でなぞっみた。
「無断でやってしまうのもどうかなと思ったんだけど、あなたってあんまり自分の作品に──というか、描き終わっちゃったらあんまり執着ないでしょ? だから製本してあげた。あなたにとってはこれが卒業アルバムみたいなものになるかもしれないわね」
 開けば高校一年の夏に、県の美術展で入選を果たした見よう見まねの油絵による静物画に始まり、出版社主催の全国コンクールに出した水彩、画板の間に挟まっていたはずのたくさんのデッサンがきれいにプリントされていた。石膏像、植物、友達の顔。そのとき描いていた自分を取りまいていた季節の移ろいや放課後の教室の光や片手に持っていた菓子パンの味まで、その一枚一枚を見ていると磨理の脳裏に鮮やかによみがえる。
「あのね、どうせあなた、就職もなにも決めてないんでしょう? もしデザイン会社とか受けるんだったらね、こういう自分の作品をファイリングしたものを必ず持っていくのよ?」
 言い当てられた磨理は少しだけどきどきしながらも、お礼を何度も口にする。
「オリジナルは処分していただいてかまいません。この画帳があれば、私は特になにも要りません」
「そう言うと思ったわ。でも来年の生徒にお手本として使わせていただくわね」
 本田は教師として、一生徒の磨理を実に目をかけていた、と言えよう。彼女は手を伸ばし、磨理の頭をそっとなでる。ティーカップを手にしたままうつむいている磨理の肩は震えている。本田の顔は満足そうに微笑んでいる。

 美術室を出ると磨理はもう一度涙をぬぐった。その涙は本田がおそらくは感じていたものとは少しだけ違っていた。

 先生、本田先生、ごめんなさい。私は、本当は美術なんて興味がないのです。確かに私は本田先生の言うように絵が上手いのかもしれません。でも、私は油絵の具に匂いにまみれているよりもよりも、そのあと家に帰ってスクリーントーンを貼っている時の方がずっと幸せな時間だったのです。先生は私に画家になってほしかったんですか? 画家になろうとしてなれなかった自分と同じ苦労を教え子にもさせたいと思っているのですか? 私は本格的な油絵よりも水彩が好きでした。それは漫画に応用できたからです。だってほら、少女漫画の扉のページとかってすごききれいでしょ? あんなものが描けたらなあって、私はずっと思っていたのです。私にとっての理想はあの粗雑な紙で印刷された分厚い雑誌の中にあります。先生、私はそいつを取りに行きます。そいつを取りに東京へ行くんです。

 磨理は実際のところ、その種のコンクールで珍重される学生らしい健康さだとか爽やかさだとか、そういったもののうすら寒さを感じていた。むしろ彼女が心の翼を存分に延ばすことが出来たのは漫画だった。
 といって、彼女が最初から学生美術の世界に違和感を抱いていたわけではない。なによりも彼女は描くことが好きだった。一生描き続けたいと思っていた。ただ、その想いと現実との折り合いをつけるのが遅すぎた。

 あの最後の夏休み、彼女の油絵が県の高校生を対象とした美術コンクールで特選の入賞を果たし、文化センターに展示されることとなった。片道一時間半の道のりを、磨理は母親と一緒に見に行った。
 会場は最寄りのJRの駅からもタクシーでしか行けないくらい遠いところにあって、彼女の母親はしきりに帰りの交通費を残すとお昼ご飯にいくら使えるかを気にしていて、何度も指を折りながら計算をし続けていた。
 結局二人はタクシーを使わないで歩いていくことにした。日ざしは強く、風もなく、ただただ暑い。カバンに入れていたハンドタオルで何度顔をぬぐっても、後から後から汗の水滴があごの先までしたたってくる。母親だけは日傘を差して相変わらずなにやらぶつぶつと磨理には聞き取れない声でつぶやいていた。
 それでも、引率の教師にぞろぞろと連れられて同じように汗をふきながら会場までの長い道のりを歩いている中学生とおぼしき集団もあって、彼らの後ろをついて歩きながらであれば磨理もさほど惨めな思いにとらわれることはなかった。そのすぐ横を走る大通りを、幾台もの黒いタクシーがきっと冷房をがんがんに効かせながら走り抜いていっても、磨理はむしろ後ろを歩く母親の短い影が足元にまとわりつくことの方が気になった。
 道々、磨理は自分の街にないものをたくさん目にした。パチンコ屋の駐車場には自動車の群れが死んでいる。そのボンネットで目玉焼きが焼けそうなくらい、黒い車体ですら太陽の光をちらちらとこちらにはね返してくる。あるいは喫茶店のテラスでアイスコーヒーを飲む若い男女。整備された街路樹。街灯。民主党の選挙ポスター。前を行く集団がわいわい言って指さしているものは磨理にとっても目新しいものばかりだった。
 県の文化センターは大きな湖のそばにある。県立の美術館に併設されている、けれどそれよりは幾分か古びたくすんだ白い壁を持つ建物だ。「第二十三回××県高校生美術コンクール展」と筆書きされた横断幕がエントランスの上に掲げられている。その横には美術館で開催されている明治大正時代の水彩画展のパネルがきれいな色刷りで立てられている。
「暑いわね」
 もう何度目かわからない同じせりふを磨理の母は日傘を畳みながら言う。
「中は涼しいよ。ねえ、入り口で名前を書かなくちゃならないからちょっと待っててね」
 磨理はさすがに喜び勇む自分を抑えきれないでいた。いったいこの県に何人の高校生がいるのだろう。何枚の絵が、いくつの作品がここに届けられ選び抜かれたのだろう。放課後に街で唯一の郵便局へ本田教諭と作品を厳重に梱包して出しに行ったときのことを思い出す。あれから半年して、特選の通知をもらった。
 会場に入ると水を打ったような静けさで、そこここで自分の作品を見に来たらしい高校生のささやきの渦の中を人の足音がこだましている。
 磨理の作品は順路で言えばかなり最後の方にあった。他の作品は後で見ることにして磨理はかつて自分の絵が初めて張り出された場所をどんどん通り過ぎて「特選」の場所まで一直線に進む。
 あった。
 ある。
 高校の昇降口でいつも寝ている猫を囲んで談笑する男女、というのが磨理の油絵だった。人物画は油絵の題材としては難しい。何度も本田から言われながらも磨理はそのテーマに固執した。そしてここまでやってきた。
 後から追いついてきた母親が「そんなに早く歩かなくても……」と言いながら息を整えるのを磨理は背中に感じる。
「これなの?」
「うん。どう、……かな?」
「ふうん。まあ、私は絵はわからないけど、あんたが一生懸命描いたんならいいんじゃないの?」
 母親の感想はそれだけだった。
「ああそれより、こんな静かなところにいたら息がつまって仕方がないよ。外で煙草吸ってるから、あんたも適当に切り上げて出てきなさい」
 それでも磨理は満足だった。母親がここまでついてきてくれたというだけで磨理は満足だった。けれど、自分の作品に対しては正直なところいざこうして目の前にするとあらが目についた。もう少し明るい色調すれば良かった。もう少し色を重ねれば良かった。男の子の髪の毛が全然描けていない。努力して努力して、入選からランクアップしたという喜びはなかった。淡々と、ただ、物足りなさと直面していた。

 と、磨理の横にいた同じ年くらいの女の子がいきなりこんなことを言うのが聞こえてきた。
「お母さん、来年はやっぱり銅版画にする。油絵は授業でみんなやるから、学校単位で大量に出品してくるところがあるのよ」
 気づかれないように磨理はそっと横を見る。彼女とは違う高校の制服だった。同じブレザーだけど、襟の形がだいぶ違っている。彼女はストレートのきちんとした髪型をしていて、その目は磨理の油絵の二つ隣にかけられている彼女自身の作品に注がれている。
「そうすると出品料をたくさん払うことになるから、誰か一人でも賞をあげないといけなくなるのよ。私、そんなので賞をもらっても嬉しくない」
 一緒に来ていたらしい母親は困った顔をしているらしい。娘が突然言った本当か嘘かわからない「裏事情」になんと答えていいのかわからないのももっともだ。親子の間に会話は生まれる余地はなさそうだった。それは、磨理がよく知っている親子の間の溝とは似ていなかった。
 もしかしたらただ自分が入選してしまったことに照れているだけなのかもしれない。それを母親に上手く伝えることが出来ていないだけなのだ。そう考えれば彼女の子どもらしさに少しだけ微笑ましくもなる。でも本当に彼女はこういった高校生を対象とした美術コンクールのようなものに本気で腹を立てているのかもしれない──もしそれが本気で彼女の言うようにばかばかしいものであるならば、の話なのだけれど。
 磨理は急に白けた気持ちになった。自分の絵の前で「特選」と書かれたリボンが会場の照明を受けてきらきらと光っているのがとんでもなく無粋なものに見えてきた。特に後ろめたい事実はなかった。本田は確かに、磨理の絵だけを出品したのだ。受付で渡された目録にも自分の高校から出品している生徒の数は六名としか記載されていない。
「来年は、きっと私の実力を出すよ。来年、また来よう」
 そう言うとその親子はさっさと出口の方へと歩いていってしまう。磨理は二つのことを考えた。一つはあの親子の会話を母親に聞かれなくてすんでよかったこと。そしてもう一つは、磨理には来年というものが、無い、ということ。

 美術館の中のレストランで、磨理は母親とカレーを食べた。いつも家で食べるカレーとは違った。ご飯だけが盛られたプレートにカレーポットがついてくる。それだけでどこか遠い異国にまでやってきたような気分になった。母親もそれだけは共有していたのかもしれない。二人は普段なら絶対にしない将来の話をし始める。
「磨理は絵描きにでもなりたいの?」
「え?」
「いやね、この前の保護者会の後でさ、あんたのところの美術の先生に引き留められてね。それで磨理はぜひとも美術系かそれがかなわなくてもデザイン系の職に就かせるべきだって熱弁するのよ」
「本田先生?」
「だったかな。きったないかっこうした、いかにも画家崩れですって風采の人よ」
「本田先生だ。そんなこと言ってたの? 私にはなんにも言ってなかったよ、そんな、将来のことなんて」
 磨理は本田の言葉が、そしてそれが母親に伝えられたこと、そしてそのことを他でもない母親が話してくれたことが嬉しくて一瞬、舞い上がったような気持ちになる。
「でもあんたには高校行かせてやってるだけでも大変なんだから、もう少し実入りのいい職についてもらわなくちゃね。自分のやりたいことがあるんだったら、お金持ちのお婿さんを見つけてからにしないとねえ。あの先生、まあ、先生っていう職業柄もあるんだろうけど、あんまり現実的でないことばっかり言うからさ」
 母親の言葉に磨理は早くもこちら側に引き戻される。
 わかっている。お母さんが夜遅くまで働いて私を高校へ行かせてくれたこともわかっている。私はお父さんを欲しがらなかった。ただ商店街の中の小さな本屋さんでのアルバイト代でこつこつと学校で使う画材や家で使う漫画の道具を買い集めることが楽しかった。お母さんも私が毎朝学校へ行っていれば不機嫌になることも少なかった(だから夏休みもほとんど家にいなかったのだ)。
 でももし愛情がお金ならば、私がお母さんに返せる愛情っていうのはお金でしか受け取ってくれないってことなのかな。でもそれは卑屈な考え方だ。誰だってお金が欲しい。あくせく働くことにばかり生活を奪われて、一緒にご飯を食べる人はもう眠ってしまっているなんていやなものだ。私たちが元気でいつも上機嫌で、朝は起きて昼には学校や職場に出かけて夜には眠る生活をするためには、お金が必要なんだ。そしてそれ以上を望むのであれば──そう、たとえば一生好きな絵を描いていたい、とか。
 磨理はたくさんの言葉を飲み込み、おかげでカレーは最後まで食べきることができなかった。

 本田に別れを告げてから、磨理はまっすぐに靴箱へと向かった。まだそこここに別れを惜しんで立ち話をしている集団がいる。こういうときばかり男の子も女の子も急に仲良くなったりするんだよな、と磨理は思う。
 もう春の匂いが立ちこめる校庭に出たところで携帯電話が鳴る。見れば、母親からだった。磨理は少し迷ってから通話のボタンを押す。
「もしもし?」
「ああ、磨理? あんた、どこにいるのよ?」
「まだ教室にいるけど」
「どうするの、一緒に帰る? お母さん今体育館の前にいるんだけど」
「ううん、私まだ友達とおしゃべりしていたいから先に帰ってて」
「わかったわ。あんまり遅くならないうちに帰ってくるのよ」
 最後の母親の問いには答えぬまま磨理は携帯を切る。そして母親に追いつかれないうちにと足早に校門をくぐった。通用門である西門のすぐ脇に植えられている桜の木は三分咲きといったところだが、磨理はただその大樹の陰に顔を向けながら駅へと急いだ。
 必要な着替えや道具はもう何日も前から少しずつコインロッカーに運び込んであった。磨理は誰かに目撃されまいと挙動不審になりそうな自分を必死に抑えながら、そして一方では学校という場所から解放されてこれから遠いところへ出発するのだという喜びを噛みしめながら、制服から着替えるために大きな荷物を持って公衆トイレへと入っていく。
 大きな車体で小さな街の細い道を巡回してから高速道路に乗るその「東京駅行き」のバスを何度磨理は羨望のまなざしで見つめてきたことだろう。大きな荷物を持ってバス停でバスを待っている人たちをどんなにかうらやんだことだろう。片道二千円の切符がどんなにか可能性を秘めたものとして彼女の目に映ったことだろう。
 午前十一時二十分発。磨理の乗ったバスのエンジンがかかる。静かな振動が彼女を包み込む。ちらほらと制服姿の学生が駅の改札口に入っていくのも見え始めたので、ロータリーの端っこに位置する乗り場ながらも磨理は用心してカーテンを引く。そして、次の瞬間バスの扉が閉まり運転手が「東京駅行き、出発いたします」と無骨な声で案内放送をした。
 バスが動き出してしばらくしてから磨理はカーテンを開ける。見慣れた家並みが大型バスの高い座席から見下ろせる。磨理にはまだ実感が沸いてこなかった。ずいぶん長く前から決めていたことなのに、まだ冗談でこんなことをしているような気がしていた。ふわふわした気持ちをなんとか一つところに押しとどめようとするかのように、磨理は鞄に入りきらなかった本田のプレゼントを力強く握りしめる。
 今、小さく消えていく原子力発電所の建物をバスの窓から遠く眺める。刻々と高速道路のインターチェンジは近づいてくる。

     二 ある家族

 大学の中央食堂で東山圭史は同じフランス文学科の二人のクラスメイト、篠田有と日下部美佳と少し遅い昼食をとっていた。
 学部は春休みに入っていたがオープンキャンパスと称して高校生を対象とした大学入学案内のイベントが全学を上げてこの一週間開催されており、東京に在住する、あるいは田舎に帰っていない彼ら三人は手伝いにかり出されていた。
「しかし若いね、なんと言っても十代と二十代の差はでかい」
「そうだよね、三つくらいしか違わないのにあの熱気はすごい」
「マラルメに対してあんなにきらきら輝く瞳を向けているのは世界広しと言えどもさっきの模擬授業が瞬間最大風速だったな」
「言えてる。向坂先生もなんかいつもより声が大きかった。それよりなんであのタイミングで私を指名するのよねえ!」
 模擬授業で取り上げられた「サルトルによるマラルメ批評」はフランス文学科に籍を置く彼らにとってはなじみのものだった。フロイトに対してもマルクスに対しても懐疑的な態度を貫く向坂教授の噛んで含めるような口ぶりは次第にサルトル自身を離れ、十九世紀における両者の思想的解釈をめぐり、もはや学問の主流からは外れてしまった現代の受容のされ方との対比に移っていった。マラルメの詩など読んだこともなかろう高校生に対しても、容赦せず迎合せず授業は展開されていった。もっと基礎的なイントロダクションを期待していた三人は最後尾の席に並んでノートを取りながらあっけにとられた。しまいには「あそこにいるのが私の教えている学生です」と紹介され、美佳に至っては原典のフランス語による詩をその場で音読させられた。
「この前合格発表があったじゃない? 俺、サークルのビラ配りで行ったんだけどさ、やっぱり掲示板を見て大喜びしている制服のあいつらを見ているとなんだか心洗われるっていうかさ、原点に戻る感じがした」
 有が言う。美佳と圭史はうんうんと同意を込めてうなずきあう。
 三人は日当たりの良い午後二時の空いた食堂の窓際でそれぞれのAランチをそれぞれの速度で口に運ぶ。中央食堂と言うからに構内に学部毎にある食堂の中でももっとも広くメニューも充実している。文学部のある二号館からは一番近くに位置するため、文学部専用の食堂というのは無く外部の人間も含めていつでも人がごった返している。今日はそこここにオープンキャンパスに訪れた高校生の姿や引率だろうか、大学の教官には見られないような熱気にあふれた顔をしている教師らしき人物もいる。中にはこの大学の卒業生もいるのだろうか。
 一時を三十分も過ぎた時刻だったので、それなりに空いてきている。いくつかのグループは食器を片付けにお盆を持って出口へと向かい始めている。
「あ、そうだ、来週うちの叔父さんの出版記念パーティーがあるんだけどさ、よかったら来ない?」
 午前中の業務で気疲れしたあとの清涼剤にちょうどいい話題だと思って圭史は切り出した。
「ひがしの親父って、あの東山教授だっけ?」
 有がまず反応する。
「親父じゃない。親父の弟だ」
 圭史は訂正しながら彼に向かって箸で指す真似をする。
「あれ? それって公に語っていいことだったの?」
 その間に美佳が入ってくる。顔を見合わせていた男二人は同時に彼女の方へ首を回す。美佳は何か自分の言葉が場を刺激したのではないかと気を回すしかない。
「あっ、いや、東山先生の親戚が同じ大学にいるって聞いたことはあるんだけど。ひがし君の前でその話はタブーなのかなって勝手に思いこんでた」
「いや、ある意味タブーであることには間違いないよ。何せこいつはコネ入学──」
「違うって。ちゃんと試験受けて入ったよ」
 そう言いながら圭史の箸は今度は篠田の皿の上に伸びると、姜焼きの薄っぺらい豚肉の一切れをつまむ。そしてそのまま口の中に放り込んだ。「あっ」と篠田は声を上げる。
「まあ、そうだよね。ひがし君なんだかんだ言って頭いいし……あーあ、私もやっぱりアテネフランセ行こうかなあ。この前の仏検もだめっぽかったし」
「語学をダブルスクールするなんて贅沢だなあ。公認会計士とかにしときなよ」
「いやよ、お金数えるなんて」
 有に対して美佳は露骨にいやそうな顔をする。
「でもいいんじゃない? ぼくは次の夏休みまでには簿記を取る予定だよ」
 しかし圭史のその言葉に対しては二人は「は?」と声をそろえて驚きを示した。そしてその反応に対して圭史は一瞬、表情を曇らせる。それは明らかに口を滑らせてしまったことへの後悔のように読み取れた、もちろん目の前にいる二人にも。
「あれって商業科の高校生が勉強するものじゃないの?」
 ほとんど腫れ物をさわるかのように、それでいて突然の当惑を自分の中で処理しきれないといった体で有が言う。
「それは大きな偏見だよ。文学もいいけど、たまには純粋にロジックの世界にも没入してみたいんだ」
 わかったようなわからないような顔をしてから、美佳と有は出版記念パーティーの話へ戻ることにした。
 ところで圭史の叔父は彼の通う大学で西洋史学を教える準教授である。今年五十歳を迎えるが、少し白髪の交じった前髪をオールバックになでつけあごひげを伸ばした風采は目を引く。圭史と血がつながっていると聞けば誰もが驚くに違いない。専門はフランス史で、バブーフの思想とマルクス主義との比較を通じて現代の「平等主義神話」にまで言及した『護民官は機械仕掛けの平等を夢見るか?』が主著として知られる。授業はテキストを全く使わず、ぼやき老人のように現代の政治・社会問題に対して斜に構えたような皮肉を飛ばしながら訥々と進めていく。大教室であっても前列に座っている学生と意見交換しながら、時には潔く軌道修正もしていくスタイルは一部で熱狂的な「信者」も生んでいる。
「今回は戦後の少女マンガを総攬する画期的論考なんだってさ」
「あれ? あの人ってそういうサブカル的なことやる人だったっけ?」
「もともと好きみたいだけどね。そもそもあの人がフランス史に興味を持ったきっかけは『ベルサイユのばら』」
「あ、それ授業でも言ってた。あれを読むとフランス革命に対する理解度が試されるって」
「趣味が長じて、の典型なんだ」
 圭史はそれでも読ませてもらったゲラの内容をかいつまんで嬉しそうに二人に開陳する。曰く、そもそも少女マンガを語る上で木を見て森を見ずにならないためには広く少女文化の変遷をたどらなければならない。その絵画的表象の歴史的一現象として位置づけなければならない。瞳の描かれ方に代表される技巧や採用される題材の移り変わりをたどっても、その背後にある大きな文脈を取り逃がせば単なる独りよがりにしかならない。この論考でもっとも新しいのは山梨シルクセンターに端を発するサンリオ文化と、内藤ルネに関する学術的研究がおそらくは初めて試みられた点にある、云々。……
「それでパーティーはどこでやるの?」
「うん、まあ普通は出版記念だとどこかホテルの広間でも貸し切ってやるんだろうけど、今回もホームパーティー形式。基本的にあの人、親父と違って引きこもり体質なんだよ。人んちに出かけていくのは嫌がるんだけど自分の家に人を呼ぶのは大好きなんだ」
「そっか。ひがし君の家って新宿だっけ?」
「御苑のすぐ近く」
 千駄ヶ谷の東山家は御苑と神宮とにはさまれた地域にあり、高級住宅街というわけではないがほかの多くの学生たちが地方から出てきていたり東京都内でも区外の郊外から通っている中で、新宿に実家があるというのはある種の羨望を買うものだった。
「出版界のお偉方もたくさん来るんでしょ?」
「さあ、それはどうだろう。少なくとも書肆の社長さんは来るだろうけどね」
「わ、どうしよう。私も何か売り込んじゃおうかな」
「いいと思うよ。なんだったらぼくの方から話をしておいてもいいし」
 冗談のつもりで言った言葉を真に受ける圭史を見て美佳は一瞬信じられない、と言う顔をしたがすぐにげらげらと笑い出した。圭史はそんな彼女の様子を不思議そうに眺める。

 その日の午後も午前中と同じプログラムが繰り返された。広いキャンパス内の建物を案内して周りその中でも一番古くて広い教室で模擬授業を行い、心理学研究室の地味な実験を見てインド哲学研究室で古文書に触り最後に質疑応答。
 ある高校生はこんなことを聞いてくる。
「正直なところ、ぼくはまだどこの大学に入りたいというよりはどの学部に進むべきなのかを決めかねています。親には就職も考えて経済学部とか、そういうところに行けと言われるのですが、そのあたりは……どのようにお考えでしたか」
 圭史は質問に対して次のように答えた。
「よく言われるように、大学は学問をする場所であって就職予備校ではないと思います。今自分が一番やりたいこと、興味のあることに純粋になって、心の底の声を静かに、ゆっくりと聞いてみてください。今高校で勉強していることはきっとどの分野に行っても必要なことですから、あまり焦らなくてもいいと思います」
 全てが終わるともう辺りは暗くなっていた。
 圭史はラーメンでも食べに行かないかという有の誘いを断ってまっすぐ最寄りの地下鉄の駅に向かった。丸ノ内線で東京駅まで行くと二番出口から地上へ向かう。午後五時という時間のためか界隈から帰宅する会社員でごったがえしている。彼らの汗と化粧の匂いの中、階段を上りきる。そして前方に赤煉瓦の駅舎を眺めて、圭史は八重洲側のお店を選んだことを少し悔やんだ。まだ少し歩かなければ……。彼はうっすらとひたいにかいた汗をハンカチでぬぐう。
 タクシーの走り抜ける横断歩道を渡って丸の内北口までたどり着くと、そのまま八重洲へ抜ける駅舎内の通路へ入っていった。途中に焼酎を専門に売る酒屋がある。圭史は早足でいた歩を止め、店先に並んでいる大きさも色も様々な瓶を眺める。瓶の肩に掛かっている様々なタグやラベルのいろいろな文字が眼を楽しませる。いくつかのボトルを手にとって重さを確かめていると、中から若い店員が出てきた。
「何かお探しですか?」
「そうですね……、あそうだ、森伊蔵の小さいのありますか? 忘れちゃったんだけど、赤っぽいボトルのがおいしかったんですよね」
 店員は一度店の中に入っていき、レジスターの横にあるパソコンを叩く。どうやらそこに在庫の情報が逐一表示される仕組みになっているらしい。
「ええと、九十七年のが一本、九十六年のが三本残っていますねえ!」
 店の外に立っている圭史に向かって彼は言った。圭史はレジのところまで歩いていき、一本残っている九十七年ものに決めると包装を頼んだ。
「よくお飲みになるんですか?」
「今日は親父の誕生日なんで。たまにはいいかなと思って」
「そうですか。今ラッピングいたしますんでお待ちください」
 紺色のリボンを瓶の首に巻いてもらうと圭史はカードで支払いを済ませ、店を出る。再び八重洲口に向かって歩いていくと、左手の日本橋口方面からたくさんの人が歩いていてくるのが見えた。おのおのキャスターつきのキャリーバッグを引いていることからすれば、高速バスの到着と重なったのだろう。
 出張で出てきたスーツ姿の男達は一様に足早にJRの切符売り場のガラス扉を開けて中に入っていく。あのおばあさんは孫に会いにでも来たのだろうか、汗をふきながら駅構内の案内板を一心に見つめている。時間も時間だ。重い荷物をどこかに置いて早めの夕食にありつこうと中二階のキッチンストリートへと狭い階段を上がっていく人も多い。
 いずれにしてもそこは動線の交差する地点である。その中にあって圭史の視界に入ってきた一つめの異様さは、高校生くらいの女の子が大きな荷物を地面において呆然と立ちつくしている姿だった。そして二つめの異様さは彼女の顔が真っ赤で、明らかにそれは飲酒によるものであることが明らかに見て取れたことだった。まわりの大人達は怪訝そうな顔すら向けないでさっさと傍らを通り過ぎていく。
 圭史は急いではいたが気がかりで彼女の近くまでやってくると、声をかけてみた。
「そんなところに立ってると危ないですよ」
 彼は不躾かと思ったがこうしないと彼女は動かないだろうと考えて、足元にあった荷物に手をかけた。ずいぶん軽い。不意に伸ばされた腕にやっと気がついたところを見ると、圭史が最初に話しかけた言葉も自分に向かって発せられたことさえ彼女は認識していなかったのかもしれない。そして自分の荷物にかけられた手と、それからその手の持ち主をようやく認めると彼女は不信感よりもむしろ安堵の表情を隠さない。
「あの!」
「はい?」
 少女の場違いな大きな声に圭史は一瞬ひるむ。相手の顔をのぞき込むと、少しだけ酒臭さがただよって来てはいたがまなざしは真剣さそのものだ。圭史は人のこういう表情は好きである。
「出版社は、東京の出版社はどこにあるのでしょうか……」
「出版社、ですか?」
「はい……」
 そこでようやく圭史は彼女の手に大きな画帳がしっかりと握られているのを見る。手首に隠れて全部は見えないが「WORKS」という金文字だけは彼にも読むことができた。確かに大荷物ではあるが、彼女にとっては着替えや化粧道具よりもそのスケッチブックがなくてはならないもののように見える。しっかりと握っている手は絵を描く人間の手だった。その彼女が出版社を探している。圭史はおおかたの事情を理解する。
 とにかく彼は通路の端まで彼女を導くと、こう言った。
「今から行くつもりですか? もう暗いし、明日出直した方が編集者の迷惑にならないですよ。何せ彼らは日が暮れたら酒を飲むのに忙しいから」
「そうですか」
 マンガのようにがっくりと肩を落とす少女を前にして、圭史は何か力になれることはないかと考える。しかし彼にも時間がなかった。彼はジーンズの尻ポケットにねじ込んでいる財布を取り出すと、中から自分の名刺を一枚抜いてそれを彼女に差し出す。
「来週、出版社のパーティーがあるんです。来るつもりがあればここに連絡をください」
 そう言われて、相手は一瞬圭史の言葉を理解していないようだった。それも無理はない。あんなに遠い世界に思っていた世界への渡し船が急に目の前に、しかも向こうから勝手にやってきたのだ。その現実に頭がついて行っていないのだろう。
「い、いいんですか?」
 恐る恐る名刺を受け取ると食い入るようにしてにしてそこに印刷されている「東山圭史」という名前を見つめる。「××大学文学部フランス語フランス文学研究科所属」。
「いいもなにも、そのために東京まで来たんじゃないのかい?」
「それは──そうですけど」
「それよりきみ今酔っぱらっているのだったらどこでもいいから水を飲みなさい」
 どのような事情があったかは知らないが圭史は最初の違和感を払拭させなければ彼女を当座の間救うことにはならないと考え直した。この様子でこんなに人の集まる場所に突っ立っていることはとにかく危険なことだった。
「お金は持ってる? それから今夜帰る場所はあるの?」
 しかしながら圭史のその言葉に対して少女は打って変わって態度を一転させる。「あります!」とまた大声で言い捨ててばたばたと切符売り場のほうへ走っていってしまった。
 圭史は相手の激しい反応を目の当たりにしてあっけにとられる。まるでこれではいかがわしいことに誘っている中年の男か、さもなくば正義感に凝り固まった補導員(圭史にとってそれは空想上の動物のような存在ではあったが)とやらではないか。そしてまさか自分が物欲しげな顔をしていなかったかと、彼は両手で顔の筋肉を揉むのだった。

 八重洲北口から駅舎外のローターリーまで出ると、鉄鋼ビル前の長い横断歩道はちょうど青信号になったばかりで、圭史は思い切った斜め横断をやってのける。渡った先に目当てのゴルフショップがあるのだ。二つめの買い物。
 自動ドアをくぐると圭史はあらかじめ購入の予約していたゴルフクラブをカウンターで受け取った。名入り加工には一週間がかかった。さっそくヘッドに巻いてあった布を取り外すと、刻まれた「KEIZOU」の刻印を確かめる。銀色の刻印が店内の真っ白な蛍光灯の光を反射している。
「よく、出来てますね」
「普通に使っている分にはめったに剥げませんから。お誕生日かなにかですか?」
 レジを担当していた女性店員が、圭史の手に提げていた紙袋の中に熨斗紙つきの酒類瓶が見えたことも手伝ってかそう言う。
「ええ、親父の」
「親子でなさったり?」
「そうですね、月に一回は……親父のつきあい仲間とのコンペに参加したりしますよ」
 ちょうど同年代の店員だったので圭史はそれから少し饒舌になって、スコアの変遷などを語った。その間に店員は相手からクラブを受け取ると焼酎と同じように濃厚な紺色の包装紙でシックに包装をまとめ上げた。
「ありがとうございました!」
 圭史は細長い包装が突き出た大きな紙袋を受け取ると、店を出る。そして京葉線に乗るためにはもう一度丸の内側に出なければならないことに気がつくのだった。

 浦安鉄鋼団地には、高炉メーカー各社からの一次製品を部品メーカーなどに卸すためのサイズ加工や表面加工を施すコイルセンターが集結している。鉄鋼系商社も含め、その在庫を保管する倉庫が建ち並び、熱延コイルや冷延コイルを積載した重量級の牽引トラックが近くの浦安インターチェンジとの間をひっきりなしに往復する。道路の轍は車が通るたびに、深く深くえぐられていく。
 浦安駅で降りると圭史はタクシーを拾う。まだ午後七時ともあって東京ディズニーランドから帰る観光客たちの、あの魂を抜かれたような顔の群れとかち合うことはなかった。
 圭史は子どもの頃からあの群衆が苦手だった。家族や恋人でにぎわう駅前の声なき興奮状態が、小さい頃の彼にとっても、今の彼にとってもうらやましいという気持ちを抱かせるには遠いものではある。実際、彼は父や母に対して、身近な施設でありながら行ってみたいとせがむことはついぞなかった。それよりも彼は、ディズニーランド建設当初、ちょうどそれは圭史の生まれた時期と重なるが、この鉄鋼通りから何台ものトラックが鉄骨を乗せて造成地に繰り出していった様子を語る父親の興奮した様子を見ている方を好むのだった。
 彼にとって浦安という土地は父親の支配する街なのだ。
 タクシーは高級住宅街を抜ける。区画が変わったとき、四方は大小の鉄工所で占められる。日が暮れて明かりがともる駐車場をなおも荷役作業をする人員の黒い影がうごめく。碁盤目状に整備された中を進むことに運転手は慣れていないらしい。「東山パイプ・アンド・スチール」という社名を告げても、圭史は何度も道案内のために曲がる場所を指示しなければならなかった。父親の営む鋼材加工の会社は昭和四十三年に造成された第一次鉄鋼団地の中でもかつての海岸沿いに移転してきたため、後に埋め立てられた港地区も含めた鉄鋼団地のちょうど中央に位置する。今その場所に行くにはある程度の土地勘がなくてはままならないのも無理な話ではない。タクシーがこんなところまで入り込むことはあまり例のないことなのだろう。
 前方に目当ての看板が見えてくると圭史は車を止めた。
「こんな埋め立て地のど真ん中じゃあどうやって帰っていいかわかりませんな」
 タクシードライバーはおつりを返しながら本気とも取れそうな口調でぼやいた。
「何度か来ればそうでもないですよ。東京の人間はこういう碁盤目の中を走り回ることに慣れていないですからね」
「そうですか。このあたりは──このあたりっていうのは幕張のほうも含めてなんですがね、どうも埋立地区を走るのは苦手でして」
「おじさん、古くからの人?」
「そりゃあ、もう。ここが海だった頃から知っていますよ。だからどうも落ち着かなくてね。その頃の土地勘だけが身体に染みついちゃっているのか、走ってると水の上を走っているような気がしますよ」
 支払いを済ませて圭史は車を降りる。「ありがとうございました」という声が閉まるドアの向こう側に消えていき、Uターンをした黒い車体は再び闇の中へ消えていった。
 工場の敷地までやってくる。駐車場でトラックのタイヤに付いた泥を落としている何人かの社員に声をかけながら父親がまだ事務所にいることを知る。
「めずらしいね、ぼっちゃんが来るなんて。社長ならまだ二階にいるよ」
「ありがとう、遅くまでお疲れ様です」
 圭史はねぎらいの言葉をかけながら──それでも「ご苦労様」という言葉を決して使わないところが彼の彼たる所以なのだが──二階に直接つながる外の螺旋階段を上っていった。建物内に入って廊下の奥に社長室がある。社長室といってもいつもドアは開きっぱなしで、中からは煙草の匂いがうっすらとただよっている。
「重要書類がたくさんあるんだから、施錠しないとダメだよ」
 そう言いながら圭史は部屋に入っていく。父親である東山圭造はちょうどノートパソコンに向かっていつものように大きな打鍵音を部屋中に響かせながら書類を作っている様子だった。
「おお、圭史か。まったく、あいつらまーたクレームつけてきやがった。いよいよ北方製鉄からもコイル買おうか本気で検討しないとならなくなってきたな」
 圭造はひらひらと自動車メーカーからのクレーム通知書を圭史に対して示してみせる。
「でも、あんまりこっちで頑張り過ぎなくてもいいんじゃない? あくまでもうちは加工請負なんだから」
 そう言いながら圭史は応接用のソファーに座る。
「そうは言ってられないよ。信用第一だからな。隣を見てみろ、パイプのサイズが違うだけでうちとやってることはそう変わらないんだ。あれだ、寿司屋と一緒だ。寿司職人がネタの責任取らなくていいわけないだろう」
「じゃ、今日は寿司でも食べに行く?」
 そこで圭史は買ってきた焼酎を袋の中から取り出すと切り子細工の大きな灰皿の横にどっかと置いた。おっ、と言いながら圭造はデスクから立ち上がると応接テーブルのところまでやってきて息子の前に座った。
「誕生日おめでとう」
 圭史はもう一つのプレゼントも手渡す。圭造はさっそく包みをほどいて中から出てきたゴルフクラブを手にするともう立ち上がって構えると軽く振ってみる。よほど嬉しいのか満面の笑みだ。
「ありがとうなあ、圭史。おまえも上達したか? ユーティリティなんか使えんでいい、三番に慣れることだ。おまえは距離は出ないが正確さは抜群だ。三番を使いこなせるようになった無敵だぞ。今度また上野ベアリングとコンペがあるから参加するか?」
 圭史には、圭造があたかも普段慣れていない人の優しさに急に触れてしまったがために急激な上機嫌にさいなまれているように見えた。その笑顔は確かに自分がもたらしたものであり、その一点において彼は喜びを感じる。けれども急に饒舌になることは、彼の中ではさほど想定していない姿だった。そもそも、自分がこの部屋に一目でプレゼントとわかる包みを持って現れたときから父親の様子は浮ついているように感じられた。まさか自分の登場を待ち望んでいたのではあるまいか──とさえ、圭史は考えを及ばせる。。しかしそれ以前に、彼は言わなければならないことがあった。
「親父さ、たまには新宿に帰ってこいよ。今日くらい、母さんも料理用意して待ってるよ」
 その言葉を受けて父親は急に表情を険しくする。
「母さんはまたいつもの読書会の準備に大忙しだろう」
「でも、いいじゃないか、好きなことなんだから。やっぱりたまには帰ってきてよ。家族で食事でもしようよ、ファミレスでもいいし」
 圭史はもう立ち上がっていた。
「ファミリーレストランに行けばファミリーなのか?」
「そういう意味じゃなくて……」
 圭造はワイシャツの胸ポケットからくしゃくしゃになったハイライトを取り出すと火をつける。
「おまえになにがわかる? 俺が新宿に帰りたくない理由がわかるか? いや、おまえはわかっている。だからここに来たんだ。家で黙って待っていればいいものを、大学から一直線にここまで来たんだろう」
 それの一体何を非難されなければならないのか、圭史にはわからなかった。けれど自分は、本当はなんのためにここに来たのか。純粋に親父の誕生日を祝いたかったのか、それとも家に帰ってこいと言いに来る口実にしたのか。後者であるならば、あるいは父親にとって息子の行動が後者のようにとらえられてしまったのならば、その怒りも、理解しなければならない種類のものだ。
「親父が商売に一生懸命なのはわかる」
「いや、わかっていない。すっかり御苑のサロンがお気に入りのようだが、期限付きだ。大学なんかでいつまでも遊んでいられちゃ困る」
「それとこれとは別です。親父と叔父さんのメタファーにしないでください。ぼくは純粋にフランス文学を学びたかっただけで、経営のことなら独学でも──親父のことは小さい頃から見てきたし、この浦安の鉄の匂いの中でぼくも育ったんです」
 父親に対してあらたまった言葉遣いになることを歯がゆく思う。自分もまた感情の横溢をコントロールできなくなりそうになるのを感じる。
「とにかく卒業したらすぐにここの一階で電卓を叩いてもらう。そのつもりでいろ。筆一本で飯が食えないなら鉄を売れ、俺と同じようにな」
 圭造は最後の言葉を半ば独り言のようにつぶやく。圭史はそれに対しては答えることをしない。二人は立ちつくしたまま次に放つべき言葉を失う。失っても、探そうとする気持ちも無いのだった。

     三 最初の夜明け

 騒がしい声で磨理の目が覚めた。同時にいつの間にか自分が眠ってしまっていたことに気がつく。動こうとすると腰に痛みが走った。そして右足の感覚が完全に無くなっているのを感じる。ただでさえ狭い高速バスの車内で、足下に置いていた荷物でさらに無理な姿勢になっていたらしい。少し腰を浮かせて、それから腕を前に伸ばすと小さな空間でやっと伸びをした。
 と、何か手持ちぶさたな感覚に違和をおぼえる。ようやく血が通い始めた頭をめぐらせると、抱えていたポートフォリオが無くなっている。本田教諭にもらった、三年間の作品集。はっとして磨理は自分の周りをあたふたと見回し、足元に落としていないか顔を足の間につっこんだ。無い。見あたらない。
「あ、あの子、目が覚めたみたいよ」
 という声が後ろからしても、自分のことを言っているなどとわかるはずもない。磨理が青ざめながら頭を抱えていると、肩を叩かれた。
「ねえ、これ全部きみが描いたの?」
 真後ろの席から首が伸びてきて、ようやく磨理は眠りを覚ませた背後の騒がしさが自分をめぐるものであることに気づき始める。振り向けば声の主は大学生風の男で長い髪の毛を茶色く染め抜いている。彼は磨理の作品集の中の一ページ──それは学校の課題で近所の商店街を入念にスケッチしたものだった──を開いて指さしている。
「か、返してください」
「これって小津商店街でしょ? ほら、このパン屋さんわかる。私たちよく行ったよね」
 今度は男の後ろに座っていた短い髪の毛の女が話しかけてきた。磨理の後ろ、最後部座席までの三列を占める若い男女は同じグループで乗車しているらしかった。彼らは手に手に缶ビールを持っている。抱えていたポートフォリオを磨理が眠っている間に取り上げて、退屈しのぎに回覧していたらしかった。
「私、北高校出身だけど君も?」
「はい、そうです」
「そっかあ。じゃあもしかして本田先生にかわいがられた口?」
「知ってるんですか?」
「知ってるもなにも、私も美術部だったもん。君ほど上手くなかったけどね」
 故郷を捨てる覚悟で乗り込んだバスで本田を知る人物に、しかも自分と同じクラブに所属していたという「先輩」に出会ったことを磨理は必ずしも歓迎していなかった。そもそもあんな田舎で出身高校もなにもあったものではない。小津小学校、小津中学校、そして北高校のルート以外に選択肢など考えられないのだ。
 けれど一方で彼らが口々に自分の絵を褒めてくれていることに対しては感情がほころぶのを素直に感じる。そこには学校の教師に褒められるのとも高校生相手のコンクールで賞をもらうのとも違った快感があって、それは磨理には経験のない類のものだった。自分を全く知らない人間が、自分のことをなんの利害もなく評価してくれている、しかも良い方に。
「まあとりあえず君も飲みなって、ほら!」
 最初に話しかけてきた男が缶酎ハイを差し出してくる。
「やめなよお、まだ高校生でしょ?」
 しかし磨理はその越えに対してはきっぱりと言い放つ。
「いえ、もう卒業してきました」
 常磐自動車道を走るバスは水戸を少し過ぎていた。ここまで来ると福島と茨城の県境に位置する磨理の家からはだいぶ離れてきたという距離感が実感されてくるのか、いやそれ以上にもう学校にも家にも戻らないという自分の置かれた状況がいよいよ現実味を増してきたのだろう、磨理はほとんど自分でも信じられないくらいの剛胆さが身体の中で目覚めるのを感じた。
「……そっか、それならいいんじゃない?」
 磨理は手渡された缶のプルタブを引き上げると一息で飲めるだけの量を口に含む。炭酸と檸檬の果汁の酸味が口の中でぱちぱちとはじける。それを一気に飲み込む。アルコールの独特の臭気が鼻に抜ける。その飲みっぷりに後方の集団はわあっと歓声を上げた。

「それで? 東京には何をしに行くの? 春から大学生とか?」
 髪の短い「先輩」は名前を可依子とだけ紹介し「お蚕様じゃないよ」などとおそらくはもう何度も繰り返されてきただろう冗談まで言いながら磨理の隣に席を移してきた。一緒にいる男たちよりも磨理と話をしたがっているのがわかった。
「まあ……、そんなようなものですね」
 いきなり東京へ何をしに行くのかと問われても磨理にはまだそれを上手く説明する言葉がなかった。自分の中でははっきりしていても、それを上手く人にわかってもらう自信がなかった。
「そっかあ! どこの学校? 私、今黒澤デザイン研に通っているんだ。絵は下手だけど服飾系」
 もちろん黒澤デザイン研究所が美術系の専門学校でも屈指の難関校であるなどという知識は磨理にはない。
「そうですか……」
 つぶやきながら磨理はどう答えていいのか窮する。
「いや、あの、私は人に言うほどのものじゃないんで」
「そう? でも、絵、描くために行くんでしょう?」
「それは、そうです」
「そうだよね。服飾とかデザインって就職かかってるとさ、私みたいなのはどうしても出身校で少しでも箔をつけなきゃってイヤらしいこと考えちゃうんだけど──絵って実力主義……ん、いや、そうでもないのかな。別に他の人と技術を競うわけじゃないもんねえ」
 磨理はそれからも「そうですね」を繰り返す。実際、彼女にとっては自分の空っぽの空想を語るよりも東京の学校に通う相手の話を聞くことの方がずっと楽しいものだった。無理に話を引き出そうとしてこない可依子の口ぶりも気に入った。
「可依子さんたちはどんなグループなんですか? 東京へは何をしに?」
「こいつらはみんな地元の友達。今はみんな春休みだから東京に遊びに行こうってことで。私は実家でごろごろしていたかったんだけどね。東京のアパートで雑魚寝でもいいって言うから連れ出して来ちゃった」
「じゃあ、みなさん北高校……」
「高校行ってないヤツ、途中でやめちゃったヤツばっかり」
 そう言って可依子は笑った。磨理には自分の知らない世界を相手が知っているように見えた。お昼ご飯を誰と食べるかとか、内申点のための委員会争奪戦とか、誰それと誰それがつきあっているらしいとか、そういうものとは無縁のところで人間関係を築いているように見えた。
「可依子さんは、すごく、友達を大切にするタイプですね」
「どういうこと? 磨理ちゃんはそうじゃないの?」
「周りがみんな小学校からずっと変わらないから……一度友達作りに失敗しちゃうと後はそれがずっと続いちゃうんです。わかりますよね? そういうの。私、一番たくさん友達がいたのが小学生の時で、それから今までは減っていく一方で」
「誰か残らなかったの?」
「誰も」
「ほんとに?」
「変ですか?」
「変──ではないかもしれないけど……」
「私、一人でいることの方が好きなんです」
 そう言って磨理は今の言葉がまるで可依子が話しかけてきてくれたことを少しも喜んでいない意図にも取られてしまうことに気づく。
「あ──、ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃなかったんですけど」
「ううん、そういう時ってあるよ。たぶん絵を描くような子ならなおさらね。ま、飲も! 飲も!」
 可依子は後ろの席の男たちに行って次々とカラフルなお酒の缶を持ってこさせる。磨理は渡される缶のプルタブを引き上げては思わず出てしまったさっきの言葉を飲み込むようにしてアルコールを口の中へ流し込んでいった。

 次に目が覚めたのは肩を揺さぶられたからだった。ぼんやりとした視界の中に警察官が立っている……と、思ったけれど、違う、運転手だ、バスの運転手だ。
「東京駅、着きましたよ」
 そう言われてやっと磨理は二度目の眠りが浅く長かったことを思う。身体を起こして周りを見回すと非常灯だけがともった暗い車内には自分一人しか残っていない。さっきの酒盛り集団も姿を消している。
「すいません……降ります」
「このあと回送になりますので、忘れ物だけれは気をつけてくださいね」
 運転手はそう言うと帽子を持ち上げて蒸れた髪の毛をかき上げながら車の前方へ戻っていき、そのままバスの外へ出て行った。それを見送ってから隣の席に置かれてある作品集を手に取りぱらぱらと中身を確認する。そして立ち上がり、足元の荷物を引きずってバスを降りた。
 三方を高いビルに囲まれた東京駅日本橋口は高速バスの降り場を専門にしている。ここに降り立った大抵の人間は長旅の疲れを癒そうと飲み物でも買うのか、入り口近辺のコンビニエンスストアかカフェに吸い込まれていく。あるいは新幹線の発車時刻が迫っている者たちは小走りでそのままガラスの大きな扉の中へ。
 頭が痛む。まっすぐに歩けない。地理もなにもわからない。磨理は何度も立ち止まりながらロータリーの端から「東京駅」という大きな看板の掛かった駅ビルの入り口を目指して進んだ。
 人びとの姿は磨理の視界には入っても意識にまで登ってこない。彼女にとってはどこからやってくるのかわからないくらいたくさんの人間がすれ違っていき、あるいは追い抜いていく。それだけでなお酔いそうであった。空の暮色だけで時刻もわからない。
 ようやく構内に入っても身体は重くなるばかりだった。何度か深呼吸をする。意気揚々と出てきた割には慣れないアルコールに手を出したばかりにこんなていたらくだ──情けなさを感じながらも身体の内部をときどき駆け抜ける鈍痛が意識の働きをにぶくさせる。磨理の頭の中ではこれかになすべきことのリストが音を立ててめくり上げられていく。けれどその優劣をつけられず、ある一つの言葉にしがみつく。
「出版社……とにかく、出版社だ」
 しかしそれはどこに? なんと言って訪れればよいのか? そもそも渡すべき作品など無い。このポートフォリオでも持っていってマンガ描かせてくださいと泣きつくのか? 構内の蛍光灯が容赦なく照らしてくる。まぶしい。責められる。私の影をなくす。助けて。誰か助けて……
「そんなところに立ってると危ないですよ!」
 見知らぬ男が近づいてくる。ああ、また若い男か、酒屋の袋なんか提げている──そう思って警戒しながらも磨理はもうその場を去ることの方がわずらわしかった。
 しかし不思議なことに彼は見も知らぬ磨理に名刺まで渡し出版社のパーティーがあるから来いなどと言う。この人物の優しさがどういった類のものなのか磨理にはわからず、ただハイハイと受け流すしかなかった。
「──それから今夜帰る場所はあるの?」
 あ、そうか、そういうことか。疑わしきは罰すべし。磨理は荷物をひっつかむと最後の力を振り絞って走り出す。でもどこへ? とにかく人のいる方へ。
 かさばる荷物を引きずりながらでは遠くまで行くことは出来ない。磨理はいくつかの改札口をやり過ごし、あるいはその改札口へ向かう人と何度もぶつかりそうになりながら走り、走り、歩き、走り、とにかく進んだ。とうとう大丸を通り越し駅ビルの反対側から外に出て下りの高速バス乗り場の前まで来るとようやく彼女の足は歩くスピードに落ち着いた。目の前では磐城や水戸行きのバスがちょうど乗車を始めたところだった。乗客はほとんどいない。旅費を少しでも浮かせようとするサラリーマンが数人。
 今、このバスに乗って帰ればまだ間に合う。夜遅くになってしまうけど、卒業式のあと友達とカラオケにでも行っていたとでも言えばさすがのあの母親でも許してくれるだろう。
 今更ながら磨理はここまで来たことが勢いだけだったことを悟る。あれほど毎晩上京することについて考えていたのに、結局は思いつめていただけだったのかもしれない。いかにして誰にも見つからずに卒業式のあと東京行きのバスに乗り込むか、そこまでしか具体的な検討をしていなかった。持ち物を点検し、三日前から駅のコインロッカーを占有した。素早く着替える練習をし、バスのチケットも一ヶ月前に手に入れていた。
 今、バス乗り場を遠く囲むようにして建つ巨大なオフィスビル、駅ビルの中をごった返すあまりにも多くの見知らぬ人間、それが彼女の空想の世界ではなく実際に目の前に展開されるということに圧倒されていた。その興奮を、自分の未来が開かれていくわくわくした感覚なのかどうかも彼女はまだ決しかねている。
 こんなところに突っ立って振り払ってきたものへ吸い寄せられているようじゃダメだ。私はそいつを取りに来たんだ。絵の描ける私が結局満足な物語ひとつ描けなかったのは私自身の人生にドラマが無いからなんだ。私は私の最初のマンガを完成させるためにここまで来た。東京にたくさん転がっている物語に、出会いに来たんだ。よく目に焼き付けておけ、この大都会の一挙手一投足を。……
 磨理は傍らにあった自動販売機でペットボトルのお茶を買うとその横で鞄をお尻に敷いて座り込み、冷たいのどごしが体力を回復させるのをしばらく待つことにする。頭の中を整理する必要があった。東京で何をしたいのか、よりも今夜これからどうすべきかを決める必要があった。

 熊谷磨理の少女漫画への「転向」は学校美術への反感も一因ではあったがそれだけでは説明しきれない。元来あの分厚い漫画雑誌について言えば毎号買っては読み飽きても捨てずに取っておく読者の部類に入る。彼女の部屋の本棚には表紙がぼろぼろになった分厚い雑誌がきちんと並べられ、机の上にはそこから切り取った何枚かのページが無造作に重ねられ、ペン先を真っ黒にしたGペンがくしゃくしゃに丸められた反故の山に埋まっている。
 中でも彼女を夢中にさせた作品があった。水無瀬吟子による『陽のあたたまるまで』がそれだ。都内の高校で美術教師をしながら作品を発表しているこの作者の描く線は、少女漫画誌に掲載されていたことを除けばことごとくそのカテゴリーを超えていた。緻密な点描もあればトーンをほとんど使わずに洋服や風景の細部を描き出し、あるいは画面のパースペクティブは映画のワンカットのようであった。専業ではないので寡作の部類に入る。美術教師とその生徒との恋愛を描いた『陽のあたたまるまで』は作者の実体験なのではないかという一部のセンセーショナルな見方も手伝って話題となったものの、完結後は必ずしも毎号の連載を必要とされない雑誌に発表の場を移している。そのひとつひとつを磨理は追いかけた。そしてその一コマ一コマに感嘆し、描き写した。彼女にとっては大衆コミックの中の一冊というよりは一人の芸術家による絵画的表現であった。
 磨理は鞄の中から『陽のあたたまるまで』を取り出すとぱらぱらとページをめくる。生徒の男の子が入学式の日に美術室を訪れた最初の出会いの場面、美術部の無かったこの学校に「ぼく一人でいいから部員にしてください」と頼み込む、それから夏休みまでのさまざまな言葉のやりとり、美術教師が婚約者に別れを告げる場面、云々……ページをめくる速度は次第に速まる。そしてラストシーンでは最後の最後で拒絶された男子生徒が校舎の屋上に向かう。
 そして奥付のページに発行所である常葉出版社の所在地が印刷されているのが目に入ってきた。
「新宿区、戸山三丁目……」
 そうだ、とりあえずここに行ってみようと彼女は何の脈絡もないままに決意する。とにかく一つ所にとどまっているよりは歩いてでも動いた方がいい。新宿区ならば新宿駅まで行けば何とかなるだろう。彼女は立ち上がり、コミックを鞄にしまうと再び駅の構内へと入っていった。

 切符を買ってから、八重洲側からは一番奥まったところにある中央線のホームにたどり着くまでに磨理は二十分もかかった。長いエスカレーターを登ってようやくオレンジ色の電車に乗り込むと、帰宅ラッシュの時間ともあって発車のベルが鳴り終わってもあとからあとから乗ってくる乗客に押されてほとんど身動きの取れない状態だった。迷惑気な顔を周りにされながらも磨理は必死に片方の手でポートフォリオを抱き、片方の手でスーツケースの取っ手を握りしめる。
 神田、お茶の水と停車駅に着くたびに磨理は人の波に流されてホームに押し出されてはまた何とか車内に戻るのを繰り返す。次第にそれにも慣れてくるともう列車は新宿駅に到着していた。今度はホームに出てから各改札口へ動いていく人の波が読めず、何度も人にぶつかり追いやられ、時には露骨に舌打ちをされながらもエスカレーターを登り南口の改札を出ることに成功した。へとへとになりながら見たこともないくらい大きな横断歩道を渡る。そしてサザンテラスの石畳を踏む頃には、酒の酔いも何とか治まっていたものの人酔いでどこかに座って休まなければならなかった。それでもここまで来れたという実感は磨理を幸福にさせた。
 ベンチは無かったが人びとは歩道の脇に並んでいる植え込みの花壇の縁に三々五々座っておしゃべりをしたり携帯電話の画面に見入っている。磨理もそれにならって空いているところを見つけると腰をかけた。
 携帯電話を開いて時計を見ると午後七時をちょうど回ったところだ。着信履歴はない。メールが一通。見れば母親からだった。
『電話しても出ないと思ったのでメールだけ入れておきます。学校を卒業した磨理にはもうがみがみ言うつもりはないけれど、いつ帰るかぐらいは連絡を寄こしなさい』
 普段からすればそれでも長い文面だった。心配しているのか突き放しているのか相変わらずよくわからない。磨理はそのメールにどんな返信が出来るのか考えてみる。けれど浮かんでくるのものはなにもなかった。
 だって私は、明日から学校に行かない。みんな新しいアルバイトや新しい学校や新しい会社に行くのに、私は明日から行くところがない。そんなの、お母さんは許さないと思う。磨理は母親の心情を先回りして読みながら自分の存在が自分を苦しめる未来を思い描いていた。思い描いていた、というよりは、それが強迫観念のように頭から離れてくれなかった。ただでさえ父親がいないところに、漫画を描きたいなどという子どもを遊ばせておく余裕はない。
 けれど彼女の母親はついに高校生である娘に対して「アルバイトでもして学費くらい稼いでほしい」といった類のことを言うことはなかった。家計簿も彼女の見えないところでつけていたし、家にどれくらいのお金があるかなどということは決して明かさなかった。だから磨理は、自分で稼いだアルバイト代はまるまる画材に充てることが出来ていた。そのことはありがたいとは思っていた。けれどお小遣いで好きなものを買わせてくれる同級生と机を並べていると、何が普通なのかわからなかった。
 アルバイトと言っても高校生がやりたがるファーストフードだとか喫茶店などというものが充分にあるわけではない小さな街で、普通免許も持っていない人間がやれることと言えば近所の農作業を手伝うか仲店のオーナーのつてで雇ってもらうかしかない。磨理は唯一のショッピングセンターの中にある書籍と事務用品を売る店でレジを三年間勤め上げ、仕入れ値で油絵の具やトーンを買うことができていた。そんなものを買うのは磨理だけだった。
 画面に並んだ母親からのメールをじっと眺めながら、磨理はそんな生活を思い返す。本屋の閉まる七時までお店に立ち、それから家に帰ると毎週水曜日は母親も早く仕事が終わって台所に立っていた。「ただいま」と言っても、機嫌が悪ければなにも返ってこない。けれどまな板を叩く庖丁の音は静かな部屋の中で家族を感じさせた。磨理がキッチンテーブルの上で宿題をしていると、それが古文であるときに限って母親は教科書を取り上げてぶつぶつとそこに書かれてある千年前の文章を読んでいた。「わかるの?」と磨理が聞けば「わかるわけないでしょ」とぶっきらぼうに答えた。
 離れる、ということはごくごく単純な出来事で、比喩でも何でもないんだ、と磨理は思った。二百キロメートルは、時間と労力をかけなければもう埋められない。携帯電話でメールを送るようには簡単に帰ることなど出来ない。それは当たり前のようでいて新鮮な感覚だった。誰も私を知らない。目の前の遊歩道を行く人びとは、誰も私を知らない。あの町で駅前なんかで座っていたら、来る人来る人みんな知っている人間ばかりだったのに、ここにいるとそっちの方が普通でないようにも思えてくる。
 ここはなにかをゼロから始めるにはふさわしい場所だ。磨理にはそんな風に感じられた。
『お母さん、ごめんなさい。私は今、とっても遠くにいます。お金のことも含めて、自分の力で生きていきたいのです。生きていかなければならない年齢なのだと思います。私が一人前になったらちゃんと帰ります。私は帰るつもりでいます。でも今は』
 とまで書いて、指が止まる。
 ──今は?
 磨理は視線を上げる。下を走る線路をはさんだ彼岸には新宿高島屋の大きな建物がそびえる。それから同じくらい大きな紀伊國屋書店の建物。此岸にはオープンテラスの喫茶店が並び、ドーナツ屋にはたくさんの人が並んでいる。
 磨理は送信ボタンを押さずに携帯電話を閉じると立ち上がる。休息は充分だった。足取りは軽くなっていた。

 目指した戸山三丁目はJRの駅で言えば新宿よりもむしろ一駅北に上った新大久保の方が最寄りだった。そして彼女が出た南口は彼女が本当に戸山三丁目に行く気があるのであれば、全く反対側の出口であった。
 磨理はそれから三時間の間、代々木の町を歩き続けた。サザンテラスを降りて小田急線の踏切を渡り、それから御苑方面へ。首都高四号線の高架下を行く。駅前を少しでも外れると人通りが絶え、そのことに不安になるとまた大きな道に戻るのを彼女は繰り返した。そのうち出版社のことなどどうでもよくなっていった。一歩一歩足を動かしているということ、電車と車の轟音を身近に感じながらアスファルトの上を歩くことがむしろ磨理には楽しい散歩になっていった。
 ここでの一歩の歩みが田舎のあぜ道の百倍も千倍もの価値を持つように感じる。建物の密度が違う。密度が違えば速度も違った。
 それでも夜が更けていくにつれて大通りにも人の数は少なくなってくる。駅の方へものすごい早足で去っていくか、タクシーを捕まえてさっさと乗り込んで行ってしまう。
 それは、新宿という街が昼の生活から夜の生活へ突入する一瞬の凪。

 足が棒のようになってきて代々木駅前のコンビニに入った。時間を潰そうと思った。今夜くらい夜通しこのあたりで過ごしても問題ないだろう。これから暖かくなってくるし、いざとなればどこかのファミレスで夜を明かせばいい。ビジネスホテルなんて泊まったらお金がいくらあっても足りない。
 幾分か平常心が戻ってきていた。なるようにしかならないし、これまでもなんとかなってきた──よみがえってきた生来の剛胆さが新しい街に飛び込んだ不安な気持ちを少しずつ中和していく。まったく、お酒を飲んだだけであんなにしょげかえってしまうなんて、どうかしていた。可依子さんはまあ、話せる人だったけど、あの人だってお酒がないとあんな風にいい人ぶることも出来ないのかもしれない。あの場にいたみんなそうだ。
 雑誌のコーナーに立つと、他に見たいものもないので賃貸情報誌を手に取った。バスに乗る前に口座から下ろしてきた全財産は二〇万円を少し越えるくらい。とにかく落ち着いて絵を描く環境を一刻も早く見つけること。そのためにはアルバイトも必要だ。ページをめくって都内の家賃の高さに驚きながら、あるいは驚いている自分に対して「こんなこと、最初からわかっていたじゃん」などと言い聞かせる。とにかく明日、日が昇ったら不動産屋を回らなくちゃ。磨理は掲載されている室内の写真にため息をつきながら、すぐその下に示された月九万円の数字にも違う意味のため息をつく。
「お客さん、荷物じゃまだよ」
 店員に背後から言われて、そして磨理としては通路にはみ出さないように気をつけて置いていたつもりだったのでこれは「なにも買わないなら出ていけ」という意味だなと思った。彼女は仕方なくおにぎりと水を買ってそのコンビニを後にした。そして違う別のコンビニを探しながら昼からなにも入れていなかった胃の中に米粒を押し込んでいく。
 二件目のコンビニに入ると雑誌コーナーには先客があった。自分と同じように大きなキャリーバックを床に置いて漫画雑誌を読んでいる。それも、ラックに立ててある週刊雑誌ではなくてラックの下に平積みされた例の分厚い少女漫画誌だ。白いティーシャツにデニムをはいて、気持ち悪いほど自分と同じ格好をした女の子だ。避けるわけにもいかない。一旦店内に入ってしまったからには一時間はねばろう。この近辺のコンビニを各店舗一時間ずつ立ち読みしていればなんとか夜明けまで暇をつぶせるだろう。磨理はその横に立ってファッション誌を読み始める。
「お客さん」
 一時間経てば声がする。
「買わないなら出てって」
 今度はだいぶ露骨だ。
 店員は私と横にいた女の子の間から顔を出して、売れ残った古い号の雑誌をラックからこなれた手つきで抜いていくと、床に置いた新しい雑誌の束を開梱して空いたスペースに次々と差し込んでいく。その手がどんどん二人立っている前にも伸びてくる。
 磨理は再び自動ドアから外へ出る。見上げた空はまだ暗い。そびえるビルの輪郭線も溶けてしまうほどの闇。人足は文字通り絶えている。いずれにせよまっとうな人間ならば屋根のある場所にいる時間だ。タクシーが一台、ハザードを点滅させながら止まっている。電車が動いていなければ駅前だって閑散としたものだ。そんな中こうこうと明かりをともしているのは二四時間営業の牛丼屋とコンビニエンスストアだけだ。
「こういうのは、どこも変わんないんだな」
 地元の夜のたまり場を思い出しながら磨理は次に入るべき扉を探す。大通りに面している店舗は一度入っていた。仕方なく代々木駅から千駄ヶ谷方面に向かって歩く。新宿は背中に遠くなるばかりだ。
 首都高の高架沿いにはコンビニが見つからず、住宅街の中に入っていくとようやく遠くに見慣れた三色の屋根模様が輝いているのがあった。ほっと一安心してごろごろとキャリーを住宅地の良く響く外壁にこだまさせながら歩いていくと、反対側からもそのごごろという音が近づいてくる。変な反響だなと思いながらも歩いていくと、それは自分のキャリーではなくてさっき隣にいた女の子だった。あまりのタイミングに二人は互いを見合って「あっ」と声を上げる。それから相手はくすくすと笑い出す。磨理もつられて口元がほころぶ。
「さっきも会いましたね」
 磨理が言う。
「あなたも、宿無し?」
 相手が答える。
「うん、そう」
「お腹空かない?」
「空いた」
 すごく久しぶりに誰かと話をしているように気がする。初めて話すのに、なんだか昔の友達にばったり会ったみたいだ。
「なんかあったかいもの買ってここで食べようよ」
 相手はキャリーバックを店の前の小さな駐輪スペースに置く。磨理もまたその横に自分の鞄を引き寄せて並べた。それから二人は店の中に入ってカップ入りの春雨スープを買い、お湯を入れてもらった。再び店の外に出て座り込む。温かいね、おいしいね、などと言い合いながらフォークで麺をすくっていると、ここが東京のど真ん中であることなど忘れてしまう。
「あなたは? どうしてここにいるの?」
 頃合いを見計らって磨理は声をかけてみる。
「他に行くところがない」
「それはわかる」
「そういうあなたは?」
「私は、──なんというか勢いで。卒業式が終わってバスに飛び乗って来ちゃった。東京で絵を描きたくて」
「どこから来たの?」
「茨城、と言ってもほとんど福島」
「そっか、夢が、あるんだね。私みたいにならないように気をつけて」
「あなたみたいって?」
「派遣の仕事やってて──って言っても工場だけどね。シュレッダーをひたすら作るの。でも怪我しちゃって」
 そう言いながら彼女は足首に巻かれた包帯を指さす。歩き方は確かにぎこちなかった。言われればそう気がつく。でも、言われなければ気がつかないほどだ。
「使い物にならないから寮を追い出されちゃって。私も家出娘だから帰れなくて」
「今はどうしているの?」
「今も働いてるよ」
「いや、あの……、寝るところとか」
「まあ漫画喫茶が多いかな。狭い所って好きじゃないからファミレスも使うけど仕事が朝早ければそれまではこうやってコンビニで時間潰すしかないね」
「そう、ですか──」
「アハハ、そんな暗い顔しないでよー。いつまでもこんな生活続けるつもりはないって。お金が貯まって部屋を見つけられるまで」
 その話を聞きながら磨理は自分も全く同じ境遇になりかねない危険をひしひしと感じる。彼女と私と、一体なにが違うのか。なにも違わない。二〇万円で足りるのだろうか? ふらふらして食いつぶす前にはやく部屋を見つけなくちゃいけない。
 と、中からレジに立っていた店員が店の外に出てきて二人にポッキーの箱を放る。落としそうになりながらなんとかキャッチする。
「差し入れ」
「え?」
「女の子二人でそんなところいちゃ、危ないでしょ」
 そう言いながら若いアルバイトの店員は胸ポケットからしわくちゃになった煙草のパッケージを取り出すと一本抜いて火を付けた。
「なんてね。深夜のコンビのバイトって暇だから。この時間だと日が昇るまではお客なんて来ないよ」
 時間をもてあました三人が深夜のコンビの前で向かい合う。磨理はこれこそ物語の始まりみたいだ、と思う。私を知らない人が目の前にいて私に向かって口を動かす。そんな経験は本当に久しぶりで、出会いってこういうものだったんじゃないかなと磨理は久しく忘れていた感情が胸の底から沸々とわき上がるのを感じる。
 誰もが何者でもなかった。磨理は漫画家でも画家でもなかった。アルバイトの男の子は二浪中の予備校生だった。派遣の女の子は小さな声で「本当は好きな男の子がいたんだけどね」と言う。三人はだからこそ空が青みがかるまで話をした。
 昇ってきた日の光がビルの間から差し込んだとき、車座になった三人は一瞬黙り込んで彼方を見やる。立方体のこちら側は真っ黒なのに、東側の壁面が桃色に輝いている。磨理はもう少しでその目から涙を流しそうなほど都会の美しさを感じた。

     四 パーティーが始まる

「初版が刷り上がりましたので、著者贈呈分として持って参りました」
 西洋史学科の研究室に珍しくスーツ姿の女性の姿があった。
「ああ、どうもわざわざありがとう。どうぞ、本ばかりでせまっくるしいですがお掛けになってください──コーヒーでよろしいですか?」
 準教授である東山幸弘はそう言いながら腰をかがめると備え付けの食器棚をがらがらと開けた。
「あ、すみません。どうぞお構いなく」
 狭い研究室には三人の教官が所属している。天井にまで届く本棚によって部屋を四分割し三人それぞれのデスクスペースを確保すると入り口に一番近い一区画を応接室と称して学生に開放している。あの狭い出入り口から一体どうやって搬入したのかと思わせるほど大きな木の机の周りに椅子が並べられている。彼女の通されたのはそこだ。
 大抵は暇をもてあました学部生が書籍検索用の端末を叩いたり「史学雑誌」のバックナンバーをあさっていたりするのだが、春休みの今は隣室で静かに書き物をするロシア史専攻の教授がページをめくる音だけがする。
 コーヒーカップを二つ持って席に着くと、幸弘は編集長が机の上に置いた常葉出版の大きな紙袋の中から刷り上がったばかりの自分の本を取り出してその表紙をじっくりと時間をかけて眺める。『誰もが女の子だった──戦後少女漫画史の試み』。正直なところ、この題名は彼の気に入っていない。目の前の編集長に土壇場になって変更を余儀なくさせられたからだ。硬質な学術書の時ほど「○○の○○における諸問題」だとか「○○試論」といったおあつらえ向きの題名を嫌がる一方で、一般読者向けの新書などでは思いっきり学術書めいた題名を好むこの男の習性を、編集サイドはよくわかっているらしかった。幸弘が出していた案は『〈少女文化〉のトポロジー』だった。そのことを除けば、装丁も組版もカバーの紙質も申し分がない。
「池袋の三省堂では水無瀬吟子の『陽のあたたまるまで』が映画化されるプロモーションの一貫として、アート系の少女漫画を集めた書棚を来月から一ヶ月間設けます。版元としてはそこにもこの本を一緒に置いてもらうことにしています。きっと食いつきもいいと思いますよ。最近は少女漫画の読者も多様化してていますから」
「大学の生協じゃあ、マンガはあまり置いてないから、今の若い人達がどんなものをおもしろがるのかなかなかわからないんですよね」
「それがわかったら、出版社は苦労しませんよ」
 編集長はそう言って笑う。大口を開けない上品な笑い方だ。幸弘はそういうのをずいぶん久しぶりに見る気がした。
「『陽のあたたまるまで』は私も知っています。うちの甥が大学生なんですけどね、彼も私んところ来ては珍しく手放しで褒めるんですよ」
「嬉しい限りです。それから先生、水無瀬さんも今度のパーティーには来ていただくことになっていますので。──正直なところ、そういうフォーマルな場所には向いていない方ではあるんですけど……引っ張ってでもつれてきますから。いろいろとお話しされるといいと思いますよ」
「そうですか、それは楽しみだ」
 幸弘はそう言って目を細める。
「それでは先生、申し訳ないのですけれど私、もう行かなければなりませんので。コーヒー、ありがとうございました」
 立ち上がる編集長を研究室の出口まで見送る。
「お忙しいところ、こちらこそありがとうございました」
 ハイヒールの音が古い校舎の廊下に響き渡る。後ろ姿は階段に続く角を曲がって消える。それを下りきってやがて靴音が聞こえなくなると、幸弘はたてつけのひどく悪い扉を途中まで閉めて共用スペースまで戻ってくる。すると、隣の部屋にいたもう一人の教官が新しいコーヒーを入れるためか、自分のカップを片手にのっそりと姿を現した。
「先生もついに色物に手を出しましたか」
 教授の肩書きを持つその男は長く伸ばしたあごひげをもう一方の手で揉みながら言う。その目は机の上の本の山を決して見ようとしない。
「柳原先生だって、最近フリーメイソンでしょ? 学会の流行に乗るのも充分色物だと思いますよ」
「いや、皮肉を言ったんじゃないんです。あなたくらいの時はいろいろと手を広げたくなる。私もそうだったんです」
「ああ、その話でしたら前にもうかがいましたので。今回のこれは」
 と、幸弘は本を手に取る。
「あくまでも一般書です」
「余技、とでも?」
「余技にしちゃ、力入れすぎましたかね。でもこれだって立派な歴史ですよ」
「ええ、わかっています。ただ、私はどうも女の編集というのは信用できなくて」
「その話も前に伺いました。でもあの人は、一生懸命やってくれてますよ」
 柳原がまだ三十代の頃、ある新興の出版社から当時大流行していた浅田彰『構造と力』の類似本を出そうという企画が持ち込まれた。大学人としてのキャリアの見通しが全く立っていなかった柳原は話を持ちかけてきた編集者の女性がえらく好みのタイプだったこともあって二つ返事でそれを引き受けた。結果、新聞でも酷評されたあげく売り上げも伸びなかったことからかその出版社はつぶれ、在庫を引き取らされる羽目になった──という話を西洋史学科の教官たちは飲み会のたび毎に聞かされている。
「その……『陽のあたたまるまで』、ですか」
「はあ」
「私も娘に読んでみろって言われましてね。娘って言ってももう三十にもなるんで、漫画もないだろうって思ったんですが」
「先生、読まれたんですか」
「読みましたよ」
「どうでした?」
 会話を進めていく内にだんだんと幸弘は笑いを押し殺さなければならなくなってくる。この、かつて学生運動で強靱なリーダーシーッぷを発揮していたという男が娘にマンガを薦められている。娘夫婦と食卓でも囲みながら「難しいことばかり言ってるから学生の人気も出ないのよ。少しは若い人達のことも理解しようと思わないと」なんて会話が繰り広げられているのだろうか。ぜひ新学期一発目の講義で学生たちに紹介せねばならない心温まるエピソードだ。
「まあ、こういう面白さも世の中にはあるのかなっていう感じですか」
「あまり、お好きではなかった?」
「なに言ってるんですか。学者先生が人様の作品に盲目的になってはダメですよ。大体、教師と生徒の恋愛譚でしょう」
 そう言いながら柳原は作り終えた新しいコーヒーに砂糖をスプーン二杯も入れてかき混ぜている。そして照れたような笑いを顔に浮かべたかと思うとはっと顔をしかめてそそくさと自分のデスクに戻っていってしまう。急に態度を変えてすごすごと自分の部屋へきびすを返してしまった柳原を不審に思いながらふと入り口の方に人の気配がして振り返ると、圭史が立っている。
「なんだ、いつからそこに突っ立ってたんだ」
「柳原先生って意外とチャーミングなところがあるんですね」
 どうやら学生に話を聞かれたのが恥ずかしかったらしい。史は隣室に聞こえないくらい小さな声でささやきながら研究室に入って来る。
「コーヒーでも飲みに来たのか?」
 幸弘もつられた小声で話す。
「探している本が史学科にしか無いみたいで。他学科専攻でも借りられます?」
「ああ、それだったらそこの……そこにある名簿に学籍番号と名前を書いて本を抜いたところに入れておいて」
 圭史は肩にかけていたトートバッグからレポート用紙を取り出すと、そこに書かれてある図書館分類法に則った番号を確認する。それから目当ての本がどの本棚にあるのか見定めるために狭い部屋の中をぐるりと視線をめぐらしていたその時に、彼はやっと大机に積まれている真新しい本の表紙に自分のよく知っている名前が印刷されていることに気がつく。
「あっ、これ。出来たんですか」
「おう、ちょうどいいから一冊上げるよ」
「いいですよ、ちゃんと本屋で買います」
 圭史は一冊を手ににとって表紙を手のひらでなでるとぱらぱらと中身を点検する。その姿はついさっき同じことをしていた幸弘とそっくりだ。
「あ、そうだ。この前はオープンキャンパスの手伝い、ありがとな。向坂君もだいぶご満悦の様子だったよ」
「いえ、ぼくも楽しかったです。向坂先生、大学の先生やってるよりも高校の先生になった方がいいんじゃないですか? なんかそっちの方が向いているような気がしましたけど」
「あの人は学問が好きだからと言うよりは、人に教えるのが好きだから教師になった口だからね。今時すごく貴重な人材だよ。だからあんまりからかっちゃダメだぞ」
 それからひとしきりオープンキャンパスの話をすると、急に幸弘が黙り込んだ。それから噛んで吐き出すような口調でやっとこう言った。
「あの日──兄貴の様子、どうだった?」
 コーヒーカップを片手に壁により掛かっていた幸弘は真面目な顔つきになって椅子に腰をかけた。それを見て、圭史も椅子を引く。
「それを聞きたかったんでしょ?」
「うん……まあ、そうだな。結局、家には戻ってこなかったみたいだし。ぼくたちはビールの一本でも出そうかと思っていたのだけれど」
「焼酎とアイアンを持っていきました」
「息子からのプレゼントというわけか。それを断る理由はないな。喜んでいたかい?」
「いえ、うん……喜んではくれました。でも最後には口げんかになってしまって。御苑の家をサロンだとか言っていました」
「光栄だな」
 幸弘は苦笑いをする。
「ぼくが大学を卒業したら、あの会社に引き入れるつもりみたいです」
「……それも相変わらずだ。でもそれは最後には君が決めればいい」
「ぼくはもう少し勉強を続けたいと思っています。大学院にも行きたいし」
「学者にでもなりたいの?」
「叔父さんがそんな言い方しないでくださいよ。正直、この先自分がどうしたらいいのかって定まっていないんです。今どうしたいのかは明確にあるんですが」
「将来のことなんか考えずに勉強だけしていたい?」
「そうですね。そうやって言葉にするとなんだかひどく幼稚なことのようですけど」
「うちの研究生にも君の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいところだね」
「そんなことないですよ、みんな心の底では同じことを考えていると思います。口に出しては言わないんですよ、そういうことは普通」
 圭史は持っていた本を元に戻す。視線は机の上に注がれたまま、手は持っているバッグをぐっと握りしめている。
「今思うと、受験勉強していたときが一番理想的だった気がします」
「他の何も気にすることなく、君はノートに向かってさえいればよかった。君の親父も大学の進学についてはびっくりするくらい何も口出ししなかったしな」
「──ぼくにも兄弟がいたらなって思うことがあります」
 その言葉を受けて幸弘は怪訝そうな顔を圭史に向ける。圭史は相手の顔を見ていないが視界の端でその様子を感じ取っている。
「どういう意味?」
「叔父さんをうらやましく思うことが時々あります」
「そんなこと言っちゃいけない!」
 隣室に聞かれまいと多少は声の大きさを抑えていたのだが、そこで急に幸弘は大きな声になった。
「ぼくだって院生の時の生活費はあのでっかい鉄のかたまりに頼っていたんだ。親族の中でも肩身の狭い思いをしたもんだよ。親父の作った会社でその子どもが兄弟そろって経営と財務を担う。それが君のおじいさんの希望だったんだ。ぼくはそんなのまっぴらだった。でも、一人で生きていくことが出来なかった。結局お金は頼らざるを得なかった。今だって、ああして代々木に住んでいるわけだし。嫁さんまで紹介してもらった。頭が上がらないよ、兄貴には。そういうのがうらやましいかい?」
 そう問われて圭史には返す言葉が見つからない。珍しく自分の過去を語る相手の勢いに抗するほど、自分の考えに確固たるものがあるわけでもなかった。
 彼の前にはいくつかの選択肢がある。そしてそのうちの二つは彼の親兄弟が具現化していた。物心ついたときには既に東山パイプ&スチールの創業者である祖父は他界しており、父親が若き社長として采配を振っていた。
 叔父は地方の私立大学で講師をしていたがその大学の大幅な学部再編成を機に辞め、東京に戻ってきてからも外部講師を掛け持ちしている内に今の大学から声がかかった。叔父の職がひとまず安定したことを見届けると父親は新宿に土地を買い、その敷地内に叔父夫婦と自分の家を建てた。圭史が中学に上がったばかりの時だった。
「ごめんごめん、こんなところで君の進路を語れないな」
「また、いろいろ相談にうかがわせてください」
「いいけど……でも、君は兄貴の子どもだから、ぼくに相談したことはそっくりそのまま君の親父にも相談すること。これが条件だ」
「──わかりました」
「そんな顔するなよ、セカンドオピニオンとでも思っておけばいいさ、ぼくの方をね」
 幸弘はそう言ってカップの中に残っていたコーヒーを飲み干す。圭史も長居するつもりはなかった。
「今度のパーティー楽しみにしています。友達をたくさん連れて行きますよ」
「ああ。よろしくな」
 そう言って幸弘は自分の部屋に戻っていった。圭史は自分がこの部屋にそもそも何をしに来たのかを思いだして目当ての本を見つけ出すと、貸し出しの名簿にサインをした。それからようやく研究室を後にした。
 廊下に置かれた長机の上には学会の案内や各専門書出版社の書籍案内、有名古書店の目録などが無造作に積まれている。そのどれもにページをめくった跡があり、手あかがこびりついている。あるいはもう何年も前に開催された美術展や博物館の催しの案内が、日に焼けて角を丸めている。ここはそういう場所だ。間違っても就職ガイダンスの案内や企業説明会や学生団体が主催するFXの勉強会のチラシがここに置かれることはない。ただ静かに、小さな活字たちがなりを潜めて来るべき人間を待っている。
 この文学部二号館という建物の中だけは都心にキャンパスがありながら図抜けて時間の流れ方が違う。学生たちは当たり前のようにドイツ語の辞書を片手に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み、書庫にこもっては有朋堂文庫をひもとき、マクベスの人物造形を分析する。その当たり前さが圭史には居心地良く感じられた。出来ればずっとここにいたかった。
 関東大震災後に建てられた校舎は現在でも耐震補強が必要無いくらい頑丈に造られている。壁は厚く、そこに埋め込まれた窓は内側から見るとほとんど出窓のようだ。四角く切り取られた午後の光が廊下に続く。そこから外を見るとうっそうと生い茂る構内の緑が春の風になびいている。
 立ちつくして圭史は、誰もいない廊下を見やる。遠くで階段を上り下りする靴音が聞こえる。
 と、ズボンのポケットの中で携帯電話のバイブレーションがうなりだした。アドレス帳には登録されていない電話番号からだった。
「もしもし?」
 いぶかしげに出ると、相手の声は遠くからやってきた。
「もしもし──あのっ、私、熊谷磨理と申します」
「はい?」
 聞いたことのない名前だった。けれどその声はどこかで聞いたことがあった。たぶん、近い過去で。
「この前、東京駅で名刺をいただいた者です」
「ああ……」
 静かな校舎の中で自分の声が妙に大きく響く。圭史は外に出ようと思って廊下を進み、携帯電話を耳にあてながら一階への階段を下り始める。
「いま、話せますか?」
「大丈夫ですよ」
「あの、おっしゃっていた出版社の──」
「ああ、パーティーのことですか」
「私なんかがおじゃましても大丈夫なんでしょうか」
「いいですよ、ぼくも友達をたくさん連れてこいと言われていますから」
「友達」
「ええ。友達です」
 階段を下りきって図書館と二号館との間にある噴水広場に出ると、急に声の反響は無くなる。噴水の水は出ていない。図書館の前の階段に座って談笑する学生たちの姿が目に入ってくる。あるいはその前を自転車で颯爽と石畳を駆け抜けていく姿。
 圭史は会場である自分の家の住所を告げ、もしわからなかったら千駄ヶ谷の駅が近いからそこからでも電話してくれれば迎えに行くと言った。そして、初めて自分の名刺が役に立ったことを内心、喜んだ。

 電話を切ると、磨理は携帯電話を折りたたんで机の上に置いた。それから四杯目のコーヒーを入れるためにドリンクバーのコーナーへ席を立つ。彼女は四谷のファミリーレストランにいる。朝の八時に入店してからずっとコーヒーを飲み続け、食事をする場所でありながら飲み物で空腹を紛らわせていた。
 席に戻ってくると、磨理は机の上に広げているケント紙に向かって再び鉛筆を走らせ始める。コマを割り、人物をデッサンし、吹き出しに台詞を入れていく。ここ数日出入りしている深夜のコンビニで出会った様々な若い人たちの姿を紙の上に再現していく。高知から深夜のライブイベントを見に来て、お金がないからそのままほっつき歩いていた女子高校生の二人組。まだ二十代のホームレスはサラ金に巻き込まれた家族の壮絶な歴史を語ってくれた。「お金を信じられなくなったら、こうやって生きていくしかねえんだよ」。終電を逃した大学生の集団に交じることは多かった。彼らは磨理のことをずいぶん遅れて合流してきた同級生くらいにしか最後まで思っていないようだった。いずれにせよ、彼らはから磨理は都会の夜の過ごし方についての知識を仕入れていった。
 磨理は主にインターネットカフェの個室を寝床にしながら一週間を過ごしていた。カプセルホテルにも行ってみたが一泊四千円の出費は足を伸ばして寝ることが出来ることの引き替えにはなりえないと感じた。
 不動産屋にも足を運んだ。
「条件は?」
「安ければなんでもいいんですけど」
「失礼だけど保証人は立てられるの?」
「保証人、ですか?」
「無保証だと月十万は覚悟してくださいね」
「あの、この辺に住もうとは思ってないんです……」
「じゃあ出てってくれ!」
 東京の家賃の高さには驚くばかりだった。新宿区を出るにも家賃の安い方面が見当つかず、結局同じようなところをぐるぐると回っているだけだった。しかしそれ以前に部屋を借りるには連帯保証人を立てなければならないということが彼女の生活を阻んでいた。どの店に行っても親族であることを要求された。磨理には結局母親の顔しか浮かんでこなかった。結局、日中時間がつぶせ、かつ大きな机がある図書館やファミレスで漫画を描く時間が次第に多くなってきっている。
 磨理はペンを走らせながらもそれに集中しきれない自分に焦りを感じていた。貯金の続く限りこんな生活を続けていても一ヶ月ががんばっても最長だろう。その間に結果を出すことなど出来るのか? 一作を描き上げて、ペン入れもして、常葉出版にでも持ち込んで採用、というところまでこぎつけられるのか? 一ヶ月という現実的な締め切りが切られると、彼女はあまりの時間の無さに、一日の時間の過ぎ去る時間の速さに呆然としてしまう。
 一人になればいくらでもアイデアは浮かんできていくらでも白紙を埋めていくことが出来ると考えていた。私はあの小さな街の小さな部屋に閉じこめられているから、自由に表現が出来ないのだと勝手に決めつけていた。そしていざ東京に身一つでやってくると、こんなにも時間の無さとお金の無さに頭の中を支配されるとは思ってもいなかった。人間が何かを食べなければ生きていけないのであれば、所持金こそが人生の残りの時間を決定している。そんな当たり前のことが今まで全然当たり前じゃなかった。家と学校とを往復して適当に不平不満をたれていればそれで良かったのだ。「学生は勉強が仕事」なんて言葉が今更になって違った風に聞こえてくる。ファミレスの店員さんだって、私がこうして画を描いている間に千円でも二千円でも稼いでしまうんだ。私の画は、賞は取ったけどお金にはならなかった。副賞に目覚まし時計をもらっただけだった。それは、絵で食べていくこととは全然違う。
 さらさらと動いていた鉛筆の先が止まる。
「大学生か……」
 磨理は圭史の名刺をもう一度財布の中から取り出すとそこに印刷されている大学の名前と学部の名前とを見る。一体あの人は何者なのだろう? 見ず知らずの私を呼んでくれるなんて、よほど親切な人なのだろうか? よほどなにも考えていない人なのだろうか? 大学生ってみんなそんなものなのだろうか? 誰でも彼でも声をかけて引っ張り込んで大騒ぎするのが好きな連中なのだろうか? 少なくとも私がこの一週間で出会った大学生と自称する人達はそんな感じだったな。中には露骨に肉体関係を迫ってくる輩もいた。そうだ、この東山圭史だってなんかヘンなことを言っていた。でもこの人は、出版社とのコネクションを持っているらしい。利用価値があるとしたらそこだ。そこだけだ。あの人がいい人か悪い人かなんて関係ない。
 とにかく彼女にとって今問題なのは、そのパーティー当日までに何らかの作品を仕上げることだった。時間はない。ネームだけでも仕上げて持っていかないことには何も始まらない。彼女はそう自分に言い聞かせながらかゆい頭をぼりぼりとかいてまた机に向かう。

 三月二十五日は東京ではちょうど桜の開花日だった。千駄ヶ谷駅から新宿御苑へ続く道には多くの花見客の姿が見られる。御苑を囲う高い鉄柵の隙間からも春めいた色と匂いとざわめきが漏れてくる。一方で駅前のロータリーに出てから人の波に乗って右に向かわずにまっすぐ進んだところにある東山家の邸宅では着々と午後からの出版記念パーティーに向けての準備が進められていった。
 その広い庭には門をくぐったすぐ右手に大きな桜が植えられている。満開と言うにはほど遠いがぽつぽつと花を開いている。
「雨が降らなくて良かったな」
 庭に出て桜の木を見上げていた圭史に後ろから声をかける者があった。振り返ればダブルのスーツを着込んだ父、圭造が立っている。
「親父」
 思わぬ人物の登場に圭史は正直なところだいぶ驚いていた。この御仁の帰宅は一体何週間ぶりだろうか。
「おまえもそろそろ着替えた方がいい」
「自分のお祝いには来なくて、叔父さんのお祝いには来るんですね」
「何を言っている? 弟のめでたい席じゃないか。自分のことなんてどうでもいいんだ。ほら、そんな目やに付けた顔でふらふらしてないで、早く着替えてこい」
 追い払うようなジェスチャーをするので圭史は門柱のそばから石畳のアプローチへ戻っていった。どうやら今日は機嫌が良いらしい。圭造が自らの性格を知悉していることを息子もまたよく知っていた。彼は決して人に会おうとしない日と、何人もの人に初対面でも次々と上手く振る舞うことが出来る日とがはっきりと分かれていた。そのタイミングを外すとこの前の誕生日のように憂き目にあうのである。
 春のほこりっぽい強い風が吹いてくる。一つくしゃみをしながら玄関のドアをくぐって閉めると、外でも一つ大きなくしゃみをする音が聞こえてきた。
 母親と叔母は台所でケータリングの料理を点検することにせわしなかった。量は足りているか、肉ばかりに偏っていないか、温かいスープはどのようにして屋外でも温度を保たせるのか、お酒が足りなくなったときはどの店から何をどの程度追加するのか。半年に一度は同じような催しが開かれてはいるのだけれど、毎回同じことを二人の女たちは大きな声で議論している。
「圭史も早く着替えてらっしゃい。そろそろお父さんもお見えだよ」
 大人たちは同じことを言う。
「さっき庭にいたよ」
「あらそう」
 それならもう興味はないわ、とでも言いたげな口ぶりで母親はまた元の作業に戻る。キッチンテーブルの上では盛りつけが気に入らないのか、いくつかの料理は別の大皿に次々と並べ替えられている。
「おばさん、今日の主人公は?」
「さあ? 朝早く出かけてってまだ戻ってないけど」
「そう……」
 圭史は自分もまた母親と同じような口調になっているのを、言ったそばから感じながら台所を出る。自分の部屋のある二階へと続く階段を上っていく。この家はいつだってせわしなく働いている。動き続けることそのものを目的としているかのように。
 部屋に入ると、充電器につないで机の上に置いてあった携帯電話が彼を待っていたかのように鳴り出した。熊谷磨理の番号だった。
「もしもし?」
「あっ、熊谷です」
「あ、どうも。早いね」
「すみません。何時からか聞くの忘れてしまって……聞いたのかもしれないのですけど忘れてしまって」
「一時からだけど──今もしかして駅にいる? 後ろ、電車の音がする」
「すみません。もう千駄ヶ谷に着いてしまって」
「いいよ、改札にいてください。今から迎えに行きます」
 と、圭史がそう言ったところで不自然に向こうの電話が切れた。ガツッという大きな音が最後に響いた。「ん?」と、受話器を耳に押し当ててみたが聞こえてくる音は無かった。通話は切れている。
「まあ、いいか。とりあえず行かなくちゃ」
 着替えようかとも考えたが結婚式に行くような格好で駅に現れてもびっくりするだろうと思い、とりあえず外出用のジーンズに履き替えると階下にまた戻っていく。
「圭史、どこ行くの!?」
 という母親の声を背中に聞きながら、彼は家を出た。

 熊谷磨理は確かに千駄ヶ谷駅の改札を出たところで東山圭史に電話をかけていた。髪の毛はところどころ跳ね返り、洋服もティーシャツはしわくちゃになっている。キャリーバッグも持ち歩きすぎて傷だらけになっている。彼女の姿はその意味で目立っていた。
 不意に後ろから肩を叩かれる。振り向いた磨理は、驚きのあまり声も出ず持っていた電話を地面に落としてしまった。
「熊谷磨理さんだね。お母さんから捜索願が出されている。とりあえず、そこの交番まで来てもらえるかい?」
 満面の笑みで話しかけてきたのは警察官だった。しかしその手はがっしりと磨理の右腕をつかんで放さなかった。

     五 帝王学

 間もなく、持っていた期限切れの学生証から彼女が本当に熊谷磨理であるということがわかると、磨理はパトロールカーに乗せられて原宿署に移された。車で移動するほどの距離ではなかったが、生まれて初めて乗ったその後部座席のクッションの硬さに、あるいはスモークも張られていないために信号で車が止まるたびに横断歩道を行く歩行者からちらちらと視線を投げ込まれるそのいたたまれ無さに、自分が何かとんでもない犯罪を犯してしまったような気持ちにさせられる。
「ここんところ、代々木の駅近くで君に似た人間の目撃情報がたくさんあってね。いろいろと出回ったんだけど、やっと見つけた」
「私、どうなるんですか?」
「まあ、今日は署に泊まってもらって明日お母さんにでも迎えに来てもらおうか」
「やらなくちゃいけないことがあるんです」
「お母さんに謝る方が先だ。それよりも優先されるものなんて、この世の中にはないよ」
 若い警察官はまるで学校の教師のように自分の言葉を大事そうに一音一音明瞭に言う。なおも磨理はパーティーへ行けないこと、圭史を駅で待ちぼうけを食らわせてしまうことに気をとがめていた。彼女の手の中にはポートフォリオに変わって、自分の第一作となるべき漫画のネームが仕上がって収まっている。
「携帯電話、使ってもいいですか?」
「今はダメだ。誰かに連絡を取るのは私たちの役目だから。それとも、本当にそうするかい? 駅で誰かと待ち合わせていたみたいだけど」
 警察から直接連絡が行くことで相手を動揺させることの方がまだましだと磨理は考えてもみたが、連絡をするにせよしないにせよ迷惑をかけてしまうことには変わりなかった。それならば彼の前からはもう姿を消し、最初から無かったことにしてもらった方がかえって良いかもしれないとも考えた。これは何かの間違いで、長く短い夢を見ていた。……
「いえ、いいです。あとで自分で何とかします」
 明治通りの前方にはNTTドコモの代々木ビルが見えている。ここ数日新宿駅の周囲をあてもなく歩き続けた。そのいつでも、あの尖塔が見える方向で迷子にならずにすんだ。何となく磨理はその建物に愛着を感じ始めていた。だが車は急に狭い隘路へと方向を変え、磨理の視界にはなじみのない世界が飛び込んでくる。建物の脇にはびっしりと警察車両が縦列駐車されている。そしてその中の空いている一画に車両は静かに止まった。

 珍しくパトカーとすれ違った東山圭史は不審気な顔をしてそれを見送ったが、千駄ヶ谷の駅についてもそこに誰一人熊谷磨理とおぼしき人物がいないのを見るにつけ、いよいよ彼女の身に何か事故があったのではないかという予感にさらされる。彼はその場で彼女の携帯電話に幾度かかけてみたが「電源が入っていないか電波の届かないところに……」という録音が流れるだけだった。交番にも顔を出してみたがもぬけの空だ。よくわからないが何か一杯食わされたのか? それとも本当に彼女はいなくなった? この状況をどう判断して良いかわからず、とりあえずもう一度改札の所まで戻ってきたとき、彼は自分の名前を呼ばれるのを聞いた。
「圭史!」
 顔を上げればクラスメイトである篠田有と日下部美佳とが改札口から出てきたところだった。
「なんだ、駅まで迎えに来てくれてたの? で、お出迎えのハイヤーはどこだい?」
「いや、すぐそこだから歩きだ」
「誰も本気でそんなこと言ってないよ」
 いつもの調子で二人は言葉を交わす。けれど相手の顔になにやら心ここにあらずの影を有はすぐに見抜く。
「誰か待っていたのか?」
「いや、待っていたと言えば待っていたんだが……」
「あっ、女の子か。なるほどなるほど」
「いや、ううん。そうなんだけど、そういうんじゃないよ」
 圭史はそう言いながら歩き出す。
「待ってなくていいの?」
 今度は美佳が驚いて声をかけた。
「いや、いい。とりあえずもういいんだ」
 三人は互いに妙に居心地の悪い感情を抱かせあいながら歩き始めた。

 庭ではもうすっかり準備が整い、ゲストの姿もおおむね揃い始めているようだった。
「ね、誰がどんな人か教えてよ」
 門をくぐって桜の木の下で立ち止まると、有と美佳とは手前に広がる芝生の広場に三々五々固まって談笑している人びとの姿を指して言う。
「うーん、あの一番真ん中のテーブルに集まっているのが編集者連中かな。赤いスーツの人が今度の本の担当さんだよ。それから隣のテーブルが、たぶん書店関係の人だと思う。あの赤いネクタイしている人が琳有堂渋谷店の店長さん」
「赤いものがお好きなのね」
 美佳は妙に感慨深そうに腕を組みながら言う。彼女のはめている腕時計のリストバンドも赤かった。
 一方で圭史は書籍編集関係者の中に明らかに異質な集団を既に認めていた。彼らはもう一週間も着通しているのではないかと思えるくらいよれたグレーのスーツを着、同じくらいしわくちゃな表紙の小さなメモ帳を必ず左手に持っている。工業系専門新聞、鉄鋼系専門新聞、業界紙の記者たちだ。彼らの中の一人が圭史の方を指さした。するとそこにいた三、四人の男たちがわざとらしく圭史の姿にいま気がついたような顔を向けた。その中には鉄鋼団地同業者組合の副会長までいるではないか。圭史は居心地の悪い緊張感を感じる。彼らは圭史たちの所に歩いて近づいてきた。
「今日はお父さんからも何か発表があるそうだね」
 一人の記者が言う。けれど、圭史はなんと答えて良いかわからなかった。今日の主役は叔父であり、父ではない。それなのに父のことをなぜこの男は持ち出すのか。それも──発表?
「なんのことですか?」
 圭史は仕方が無く、正直な返答をする。
「我々もよくは知らない。けれど、何もないのに呼びつけるわけがないと、思うんだがね」
「呼ばれて来たんですか?」
「ああ。新聞記者っていうのは呼ばれもしないところにやってくると思っているんだろう? いつだってそういうわけじゃないよ」
 そう言って男は大口を開けて笑った。
「あ、そうだ。名刺をさしあげておこう。これからお世話になるかもしれないからね」
「すみません、学生なんで、ぼくは──」
「君もそろそろ名刺の一つや二つ、持っておいた方がいい。うちの印刷所で安く作れるから今度……なんて、安く作る必要はないか!」
 二度目の呵々大笑にはさすがの圭史らも閉口だった。記者たちはまた元のテーブルへ戻っていく。プレスの人間は、子どもの頃から慣れ親しんではいた。まだ会社も小さい頃から彼らは熱心に父親の言葉を書き取っては業界紙の片隅に紹介記事を載せてくれた。一様に彼らは圭史に優しかった。あめ玉をくれたり自社の出版部で出している絵本や時には発売日前の漫画雑誌まで持ってきてくれることもあった。少年の圭史はそれを学校に持って行ってずいぶんとクラスメートからうらやましがられたものだ。それが当たり前のことだとずいぶんと長い間思いこんでいた。
 いま、彼らの後ろ姿を見送りながらどうしてか彼らとの関係が今までとは大きく変わる瞬間が近づいているような予感がする。ぐるりと首をめぐらせば、母屋の玄関からは父親がさっそくアペリティフのワインの瓶を片手に朗らかな笑顔で現れた。彼はそのままさっきの記者集団の方へと加わりに行く。それを注視しようと目を細めたとき、後ろで車の音がした。柵を隔てた狭い道路に、叔父の愛用するクラウンが到着したのだ。車はそのまま邸内の駐車場に入り停車すると、低いエンジン音が止んだ。そして東山幸弘はあわてた様子で車の中から出てきた。
「ごめんごめん、午前中の教授会が長引いちゃって。毎年この時期になると単位が一個だけ足りなくて卒業できないやつらが押し寄せてくるもんだから」
 そう言いながら彼は駐車場から母屋に向かう石畳を走ってくる。
「そんなにあわてなくていいよ!」
 庭から誰かが叫んだ。圭史は石畳から芝生に入ってくる幸弘を迎え、彼の重そうな鞄を受け取った。
「ありがとう」
 幸弘は手に持ってい背広の上着を着直し、ゆるめていたネクタイをしめる。
「大体もうおそろいですよ、そろそろ始めましょう」
 主役の登場によって庭にいた人びとは、パーティーが始まる前の手持ちぶさたに互いを物色し合う奇妙な時間からようやく解放されるのを感じる。そこにはおよそ三十人の人間がいた。時折春の強い風がほこりっぽい空気を舞い込ませてくる。
「それじゃあみんな始めようか──ちょっと今日は人数が多いようだけど、いつも通りマイク無しでやらさせてもらうよ」

 常葉出版に去年入社したばかりだという、圭史たちとそう年齢も変わらない若い編集者の司会でパーティーは和やかに進んでいく。東山幸弘は大学の講義で見せる姿とは違って、少しはにかみながら恥ずかしそうに自著の成立について話して聞かせてくれた。フランス史を専攻する自分にとってその大きなきっかけを作ってくれたのが他でもない池田理代子による『ベルサイユのばら』であったこと、そしてその後大学人となってからも周辺の少女漫画を読み続けていたところ、ある日この少女漫画自体にも「歴史」があるのではないか、いやあるに決まっている、歴史研究家としてなぜそこに気がつかなかったのだろうか? という自問に駆られ、半年国立国会図書館に通い詰めた。閲覧台に分厚い少女漫画雑誌を山と積み上げ、奇異の目で見られ続けながら論考を完成させた。
「いつの時代も学生たちのもっとも近くにあるメディアは漫画ですよ。ぼくだってそうだった。そして時に学問をやっていく上で大きな力を与えてくれる作品がある。日本文学科の生徒にとっての大和和紀『あさきゆめみし』、イタリア史の学生にとっての惣領冬実『チェーザレ』がそれかもしれない。そして我々研究者にとってもっとも驚くべきは、長大な歴史研究に裏付けられ、さらに作者の想像力を駆使されて出来上がったこの表象物が千円札一枚でおつりが来る値段で売られているということです。残念ながら私は経済には暗いのでそのあたりの実務的ノウハウはぜひあそこにいらっしゃる編集長に後ほどとくとご教示賜りたい」
 幸弘はそこで大いに笑った。あんなに笑う叔父を見るのは圭史にとっても嬉しい出来事だった。彼はいつでも──この屋敷にいる間も、大学にいるときでさえも肩身狭そうな顔をしているのが常だった。
「一方で、この漫画という奥の深いジャンルには今ぼくが話した以外の面も持ち合わせています。近年、美大や芸術系のスクール出身の漫画家が増えています。あるいは本職のアーティストの方でもあえて漫画のような、一昔前に同じことをやっていれば単なるイラストと切って捨てられていたような作品を発表することも多くなっています。歴史学をも飲み込んできたこの文化は今や、ファインアートとしての地位も確実に築き上げつつあります。さて、今日はそんなアート系少女漫画の二十一世紀旗手でもある水無瀬吟子さんも来てくださっています──木島君、あとでなにかしゃべってもらうの? え? あ、ないの。──ええと、特にご紹介がないそうですが、それはねえ、あまりにも失礼ですから私のほうからこの場を借りてお礼申し上げます。来てくださってありがとうございます。というわけで、今日は他にもいろいろな方が見えておりますので大いに盛り上がっていきましょう」
 圭史ら三人は幸弘がお辞儀をしている方向を見て、ようやく水無瀬吟子その人の姿を認める。有だけはその名前を知らず、美佳が本人を前にした興奮と彼の無知に対する批難をない交ぜにして、今度その代表作が映画化されるところまでかいつまんで説明した。
「あそこのテーブルで紫色のドレスを着ている人だよね?」
「そうだな。ぼくも初めて見るよ。後で話をしに行ってみようよ」
 美佳が指摘したように水無瀬は紫紺のパーティードレスに白いショールを肩からはおりシャンパングラスを持って、隣に立っている編集者と談笑している。黒いセルフレームの眼鏡に切りそろえた黒い前髪を下ろしている顔立ちはいかにも漫画の世界から飛び出してきた美術教師のように見える。あれなら『陽のあたたまるまで』が実話と勘違いされるのも不思議ではないかもしれない、と美佳は思った。
「それからもう一つ、今日はせっかくの晴れの席をさらに盛り上げてくれる祝い事がもう一つあります」
 そう幸弘が言ったとき、フラッシュがたかれる。そしてそのカメラは圭史に向けられていた。彼は一瞬そのレンズをにらみ返す。カメラを手にしている業界紙の一群はみな一様に含みのある笑みを浮かべながら圭史の様子をうかがっている。
「──なに? なんなの?」
 美佳が妙な空気を機敏に悟ってささやく。そしてそれに答えるかのように幸弘の立っている場所に歩み出たのは父圭造であった。
「幸弘の兄、圭造と申します。今日はいささか場違いかもしれませんがひとつ、お知らせしたいことがあり参りました。幸い、ホームパーティーの形式でありますから、我が東山家にまつわるお祝い事であればもう一つくらい増えても必ずしも皆様の興をそぐこともあるまいと考え、時間を頂戴した次第です」
 圭造はそこで咳払いをし、今度は圭史に向かって身体を向ける。
「さて、皆さんもご承知の通り東山の家は先代の敬一より鉄鋼製品の加工事業を生業として参りました。おかげさまで昨今、北京オリンピックに端を発します中国特需に背中を押されまして創業以来最高の業績を収めさせていただいております。しかしながら私もいつまでも第一線にいられる年齢ではございませんでして、先日五十五歳を迎えました。一般企業の定年で言えば、あと十年というところでございます」
 ようやくにして圭史は父親がとんでもないことを言い出すのではないかと感じ始める。こんなところで「そのこと」を言ってしまって既成事実化するのは──きわめて圭造的なやり口であることはわかりすぎるくらいわかっているが、いくらの父親でもアンフェアというものだ。しかし父の言葉はよどみなく自信にあふれ、記者たちは手帳にペンを走らせる。
「あそこで大学のご友人に囲まれて立っているのが息子の圭史です」
 父は息子をじっと見据える。その場にいる誰もがその視線を模倣する。
「なにぶんそろばんも打てない不肖者ではありますが、これから先十年の計画でいろいろと事業のイロハを学んでもらおうと思っている。引き合いに出すのもおこがましいがかの渋沢一族も三代目が学問にうつつを抜かして大金をつぎ込んだが故に後が続かなかった。せっかく弟が歴史学者なのだから我々も歴史に学ばなければなるまい。そこで圭史にはこの下期十月から東山の不動産事業の一部をまかせようと思っている」
 まばらだったシャッター音はここに来て次々と押される。
「私からの発表は以上だ。未来の東山家を担う圭史に温かい拍手を贈ろう」
 圭史の耳には引き続いて庭のあちこちからわき起こる拍手と声援が届く。何も知らない編集者たちも突然の発表に目を輝かせながら、この小さな新たに誕生した「経営者」に「がんばれえ!」と声を送っている。目を移せば叔父の弘之も笑顔で手を叩いている。今の圭史にはそれが作り笑いなのかどうか、判断がつかなかった。
「それでは東山家のますますの繁栄を願って今一度乾杯をいたしましょう!」
 アドリブで気を利かせる司会者の音頭で、パーティーはその後も妙な興奮に包まれながら続く。パーティーとしてはそれは、成功したことにななるのだろうが、一方で圭史は──。
「ひがし、なんか表情が硬いぞ。すごいことじゃんか、社長への第一歩だ」
 有は少し酔いが回ってきたのか庭の隅に片付けられていたガーデンチェアをわざわざ持ってきて自分だけ座り込む。
「前もって聞かされてなかったの?」
 美佳もまたテーブルに腕をつっぱりながら圭史に尋ねる。
「いや……、前々から卒業後には会社に入れるという話はあったけど。具体的な話は初めて聞いた」
「そっか。あのパパ見てるとこういう演出やりそうな感じするね。まあでもとにかく良かったじゃない? どうして不動産なのかわからないけど、いきなり経営の第一線でやってもらうんじゃなくてリスクの低いところで修行してからっていうのが、ちゃんとひがし君のこと考えて言ってるんだよ、きっと」
 そう言って美佳は持っていたグラスを圭史のそれに当てる。
「おめでとう」
 しかし圭史本人は親しいはずの友人からですら一言言葉をかけられるたびに、彼らが目の前から遠のいていく感じがした。めまいがする。違う、君たちの見ているぼくの姿は、父親が作り上げようとしているぼくなんだ。……
 と、近づいてくる人影があった。
「息子さん?」
 目を上げると水無瀬吟子が立っている。
「どうも面白い場面を見せられちゃったものだから、作家の血が騒いでね」
 圭史はグラスを置く。
「どういう、意味ですか?」
「あなた、ノブレス・オブリージュって言葉知ってる?」
 圭史は一瞬相手が何を問うているのかわからなかった。相手が何を自分に答えて欲しいのかわからなかった。もちろんその言葉には聞き覚えがあった。貴族の義務──持つものは与えなければならない。しかしそれを自分の身に引き受けるにはあまりにも懸隔があるように思われた。
「まさか。やめてください。東山は実業で成り上がったまだまだ歴史の浅い会社です」
「それでもあなたは考えなければならなくなる時期が来ると思う。そしてそれを考え抜くことによって自分を救うことになるかもしれない」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「どうして? だってあなた達一家全員そろいもそろって漫画みたいなんだもの!」
 そう言い放つと水無瀬は高らかな笑い声をあたりに響かせる。いきなり攻め込まれた圭史たちはさすがに、さっきまで水無瀬に対して抱いていた野次馬的な好奇心も忘れ、彼女の前で立ちつくすしかなかった──と、感じていたのは圭史だけだったかもしれない。
「先生は、作品作りにおいて必ずご自身の実体験を出発点になさっているとなにかで読んだことがあります。カリカチュアは決してそのもののレベルを貶めるものでないことは私も理解しています。先生は東山君の何がそんなに面白いのですか?」
 そう言ったのは美佳だった。残された男二人は、半ば不退転の様相を呈している彼女のそでを引くかのようにあわてて手をかざす。
「あなたは?」
「圭史君の同級生で日下部美佳と申します」
「恋人ではない」
「違います。でも、そうであったとしても」
 と、美佳が続けようとするのをさえぎるかのように水無瀬を口を継ぐ。
「私はなにも東山君のことだけを言っているのではないの。ここに来ているあなた達二人だって、ここでこうして働きもせず自分で稼いだでもないお金で酒を飲ませてもらっているということにだって無自覚でいられる。無自覚! 無意識! 恐ろしいことよ。それに気がつくときがあなた方にもいつか来ればよいけれど。東山君は少なくとも知らなければならない。感じなければならない人間です」
 そう言い捨てると水無瀬はくるりと三人に背を向けてさっさと元いたテーブルへ帰って行った。
「ちょっと……酔っぱらっているんじゃないか? 変わった人だな、やっぱり」
 有は言葉を無くしている様子の美佳と圭史とにそう言うが、二人は互いに水無瀬の言ったことを別々の心の中で別々に反芻し続ける。

 東山圭史が父親と直接会話をする機会を得たのはその日のパーティーが終わり、東山家の人間だけが珍しくそろって夕食の席に着いたときだった。圭造の屋敷の一階部分は客人をもてなす意味からもすべて大時代的な造りになっている。まだ建てて五年と経っていないにもかかわらず、大正時代の洋館をそのまま移築させてきたような雰囲気をこの食堂にも施主は持ち込んだ。チューダー様式よろしく内壁は高さ二メートル程度のところまで一面スクエアにカットさせた濃褐色の木材を張りめぐらせ、その上から天井に至るまでは白い漆喰でコントラストを強調している。そこへ赤黒いビロードの生地をふんだんに使用したカーテンや小さいながら手の込んだ細工の散りばめられたシャンデリア、レンガを積み上げた暖炉、アンティークのミシン台や丸善に特注させた書架を配し「私のような素人目には旧前田侯爵と言われようが小笠原伯爵邸と言われようが大差ないものだ」と圭造は豪語した。そしてオランダのホテルから「譲り受けた」というオーク材のダイニングテーブルに家族は今集まろうとしている。
 パーティー会場にあった異常な興奮は、今や異常な疲労感に取って代わられている。その中で父である圭造一人は幸弘の隣でなおもウィスキーのグラスを傾けてはクリップ止めされた分厚い書類に赤鉛筆を走らせている。その姿をさっきから圭史は反対側の席から凝視しているが視線は果たして交差することはない。
「それでは庭も片付きましたし、そろそろいただきましょうか」
 そう言って叔母の礼子がテーブルウォーターの瓶を盆に載せて食堂に入ってくると、その後ろから圭史の母親美智子も夕食のプレートを載せたキッチンワゴンを押しながら姿を現す。女たちがテーブルへ皿を並べる間に、すでに席に着いていた男たちはやりかけていた仕事を中断する。幸弘も読んでいた本を閉じると背面の本棚の中へそれを後ろ手で置いた。そうして、めいめいが重い絨毯の上で椅子を引き着席する。
「叔父さん、今は何を読んでいるんですか」
「圭史、まずは食事だ」
 圭造がそう言ってナイフとフォークとを手に取る。幸弘は寂し気にふっと笑うと圭史に向かってうなずいて見せる。家族の食事は静かに始まり静かに進むのが、珍しく顔を合わせてもこの家の暗黙のルールではあった。圭史にとっては父親が口を開くたびに抗しきれない決定が下されていくのを何度も経験してきた。ダブルスクールで会計士の専門学校に行くことを言い渡されたのも、確か去年の今頃だったはずだ。それは相談ではなく命令であり、父親の思い描く未来を自分が満たしていかなければならない運命を少しずつ肩に背負わされていく瞬間だ。同時にそれは、圭史の思い描く未来をひとつひとつ切り崩していく痛みを伴う。
「圭史、今日の話だがな、あれは冗談でもなく本当の話だからお前もそのつもりでいろ。大学もあと一年で卒業だ。お前のことだから最後の一年は卒業論文だけ書けば単位も足りるのだろう? 一番時間を自由にできる一生で一度のチャンスだ。これを逃す馬鹿はいない。みっちりと勉強してもらうぞ」
 いつもの胴間声は不意にやってくる。それから語られた具体的なプランは次のようなものだった。
 東山パイプ&スチールは社員寮として使用していた土地建物を幕張本郷に所有している。ここ十年ほどは無人のまま放置され遊休資産として眠っているのみだ。今川を含む浦安一帯が千葉ニュータウンとして造成されてからは浦安鉄鋼団地を拠点とする東山の社員たちは比較的近傍の浦安市内に住居を構えることが多くなり、わざわざ江戸川を越えて通勤する者はめっきり減った。幕張も九〇年代以降は異様な発展を遂げ、その「一等地」とも言える場所に使わぬ土地を持っておくのも馬鹿げた話なので、その運用を圭史に一任する。改築してアパートにするも良し、建物をつぶして駐車場にするも良し。立地はよいのでリスクは低い。ただし投資に見合うリターンは確実に得ること、目安として少なくともリスクプレミアム五パーセントは一年後に達成してもらう。
「いずれにせよ売ろうと思っていた土地だ。多少の赤が出ようが売却益でなんとでもなる。しかし本当の経営の最前線に立たされたとき、失敗は百パーセント許されない。幕張の土地は私が用意した実験場でもあり練習場だ。お前は生涯に一度の大勝負と思って事業にあたってもらわなければ困る」
 そう言って父親は初めて歯を見せて笑う。
「どうだ、面白そうだろう。幸弘、お前はこの計画どう思う?」
 話を急に振られた幸弘は「そうですね……」と口の中のものをあわてて水で流し込みながら咳をする。
「いい機会だとは思うよ。机上の勉強が実地に移されるといろいろと勝手が違うのを感じてもらえると思う。学問だって、なんだって一緒。会計のことだってただ簿記の問題を解いているよりも実際の、その……不動産業に当てはめていろいろと計算をしてみることで本当に身に付くのだと思うし」
「その通りだ、幸弘もたまにはいいことを言うな。いずれにせよ圭史にとっては新しい門出だ。一杯ぐらいいいだろう」
 圭史は圭造手ずから氷を入れたオンザロックを手渡される。父親は自分のグラスをその縁に軽く当てて乾杯の真似をすると一息に飲み干す。父親に続いて飲み慣れない苦みを息子もまた喉へ流し込む。焼けるようなアルコールの熱さがすぐに内臓を支配する。それはあたかも熱気を帯びた父親の言葉のひとつひとつを飲み込まされているかのようで、今日一日昼間の立食パーティーから少なからぬ量の飲酒をしているにもかかわらずいっこうに気持ちの良い酔いが回ってこないのだった。
 圭史の頭の中には様々な人間の顔が浮かぶ。その多くは大学の同級生たちだった。四年生になんなんとする今就職活動に明け暮れている者、迷わず大学院進学を決めて研究室の教官に挨拶回りをしている者、地元に戻るために公務員試験の勉強をぼちぼち始める者、司法試験を目指して図書館と予備校とを往復する者、音楽サークルの活動に入れ込みすぎてほとんどセミプロの域に達している者──そのどれにも自分は当てはまらないような気がした。同じような状況でもがいている者は一人もいないような気がした。

     六 再びの東京駅

 夜になって磨理の前に姿を現したのは意外にも本田教諭だった。内心、怒りをあらわにした母親が大きな足音を立てて階段を上って来、横っ面のひとつでも張られるのではないかと思っていた磨理にとっては、そんな自分のドラマチックな想像力の幼稚さを恥じると共に、母親がどんな考えで福島に残っているかわからないその不可解さ──その不可解さに対する恐怖が背中を走り抜けるのを感じる。本田の姿を目にしたとき、母親との再会が少しだけ後のばしにされたことを、彼女は必ずしも喜ぶことができなかった。大げさに言えば、真実が少しだけ自分から遠ざかるような気がした。
「何をやっているのよ……あなたは」
 狭い控え室の扉が五時間ぶりに開いた。本田は長い髪の毛をくしゃくしゃに振り乱し、珍しく眼鏡をかけていた。なりふり構わず自分を迎えに来てくれたことに、そして自分を探してくれる人間がまだこの世にいてくれることに、磨理は張りつめていたこの二日間の感情が一気にほぐされるのを感じる。そして自分の意志ではどうしようもない涙が目から流れ出る。お座なりな演出だ、こんなのは。磨理は思わず出てしまった本心を恥ずかしがって隠すように手の甲で必死にあふれてくる涙をぬぐい続ける。こんなところで泣くのでは、自分が意を決して出てきたことが全部ウソのようになってしまう。感情のつじつま合わせはいつだってすべてが終わった後でないと取りかかることができない。パイプ椅子から思わず立ち上がる磨理の身体を、本田は両手で抱きしめる。「なにをやっているの」と言う声も次第に震え始め、何度も繰り返すようになり、そして最後にはその形も失っていった。
 それから二人は署員が事務作業をしている大きな部屋へ移される。夜の九時を過ぎてもたくさんの人が机に向かって作業をしており、人の出入りも激しい。磨理はその一画のパイプ椅子に座るよう促され、間もなく警察の指定する書類が次々と目の前に並べられていく。「規則だから、ごめんね」と言って署員はボールペンを渡した。
 書類と格闘しているあいだ、本田はすぐ隣の部屋で磨理の母親に電話をかけているようだった。磨理の座る机の上にはちゃんと電話があるのに、わざわざ彼女に聞かれるのを避けているように思えた。中途半端に閉められたドアの隙間からくぐもった声が漏れ聞こえてくるが、それに耳を澄ませる気持ちにはなれなかった。隠したいものがあるなら、すべて隠し通して欲しいと思った。今は、目に見えるもの以上のことを考えることなんて、できない。インクの出にくいボールペンを固く握って、同じ住所・氏名・年齢を同じような形式の書類に書き続けていく。

 本田と二人で警察署を後にしたとき、既に時刻は午後十時を回っていた。
「今から高速バスに乗って帰ることもできるけど、どうする?」
「そんな風に聞かれても、なんて答えていいかわかりません」
 磨理は正直に、正直すぎる答えを返す。早く帰りたい、早く帰って温かな自分の布団で心ゆくまで眠りたいという気持ちもある。疲れ切った身体が容赦なく訴えてくる。けれど一度延期された母親との再会を今一度自分の手で早める勇気はなかった。
「私も長距離移動で疲れたから、今日はこの辺でビジネスホテルでも探そう? それでさっぱりきれいになったあなたをお母さんにお返しするわ」
 そう言って本田は新宿方面へ足を向ける。大げさに頭をかきむしる後ろ姿を見ていると、磨理は一人ではないことの安心感に心の奥がつぶれそうになる。そして初めて歩く場所をすいすいと進んでいく本田の足取りを見ていると、相手が大人で自分が子どものようにも思えてくる。思えてくる? 私は、文字通り子どもだ。デパートで迷子になってやっと母親に再開できた時みたいに、泣きたい気持ちで一杯だ。
「でも」
 と、本田が歩みを止める。相手は数メートル先でこちらに振り返る。磨理の目には本田の眼鏡の奥をうかがい知ることはできない。明治通りも車の流れは断続的になりつつある。それだけにひとつひとつのヘッドライトの速度は加速していく。二人を瞬時、闇の中に照らし出す。けれど向かいあった二人にとってはお互いを逆光のなかに認めるだけだ。
「私が焚きつけるようなことを言ったのがよくなかったね、ごめんね」
 磨理はそう言われてさっきまでの温かい気持ちがきれいに冷めていくのを感じる。心が離れていくのが手に取るようにわかる。我ながら戸惑う。いつから自分はこんなにもゼロかイチかのコンピュータみたいになってしまったのだろう? 先生の言いたいこともわかる。それでも「どうして……」磨理はつぶやく。思っていても、みんなみんなわかった上ででも、そんなこと言っちゃダメだよ、先生。
「なにそれ……卒業しちゃったら言葉はすべて有効期限切れなの?」
「そうじゃないわ」
 言い返した本田の語気は強く、磨理はその間髪置かぬ反応に驚く。言葉の表情は、彼女が思っているよりもずっと多くのものをたたえている。自分の知らない、まだ言葉になっていないものも含めて。
「そうじゃない」
 本田はもう一度否定する。
「あなたにはこれから学ばなければならないことがたくさんある。それを学んでも私のように田舎の美術教師で終わる人もいる。たくさんいる。たくさん見てきた」
 駅へと急ぐ人びとの群れは二人をきれいに避けていく。腕を伸ばしても、届かない隔たり。けれどもう一歩前へ踏み出せば指先くらいは触れられるかもしれない。
「教師になって良かったこともあるのよ。あなたみたいに絵の描ける子が何年かに一人は必ず出会える。一人で山奥のアトリエにこもっていたら絶対にそんなことはないわ」
「先生、まだ私にそんなこと言うの?」
 磨理の身体は一歩本田から遠ざかる。
「最後まで聞いて。いい? 残念ながらあなたの才能はまだお金を取れるものではないの。『お金』なんてことは聞きたくない?」
 なんとも答えられない。さっきから、答えられない質問ばかりだ。いや、私が質問に答えられないと言った方が正確かもしれないのだけれど。
「なぜあなたをここまで迎えに来たのがお母さんでなくて私だったか、あなたにはわかるでしょう? そういうことも考えていかないと、あなたのその能力が学生時代の単なる得意科目で終わってしまうのよ。私はそのことを言っているの」
 それは、とてもまっとうな大人の意見だった。一発逆転をねらってここまで来たけれど、バットを振らせてすらもらえなかった。それどころか手を触れることすらかなわなかった。球場のまわりをうろうろと歩き回ったに過ぎなかった。
 一旦離れた心はもう一度本田のほうから距離を縮めてきた。磨理はそういうところがこの人を教師にしているんだと、思った。それは画家として生きていくには必要のないものかもしれないけれど、絵を描きながら生活をして行くには必要なものなのかもしれなかった。
「もう少し自分を大事にしなさい。お母さんのこともよ」
 そうして本田は一歩を踏み出す。
「ごめんごめん、疲れているときに変な話しちゃって」
 本田は磨理の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「お腹空いているでしょ? おいしいもの食べてはやくホテルで休みましょう。人間、健康でなければいいものは描けないわ」
 促されるようにして磨理も歩き出す。NTTの尖塔は通りの先に相変わらずその存在を知らせる。英語で高層ビルのことを確かスカイスクレイパー──空を削り取るものと言ったけれど、この時間では建物の高さを夜間飛行のヘリたちに知らせる赤い明滅だけがその輪郭を縁取るだけで、ビルそのものは闇と解け合っている。今から入ることができる飲食店といえばチェーンの居酒屋か二十四時間営業のファーストフード店(この界隈はほとんどを磨理は既に行き尽くしているのだが)くらいしか二人の頭には浮かばない。明るい看板を出している店を歩きながらあらためてみても、事情は変わらなかった。いずれにせよ土地勘のない場所で歩き続けるのも得策ではなかった。万が一また警察のやっかいになったらそれこそお話しにならない。
「お酒は飲まないけど、あそこにしよう」
 本田の指さしたのは女性だけで入ってもおかしくないようなこざっぱりとした外観のダイニングバーで、磨理も一目見て気に入った。
 店のなかに通されるとまわりを簡単に仕切られた個室へ案内される。二人で向かい合って座るにしても少し狭いくらいだった。大きな荷物を椅子の下に無理に押し込もうとしている磨理を見て本田は言う。
「その画集、持っていってくれたんだ。少しは役に立った?」
 そこで磨理は行きのバスの中で出会った本田の元教え子のことを思い出し、画集のおかげで話しかけられたことを話して聞かせる。
「可奈子さんって言いました」
「ああ、大野可奈子だね。この前卒業したばっかりじゃないかな。不良中の不良だったけど」
 本田は何かを思い出すようにして一人で含み笑いをする。
「服飾の専門学校に通っているって言ってました」
 店員がやってきてお通しが置かれる。なにか飲み物をお持ちしましょうかと問われて、本田はウーロン茶を二つ注文した。そして広げたメニューを磨理に向かって差し出す。
「なにか食べたいものある?」
「……なんでもおいしく食べられると思います」
「それもそうね!」
 そう言って笑うと本田はメニューを引き戻し、店員に向かって次々と注文を繰り出した。
「──大野可奈子はね、少なくとも絵が上手いと言える子ではなかったの。写生の課題で画用紙を渡すでしょう。あの子はそれを埋めることがいつまでたってもできないの。のぞき込むと、葉の一枚一枚を丁寧に書き込んでいてね。それと同じ密度でB3サイズの真っ白な画用紙の端のほうから下書きしていくのよ。いつだったか私のところに来て、『先生、写生なんて不可能です』って言うの。すごい怖い顔して言うのよ。びっくりしてどうしてって聞き返したら『だって筆を動かしている間にも太陽は動いていってしまうから、さっき見ていた景色と同じものを紙の上に再現するのは写真でもなければ無理です』って、だいたいそんなようなことを言ってきたわ。面白いでしょう? 私としては時間の切り貼りみたいな風景画も面白いかなと思ったんだけどね。同じ定点から見ている風景なのに、左から右に向かって朝昼晩って色彩が変わっていくの。すごく正直な写生だと、私は思うんだけどな。けっこう真面目にそうやってアドバイスしたんだけど、大野は冗談としか思わなかったみたいね。それが彼女の限界でもあり、同時に強みでもあったんだと思う。服飾みたいに細部を描き込めるデッサンの力さえあればやっていける道に進んだのは、あの子が自分のことをよくわかっていたってことよ。そういう意味ですごく賢い子だったな」
 磨理は本田の話に耳を傾けながらバスの中での可奈子の姿を思い起こす。けれど、そうだ、初めてのお酒のせいでかんじんの所で記憶が抜けている。もう何をはなしたかなんて、内容は覚えていない。けれど、楽しそうに専門学校の出来事や地元の友達のことを話す彼女の笑顔と声の響きは磨理の目に、耳に今でもしっかりと残っている。残像や残響ではなくて、くっきりとした形をもって。
 それからは次々と運ばれてくる料理を胃の中へ流し込むのに忙しく、それからも一人で過去の教え子のエピソードを語って聞かせる本田の話に耳を貸しながらも磨理は黙々と箸を動かした。味が、こんなにくっきりと舌の上で感じられるのが嬉しかった。目の前の人が自分に向かってはなしをしてくれるのが嬉しかった。誰にもとがめられずに温かい場所に座っていられることが嬉しかった。……と、磨理はいつの間にか眠り込んでしまう。本田は悪いと思いながらもさすがに磨理を背負う力もないから無理矢理起こし、自分の足で歩かせながらもその店からすぐ近くにあったビジネスホテルに入った。磨理がおぼろげながらも記憶しているのは、そのホテルの小さなフロントにしなだれかかった大理石の冷たさが、その日の最後だった。

 翌朝、既に身なりを整えた本田に磨理は起こされる。
「昨日あなた、そのまま眠ってしまったからシャワーを浴びて、下でちゃんと朝食を取りましょう。一日の元気はちゃんと朝ご飯を食べることから始まるのよ」
「──なんか、学校の先生みたいなこと言うね」
 そういってまだ開けきらない目をこすりながら磨理は笑う。
「そりゃあ、あなたの元教師、しかも保護者代理として私はここにいるんだから」
 腕時計は八時を指している。その向こうで、ベッドから離れていった本田が鏡をのぞき込みながら髪の毛を整えている。
 うん、と背伸びをして足で布団を蹴飛ばすと朝の光が目の中に飛び込んでくる。小さな磨りガラスから差し込む真っ白な光が真っ白な掛け布団の上の山谷を照らす。その清潔な色彩は磨理の心をもう一度洗い直すにあまりあるものだった。身も心も──そう思って磨理は小さなシャワールームの中に入った。

 通勤ラッシュを過ぎた朝の中央線で東京駅に向かう。ドアのすぐそばに立って窓の外を流れる風景を見ながら、磨理はここに来た最初の日を思い出す。下りの、同じ電車に乗っていた。今と逆の駅を順番にたどっていた。夜だった。人の流れについて行くのが精一杯で、風景にまで気など回らない。今、目に映る外濠の三分咲きはそれでもまばゆい。でもこれはサヨナラの桜。桜は人がなにかを始めようとするとき、咲いているものだ。けれど今はなにかが終わるときだ。市ヶ谷を過ぎて、東京駅は刻一刻と近づいてくる。高速バスに乗ってしまえば福島まではもう戻るしかない。私はこんな気持ちで桜を見るために東京に来たのだろうか。それとも、これがチャンスをつかめなかったことの必然的な結果なのだろうか。
 そして、そこでようやく磨理の頭に圭史のことが浮かぶ。つい昨日のことなのに、警官に呼び止められてから気が動転してしまって、電話の最中だったのにすっかり忘れてしまっていた。もちろんパーティーはもう終わっているだろう。招かれざる客である自分のことを心配するものもないだろう。けれどあの男の人──東山圭史にはこれから故郷に帰ることを伝え、お詫びの言葉をひとつでもいいから言いたかった。ただあの人には、自分のことを知っておいて欲しいと思った。ここに来て、助けの手をさしのべてくれたたった一人の人だから。
「先生、一本だけ電話をかけさせてください」
 東京駅のホームに降り立つやいなや磨理は言う。とっくに電池の切れている携帯電話はかばんの奥底にあった。本田から小銭をもらうと、キオスクの横にあった公衆電話に走っていき受話器を上げる。財布の中からもうくしゃくしゃになってしまった圭史の名刺を取り出すと、ゆっくりと番号を押す。五回目の呼び出し音の後、果たして圭史その人の声が「もしもし」と言うのを磨理の耳はとらえる。
「昨日は急に行けなくてごめんなさい。熊谷磨理です」
「急に行けない──というか、急に電話切れたよね。なにかあったの?」
「あった……と言えばあったんですけど、ご心配おかけしたくないので細かいことは許してください。でも、結論だけ言うと、これから田舎に帰ります」
「そっか──まあ、それは、残念と言うべきなのかな」
「何もかも、私の準備不足なんです。東京では、当たり前だけどみんな知らない人で、だから誰も助けてくれない。同じ境遇のもの同士で夜のコンビニに集まるのが精一杯です。私が甘かったんです。泊まれるところだって、いくらでもあるだろうってたかをくくっていたんです」
 磨理はそうやって自分の境遇を言葉にしながら、改めてその通りだと自分でも納得していく。つかめなかった、つかみたくなかった、信じたくなかった今の自分を誰かに説明することで、断片的な感情がひとつの束に整っていく。それはひとつの快さ、潔さを必要とするものだったけれど、同時に思い描いていた自分のロマネスクとのあまりの隔たりを嫌と言うほど見せつけられる営みでもある。
「──ねえ、ぼくには計画があるんだ」
 声の主は急にそのトーンを下げる。
「計画?」
「そう、例えばアーティスト・イン・レジデンスみたいなものを東京に作る。まあ、簡単に言ってしまえばトキワ荘みたいなものかな。君みたいな人が、最大限に能力を発揮できる仕組みも考えている」
 けれど磨理には、彼が何を言っているのがさっぱりわからなかった。一体、自分とそう年も離れていないであろう一人の青年がそんな企てを考えているのか、それもけっこう大まじめに。
「そうだね──いつか、そんな場所ができるといいですね」
「え?」
「ううん、とにかく私は一旦、東京に敗北宣言して田舎に戻ります。それから、どうなるかはわからないけれど、でも、あの時駅で話しかけてくれてありがとうございました。お礼だけでも、言いたくて」
「ああ、うん。今度来るときには、困らないようにしておくよ、必ず」
 最後まで相手の妙な熱意を磨理は不思議に思った。小銭が音を立てて落ちる。時間はなかった。磨理は短く別れの言葉を口にして電話を切る、なにかを振り切るように、答えを完結させるように、まだあるのかもしれない物語の続きに恐れをなして本を閉じる。振り返ると本田は少し離れたベンチで缶コーヒーを飲み終わったところだった。
「気は済んだ?」
「はい。思い残すものはなにもありません」
「大げさね……」
 そう言って本田はうつむいている磨理の急に押し黙った様子に「すべてをあきらめる必要なんて、ひとつもないわ」と、もう一度声をかける。さっき乗ってきた中央線が折り返し、下り電車として出発する合図がホームに鳴り響く。派手な音を立ててドアが閉まり、列車はゆっくりと動き出す。後には空っぽの線路が朝の光を反射している。

     七 実業家の出発

 携帯電話を閉じると圭史はちょうど大学図書館の前に立っていた。キャンパス最寄りの地下鉄の駅を出たところで電話を受け、話をしながら歩いてきたのだった。大通りの交差点を越え、いつもの通用門をくぐってきたはずだったが、通話に夢中になっていたせいか、自分が歩いていたということをほとんど覚えておらず、パチンと音をさせて二つ折りの電話をたたんだとき、初めて周囲の音や光が自分の中に入ってきた。
「ああ……まだ暑いな」
 額から流れてくる大粒の汗を手の甲でぬぐいながら圭史は独りごちる。燃えるような夏の木立の明るい影が、図書館の入り口へ上る階段を半分おおっている。その前に乱雑に並べられた自転車の群れ。石畳を強く照らす、季節としては盛りを過ぎてなお最後のエネルギーを主張し続ける太陽の光。頭から降り注ぐ蝉時雨。──と、広場の真ん中に位置する噴水が沈黙を破る。一度それが始まるとあたりは水音に満たされる。関東大震災後に立てられた堅牢な校舎の壁に反射する音が、圭史の皮膚へも届く。
 手に持っていたトートバッグを肩に掛け直すと、その中に入っている真新しいノートの重みを感じる。昨日の夕食が終わって自室に戻ったあと、圭史はすぐにペンを走らせ始めた。父である圭造から一式渡された幕張本郷の登記簿と関係書類の束からは何らのイメージも湧いてこなかった。だからまずは何らの制約もないと仮定してプランを書き出していくことから始めようと思った。
 確かに、その中に「トキワ荘」構想はあった。けれどそんな子どもの夢のようなものを圭史も最初からできると信じて書いたわけではない。堅実なプランは他にいくらでもあった。駐車場、トランクルーム、貸倉庫、あるいは商業施設への転換。万年筆を走らせながら、そういったお座なりのとでも言うべき優等生的な回答はすらすらと出てきた。そしてそうしているうちにいよいよ自分が父親の敷いたレールの上をなんのきしみもなく滑走し始める風を感じた。正確に言えば、風圧を感じた。途端に圭史はノートのページをあらためるとほとばしる本流の飛沫をすくい上げるようにして実現可能性を度外視した計画を書き始める。「アーティスト・イン・レジデンス」多くは公共機関が資金を提供し、ある場所に作家を招いて住んでもらい、創作活動に専念してもらう。
 いくつもの妥協を圭史は繰り返してきた。そしてまた抱え続けていた。偉大なる父への反発。そんな物語にからめ取られることを潔しとする男ではないつもりであった。けれどわかってもらえないことに居心地の良さを感じるほど自分の人生に楽観的でいられるような年齢でもないという自覚はあった。日々それはむしろ強まっていくのだった。形はどうであれ、具体的な挑戦を仕掛けられるのは初めてのことだった。始まりの合図。父も頭の悪い人間ではない。あらゆる計画を練りに練った上で、そのボールを圭史に投げてきた。あの場所で、記者まで呼びつけてそのことをしたということには、並々ならぬ父親の本気を読まなければならない。だから圭史もまた、同じ気持ちで投げ返さなければならないと感じていた。
 父の問いにどう答えるのか?
 それを考えるために図書館に来たはずだったのだが(彼はしばしば図書館の特定の席に座って半日近くノートを広げて過ごすことがあった)熊谷磨理との電話で思わず口走ってしまったことが、もしかしたら答えなのではないかと、不意に口をついてしまったのだからこそむしろ自分の本心に近い答えなのではないかと妙に納得する自分がいた。甘い夢の残り香と、あられもないキャッシュの流れとに橋を架ける──その発想こそがずいぶんと子供じみていると言えばそうなのだが──いずれにせよ、圭史の目に今映っている噴水の水しぶきと池の端を覆う夏の緑は端的に自分の心を反映しているようで、時代がかった私小説の世界観みたいだと、圭史は自分の中にうまれいずる新しい感情を少し恥ずかしく思いながらきびすを返す。図書館で思案に暮れている場合ではない。まずはその土地を見に行こう。

 御茶ノ水駅から総武線に乗り換えると、四十分程度で幕張本郷に到着する。東山パイプ&スチールが本社工場を構える鉄鋼団地よりさらに東側に位置する。都内から幕張地区に来ると少なからぬ変化を感じる。歩いている人の数はもちろんのことだが、それ以上にそもそも街としての成り立ちが全く異なることを、圭史は自分の幼い頃の記憶とも織り交ぜながら感ぜざるを得ない。馴染みの新宿はいくつもの歴史のレイヤーがひとつの土地の上に重なり合っている。タイムズスクエアで買い物を終えてガード下をくぐり抜け、思い出横町で一杯ひっかけていても同じ街の中にいる感覚はある。それはきっと街のあちこちに内藤新宿から戦後の闇市を経て現在に至る様々な歴史の断層が顔を出していることを、この街が「無計画性」として排除せず受けて入れてきたからこそだ。変化をそのスタイルとしたとき、街は生き始める。細分化され断片化された時代の反故があちらこちらで縫い合わされ当てがわれていく。統一感のないという統一感。
 いま、幕張本郷駅の改札を抜け南口の陸教の上に立ってこの広大な台地を見回してみると、ここが人びとが仕事を終えて安らぎを求めに帰ってくる場所であることがわかる。ここは家族と朝食を食べ、子どもを育て、父親を職場へ送り出すための街だ。線路を挟んだ北側は幹線道路を囲むようにしてて民家が立ち並ぶ。その色とりどりの屋根が、平坦な土地の眺望遙か彼方まで続く。転じて海へと向かう南側も真新しい高層マンションが文字通り林立している。きっと土曜日や日曜日には海浜幕張まで自家用車を飛ばし、アウトレットモールで買い物や食事を楽しむのだろう。圭史にとってそういった生活は創造だに難くないものではあるが、いっこうに現実味をおびないものではあった。そういうのは、小説とか映画の中の出来事のようだった。人びとの憧れる──憧れはしないかもしれないが──マイホームパパとその家族の物語。小津安二郎だったら、素敵な脚本に仕上げてくれるに違いない。
 かばんの中から目当ての土地の住所を確認しようと書類を出そうとすると、携帯電話がメールの着信を知らせた。
「そこに立っているのはひがし君だな?」
 それは、クラスメイトである日下部美佳からのものだった。近くにいるのだろうか? と顔を上げて辺りを見回すと、陸橋の下のロータリーから車のクラクションが聞こえてきた。手すりから身を乗り出して下を覗くと、その青いコンパクトカーのウインドーが下がって見慣れた顔が手を振っているのが見えた。
「何やってんの? こんなところで珍しい」
「日下部って、ここに住んでたんだっけ?」
「えっ?」
 強い風が吹いてきて、橋の上と下とで会話するには少々不便な雲行きだった。「今そっち行く」と聞こえないのを承知で言って圭史は階段を下りていった。美佳もアイドリングしながら運転席から降りてくる。
「運転するんだ」
「ここに住んでたら車がないとどこにも行けないもの」
 都内の大学に自動車で通学してくる者はもちろんいない。そもそも運転免許を取ることさえ、よっぽど就職活動で必要になったとかでも無い限り話頭にすら上らない。だから圭史にとって見れば身近な友人がごく当たり前のように車を運転しているのが
「ぜんぜん知らなかった。というか、そういうイメージがなかった」
「車乗ってるなんて言ったらなんか嫌味でしょ? こっちは不便だから乗らざるを得ないのに、都内にお住まいの方は車なんて酒やら煙草みたいな嗜好品かなにかと勘違いしていらっしゃるからね」
「ごめん」
「わかってくれればよろしい。で? どこに行くの?」
「この前のパーティーで発表があっただろう。その場所を見に来たんだ。住所はわかるんだけど、どこかわかるかな?」
 圭史はそう言ってさっきかばんの中からだそうとしていた登記簿のコピーを美佳に見せる。美佳はしばらくそこに書かれてある文字を読んでいたが、たかだか一行で済んでしまう住所を読み終えるにはいささか長い時間、彼女はそれを見つめていた。他のことを考えでもしていたのかもしれない。
「ちょっと駅からは遠いね。乗ってく? 私も見てみたいな」
「でも、だれか待っていたんじゃないの?」
 さすがに大学生といえどもなんの用もなく駅前のロータリーで車を止めておくほど時間を持て余しているわけではない。
「ん? まあいいから」
 そう言って美佳はさっさと車の中に戻ってしまう。「まあ、いいから」と圭史は繰り返すようにしてつぶやくと「早く乗って!」と急かす美佳の言葉に乗せられるようにして車の反対側に回ってまだ真新しい匂いのする車内に乗り込む。
「私だってヒマじゃないんだからね」
 と、さっきとはまるで矛盾する言葉を口にしながら美佳はハンドルを切って大通りへと出る。それから車は線路をまたぐ橋を渡って北東へとスピードを上げた。走り去る窓外の風景はどこを切り取っても変わり映えのするものではない。車内は音楽を翔でもなくただロードノイズだけが静かに足元で響く。
「もう一回さっきの住所言ってくれる?」
「習志野市花咲××ー××」
「ひがし君、最寄り駅を間違えたね。まあでもおかげで私に拾われたからラッキーだったかな」
 住宅街は迷路のように入り組んでいて、大通りが突然とぎれた後は東西南北もわからなくなるような十字路に次ぐ十字路を美佳は器用に最短ルートで車を運んでいるらしい。少なくともモニターに映されているカーナビの地図を見るともなく見ていると、彼女の「現在地」は同じ場所に戻ることなく進んでいる。
「女の人って地図が読めないって言うじゃん」
「運転しながらの景色でしかどっちに行けばいいのか判断できないのよね。だからカーナビってあんまり使わない──あ、たぶんここだ」
 と言って美佳は車を道の真ん中でいきなり止める。一瞬前のめりになった身体を起こすと、道の右側にはだだっ広い駐車場とその一角に二階建ての古いアパートのような建物が立っている。
「その駐車場に入れちゃおう」
「怒られない?」
「所有者はぼくだよ」
 冗談めかして半ば本気をただよわせながら圭史はそう言う。自社鋼材の一部を流用したらしいパイプで組まれた柵の一部がきれいにが破られていて、ちょうど車一台分が通ることができた。真っ白な砂利の敷かれたなにもない場所に車は止まる。ほこりっぽい地面に足を下ろすと改めて二人は目の前の建物をじっくりと眺めることができた。そして、だれがどう見ても「廃屋」という一言が最初に口をついて出てきそうなその建造物に「廃屋」ではない言葉を当てはめるならば何がふさわしいかを考えなければならなかった。近づいてみると壁のひび割れや手すりの錆がいよいよ目立った。そう古くはないはずだが、人が住まないと建物というのはすぐに荒れてしまうことが、まざまざと思い知らされる。しかしそれ以上に、二人と建物の入り口との間には一メートルを優に越える雑草が生い茂っていて、駐車場からのアプローチを完全にさえぎってしまっていた。かき分けていけばなんとか通れるという程度のものではない。びっしりと根本は地面を覆い尽くし、行く手を阻んでいる。
「これは、土地利用とかそれ以前に下草を刈らないと考えが次に進まないね」
 触れれば手を切ってしまいそうなするどい葉の先を手で丸めながら圭史は言う。
「でもこういう木造アパートってなんだか懐かしいね」
「確かに。風呂無しトイレ共同、きしむ廊下に鳴り響く黒電話のベル。古き良き昭和の共同体」
「最近はやっぱりレトロブームだからこういうのも残しておけばちょっとは話題になったりしないの? 物件としては稀少じゃない?」
「じゃあここ住む?」
「え?」
 そんな意地悪な質問をするような人だっけ? とでも言いたげに美佳はうっすらと笑みを浮かべながらも困ったような顔をする。
「単に数の過多で希少価値とは決められないよ。会社の独身寮とは言ったってさすがに学生じゃないんだから、今の時代好き好まない限りは人は入らないだろうな。まわりもきれいな住宅街のようだし、この一画だけ時間が止められているみたいだ」
 圭史は常に父親との想定問答を頭の中で繰り返していた。まだ彼は、自分の思い描いている計画の実現性を測りかねている。現実という得体の知れないかたまりに向かって手を伸ばす。その感触はまだない。反発も、懐柔も、まだなにもない。当たり前だ、彼はまだ手を伸ばしたに過ぎないのだから。
「ひがし君ちは鉄が商売なんだから鉄骨で建てれば良かったのに。ほら、この表札なんて金属で出来てますっていう感じがするじゃない?」
 アプローチの入り口に建っている門柱に掛けられているのは「東山P&S習志野寮」と彫られた表札だった。長い間の風雨にさらされてか、ブロンズ製の文字の間から錆が流れ出ている。
「残念ながらうちは、建築用の鋼材は扱ってないんだよ。でも……そうだな」
 圭史は急に黙り込んで腕組みをする。伸ばした手の中に向こうからなにかがやってきてくれた。それは捕まえて手の中にとどめておく価値のあるものだったかもしれない。圭史の感触は選ぶことを選ぶ。
「なんだか、今日はいつも以上に真剣だね、ひがし君」
「この件ばかりは失敗が許されないと思っている。親父は実験だなんてうそぶいているけど、これでぼくのなにかが試されるんだ。具体的な判断が下されるんだ」
「家業を継ごうと思い始めてるってこと?」
「そうじゃない」
「そうじゃないの? だって会計の学校だって通っているわけでしょ? 準備は着々と進んでいるわけじゃない。この寮だって、ひがし君が考えているほど深刻なものじゃないよ、きっと。経験として、……変な言い方だけどむしろ失敗してくれた方がいろいろと学べるくらいにお父さんも思っているはずだよ」
 美佳の言葉を聞きながら圭史は心に揺らぎを覚える。彼の心中には二つの相反する願望があった。ひとつは、父親に肯定されたいという思い。確かに言えるのは、圭史は失敗することを潔しとしていない。勝者にしか選択の権利はない。ならばひとつひとつの挑戦に対して全力を尽くし、かつ圧勝を手に入れなければならない。接戦の末の辛勝など負けたも同然である。そうして、いつだって自分は始められるという証拠さえ残しておけば、決断を先延ばしにできるのではないかと、どこかで願っている。もうひとつは、父親に否定されたいという思い。それは一種の破滅願望でもある。言うなればそれは完敗である。不戦敗である。「お前は全く使い物にならない」とでも引導を渡され、遠い親戚でも良い、いっそのこと血のつながらぬ外部の人間を経営に呼び込む、そして圭史は三代目の凋落として名を刻む……。だがそれは、それこそは現実離れした彼の夢想であったか。既にプレスに流れた事実を彼はこの先も追いかけなければならない。そしてそれは、成功の物語を描き出すべく奇跡を残さなければならない。
「そうかもしれないね」
 たくさんの言葉が頭の中を流れては去っていったが、それを美佳に話そうという気持ちにはなれなかった。その代わり、彼女のそばから離れるとかばんの中からデジタルカメラを取りだして建物や駐車場、周囲の住宅街の様子を黙々と写していく。美佳は反応の薄い圭史を不思議に思いながらもそれ以上深追いすることはせず、手持ちぶさたに辺りの草木に触れてみたりさっきのプレートの文字を指でなぞったりしている。仕舞いには一人で放っておかれるのが飽いたのか、草をかき分けて入り口へ進もうと試みた。そして、見た目以上に雑草は柔らかく道を空けてくれることに気がつく。先に腕を伸ばせば鋭い葉に疵を付けられる。だから足で先に根本を踏みつけてしまえば、自然と前に道は出来上がるのだった。
「入れそう?」
 遠くから圭史がまるで他人事のように問うのをわざと聞こえないふりをして美佳はアプローチを突破し、基礎のコンクリートの上へ足を踏み入れた。それもひび割れ、少し蹴飛ばせば角がボロボロと崩れ落ちる。雨の跡が不気味に黒く表面を汚している。さび付いた自転車、空っぽの植木鉢、骨だけのビニール傘がいくつも窓の桟に掛けてある。二階へ上がる鉄骨の階段からは錆の匂いがただよってくる。足をかければ踏み板はすぐにでも崩れ落ちるだろう。
「危ないよ」
 と、後ろから声がして美佳が振り返ればようやく圭史も腕を疵だらけにして彼女に追いついたところだった。
「壊すんだったらちゃんと中を見ておかないと。これは義務みたいなものよ、ひがし君の」
 そう言って二人が見上げた一○三号室の扉。その傍らには差し込み式のネームプレートが設置されていて、油性ペンで「柏木錬太郎」とある。
「錬太郎さんだ」
「知ってる人?」
「ついこの前、定年を迎えた大ベテランの人だよ。今はどこに住んでいたっけな……例によってまだ居てもらっているから工場に行けば会えるよ」
「ふうん」
 と言いながら美佳はドアノブへ手を伸ばす。
「やっ、ちょっと……」
 急に部屋の主が身近な人間だとわかると身構えるのか圭史は瞬間、引きとどめるかのように腕を延ばしたが美佳の方が早かった。鍵かかかっていると思われたノブはすんなりと回り、扉は開かれる。その隙間からは埃っぽく乾いた古い空気が流れ出す。半分だけ開けてから美佳は問題が無いことを悟り、扉を開け放った。

     八 画家の帰郷

「お母さんにどんな顔をして会えばいいかわからない」
 バスは既に茨城県に入ってかなりの時間がたっていた。高速道路に乗れば一切の停留所を待たない長距離バスの単調な振動に、そして平日昼間の乗客の少なさによる静けさとよく効いた冷房に、さっきまで二人はぐっすりと眠り込んでいた。そして身体の奥深くに巣くう疲労のかたまりがなにかのタイミングでぱちっと消えて無くなった瞬間に、誰かに目を覚まされるでもなく磨理は目を開いた。そして隣の席に座る本田の方に目をやると、偶然にも彼女もまた、ちょうどまぶたが独りでに持ち上がったところだった。
「親子なんだから、そんなこと考えなくても良いのよ。あなたがお母さんに会ったときに、あなたの顔は勝手にあなたの本当の気持ちを表現してくれるはずよ」
「私、そういうの、わからないんです」
「でも、例えば今私としゃべっているでしょ? それって、別にあらかじめこういうことをしゃべろうって用意していたことをしゃべっているわけじゃないでしょう?」
「どういう意味ですか?」
「うーん、例えばあなたに彼氏がいるとするでしょ? デートをするとするでしょ? そりゃ、もちろん今日は何を着ていこうとか何をしようとか何を話そうとか、そういうのを前の日に考えることはあるかもしれないけど、当日駅前であってにっこり笑えば、考えていたシナリオとかって忘れてしまうものじゃない。それとと一緒よ。あなたの人生になにか台本があって、それ通りにやろうとしたって無理なのよ。それは常に書き換えられていくものなの。瞬間瞬間にね。私だって今の話、今思いついただけなのよ。だから、あなたは正直な気持ちになってお母さんの前に姿を現せばそれだけで良いの」
 磨理はそこまで説明されても、ぴんと来なかった。彼女は、本当に母親と相対するときには入念なシナリオを作り上げなければならなかった。でなければ、だんまりを決め込むかだ。それはいつでも緊張を強いるものであった。
 いつからだかはわからない。父親と離婚してからだとしたら、磨理にとっては既に記憶のない時代のことになってしまう。物心ついたときから、母親のため息は生活の一部として定着しきっていた。もちろん磨理は少なくとも自分がその要因にならぬよう最大限の努力をしてきたつもりだ。そして今回の一件で、積み上げてきた貯金を全て使い果たしてしまったようにも思う。今までと同じように暮らすことはもうできないだろう。もう一度ゼロから積み上げるには、あまりにも時間がかかるようにも思う。
「先生は、今一人で暮らしているの?」
「そうよ。え? それどういう意味?」
 本田は苦笑いを浮かべながら、磨理の意図を汲みかねている。
「お母さんに許してもらうには、私はもう家からでないといけないと思う。私にはもう、お金をかけられるような立場にはいないから。だから、一人で暮らして、それで、その中で絵も描こうと思う。お母さんには許してもらえないかもしれないけれど、そうすることでしかたぶん、お母さんの気持ちを和らげることはできないと思う」
「どうしてそんなに親に気を使わないといけないの? 家族でしょ?」
「先生の言っている家族と、私の家は違うんです」
 そう言われて、本田はそれ以上自分の考えを通すことを止めた。あきらめたのではない。家族の問題よりも、磨理が一人で暮らそうと思っていることに、彼女の大きな変化を見たからだった。それで良い。そう思えるようになっただけでも、東京に来た甲斐はあったかもしれない。そして、そうやって彼女が一人で自分の生活を引き受けることができるようになることで、母親との問題も解決するかもしれない。たった二人で、狭い部屋で長い間暮らしてきたのだ。本田自身、そういう環境がどれほど時に壮絶な息苦しさを与えてくるものかは想像することもできない。けれど、もし高校を卒業した磨理がそこから一歩外に出るのだとしたら、お互いに家族というものの定義が大きく変わる瞬間が訪れるのもそう遠くはないのだろうと思う。だから、本田はそれ以上磨理に何か言うことを止めた。
「私は誰にも邪魔されない、誰にも文句の言われない場所を自分で作らなくちゃいけないんです。小さな机ひとつで良い、その上で絵が描ければ……」
 強い午後の光がカーテンの縦糸と横糸の間からちらちらと光るのがわかる。本田が思い切ってカーテンを開けると、バスが海沿いに出たことがわかった。道路は日立の辺りで海側を迂回し、この後福島の内陸へいよいよさかのぼっていく。対向車も併走車もなく、バスはトルク数を一定にエンジン音を響かせ続ける。

 バス停に見慣れた姿があるのを見つけて、磨理は不意を打たれた。全く想像していないことだった。いつからそこで待っていたのだろうか。駅の東屋にでも座っていればいいのに、日を遮るもののなにもない停留所のポールの横でじっと立っている小さな人影が母親であることは、遠く車窓からでもはっきりとわかるのだった。彼女もまた、じっとこちらを見つめている。言葉よりも前に、そのこわばった顔がどれほどの感情を押し殺しているかが手に取るようにわかった。もしかしたら、母親からも、磨理の顔はそう見えたかもしれない。そうして磨理はさっき本田に言われた妙な例え話を半分くらいは理解できたような気がした。
 バスが止まり、扉が開く。磨理と本田とは、空いている席に置いていたトランクケースを手に取りバスを降りた。埃っぽい地面に立ったとき、空気が懐かしくて磨理はもう少しで泣きそうだった。匂いが、東京とぜんぜん違っていた。
「ただいま」
 目の前の母親は、「ああ」とだけ小さな声で言うとさっさと家のある方角へ歩き出す。ここから徒歩で行けば三十分以上はかかる道のりだ。そういえば自転車は高校の駐輪場に置いてきてしまっていた。磨理は本田に向かって軽くお辞儀をすると、母親を追った。
「お母さん、お疲れですし……タクシーで帰ろうと思うんですけど、一緒にいかがですか?」
 本田は歩き出した二人の後ろ姿向かってそう言った。叫んだ、と言った方が正確かもしれない。
「いえ、これ以上先生にご迷惑お掛けするわけにはいきません。もう卒業した子ですから、帰りのバス代もちゃんと後で返させます。本当に、ご迷惑お掛けいたしました」
 立ち止まって振り向いた母親は前もって用意していたかのように──少なくとも磨理の耳にはそんな風に響いたのだが──なんの抑揚もなくそう言ってまたくるりと背中を向けてしまう。本田はその言葉をもちろん言葉の通りに解釈しはしなかったものの、自分の出番はこれが最後かもしれない、あるいはこれが最後であるべきだと考えた。自分たち教師は確かに罪深い職業なのかもしれない。でも、そんな独り言はなんにも救わない。それは私たちの逃げ口上は私たちの失敗を美化し、取り返しのつかない時間を後付けの意味とか意義で汚してしまう。だから私は口をつぐむ。それさえも、一つのロマンチシズムなのかもしれないけれど。
 親子は会話もなく道を歩き続けた。それが正しく、卒業式からの帰り道であった。長い坂道を下り、橋を渡った。十字路の脇のカラオケボックスの前には休みの時間を持て余している中学生達が座って話しこんでいる。コンビニの前では高校生達がジュースを飲みながら携帯電話の画面に見入っている。東京でも、同じ光景を見た。けれど今あそこに座っている彼らには暗くなったら帰る場所がある。そして休みが終われば、また戻るべき学校生活がある。
 私にはもう、戻る日常なんてものはない。全てはこの今の一層にだけ還元される。どこへも帰れない。けど、どこかへ行ける、と信じたい。磨理はそう思いながら、長い間持ち歩いて表紙の端がすり切れてしまったポートフォリオの手のひらに与える感触を確かめる。これで終わりじゃない。これが出発なんだ。

 無言のままアパートにまでたどり着く。ずいぶんと久しぶりに戻ってきた気がする。そして、鉄製の扉も、中に入って見る洗濯物で散らかった居間もどこかよそよそしく感じられた。夕刻を向かえ、ベランダから差し込む光も次第に弱々しくなっていき、たぶんアイロンがけが途中だったらしい、そのアイロン台の細い足がカーペットの上に落とす影も次第に回りの闇と共に消えていこうとしている。
 なおも、母親は帰ってきた娘に声を掛けようとしない。何度か磨理が振り返っても、視線を合わせることさえしない。
「お母さん……」
 磨理は台所のフローリングの上に荷物を下ろす。母親は髪の毛をけだるそうにかき上げながら食卓の椅子につく。磨理は戸棚からコップを取り出すと母親の前に置き、冷蔵庫の中からウーロン茶のペットボトルを取り出して中身を注いだ。そして自分の前には何も置かずに向かい合うようにして座る。
「バスを降りて最初に言うべきだった……ごめんなさい。勝手なことしました。反省しています」
 磨理は手のひらを自分の膝に押し当てて頭を下げた。半分は演技、半分は本気だった。彼女の中には一つのプランが芽生え始めていた。本田に語ったとおり、自分だけの聖域を確保しなければならない。それを遂行する必要があった。母親と和解をしなければそれは気持ちよく先に進めることはできまいと思っていた。
「いいわよ、もう……。好きになさい」
 そう言って、母親は額にあてていた手のひらを頭の後ろにまで持っていく。いや、手のひらの位置をそのままに頭をその中へ潜り込ませたかのようだった。彼女の顔は今にもキッチンテーブルの天板にくっつきそうだった。そして、コップに注がれたウーロン茶にはほとんど気もついていないかのようだった。下を向いていた磨理はその様子を見ることはできなかった。そして彼女が顔を上げたときには、もう相手は腰を上げ居間に戻り仕掛かっていたアイロンを再び始める様子であった。
 あっけにとられながらも、それが許しを得たとはとうてい言えない状況であることは理解した。
「お母さん!」
 磨理から演技は消えた。彼女は席を立てると母親を追う。
「ごめんなさい、本当にそう思ってる。だから、聞いて。私はちゃんとこの家から出て行きます」
「なんだって?」
 母親は自分の仕事に向かって手を動かしながらようやく口を開く。今度は何を言い出すんだ、これ以上私を混乱させないでくれとでも言わんばかりに頭を横に振る。
「ちゃんと働きます。アルバイトじゃなくて、ちゃんと自分で部屋を借りてそこに住んで、そこでご飯をつくって、そこで寝ます。家賃も、電気代も、自分で払います」
「得意げに言わないでくれよ。そんなこと当たり前じゃないか。どうしてお前は、そんなことを今になって言うんだ。東京にまで家出して、もう卒業した学校の先生にあんなに迷惑かけてまでしないとお前は気がつかないのか、そんなことに!」
 ほとんどそれは悲鳴に近かった。彼女は床に広げられたくしゃくしゃのティーシャツをさらにくしゃくしゃにしてつかんで、母親はそれから同じような言葉を繰り返した。
「どうしてお前は、そんなに……」
 磨理は立ちつくす。そして一方でもう自分はここにはいられない、いる必要もない、いてはいけない、ということを噛みしめる。けれど今はまだ、未来という少しの希望が磨理を慰める。それを考えることで、下がっていく水位に少しでも水を足そうとする。そして時間はない。

 夕食もそこそこにして、早めに就寝する。昨日から眠ってばかりだ。これまでのことを精算するかのように眠っていたけれど、今は違う。明日からのために私は深く眠る。

 翌朝、磨理は目覚ましをかけずともいつも学校に出かけていたのと同じ七時に目が覚めた。そうして、彼女は机の前に座ると、昨日の夜こっそりと持ち出した母親の古い家計簿を

     九 記憶の回廊

「壁中カビだらけだったらどうしようかと思った」
「変なこと言うなよ」
 そうは言いながらも美佳が猫の額ほどの玄関のコンクリート敷きの上にきちんと靴を脱ぎそろえたことに改めて

〈了〉


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