ア・ピース・オブ・タイム

◆江利子から河合への出されなかった一通目のメール〈1〉

 毎週土曜日に母は男の人に会いに行きます。家の近くの喫茶店で午後三時ぴったりに。それが二人の約束のようです。
 今年中学二年に上がったばかりの私のことを、母は子供とも大人とも決めかねているらしく、その毎週の「逢い引き」に必ず連れて行きます。もし私が小学生だったら母はそのことを隠すでしょうし、そもそも別れた父以外の男性に興味を示すことなど無かったでしょう。私は小五になっても母親と同じ布団で寝ていたくらい手のかかる子でしたから。あるいはもし私が高校生になっていたら下手な刺激を与えないように家で留守番を言いつけていたかもしれません。演技がうまくない母は思いきりおめかしをして香水を振りまいて、もうどこから見てもデートに出かける雰囲気なのに決してそれを口に出さないで、私に家のかぎをあずけていくことでしょう。たぶん、母はそうすると思います。子どもみたいな大人なのです。
 そんなわけで母にくっついて喫茶店「タイムレス」へ行くのですが、私が二人と同席することはありません。二人が楽しそうにおしゃべりしているその話し声が聞こえないくらいのところに私は座らされ、週替わりのケーキセットを与えられます。お店のケーキはどれもおいしいので私はべつだん苦痛ではありません。それに大沢さん──というのが母の相手の名前でしたが、彼が気を使って毎週私に新しい本を持ってきてくれます。
 私がそれを読み終わるまでの間、それは時に二時間だったり三時間だったりしますが、その時間が二人にとって週に一度の至福の時のようなのでした。だから私はどんな本でもなるべくゆっくりと味わうようにして読むようにしています。時には一度読み終わった本をもう一度最初から読み返すこともあります。
 大沢さんが持ってくる本は決まって文庫本の小説ですが、その種類は本当にいろいろあります。私が十四歳であることなど少しもお構いなしに、古今東西のいわゆる名作文学から最近の作家のベストセラーまで持ってきてくれます。大沢さんが次にどんな小説を持ってきてくれるのか、全くわかりません。
 三時を少しだけ過ぎて彼が喫茶店の扉を開けてやってくると、入り口に近い方に座っている私に書店の紙袋を「はい」と一言だけ言ってまず渡してくれます。そして彼は母のところへ行き、私には背を向けて座り、コーヒーを注文します。それを見とどけてから私はがさがさと音を立てながら袋の中の文庫本を取りだし、その表紙をながめるのです。
 私が彼の人となりを推しはかる手だてはそれらの本のセレクションしかなかったので、ヴォネガットの翌週に川端康成がやってきても私はそこになにか共通点がないか必死に探りながら読んでしまいます。もしかしたら今まで持ってきてくれた本の題名を並べると何かのメッセージになるとか? あるいは本文の中に彼の姿がないものかと探したり。大沢さんと似たような年齢の男の人や私と同じくらいの女の子が出てくると、そのせりふの一言一言を私は深読みしてしまいます。
 少なくとも私は母が興味を持つ男の人を、あるいは母に興味を持つ男の人を理解しようという気持ちがあったのです。それはいつでも間接的なものでした。本を通じて、私は大沢さんを知ろうとしていました。まるで彼が小説家ででもあるかのように、時には思えたのです。
 私はでも、次第に彼と直接言葉を交わしたいと思うようになりました。それは、いやらしい意味で言っているのではありません。彼と本の話をしたいと、ただ思ったのです。母は本を読む人間ではありません。母の部屋には本棚というものはありません。
 答えのない謎を、いえ、それが謎かどうかもわからない謎を私は抱えたままでいました。そして私が大沢さんと直接に話をするチャンスは意外にも早く訪れたのです。

◆喫茶店「タイムレス」閉店後、マスターとアルバイトの女の子との会話

 店主である河合と、アルバイトの大学生渡辺香奈がカウンターでそれぞれ閉店後の作業をしている。河合はレジスターを開け、さっきから何度も千円札を数え直している。
「最近、中学生の女の子いますよね」
「えっ?」
 香奈は食器を洗っていて、水道の音がうるさいらしく河合は大きな声を出す。香奈はわざとそれよりも大きな声で同じ言葉を繰り返す。
「ああ……、ケーキセットの子のこと?」
「あの制服、私も着ていたんですよ。なんだかなつかしくて」
「あれ? 香奈ちゃんがあれ着てたころってこの店あった?」
「まだなかったと思いますけど。私、高校は地元じゃなかったんで──三、四年前のこの辺の記憶があんまりないんですよね」
「高校から水戸に行ったんだっけ?」
「そうです」
「あんなところまでどうやって通っていたの?」
「もちろん電車ですよ。一時間に一本しかないから朝ちょっとでも寝坊すると命取りでしたよ」
「そのかわり帰りはいろいろと言い訳が出来るわけだ」
「でも、いまはこうして地に足つけてバイトに励んでいますから」
「ふうん」
 香奈は皿洗いを終え、きゅっと音をさせて蛇口を閉める。
「マスターはどうしてこんなところでお店やろうと思ったんですか?」
「ぼく? ──そうだなあ。あんまり理由づけて考えたことはないんだけど。接客は好きなんだよ、昔から」
「お客さんって、……近所の主婦しか来ないじゃないですか。たまに来るおっちゃんなんて野球中継が見たいだのスポーツ新聞読みたいだの天皇賞はどうなったのって」
「主婦って言ってもこの辺じゃまだまだ新婚さんが多いからなあ。ちょうど同年代なんだよ、ぼくと。まっ、君には人妻マダムの魅力はわからないか!」
「わからなくても困りませんけどね。えー、でもマスター、そういう目でお客さんを見ているんですね」
「かなわぬからこそ燃ゆる恋だよ。そういう歌なかったっけ? 西行法師?」
「西行がそんなの詠むわけないですよ。それにかなわないっていうのはちょっと意味合いが違いますよ。だって向こうは最初からマスターのこと恋愛の相手として見ていないわけですよね」
「そこ、そこなんだよ。最初からないものをあると思って夢見る、これが喫茶店亭主のダンディズム」
「まあいいですけどね、マスターがいいなら」
「お、香奈ちゃんのそういう返し方好きだな」
「どういうところですか?」
「最後は人任せ。でもけっこう自分は我慢しちゃってたりする。そういう種類の優しさも確かに存在する」
「茶化さないでください!」
 香奈は腕を振り上げるまねをする。
「茶化してないって」
 店内は既に暗い。河合はレジスターをがちゃんと音をさせて閉めると、カウンターの上の灰皿を引き寄せ、煙草に火をつける。
「あれ? マスター、そんな女の人が吸うような煙草吸ってましたっけ?」
「ん……、ああ、これ? ちょっと禁煙中」
「禁煙になってないです」
「あのー、話戻るけどさ。あの中学生、お母さんと一緒に来てるでしょ」
「え? あ? そうなんですか? え、でもいつも一人で本読んでるじゃないですか」
「ぼくはいま、香奈ちゃんのあまりの観察力の欠如にあぜんとしているよ」
「むう」
 不満そうに口をとがらせて、香奈は手をふきながらカウンターの椅子に腰を下ろす。
「店の奥の方にお母さんがいて、いつもあとから来る男の人を待ってるみたいなんだ」
「なーんかそれを聞いただけでだいたいの事情が想像されますね」
「うん」
 河合は深く白い煙を吐く。それから、しばらくの沈黙。煙草をはさんだ指が灰皿の上へ伸び、今にも落ちそうになっていた細長い灰の固まりを落とす。その様子を香奈はカウンターにほおづえをつきながら見ている。。
「なにか、思い出しているんですか?」
「──いや?」
「いや? って! 今のはなにかを考えている顔じゃなかったですよ」
「ん? 考えている顔じゃないって? 香奈ちゃんは人がなにかを思い出そうとしている顔と、考え込んでいる顔とが区別つくの?」
「つきますよ。だてに女を二十年やってませんから」
「それは男とか女とか、そういう話なの? 脳の構造とか?」
「ちがいます。私が言っているのは、男の人がなにを考えているのかだいたいの見当がつくってことです」
「あっ、それは失礼した。香奈ちゃんも女なんだもんなあ」
 河合は大きな声で笑う。
「さてと、もう十時ですよ。いい加減お腹すきました」
「今日はどっかなにか食べに行こうか。ほら、食材も残り少ないし」
「そうですね。でも『どっかなにか』をもう少し明確にしましょうよ」
「それもそうだな」
 河合はもう一度ひっそりと寝静まっている店内の隅々にまで響く笑い声を発する。

◆江利子から河合への出されなかった一通目のメール〈2〉

 その土曜日は台風で朝から雨も風も強くて、いつものようにタイムレスへ行くのか母も決めかねているようでした。朝食を作っている母の顔が迷っている表情でいっぱいなのは、一緒に台所に立ちながら横で見ていても手に取るようにがわかりました。そして母は風が強い音を立ててガラス窓にぶつかるたびにはっとして外へ目をやるのです。
 結局母は私のために三枚もの目玉焼きを作り、そしてそのどれもが黄身と白身とがぐちゃぐちゃになっている始末でした。まるで彼女の心の中そのものなのです。河合さんはプロだからそんな料理は作らないですよね。まあ、けれどだんだん私はそんな母がかわいらしく思えてきたのです。わざと大人ぶったことを言っていると取らないでください。私だって恋、くらいしたことはあります。その全てではないかもしれませんが、母の気持ちはわかるのです。母の中に私と同じものが見つかって、私も嬉しいのかもしれません。
 朝ご飯を食べ終わって、部屋で本棚に並べた大沢さんからのプレゼントの背表紙をながめていると、階下から母が電話をしている声がかすかに聞こえてきました。なにを言っているかまでは聞き取れません。その話しぶりすらも聞き取らせないほどの声でしゃべっているようなのです。窓の半分は雨戸を引いていて、その鉄の表面に打ち付ける雨の音が次第に強くなっていきます。
 電気をつけてもなお暗い部屋の中で私はさっきまでの気持ちが急に冷え込んでくるのを感じました。どうして私には、こんな日に電話をかける相手がいないのだろう。どうして私にはせっかく見つけた母の中の小さな女の子の存在を知らせる相手がいないのだろう。そこで急に私は自分と母との違いを実感するのです。恋人が欲しいというわけではありません。そんな、願ってみたところで簡単にかなうはずもないことを私は思っていたわけではありません。ただ、少し寂しいときには隣に座っていて、私の長い髪の毛をなでてくれながらとりとめもない話を聞いてくれる、そんな人が欲しいのです。もちろん、世間ではそういう気持ちのことをこそ、恋に恋するとかなんとか言うのかもしれませんが。
 前置きが長くなりました。話を先に進めましょう。電話が終わると母は二階に上がってきました。結局出かけることになって化粧でも始めることになったのかと思いましたが、私の部屋の前まで来るとドアをノックします。ドアを開けると母は私の顔を見ずにこう言いました。
「土浦のおばちゃんから今電話があってね、ちょっと具合が悪いらしいのよ。今から行ってくるから、──悪いんだけど、タイムレスには一人で行ってくれない? それで、事情を説明してもらえない? 夜には帰ってくるから……」
 大沢さんの名前こそ出さずに母は私にそんなお願いをするのです。私は母の顔をじっと見ながら、その長い下まつげの落とす影を見ながら、これは断れないと悟りました。わかった、なるべく早く帰ってきておじいちゃんの様子を聞かせてと私は答え、自分からドアを閉めました。一瞬の出来事のようでした。私たちは互いにどんな顔をして良いのかわからなかったのです。
 母がばたばたと家を出てから居間に下りていってテレビを付けると台風十四号は三浦半島をすっぽりと覆っていて、その雲の渦の端は茨城にも届いていました。土浦に行くなんて台風の進行方向へ自分から入っていくようなものです。おじいちゃんの容態はもちろん心配でした。けれど次々と映される波しぶきの激しい現場リポートをながめていると、私が大沢さんに母が来られないことを説明するというたったそれだけのことが、本当にできるのか不安になってくるのです。母から彼の携帯電話にでもかければそれですむと思いませんか? もしかしたら母はわざと私と大沢さんとを引き合わせるためにお芝居をしているのかもしれません。そういうのってあんまりです。私はいろいろなシチュエーションを数え上げていきました。でも最終的には私はその結論を取りませんでした。いくらなんでもおじいちゃんの病気をだしに使うようなことは母はしません。そのことを私はよく知っています。
 午後二時半を回っても雨風は全くおさまる気配がありません。私は行かなければなりませんでした。ジーンズに、濡れてもいいように分厚いスエットを着ると私は、母が台所のテーブルに置いていった千円札を財布に入れて玄関のドアを開けました。

◆喫茶店「タイムレス」開店前、マスターとアルバイトの女の子との会話

「マスター、今日ってホント開店するんですか? こんな天気で人なんて来ないですよ」
 香奈は磨りガラスのはまった天窓をカウンターから眺めながら言う。糊のはがれたメニューの手入れをしているところだ。店内は湿気でむんとしている。
「まあ、開いていても閉まっていても同じなら開けておこうよ。土曜日なんだから、香奈ちゃんもバイトなくなったからって大学に行ったりしないでしょ?」
「授業なくってもデートとかデートとか、いろいろやることありますよ」
「またあ……。でもぼくも学生の時って授業なくても大学行ってたなあ。っていうか、大学には毎日行ってたけど授業には全然」
「エエー、私、授業だけは必ず出てますよ」
「えらい。最近の学生はえらいよ」
 河合は段ボール箱をカウンターの上、香奈が手を動かしているすぐ隣にどすんと置くとガムテープをはがし、中からタマネギやキャベツといった食材を取り出すといちいち匂いをかいでからせっせと冷蔵庫の中に入れていく。
「あの子、来ますかねえ」
「うん」
「マスター、もしかしてあの子のために店開けておこうとか思ってます?」
「するどい」
 河合は冷蔵庫に向かってかがめていた腰を伸ばして香奈に顔を向けるとそう言った。
「するどいって……このシチュエーションでそう思わない方がおかしいですよ。あ、もしかしてマスター、恋しちゃってるんじゃないですか? あの女の子に」
「そういうところ、君はとたんにニブくなるなあ」
 そう言って笑うと彼はまた腰をかがめてタマネギの配置を神経質そうに直す。香奈はしばらく河合の背中を眺めていたが彼にそれ以上会話を続ける気がないのを悟ると、再びメニューの補修に手を動かし始める。一階建ての喫茶店タイムレスの屋根は雨だれの打つ激しい音を響かせている。
「マスター、タマネギって冷蔵庫に入れるものなんですか?」
 何も答えない河合。
 時計が午後十時を指すと彼はおもむろに店の外へ出てクローズドの札をオープンにひっくり返しまた店内に戻ってくる。
「すごい雨だね。扉が風で開かないよ」
「お客さん、来てくれるといいですね」
「うん」
 二人はそれぞれの仕事に戻っていく。

◆江利子から河合への出されなかった一通目のメール〈3〉

 午後三時きっかりに私はタイムレスの扉を開けました。それからのことは河合さんも見ていたとおりです。ずぶ濡れだった私は店員の女の人からタオルを借りて一通り服をぬぐうといつもの席に座りました。案の定店内に私以外のお客さんの姿はなく、雨の中わざわざ来たという自分の状況を少しだけふびんに感じました。読むべき本を持っていなかった私は、メニューを開きいつも通りケーキセットを注文します。さっきの女の人が「今日は台風でお客さんも少ないから一番おいしいケーキを出してあげるね」と言ってくれて、気持ちが楽になりました。自分では気づかなかったけれど、私は思っていた以上に緊張していたのかもしれません。そう見えたのでしょう。
 モンブランの一口目をいただいていたとき、店の扉が静かに開きました。店の中に外の音が入ってきて、雨風がほとんどおさまっていないことを教えてくれます。私はその時ばかりは扉の方を振り向いてしまいました。大沢さんは黒いティーシャツにチノパンといういでたちで、入ってくるとぱちっと傘をたたんでかばんの中から紙袋を取り出すとそれが濡れていないか子細に点検します。自分の髪の毛がくしゃくしゃになっていることよりもよっぽどそっちの方が大事な様子でした。
 もちろん私はその紙袋の中に私のために買ってきてくれた文庫本が入っていることを知っています。正直に言って私は嬉しかったのです。彼が目の前までやってきてそれを手渡してくれたとき、私はにっこりと笑顔を見せていたのですから。そんなことは初めてでした。
「今日、母が急に来れなくなって。そのことを伝えに待っていました」
 私がそう大沢さんに言うと彼は瞬間驚いた顔をしましたがすぐにいつもの落ち着いた、穏やかな顔に戻りました。
「ここ、座ってもいいかな」
 大沢さんは私の向かい合う椅子の背に指を触れながら言い、私がうなずくのを丁寧に待ってからそこへ腰を下ろします。彼はコーヒーを注文すると私に紙袋を開けるよううながしました。中にはフランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』が入っていました。
「現実の恋愛は必ずしも小説のようには運ばない。だからこそぼくたちは小説を読むのかもしれない。あるいは小説に似せようとしてぼくたちは恋愛をするのかもしれない。サガンの小説はどれも読む者の心をかき乱すんだ。どうしてぼくの恋愛は、こうではあり得なかったんだろうって」
「母とはいつもそんな会話をするんですか?」
 私は大沢さんの言っていることがよくわからなかったので、少し意地悪だったかもしれませんがそんな風に答えました。表紙の折り返しに写っているサガンの近影はじっとなにかを見据え、そのなにかが自分に襲いかかってきてもひるまないような様子でした。
 文庫本をテーブルの上に置くと、私はもっとなにか話すべきことがあるんじゃないかと思って組んだ自分の手を見つめていました。やがて運ばれてきたコーヒーに大沢さんが口をつけます。雨が窓ガラスをたたき風が窓枠をがたがた言わせていたのでしょうが私の耳にはもはや入ってきませんでした。
「あなたのお母さんとはいいつきあいをさせていただいている。たぶん、ぼくたちは互いのことを好きなんだと思う。そういうのはあなたも──江利子さんにもわかるよね?」
 私は急に大沢さんから自分の名前を口にされて、その耳慣れない音の響きに新鮮さを感じました。こんなに大人の男の人がエリコと発音するなんて、なんだかおかしな感じもしました。
「人を好きになる気持ちは、知っています」
 私はそう答えました。でも言ったそばから私は本当に知っているのか自問を始めてしまいます。確かに心ここにあらずの母の様子を見てそれが恋しているからだということは私にもわかります。けれど私は男の人とつきあったことはないし、自分が好きな人が自分のことを好きでいるということがどういうものなのかわかりません。そんな奇跡のようなことがこの先の私の人生でちゃんと用意されているのかとても心もとないのです。
「良かった。そうだね、だからこそ君のお母さんはぼくと会っている姿を君にも見ていて欲しいのだと思う。普通はなかなかそんなこと、できないからね。立派な娘さんだ」
 母についての会話はそれだけだったと思います。大沢さんはそれから私にいろいろな質問をしました。学校は楽しいかとか、どんな友達がいてどんな遊びをするのかとか、それから同じクラスの男の子についてとか。私は正直に、それから慎重に言葉を選びながらそれに答えていきました。そうして、今度は私が大沢さんについて質問をしようかなと思ったとき、彼は伝票を持って立ち上がり「こんな日だから温かいコーヒーを飲みながらゆっくり小説でも読んでいてください」と言い残すと再び嵐の中へ出て行ってしまいました。
 河合さん、こんなメールは読んでいて退屈ですか? そうですよね。なんの事件も起こりませんでした。母に頼まれて大沢さんに会う。母に会えなかった彼は私と会話をし、長居しないうちに帰っていく。それから一時間ばかり私は『ブラームスはお好き』を読み、家へ帰りました。そして夕食前には母は戻って来、おじいちゃんの容態について報告をしてくれました。みんなそれぞれやるべきことをやり、そこからはみ出るような行動は起こしませんでした。大沢さんは私を口説こうとしなかったし、母は大笑いしながら帰ってこなかったし、おじいちゃんも死んだりしませんでした。でも私の中で大沢さんと直接に話をしたその三十分にも満たない時間はなにかを変えたのです。それがなんなのか私にはまだ言葉にすることができません。それが正しいことなのかそうでないのか、美しいのか醜いのか、それすらも判断がつきません。次のメールではもう少しそのあたりが整理できればいいなと思います。

◆河合の書く小説、その反故〈1〉

 彼女はぼくが彼女のことを好きであるということを知っていて、ぼくは彼女がぼくとはつきあえないということを知っている。「たとえば人妻と恋愛なんて出来ないですよね。出来ないとわかっているからこそ心地いいなんて、倒錯ですよ」と、バイト先の女の子が言っていた。その通りだと思う。若い意見だが、正しい意見だと思う。確かにぼくは今、夜の高速道路を東京へ向かいながらとても心地よい絶望の底にいる。ここはよく知っているところだ。もしかしたらぼくにとってはここがもっとも安らげる場所なのかもしれない。ここに戻ってくるたびにそう思う、のを思い出す。ここなら死に場所に選んでもいいと思う。
 ぼくがそのことを知ったのは昨日の夜だった。実に四週間ぶりの電話だった。
「ねえ、やっぱり私はあなたの気持ちには答えられないよ。正直に言ってそう思うんだ。でもね、私はあなたにそういう気持ちを持ってもらえて、それだけで本当に嬉しかったよ。それだけは信じて欲しい。本当に、そのことだけで充分だったよ」
 彼女は最後にこう付け加える。
「いまの私には、どうすることもできないの。ね、いまの私にはどうすることもできないのよ」
 友美は三十七歳で、ぼくは今年二十五歳になった。ぼくが三十七歳になったところで、彼女と同じ年齢になるわけではない。友美はそのことを言っているのかもしれない。ぼくにはよくわからなかった。ぼくは三十七歳になったことがないし、ましてや男だ。三十七歳の女の人がどんなことを考えているのかを正確に想像することは難しい。
 けれども理由を十二年という埋められない溝に帰することは簡単だし、気持ちを整理するには絶好の仕切り板だ。ぼくはその手軽さが気にくわなかった。ぼくたちの間にはもっと話し合うべきことがあったはずなのだ。たとえば友美の恋人について、とか。

◆喫茶店「タイムレス」閉店後、マスターとアルバイトの女の子との会話

「今日、結局お客さんあの二人だけでしたね」
「うん、でも重要な顧客だった。VIP様ご来店だったな」
 河合はサイフォンを慎重に洗っている。香奈はエプロン姿のまま机を拭いて回る。台風の進路は西へそれたおかげで雨だけはやんでいる。それだけでも静けさを二人に感じさせる。吹き荒れる風の音は遠くの方からかすかに響いて来るのみだ。
「今日はお母さんの方が来てなかったみたいですけど──あの女の子と男の人がしゃべるのって、ちゃんとしゃべるのって初めてじゃないですか?」
「うん……たぶんそうだろうなあ」
 シンクへと水の流れる音。
「今日あの男の人来たでしょ、この台風の中さ。それがなんかちょっとこう、感動したっていうかさ。ああ、この人はこの人で週に一回のおしゃべりをすごく楽しみに、大事に思ってるんだなあって」
「前はそう思っていなかったんですか?」
 一通り掃除を終えた香奈がカウンターに戻ってくる。
「いや、よくわかんなかったんだよ。だってさ、中学生の子供がいるくらいの女の人を好きになるってどんなものなのかなって」
「それで、わかるようになったんですか?」
「わからない。でも、わかろうとはしている」
「わからないなあ」
「ん?」
「どうしてそんなに興味を持つのか──あ、そうか、マスターはあの女の人に恋してしまったんですね。そうかあ、そうかあ」
「ねえ、これで何度目になるかわからないけどもう一度言うよ。こういう話になるとホントに君はニブイ」
「私にもわかるように説明してくださいよ」
「ううん……それはまだぼくにはできないな。ただ一つ言えるのは、人は恋愛だけでは生きていけないというか。食っていかないといけないし、お互いの歴史とか、そういうのって年を重ねる毎に大きくなっていくから」
「うわ……、大人な発言」
 香奈に対して河合はふっと鼻で笑うと洗っていたサイフォンをカウンターに広げたふきんの上に置く。水を止める。
「コーヒー飲みたいな」
「この前入れたやつ、試してみようか」
 河合はカウンターの下にもぐるとコーヒー豆の入った大きなパウチを持って再び姿を現す。
「はさみってある?」
「そこに──」
 壁に掛かっているそれを取ると河合は封を切る。
「この瞬間って、好きだな」
「うん。窒素に閉じこめられていた豆が息を吹き返すっていうかね。品質管理から言うと本当はそうじゃないんだけど」
 河合は口の開いたパウチを香奈の前に差し出す。
「自分で入れてみな」
「いいんですか?」
 河合は手回しのミルを棚から取り出す。
「これも使うの久しぶりだなあ。さっきのはさみもさあ、幼稚園からずっと使ってるんだよ」
「幼稚園ですか?」
「そんなに物持ちいい方じゃないんだけど、なんかあれだけは切れ味が良くてずっと使ってる。このミルも──これは開店祝いの時にもらったんだったな」
「当時つきあってた彼女に」
「えっ、なんでわかった?」
 香奈は焦りを隠せないでいる河合をよそ目ににやにやしながらミルの中へ適当に豆を入れていく。
「これ、回せばいいんですよね」
「うん、そう……ああ、もう少しゆっくり」
 香奈の白く小さな手が豆の硬さに時々引っかかりながらハンドルを回していく。それを見ながら河合はハイライトに火をつける。最初の深い一息をつくと彼は頭を大げさにぼりぼりとかいた。

◆河合の書く小説、その反故〈2〉

 友美には確かに恋人がいた。けれどもぼくはそんなことはほとんど問題にならないと考えていた。それはほとんどグルーシェンカに恋するドミートリー・カラマーゾフの熱情にさえ喩えられる。もしかするとぼくは自分の若さ──幸か不幸か相対的な若さだったが──をあてにしすぎていたのかもしれない。
 ぼくは彼の名前を知らない。年齢も、どこに住んでいてどんな仕事をしていてどんな音楽を聴きどんな本を読むのかも知らない。でもそれと同じくらいぼくは友美のことを知らない。過去を共有するには遅すぎる出会いだったのかもしれない。彼女にとって二十代は過去でありぼくにとって三十代は未来だった。改めてぼくは自分の年齢というものを呪った。あと十年早く生まれていれば全てはうまくいっていたはずだとさえ考えた。しかし本当のところ、それは単なる友美にとって都合の良い断りのよりどころなのかもしれない。そう考えることは明らかに苦痛をともなった。
 夜のレーンマークは車のライトに照らされて無限の規則性を繰り返している。四車線の高速道路に走るのはぼくの青いセダンだけだ。この助手席に友美は何度乗っただろうか。大洗の海へ向かう勾配の激しいほこりっぽい道、ワイパーでぬぐう白い雪の向こうに広がるただ黒いアスファルトの曲がりくねった長野の山道、帰省ラッシュの大渋滞にはまりこんだ保土ヶ谷のバイパス──いくつかの風景がぼくの脳裏に浮かぶ。そして彼女の横顔……。
 友美がぼくと過ごした時間の反対側になにがあるのか、あったのか。ぼくはそれについて想像をすることさえできない。

◆香奈とその恋人、大学の食堂での会話

「バイトはどう? 慣れてきた?」
「うーん、まあでも慣れるほど仕事がたくさんあるわけでもないんだけどね」
 二人の前には食べ終わった食器がトレーの上に並んで置いてある。昼休み、多くの学生がめいめいに食事をしながら話しこんでいる。立ち上がり午後からのアルバイトへ向かう者もいる。ところで香奈とその恋人である道郎は三時限目がお互いにない水曜日なので特に時間を気にする必要がなかった。
「ウエイトレスだろ?」
「ううん、カレーとかスパゲティくらいだったら作らせてもらえる。元々料理ができる人を募集していたしね。マスターがさ、本当はコーヒーしか出さない店にしたかったんだけどさすがにそれじゃやっていけなくて、でも自分は料理ができないからできる人を代々雇っていたらしいよ。あっ、そうそう、佐々木さんも昔あそこでバイトしていたんだって」
「佐々木さん?」
「美術学科の」
 ああ、と声を出して道郎は紙パックの牛乳にストローをさして口に含む。佐々木依子。その名前は二人の間に時々出てくる。そこに互いに過剰な意味を込めあい、拒食しあう。
「依子があそこで働いてからおまえも行ったの?」
「うわ、ほんとにそう聞いてくるとは思わなかった」
「からかってんのか?」
 道郎の顔は笑っている。そのことが香奈にとっては少しだけ救いのように感じられる。
「ねえ、今度お客さんで来てよ。そうだ、土曜日の午後三時に来てみてよ」
「なんで曜日と時間まで指定なの?」
「ふふ、おもしろいカップルが見られるんだよ」
「おもしろい? 俺らみたいな感じ?」
「どういう感じよ、それ。まあとにかくそれは来てみてからのお楽しみ」
「ふうん。じゃあ、今週行ってみるよ」
 台風一過のキャンパスは風で落ちた葉で覆われ、その濡れた表面を強い太陽が照らしている。食堂を出た香奈と道郎とはそれを踏みながら図書館へと向かった。

◆江利子から河合への出された一通目のメール

 河合さん、やっぱり思い切ってメールを出すことにしました。お店のチラシにメールアドレスが書いてあったので、それあてにこれは出されています。
 私は井岡江利子と言います。私のことは知っていますか? 毎週土曜日の午後三時に母とその恋人の逢い引きに連れて来られている中学生と言えばわかるのでしょうか。先週は台風のなか訪ねていってタオルまで貸してくれてありがとうございました。
 でもこのメールはお礼のメールではありません。そんなつまらないものではありません。
 河合さん、私は母のことでもしかしたらすごく悩んでいるのかもしれません。「かもしれません」だなんて、実際、自分でもよくわからないのです。いつもは考えないように考えないようにって自分を押さえつけていて、何かの拍子に吹き出してくるような感じです。
 あれは母の問題なんだから自分には関係ない、彼女の人生なんだから彼女が好きに決めればいい、そうやって割り切って考えられる日もあれば、これは家族の問題なんだ、もし母が自分の夫ではなく娘の新しい父親として彼を受け入れるつもりでいるのなら私にも選択の権利があるはず、それなのに母はあの男の人を話題にすることを今までずっと避けている、それがどうしようもなく許せない、そんな風に憎しみを覚えてしまう日もあります。
 今日は少しだけいらいらしています。でも明日は優しい気持ちになっているかもしれません。私の毎日はそんな繰り返しなのです。
 河合さん、私にとっては母だけが家族です。でも母と私のことを河合さんに知って欲しいのです。相談に乗って欲しいとは言いません。そんなことは頼めません。ただ私は、自分のことを誰から知らない、けれど身近な人に知って欲しいのです。
 またメールを書いてもいいですか?
 読み返さずに送信します。

◆河合の書く小説、その反故〈3〉

 夜中に目を覚ます。エアコンがいつのまにか止まっていて、部屋は外気よりもひどい蒸し暑さになっている。のどがからからに渇いていたので彼はベッドからはい上がると台所に行き、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。それを開けると思い切ってあおる。
 それで眠りにつけると河合は思っていた。けれど午前二時という時間はそれをさせない。
「だって河合君にはまだこれからたくさん出会いがあるじゃない、私にはできない出会いがたくさんあるじゃない。今ここでわざわざ私とつきあう理由なんてないでしょ」
「理由はありますよ」
「どんな?」
 あの時もお酒を飲んでいた。ビール一杯どころじゃない。ぼくたちは互いに日本酒の七合目に突入していた。お酒の強い彼女に対してぼくはもう自分の力で自分の身体を支えることすら危うい状態にまでなっていた。意識不明を頂上とすれば富士山に例えても七合目くらいだったろう。そんなにまでならなければできない話だったのだろうか。けれど曖昧な記憶は、夜の静けさに自分の体さえとけ込んでいきそうな瞬間、強烈によみがえる。
「あなたを好きだから──」
「それだけじゃあね」
 言葉によっては埋められない溝を埋めようとするかのように河合は友美を抱き寄せた。その居酒屋を出て、人気のない駐車場でタクシーを待っているときだ。けれど友美は河合の腕を拒むことはなくとも彼の背中に自分の手を回すことはしなかった。
 それが彼に対する友美の全てだったのかもしれない。
 ビールを全て飲み終えると河合は自分のあらゆる皮膚があの時の友美を記憶し尽くしているそのことにさいなまれる。実際のところそれはうめき声を上げるほどの苦しみだ。彼は立ち上がり右手でアルミ缶を潰すとそれを力を込めて台所の隅にあるゴミ箱へ投げ入れる。缶はしかしゴミ箱の底に強く当たった反動で再び外へ飛び出し、からからと乾いた音を立ててフローリングに転がった。
 時間さえ経てば苦しみは解決される。これまでもそうだった。河合はそう自分に言い聞かせる。が、しかしその時間はいかほどのものなのか? 彼はそれを計りかねてもう一度うめき声を上げる。一分一秒? 一年、あるいは三年、十年? あるいはその時間の長短がその恋の真価を測るもののように思えて嫌な気分にさえなるのだった。

◆喫茶店「タイムレス」開店前、マスターと女の子たちとの会話

「大学院の試験が終わって久しぶりに時間ができたからちょっと挨拶に来ようと思って──これ、どうぞ」
「え、なにこれ」
 さしだされた紙袋を受け取るとと河合はさっそく手を入れる。中から出てきたのは陶器のコーヒーカップとソーサーだった。
「わあ、すごいな。もしかして焼いたの?」
「そうなんですよ。日本美術史のゼミで校外実習をしたんです、美大でもないのにね。笠間まで行ったんですよ」
 香奈はカウンターの隅で気むずかしい顔をしながら食器棚のガラス戸を拭いている。その手振りは少々大げさだ。
「笠間って福島だっけ?」
「ちがいますよ、県内です。でもすんごい遠かった」
「へえ、どんなところだった? いい土が出るのかな」
「江戸時代とかは大量生産でどんどん江戸に出荷していたみたいですけど、今は割と個人のアーティストっていうか、陶芸家の人が個展やるみたいな感じですね。陶芸の美術館とかありましたし」
「ふうん。じゃあ、ありがたくお店で使わせてもらうよ」
「どうぞ」
 河合はカップを紙袋の中へ戻すとカウンターから一段下がったシンクの横に置く。
「モーニングコーヒーでも飲む? サンドイッチもつけるよ。香奈ちゃん、トマト厚切りで作ってさしあげて」
「あ、はーい」
 香奈はちらりと河合と話をしていた相手の顔を見る。佐々木依子。長い髪、薄い化粧、短い丈の黒いワンピース。
「まあ、座ってよ」
 河合にうながされて依子は入り口に近い──そこはいつも江利子が座る場所だ──席に腰を下ろした。河合はコーヒーの準備に取りかかりながら横で包丁を洗っている香奈に向かって言う。
「香奈ちゃんは依子と大学が一緒だろ?」
「あ、はい……」
「どこの学科なんですか?」
 依子がカウンター越しに聞く。
「えっと、え、英文科です」
「えっ! なに言ってんの、卒論はクンデラだろ?」
 河合はその時、香奈が喜怒哀楽の全ての感情を一つしかない顔の中にぎゅっと凝縮してみせるのを目の当たりにする。しかし河合と香奈が顔を見合わせていたまさにその瞬間、逆に依子の顔からはあらゆる表情が消え去る。
「いやあ、だってフランス文学科なんて言ったら働かなくても食べていける人みたいでしょ? それがねえ、アルバイトなんかしているんじゃ、ちょっとねえ、変ですよねえ」
 香奈は早口にそうまくし立てる。
「アハハ、いつの時代の話だよそれ。こいつおもしろいだろう。だから採用したんだよ」
 河合の本能的な切り返しに依子は少しだけほほえんでみせる。
「いやでもぼくもさあ、大学出てからもう七年も経つけど、つまり──このお店を始めて七年経つわけなんだけどさ、毎日考えることがある」
「なんですか?」
 香奈は黙って食パンを切っている。
「どうしたら働かなくても生きていけるのか?」
「毎日考えてるんですか? でも働くのは国民の三大義務のうちの一つですよ」
「三大義務ってなんだっけ?」
「納税、勤労、それから……教育でしたっけ?」
「ふうん、勝手な話だなあ。でもほら、最近デイトレーダーとか言ってさ、パソコンの前に一日中座っているだけで何億も稼いじゃうやつらいるだろ? あんなのは勤労って言わないんじゃないの? 憲法守ってないよ」
「勤労ってのは納税するためでしょ?」
「えっ? どういうこと?」
「究極を言えば、納税さえしていればいいってことよ。働かない人、って要は貴族の人たちね。彼らから税金をまきあげるツールって意外と少ないんじゃないかしら」
 依子は腕組みをする。
「ぼくは今、依子ちゃんのあまりの上から目線にしびれているよ」
「それよりマスター、話の流れからするとああいう株取引で一山当てようとか考えていたでしょう? 私がいたころ、あんなパソコンお店になかったですよね」
 依子はレジの横に並べておいてあるノートパソコンを指さす。
「あ、わかった? アハハ」
 河合は笑いながらできあがったコーヒーを依子の座っているテーブルの上に置きに行く。
「ありがとうございます。わあ、嬉しいなあ。ここでコーヒー飲むのすごい久しぶり」
「また近くまで来たら寄ってってよ。それでまたコムズカシイ話を聞かせてよ。大学院生かあ、いいなあ。ぼくは院に行くなんて考えもしなかったよ」
「まだ試験を受けただけで、合格したかどうかはわからないですけどね」
「いや、受かる。依子なら受かるよ」
「ありがとう。あ、──どうもありがとう」
 香奈のサンドイッチが運ばれてきて依子はいよいよ笑顔を振りまく。

◆河合から江利子への出された一通目のメール

 メールをありがとう。河合です。初めましてと言うべきかわかりません。君のことは少なからず興味深いお客さんとして記憶しています。
 土曜日の朝、お店を開けるときにぼくはいつも君や君のお母さんや、それからあの男の人について考えます。今日も来るだろうか、今日も来て欲しいな、と。ぼくにとってはみんな大事なお客さんですからね。でももうすぐ三十歳になるぼくからあえて言わせてもらうと、君たちの今の関係は間もなく大きな変化を遂げると思います。だって、いつまでも、何年も君を連れて君の知らない男の人にお母さんが会い続けるというのは、古くさい言い方ですが健全な人間関係とは思えないからです。そして何より君自身がいつまでも十四歳であり続けることはできないからです。
 いずれにせよ、君の話せる範囲で話を聞くことはできます。ぼくも文章を書くことは好きなので、またメールをもらえれば返信します。パソコンを持っていると、こんな素敵な出会いもあるんですね、買って良かったと思いました。
 それでは。

◆喫茶店「タイムレス」開店中、香奈と道郎との会話

 時刻は午後二時半を回ろうとしている。夏の日差しが強く、香奈がロールスクリーンを下ろそうとしているところへ店の扉を開けて中へ入ってきたのは、道郎だった。
「いらっしゃーい」
 河合は気の抜けた顔で依子からもらったコーヒーカップを手にとって感触を確かめながら、やはり気の抜けた声で挨拶をする。けれどその目は入ってきた客が誰かを探しているらしい様子をちゃんととらえている。
「いらっしゃいませ」
 香奈はカウンターからいそいそと道郎のそばまでやってくる。
「まだ早かったかな」
 道郎は腕時計に人差し指を当てながら言う。
「シーッ。とりあえずあっち座って!」
 香奈は大きな小声で道郎を席に座らせる。
「あんまりにやにやしないでよ」
「なんだよ、呼んだのはそっちだろう。えっとアメリカン一つとトマトの輪切りちょうだい」
「かしこまりました」
 香奈はカウンターへ戻ると河合へ注文内容を伝える。
 コーヒーを持って再び道郎のところへ戻ると、彼はカバンの中からドイツ語の辞書となにかのテキストの分厚いコピーを出している。
「お待たせしました」
「うん、ありがとう」
「勉強するの?」
「してるふり。あ、でもこれは月曜までの課題だからちゃんとやるけどね」
 香奈はコーヒーとトマトの皿を、白い表紙が手あかで汚れた辞書の横に置く。
「あ、のね」
「うん?」
「今日、──今日の朝なんだけど」
 しかし香奈はぷつりと押し黙ってしまい、言葉を続けようとしない。お盆を抱えたまま、道郎を見るでもなくただテーブルの下にある彼のつま先でも透視しているようだ。不自然な間に道郎は香奈を見上げる。
「いい、やっぱりいいや。それじゃあごゆっくりどうぞ!」
 虚をつかれた香奈は足早にカウンターへ戻る。その途中で椅子の脚につまづき、派手な音を立てた。

◆河合の書く小説、その反故〈4〉

 ぼくと連絡が途絶えていた四週間に友美は、彼女の言葉に従うならば「昔の婚約者」とひともんちゃく起こしていたらしい。詳しいことはよく知らないし知りたくもない。けれどぼくは件の彼から一度だけ電話をもらったことがある。
「君さえ良ければぼくは友美と結婚しようと思っているがどうだろう?」
 携帯電話の画面は友美からの着信であることを知らせていたが、聞こえてきたのが男の声だったのでぼくはひどく動揺したのをおぼえている。動揺したことはおぼえているがとっさのことにあまりに混乱してしまい、どんな受け答えをしたのか全くおぼえていない。ひどく子どもっぽいことを言ったかもしれない。
 今こうして高速道路を運転しながら自分の感情の変遷をたどっていると、ぼくは本当に「彼」のことを念頭に置いていなかったことに驚く。ぼくはあの妙な電話のことを友美にもっと問いただすべきだったのかもしれない。いや、しかしそのチャンスはなかった。
 ぼくたちは本当にまだ出会ったばかりで、けれど一緒に過ごす時間が長くなればなるほど互いの相違に行き当たるばかりだった。ぼくはいくつもの話題を提供しあるいは時間が解決するものと楽観していた。時間。時間だ。それだけがぼくたちの間に様々な意味をまき散らしながら横たわっていた。

◆土曜日の夜、依子から道郎への四週間ぶりの電話

 アパートの近くのスーパーマーケットで遅い夕食のための買い出しを終えたばかりの道郎は、既に店じまいをすませた商店街を一人歩いている。通りのレンガ畳みを街灯が白く照らす。他に歩くのは会社帰りのスーツ姿ばかりだ。
 と、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が着信を知らせる。歩きながら出ると、聞こえてくるのはなつかしい声だった。
「もしもし道郎? 久しぶり。今話せる?」
「ああ、依子か。どうしたの、久しぶり」
 左手のビニール袋を持ち直す。汗が噴き出しているのだ。
「今日ね、君の彼女さんに会ったよ」
「え? 今日? 今日?」
「うん。ほら、バイト先の喫茶店」
「いつ行ったの?」
「えっと、まだ開店前。朝の九時くらいだったかな」
「ああ──、そうか」
「かわいい子ね、香奈さんだっけ?」
「ああ、うん」
 道郎の足は自分のアパートへの道のりを外れて小さな公園の中へ入っていく。
「依子の方はどうなの?」
「私? そうそう、院試が終わったのよ。卒論でもお世話になっている研究室だから大丈夫だとは思うけどね」
「ふうん。勉強がんばってるんだ」
「そう、道郎はそろそろ就職活動じゃないの?」
「いや、来年だよ。俺まだ二年だよ?」
「そっか。忘れてたわけじゃないよ。忘れてたわけじゃないけど、なんだかずいぶん昔のことのような気がして」
「そうだよな。電話して『久しぶり』なんて会話しちゃうんだもんな」
「あ、ちょっと傷ついた?」
「いいや」
 道郎はベンチに座る。公園内にある唯一の電灯がそこを照らしている。
「俺も大学院、受けてみよっかな」
「文学部の院出て普通のサラリーマンできる人なんてほんの一握りだよ、いろんな意味でね。将来設計よく考えてから決めな」
「依子も、迷ってたの?」
「それは──、そうね。ごめんね、そういう話は道郎にあんまりしてなかったかもしれないね」
「うん……、いや、もうその頃は別れていたよ」
「……そっか。なんか、不思議、時間の感覚がなくなっちゃったみたいで」
「俺は今でもそうだよ」
「どういう意味?」
「そういう意味」
 混乱し始める道郎。自分がなにを言っているのか、なにを言おうとしているのかさっぱりわからなくなっていく。
 沈黙が流れる。道郎は言葉を探しながら必死に頭を働かせる。
「それじゃあ、香奈さんによろしくね。大事にするんだよ」
「ああ、ありがとう。院試どうなったかまた教えて」
「うん。ごめんね、急に。話せて良かったよ」
「うん、それじゃあ」
 電話を切って画面に残る佐々木依子の名前を道郎はしばらく見つめている。通話時間五分四十七秒。彼はその時間の短さや長さについて思いを巡らせる。そこへメールの着信が入る。見れば香奈が駅に着いたことを知らせるメールだ。
「了解。ちょうど今買い物が終わったところ。迎えに行くから待ってて」
 道郎は返信を素早く返すと立ち上がり、ビニール袋を重そうに持ち上げて公園を出て駅の方へ歩いていく。

◆喫茶店「タイムレス」開店中、マスターとアルバイトの女の子との会話

 時計は午後一時を指している。
「お客さん来ないですね」
「みんなサッカーでも見てるんだよ」
「そういえばこの店テレビないですよね」
「喫茶店にテレビはないよ」
「田舎の喫茶店にはありますよ。で、ここは田舎の喫茶店ですよね」
「世間でなにが騒がれていようがこの店に一歩足を踏み入れたら純粋にコーヒーの味を楽しんでもらう。だからスポーツ新聞も置かないの」
 河合は煙草に火をつけるとうまそうに煙を吐き出す。香奈はこっそりと作ったアイスコーヒーにさしたストローを時々口に持っていく。ロールスクリーンがさえぎり切れなかった光のスリットが床を強烈に切り取っている。蝉の鳴き声が閉め切った店内にもかすかに響いている。
「なにかおもしろい話ないですか?」
 香奈がアイスコーヒーを飲み終わってシンクに氷を落としながら言う。
「おもしろい話? あるよ」
「なんですか?」
「ぼくね、最近小説書いているの」
「へえー、小説ですか。どんな小説ですか?」
「恋愛小説。すごく年上の女の人を好きになっちゃうんだけどうまくいかないの」
「それ、元ネタがすごく身近にあるじゃないですか」
「そうなんだけどね。まあ一種の思考実験なんだ。あの土曜日のゆがんだ家族を少しでも理解したいと思ってさ」
「少しは収穫はあったんですか?」
「ぜんっぜん。遅々として進まずだよ」
「意外だなあ。マスターが人のことに興味を持つなんて」
「人じゃないよ、お客さんだよ。あ、今の言葉にはぼくが香奈ちゃんのことを全然考えていないというメタメッセージがあるんだな? もしかして時給上げろ?」
「なにわけのわかんないこと言ってるんですか」
「いや、この前のことは悪かったよ」
 香奈は河合から顔をそらす。
「なんで英文科だなんて嘘つかなくちゃならなかったの?」
「それに答えるにはたくさんのことを話さないといけないんです。でもそれをちゃんと整理して話す自信が私にはないです」
「そうか」
 一本目の煙草を河合は灰皿に押しつける。
「じゃあ、いくつか質問してもいい? それともこの話題はやめにする?」
「うーん、聞いてほしいかな」
 香奈はカウンターの前に並べてある高いスツールにちょこんと腰掛ける。河合は二本目の煙草に火をつける。
「香奈ちゃんの彼氏の元彼女が依子ちゃんだ」
「一番言いづらいことをずばり言い当てましたね」
「アハハ。でもそのことが問題じゃないんだろう? 昔の恋人なんて、やっぱり昔の恋人でしかないだろ」
「そうですね……」
 香奈は少しうつむく。
「あんまりうまくいってないの?」
「──はい。というか、河合さん、つきあうってどういうことなんでしょう? どうしたらつきあってることになるんでしょうか」
「お、なんか高校生の人生相談みたくなってきたね」
「からかわないでください」
「ごめんごめん、でもそれは奇しくもぼくの小説のテーマの一つだからね」
「そうなんですか?」
「うん。ぼくの考えを言うよ? つきあうっていうのは気持ちの問題。具体的な行動を取りだしてこういう事をしていればつきあってることになるとか、そういう定義付けができない問題でしょ。だから、いい? ちょっときついことを言うようかもしれないけれど、気持ちにぶれが出てきた時点でもはやつきあってないとぼくは思う。本当につきあっていたらそんな気持ちすら出てこないもの」
「それ、なんとなくわかります。真っ昼間から変な話ですけど、キスしてもセックスをしても、どんなに長い時間を二人で過ごしていても、つきあっている気がしないんです」
「よしっ」
 河合はまだ長いままの煙草の火を消す。
「そのネタ、採用!」
「ええっ? 私、ネタにされるんですか?」
 香奈はそれでも笑顔に戻っている。
「いや最近さあ、書いてみないと物事を考えられないんだよ。いいアドバイスが見つかったらちゃんと伝える。それまでがんばりなさい」
「はい……」
 河合の大きな手が香奈の短い髪の毛をぽんぽんとたたく。

◆江利子から河合への出された二通目のメール〈1〉

 河合さん、メールをどうもありがとうございました。パソコンで印刷して何度も読み返してしまいました。私たちのことを気にかけてくれていると知って、今こうしてキーボードをたたいていると、最初にメールを思い切って出したときよりもだいぶ気持ちが楽です。
 ニュースが二つあります。今日はそれについて書きたいと思います。長くなるかもしれませんがどうぞ最後まで読んでください。
 一つめは、母がついに大沢さんについて私にどう思うか聞いてきたことです。昨日お昼ご飯のあと、私が居間でテレビを見ていたら(今、好きだったドラマの再放送をやっているのです)家計簿を持って私の横に座って、まあそれ自体は日曜日の午後であればいつものことなのですが、私の横でレシートにのりを塗りながら「江利子は大沢さんのこと、どう思う?」と聞いてきたのです!
 とっさのことで私はいつも一人でいるときにはあんなにたくさんのことを考えているのに、なにも言葉が出てきませんでした。それで私はテレビの方に顔を向けたまま「お母さんがどうしたいかによる」と意地悪な返答をしてしまいました。
 フェアじゃないと思ったのです。大沢さんを好きなのは私じゃなくて母なのだから、私の気持ちによって母がなにかを判断するのは変だと思ったのです。この考え方はおかしいですか?
 けれど母はこんなことを言うのです。
「お母さんはね、再婚とかそういうことは考えていないの。そんなのはいつだってできるわよ。大沢さんとはね、別につきあっているわけでもないの。江利子が見ていない場所で会ったりしていないし、手だって握ったことないのよ。ただ、私は大沢さんのことが人として好きだし、あの人の話すことも好き。もしかしたらあの人も私のことを好きなのかもしれない」
「好きでもない人と毎週会ったりしないよ」
 私は言ってやりました。
「そうかもしれないね。でもね、私がお父さんとの結婚を決めたときのような感じとは違うのよ。全然違うの。燃え上がるような激しさが大沢さんには、大沢さんに対しては無いの。あの人は、知り合ったばかりの時からすごく古くからの友達のような気がして、なんなのかしらねえ、この年になって男と女にも友情ってあるのかなあって思わせるような、そんな人なのよ。たぶん、江利子にはまだわからないかもしれないけれど、今のままが、私と大沢さんにとっては充分なのよ」
 そんなことを、もっと長くてもっと繰り返しが多くて、三十分くらいかかっていましたが、私に向かって語って聞かせました。その全てを理解できたわけではありません。少女漫画の知識しかない私には「男女の友情」なんて言葉をもう四十にもなろうとする母が持ち出してくるのに、そのあまりの真剣さに驚くしかありませんでした。それは、私の知っている世界に限りなく近いようでいて限りなく遠いようにも思えました。
 母がひとしきりしゃべり終わって、私がなにか言わなくちゃならない段になっても、私の頭の中には何一つ言葉が浮かんできませんでした。母が私になにを求めているのかもわかりませんでした。そういう能力には私は長けているのです。でも今度ばかりは母が私にどんなことを言ってほしいのか全く見当がつきませんでした。
 黙っている私に母は言いました。
「ごめんね、変なことを聞かせちゃって。でも大沢さんのことで江利子があまりいい思いをしていないんだったら知っておきたかったの。私たちは別に恋人というわけではないから再婚だってしないし、これ以上関係が発展することもないと思う」
 母はすっと立ち上がると目頭を押さえながら二階へ上がっていってしまいました。母のあんな姿を、私は初めて見ました。

◆道郎のアパートで、香奈と道郎との会話

 アパートに入ってくる道郎と香奈。道郎は香奈を先に部屋の中へ上げると靴を脱ぎ、手に持っていたビニール袋をフローリングの床の上に置く。くしゃくしゃと袋が音を立てて身を落ち着ける。
「あー、なんかここ来るの久しぶりだなあ」
 香奈は腕を天井に向かって延ばしながら背伸びをする。それからテレビの前に置かれた赤いソファーに腰から飛び込む。
「久しぶり?」
「うん。一週間ぶりくらいじゃない?」
「ああ、そうかもな。適当に座って」
 道郎の部屋にはものが少ない。勉強机もなければ本棚もない。ソファとベッドと小さなガラスのテーブルだけが家具カタログの中の写真ように置いてある。
「どうする? カレー作ろうよ」
「カレー、いいね」
「この前タイムレスでね、ほうれん草のカレー作って出したの。結構好評だったんだよ」
 ソファに座ったばかりの香奈はさっそく立ち上がると台所へ入ってくる。冷蔵庫の中へ買ってきた野菜を一つずつ入れている道郎は、近づいてきた足にちょっと目をやる。
「じゃあそれ作ろうか。ルーはそこにあるから、俺、お米とぐよ」
「うん」
 二人はそれぞれの仕事に取りかかる。鍋を出し、野菜を切る準備をし、炊飯器をレンジの上から持ってくる。
「この前喫茶店行ったじゃん。午後三時に」
 台所に並ぶ二人。
「ああ、うん」
「香奈の言う『おもしろいカップル』ってあの奥に座ってたおばちゃんのこと?」
「そうそう! それでね、娘さんが入り口の方にいたのわかった?」
「まあ……」
 道郎は腕まくりをした手で蛇口を閉める。
「あの男の人がね、たぶん母親の新しい恋人なのよ。毎週あの時間になると必ず現れるの。あのお母さん、中学生の娘がいる割にけっこうきれいじゃない、たぶん離婚して一年も経ってないと思うな。でもどうして自分の娘を連れてくるのかなあ? どう思う?」
 一気にまくし立てる香奈。
「おまえさ」
「うん」
「あんまりひとんちのことで騒いだりするな」
「え?」
 包丁の手が止まり、彼女は道郎の方へ身を乗り出す。
「客からしたらアルバイトのおまえに裏でなんやかんや言われているの知ったらいい思いしないんじゃないの?」
「──それは、そうだけど……」
 身を引く香奈。
「だったらそれ以上首つっこまない方がいい。ていうか、そうやって他人にべらべらしゃべるな」
「うん……ごめん、なさい」
 香奈の横顔をちらりと見る道郎。
「いや、こっちこそ。俺も今のは言い方がきつかったかも」
「ううん。そう、だね。なに騒いでるんだろうね、キンキン声で、……恥ずかしいね」
 道郎は炊飯器の中から釜を取り出すとその中へ米をざらざらと流し込み、蛇口から水を出す。香奈の手は止まったままだ。
「でも道郎、私がバイト始めてから半年も経つのに一度も来てくれないから」
 それから道郎はお米をとぎ終わると炊飯器の中へ乱暴に入れ、電源を入れる。ぴっぴっと電子音を響かせながら設定をしていく。
「あそこに行くには勇気が要るんだよ」
 ピーッと高い音が鳴って設定が完了したことを知らせる。
「それくらい香奈だってわかるだろ?」
 もう一度道郎は香奈の方を見る。彼女は目頭を右手の甲で押さえている。道郎はその顔へ手をさしのべるが、相手の左手でさえぎられる。
「タマネギ……」
 震える声でそう言う香奈のまな板の上には色鮮やかなにんじんの輪切りが転がっている。

◆江利子から河合への出された二通目のメール〈2〉

 二つめのニュースは私個人に関わることです。結果から書くと、生まれて初めて男の子に告白されたのです! びっくりしました。本当にびっくりしたのです。
 私は小学校六年生の時に少しだけ塾に通っていたことがあります。そこで知り合った男の子が彼でした。変な一致ですが大澤君と言います。澤の字が難しい方の字を書きます。席が隣だったので、お昼ご飯を食べながらおしゃべりしたり私の苦手な理科を教えてもらったりしました。こうやって書いているとあの頃のことがまだいくらでも出てきそうです。
 夏休みの講習だけだったので二学期が始まると私はいなくなりました。大澤君にしてみれば急に姿を消した印象を与えてしまったかもしれません。
 それがこの前の日曜日の夕方に、私が家に居づらくて駅前の本屋で立ち読みをしていたら偶然再会したのです。彼は私の知らない制服を着ていました。日曜日は学校の図書館に行って勉強をするのだそうです。その帰りに本屋に立ち寄ったのだそうです。
 大澤君も私のことを懐かしがってくれました。本屋の中だったのであまり大きな声でしゃべることはできませんでしたが、私たちは携帯のアドレスを交換して別れました。かっこいいと思いませんか? 本当は外に出てどこか公園で座って話しこんでも良かったのです。それをあえて我慢して連絡先の交換にとどめたのです。
 それでもこの一週間私たちは毎日のようにメールをしました。それで昨日、なんと大澤君から「俺たち、つきあわない?」というメールが来たのです。
 まだ返事はしていません。河合さんの意見を聞いてから考えようと思います。
 それでは返事待っています!

◆河合の書く小説、その反故〈5〉

 人は何歳から恋ができるのだろうか。
 そして人は、何歳まで恋ができるのだろうか。
 この疑問は河合にとって自分がいつまでこの苦しみを引きずって行かなければならないのかという疑問と同義だった。
 しかし河合の恋愛感情が本当の意味で、いわゆるところの恋をする心情とイコールであったかというと、作者はここで首をかしげねばなるまい。彼はシチュエーションに酔っていただけである、とも言える。もちろん彼にそんなことを言えば必死に否定するだろう。けれど百回否定したあとの百一回目にはきっと「そういう考え方もできるかもしれないな」とさびしげな表情を隠せないはずだ。なによりそれが彼の人間としての一番弱い部分である。
 なるほど友美は魅力的な人物である。体つきも性格も大ぶりで、腺病質で汗などかいたことがないような白い肌を持つ河合とは正反対の存在である。
 それでは結局河合の執着とはどのようなものだったのか。恋でないならばなんだったのか。作者はここで彼の犯した二重の過ちについて述べよう。
 第一に彼は自分にないものを友美に求めた。友美の心を手中にすることで、友美の持つ明朗さや大胆さが自分のものもになることを望んでいた。第二に彼は十年ほど前から母親との関係を悪化させていた(これについて詳しいところは後述しよう)。それを、いわば、友美によって代償しようとした。
 だからこそ、友美との別れは当の本人にどれほどの自覚があったか定かではないが、二重に彼の心に傷を残し、それが他の失恋と性質を異にする所以なのであった。

◆喫茶店「タイムレス」閉店後、マスターとアルバイトの女の子との会話

「最近、あの土曜日の親子に登場人物が増えましたよね」
「あ、そうなんだよ。さすがの香奈ちゃんでも気づいた?」
「あの男の子、彼氏なんですかね?」
「どうかなあ。彼氏みたいなもんだろうけどあの様子じゃ彼氏ではないかもしれないなあ」
「どうしたんですか、その持って回った言い方は」
「いや、まあ。しかしあの四人を見ているとなんかこう、恋っていいよなあって思うよな」
「話をはぐらかさないでください。それに恋愛なんていいことばかりじゃないですよ」
「お、なんか悪いことでもあったの?」
「さらっと聞かないでください」
 香奈はカウンターから離れると端からテーブルを拭き始める。河合はエプロンの結び目が寄っているその後ろ姿を見ながらコップを拭く。
「ぼくの小説さあ」
「はい?」
「前に言ったじゃん、小説書いてるって」
「ああ、そうでしたね」
「その時香奈ちゃん、つきあうっていうのがどういうことなのかわからないって言っていたじゃん」
「マスター、書いて考えるとか言ってましたよね」
「うん」
「答えが出たんですか?」
「いや、出てない」
「そうですか」
 香奈は椅子をテーブルの下に入れると河合のところへ戻ってくる。
「でも一つだけ言えるとしたらさ」
「はい」
「なにか定義づけてしまうと、すごく単純化してしまうんじゃないかって。そしてそれはすごくつまらないことなんだよ。そこで物語が死んじゃうんだよ。ただの説明になっちゃう」
「マスター、読ませてくださいよ」
「いや、──書けなかったんだ。失敗した。失敗したからこそ今言ったような結論になった。言ってることわかる? 伝わってる?」
「なんとなくは」
「でも、ぼくはやっぱり男だからな。女とつきあうってどういうことなのかなっていう部分でしか考えられない。ぼくが考えたことをそのままひっくり返して香奈ちゃんに語って聞かせてもたぶんぴんと来ないと思う」
「そうですか……」
「香奈ちゃんも書いてみなよ。あのパソコン貸してあげるから」
「そしてマスターは閉店後にそれを盗み見るんですね」
「アハハ、そんなことしないよ」
 河合は一人、乾いた笑い声を上げる。

◆香奈から河合への渡されなかった手紙

 マスター。突然のことで本当に申し訳ないのですが、お店をやめたいと考えています。理由は純粋に私個人の気持ちの問題です。
 この半年間、マスターには本当によくしていただきました。マスターと話したいろいろなことは、マスターにとっては単なるおしゃべりだったと思いますが、私にとっては大学のどんな授業よりずっと豊かなものでした。本当に、感謝しています。
 彼と別れました。もっとも、つきあっているかどうかも確信が持てない彼のことですから『別れる』というのも変な言い方かもしれません。ご存じのことですが、彼は以前タイムレスでアルバイトをしていた佐々木依子さんとつきあっていました。そもそも私がここでアルバイトをしようと思ったのも佐々木さんがどんな人で、どんなことをしているのかを知りたかったからです。けれど私が採用されたときには彼女はもういませんでした。
 それで私は、まあ一ヶ月くらいは働いてからやめようかな、と採用されたその日に早くも思っていたのです。ごめんなさい。それが半年も続いたのはマスターとおしゃべりするのが楽しかったからかもしれません。間もなく私は道郎とつきあうことになりましたし、あえてやめる理由もなくなったからかもしれません。
 でも結局、けんかをしてしまったのです。私がタイムレスでアルバイトをしていることが彼にとっては不可解で、私が思っていた以上に彼を圧迫していたのです。今までどうして話し合わなかったのでしょう。どうして今まで彼はそのことを言わなかったのでしょう。そして私は彼の気持ちに気づいてあげられなかったのでしょう。
 今はもう、こんなことを繰り返し考えても、マスターに向かって愚痴をこぼしても仕方がありません。いずれにせよ私は私の過去と私の現在から自分を自由にしてやりたいのです。
 タイムレスにいる限り、私はマスターの心地よさに甘え続けてしまいそうです。それが怖いのです。マスターは私のお兄さんでもお父さんでもありません。私だっていつまでも大学二年生でいられるわけではありません。ごめんなさい、こんな言い方しかできないのですが。でもどうか、ご理解ください。
 いつか思い出から自由になれたらまた会いに行きます。マスターの入れてくれるおいしいコーヒーを飲みに必ず会いに行きます。胸を張ってこれが私ですと言えるような自分になって。
 短い間でしたがありがとうございました。

◆河合から江利子への出されなかった最後のメール

 こんにちは。
 もう少しで夏休みも終わりですね。君たち(君たち、というのは君のお母さんも含めてという意味です)が来なくなってから三回目の土曜日です。
 なにかあったのかと少し心配しています。常連さんが急に来なくなるのは店主としてはなかなか心穏やかでいられない出来事なのです。
 しかし、もしかしたら君たちにとってのタイムレスの役割が終わったということなのかもしれません。そしてそれはどちらかというと喜ぶべきことなのかもしれません。
 君のお母さんは彼との曖昧な関係を解消したのかもしれない。君は君で喫茶店よりもずっと刺激的なデートの場所を見つけたのかもしれない。
 役割が終わったというのはそういうことです。ここにいつかまた戻ってこいとも言いません。たまには思い出してほしいとも言いません。ぼくは喫茶店のマスターです。ぼくの仕事はお客さんにおいしいコーヒーをお出しし、店にいるひとときを心からくつろいでもらうことです。その時間が君たちにとってかけがえのないものとなったのであればそれだけでぼくは満足です。
 ぼくの方にも変化がありました。まずは君にいつか台風の日、タオルを貸してあげたアルバイトの女の子がやめました。晴れ晴れとした顔でやめていきました。理由はだいたい想像がつきますが聞きませんでした。それが彼女の出した精一杯前向きな結論であるわけですからね。君たちにとってもそうだったのでしょう。そう願っています。
 それから、秋からこのタイムレスはブックカフェに生まれ変わります。今、いろいろな古本屋さんを巡っていい本を探しています。かつて大沢さんが君に本を選んでいたのと同じ気持ちになって、なるべく二、三時間で読み終われる味わい深い小説を集めています。かつての君のような孤独な女の子がやってきても、もうつまらない大人に本を買ってもらう必要はありません。秋が来て君たちがやってきて、ぼくのとっておきのコーヒーを飲みながら本を読んでいる姿を想像するだけでぼくは幸せな気持ちになります。
 それでは、風邪など引かぬよう。

〈了〉


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