カルテット

 彼女の顔をよく見ると、ツルゲーネフの輪読ゼミでいつもぼくの目の前に座っている大野さんだった。大学三年目の冬学期が始まったばかりの十月、太陽がやけにのんびりと南天した日のことだ。ぼくは生協食堂で甘ったるいカレーをかきこむと部室のソファーに寝転がってマンガ雑誌を広げていた。最新号ではない。もう何度も読んだのだけれど、誰も捨てずに置いたままになっている。
 部室というのは食堂に隣接する学生会館につめこまれていて、ぼくの所属する表象研究会は三階のいちばん日当たりのいい東の角に位置していた。まわりを囲碁やら将棋やら書道やら法律研究会といったうるさくない団体に囲まれているので午後のうたた寝にはちょうどよかった。
 ところへ、突然廊下から頭の先からつま先まで震わせるような音が響いたのだから驚かない方がおかしい。ソファーから飛び上がってドアを開けてみると、そこに見覚えのあるパーマ頭の女の子が立っていた——というわけだ。
「あれ、章司くん……だっけ」
 大野さんは弦に当てていた弓をはなすとそう言った。ドアノブをつかんで半身を外に乗り出したままの男を見てすぐにわかってくれたことを、ぼくは喜ぶよりも先にとても意外に感じた。つまり、ぼくたちが言葉を交わしたのはその時がほとんど初めてだったのだ、もう半年もゼミは続いていたはずなのだけれど。
 眠そうな二重まぶたに大きな口。黄色いティーシャツにデニムのスカート。そんな風貌に恥ずかしいくらい似つかわしいちょっと鼻にかかった高い声で呼ばれたぼくの名前は、すてきな意味を持つ外国語のように聞こえた。
「バイオリンやってたんだ」
 ぼくは当初の目的も忘れて、よく知らない女の子に話しかけることができるチャンスを得たことに少し浮かれながらそう言った。
 ところが大野さんは少し怒った顔をすると、肩からぼくがバイオリンと呼んだ楽器をはずして目の前につきだしてくる。そしてこう言った。
「ヴィオラ」
 その瞬間、ぼくの頭の中に小学校の音楽の教科書に載っていたオーケストラの図解が浮かべばよかったのだけれど、あいにくぼくは「ヴィオラ」という言葉さえ知らなかった。
 きょとんとして口を開けたままの無知な男を前にして、大野さんは楽器をすぐにひっこめてしまう。けれどももしその時、彼女がそれほど親しくない男に対してはたらいた子供らしさを恥じるそぶりを見せていなかったら、ぼくはあれほど彼女に興味を持つことはなかったと思う。
「練習室の鍵を借りられなくて。少しの間ここで弾かせて」
 そう言って彼女はスコアへ視線を落とす。楽譜台の上にある小さな機械のスイッチを入れると、ピッピッピッピッと規則的な電子音が鳴り始める。きっと機械式のメトロノームなのだろう。
「へえ、なんか弾いてみてよ」
 そう言われて本当に弾いてくれる人はなかなかいない。だからぼくもほとんど社交辞令的に言ったまでだった。でも彼女は持ち上げかけた弓を少しだけ空にとどめて考えるような顔をすると、諳んじているらしいフレーズをそれから一気に目の前で弾いて聞かせてくれた。
 不思議なくらい重みのある振動がそのきゃしゃな箱から響いた。実際のところ、ぼくはくねくねと動く白い腕にばかり目を奪われていたのだけれど、皮膚は確かに彼女の奏でるメロディーに泡立っていたはずだ。
 おそらくそれがぼくがクラシックと言われる音楽へ耳を向けるきっかけなのだったと思う。まるで無知だったその世界、たしか中国語では「厳粛音楽」と表記されるその世界の一端にようやく触れた——と、そう言ってしまえば確かにそれはその通りなのだけれど、もう少し正確に言えば「大野さんの持っている世界を知りたかった」というところだろう。
 それまで人並みに音楽は聴いてきた。ヒットチャートを毎週追いかけた中学時代に記憶は始まり、ボブ・ディランの迷妄せる自我に旅しジョン・レノンの甘美な叫びに共鳴した高校時代、そしてこの大学に入ってからはジャズ史の講義を受けてよりコルトレーンのCDをかばんにしのばせるようになった。
 こういう変遷の模様を話すとすぐに「へえ、ずいぶんと趣味が高尚になってきたんだね」というようなことを言われるのだけれど、実情はそうではない。その人が興味を持っているものを通じて人物を理解しようとするまどろっこしいくせがぼくにはあって、高校時代にぼくが洋楽を聴いていたのはたまたま隣の席で仲良くなった池上君がロックバンドをやっていたからだし、ジャズだってあの講義をやっていた菊池という漫談士のようによくしゃべる教官に魅力がなかったらあいかわらず「よくわからないけど全部同じに聞こえる音楽」としてバロック音楽とともに闇に葬られっぱなしだったと思う。
 最後ののびやかな高音が長い弓の端から端までを使って放たれると、たまたま通りかかった学生たちもがふと立ち止まって拍手をした。灰色の壁と床に囲まれた廊下が、瞬間華やぐ。ぼくにとってはそれが純粋に音楽の力だけによるのかと問われればにわかにイエスと答えることはできない。つまりは、ちょっと近づきになれたかと思ったら急に高嶺に登られてしまった彼女にぼくはどうしようもなく惹かれ始めていたのだ。
 それからも大野さんは、必ずしもぼくのサークルの部室近くではなかったけれど学生会館の廊下でときどきヴィオラを練習するようになった。本当はずっと以前からそうしていたのかもしれない、単にぼくが気づかなかっただけだったのかもしれない。
 彼女を見かければあいさつをした。見かけなければ廊下をぐるぐると行ったり来たりした。

 大野さんと同じゼミというのは、通年でいろいろな時代のロシア文学を原文で読んでいく、受講者十人にも満たないこぢんまりとしたものだった。ふちもレンズも分厚いめがねをかけた初老の教官を囲んで、参加者各人が割り当てられた部分を日本語に訳して毎週発表する。特に小説の内容に踏み込むことはなく、あくまでも小説を教材にした文法の授業だった。夏学期に読んだチェーホフの初期短編も、あらすじがぜんぜん頭に入らないまま終わってしまった。
「ぼくが学生の頃はね、スプートニクショックの余韻がまださめやらぬ時期で、わりと理科系の学生にロシア語をとる者が多かったんです。ロシアの科学技術の方がアメリカよりもずっと進んでいると信じたんでしょうね。今はもう、本当に好きな人しかやらないでしょう」
 ちょうどジナイーダがウラジーミルに突然のキスをしたくだりを訳し終えた時、授業の終了時刻までのこり十分という中途半端さに教官はテキストを閉じて雑談を始める。
「千野くんなんか、どうですか。最初のきっかけとかっておぼえていますか」
 ボランティアで参加している院生の千野さんは分厚い露和辞典の巻末にある付録を眺めていた。ぼくも隣の席から一緒になってそのロシアの様々な帽子の挿絵をのぞいていたのだ。
「そうですね——ぼくは割と人と違うことをやりたいとばかり思ってきましたので。韓国語でも良かったしイタリア語でも良かったのかな。大学に入って第二外国語を選ぶときに、たまたま祖母がロシアに旅行に行って帽子を買ってきてくれたんですよ。よくありますよねえ、こんなふさふさした円筒形の。それがすごく気に入ってしまって。まあそれがきっかけと言えばきっかけです」
 アハハ、と千野さんは最後に大きな声で笑った。この人の言うことはどこまで本当でどこまで嘘かよくわからない。なんに対しても執着がないようなふわふわした人だ。この教官の下で何年も勉強しているとこんな風になるのだろうか。
「そうですか。最近の若い方だと、……大野さんはロシア語を始められたきっかけなんてなにかありますか」
「私ですか?」
 大野さんははっとして顔を上げた。
「あっ、私はボロディンが好きだからです。今度の学園祭でも演奏会やりますんで、よろしくおねがいしまーす」
 どうして彼女は、たとえばチャイコフスキーやショスタコーヴィチならその時のぼくだって知識として持っていたというのにボロディンなんて日曜作曲家を持ち出したのだろう。それはバイオリンではなくあえてヴィオラを弾くという彼女のスタイルと確かに符合するのかもしれないけれど。
「そうですか、そうですか」
 千野さんの回答にそれほど満足していなかったらしい教官はさもうれしそうに大野さんの答えにうなずく。講義は午前中の最後にあたる二時限目で、そろそろ扉の外も騒がしかった。上の階から階段を下りていく学生たちの声が響く。
「じゃあ、来週は山下さんからということで。他の皆さんもよく読んでおいてください」
 ばたばたとノート類を片付ける音が一斉にして昼休みになる。大野さんはねえねえといった感じでぼくに手を振ってきた。
「ちょっと待ってて」
 それだけ言ってぼくを座らせたままにしておくと彼女は教官のところへ行ってしまう。講義内容の質問をしているようだった。
 なにか言いたいことでもあるのだろうかと思ってカバンをひざに抱えたまま待つ。周りは次々とお昼休みのキャンパスへ繰り出していった。暖房が効き過ぎるからと開け放たれた窓からは下の並木道を行くたくさんの学生の声がする。この教室だけ、取り残されたように静かだ。
 彼女の座っていた場所にはヴィオラのケースが立てかけてある。まだ真新しいらしく表面はつるつるとした質感の革でおおわれていた。それを眺めながらどうしてぼくは今になってこの人の存在を知ることになったのだろう、と考える。少なくとも一年半以上は同じキャンパスに通っていたはずだというのに、半年は同じゼミに通っているというのに。
「ごめんね」
 質問を終えてもどってきた彼女は軽く手を合わせて拝むまねをする。
「いいよ」
 ぼくは胸の片隅に芽生えた小さな幸福感が加速度的に大きくなっていくのをおさえながら、できるだけ平静を装う。なんでもない。男にとって女を待つことは一つの特権だ。
 大野さんはカバンの中から一枚のビラを取り出す。ピンク色のつるつるとした合成紙の上に、指でちょっとでもさわったらこすれてしまうんじゃないかと思うくらい黒々としたインクで印刷してある。
「今度の学園祭でやるのよ。チケット買ってくれない?」
 読めば「カルテット『Tableaux』霜月祭公演」と題された演奏会の案内だ。四人の出演者の中に大野さんの名前もある。その横に印刷された所属大学の名前はそれぞれ違う。
「みんな違う大学なんだ……音大だって、すごいね」
「そう。その方がお客さんをたくさん集められるでしょ。それにそれぞれの大学で演奏会ができるから実力もつくしね。ね、これ一枚」
「いくら?」
「千円」
 いいよ、と言いながらぼくは財布からお札を一枚取り出して渡す。チケットはビラと違ってしっかりとした黄色い厚紙でできていて、バイオリン、ヴィオラ、チェロの絵が細いタッチで描かれている。四人でやるカルテットに三台しか楽器が描かれていない。ぼくはそのことを大野さんに聞いてみる。ところが一瞬の間ののち、彼女は表情をこわばらせてゆっくりとぼくに問い返す。
「その質問は……言葉通り受けてとめていいのかしら」
 ぼくもまた彼女の質問に即答することができず、自分の質問を頭の中でもう一度繰り返す。
「一人、足りないんじゃない?」
 そこに他意を感じさせる言葉はない、はずだ。もしあるとすればそれは彼女の深読みだ。ぼくたちはまだ知り合ったばかりで、言葉で互いの真意を探るほどの利害関係があるわけでもなく、またそうなるような将来を予感させるものも何一つなかった——残念ながら、という注釈をぼくはつけなければならないけれど。
「いや、ほら。カルテットって四人でしょ? ていうか、そうだよね? 楽器も四種類あるんじゃないのかな、と」
「ああ、ごめん。そうだよね。うん、そう。バイオリンは二台描くべきよね。セカンドバイオリンというのがあるのよ」
 大野さんは汗もかいていないのに額をぬぐう仕草をする。前髪が乱れて、隠れていた額の白が現れる。ときどき思考が視覚に邪魔される。言葉のやりとりに意識を向けようとしても目の前にいる大野さんの仕草へふっと、飛ぶ。
「章司君の言うとおりよ」
 大野さんはほほをゆるめる。その様子を見るとやっぱり彼女の誤解であるらしかった。それでもぼくたちの間にある少しだけ張りつめた空気をゆるみ切らすほどの力はなく、そしてまた彼女の妙なこだわりはぼくの心の中に一点のかげりをやどす。コップの中の透明な水に一滴の墨汁を落とされたような。やがてその黒は見えないほどの粒子に拡散する。けれどもそれは存在し続ける。
「いつも練習しているやつをやるの?」
 ぼくが楽器を持つかっこうを真似しながら聞くと彼女はうなずく。少しだけはしゃいで見せて、もう今の妙な問答は気にしていないという意思を伝える。
「この曲がいいよ」
 大野さんはビラの真ん中に枠で囲われている曲目の一つを指さす、笑顔で。ぼくは少しだけうつむいたその顔を五センチ上から見下ろす。秋の光が彼女の前髪を燃え上がらせていて、その時、まだ短い人生のなかで数えることができた多くはない恍惚の瞬間なのだとさえ思った。
 と、ぼくの右手が彼女の髪へ伸びる、さっき乱れた前髪へ。そっと、頭蓋のかたちを感ぜられぬくらいにそっと、ぼくの手のひらは彼女のやわらかさを感じ取る。こういうとき、女はどんな反応を示すのが定石なのだろう? ぱっととびのきものすごい剣幕でにらみつけたかと思えばどたばたと部屋を出て行ってしまうか、あるいは世の中のすべてのものを手に入れたかのような表情になって従順に身を任せるか——ぼくの貧弱な想像力はそんなオール・オア・ナッシングの発想にとどまる。ぼくが手を離しても大野さんは何事もなかったかのように音楽の話を続けた。そういう風に、ぼくには見えた。

 教室を出るとちょうど階段を上がってくる見知った顔があった。
「丸山さんじゃないですか」
 度入りのサングラスに巻き毛の金髪を載せたいつもながらに派手な外見の彼はぼくにとっては表象研究会の先輩である。「ぼくにとっては」とあえて断らなければならないのは彼がこんなことを言ったからだ。
「あれ、ふたり知り合いか」
 その言葉から知らされたのは自分のすぐ近くにいた二人が実は知り合いだったという事実だった。もしも関係が尊敬という感情を媒介としているのなら、ぼくの交際範囲はきわめて限られていたと言える。そしてそれはきわめて感情的であった。ひとたびその人のなすこと言うことに感激してしまえば、ぼくはそこに没入した。同一化しようとした。丸山先輩に対して(多くはその作風だったけれど)かつてそうであったように、大野さんに対してもそれは少しずつはたらき始めていた。
 踊り場でぼくたちは立ち止まる。なんとなく照れくさい気分になりながら互いの関係を確認しあう。それから思い出したように丸山先輩がカバンから色刷りのチラシをとりだしてぼくに差し出した。見れば彼が表象研究会の他にも所属している劇団の公演案内だった。
「また脚本書いたんですか?」
「ああ。今回は役者もやる。はい、チケット」
 見ていたチラシの上に長方形の紙切れが乗せられる。「劇工舎オプティカル第三回公演『時計台放送よ、再び』」——こんなのをやって誰からも文句を言われないんだろうか。
「いくらですか」
「いいよ、いいよ。あげるよ」
「そんな悪いですよ」
 ぼくはポケットに手を突っ込んでさっき出した財布をもう一度取り出そうとする。
「小屋が大学の施設だから、ぜんぜんお金かかっていないのよ。クラシックと違ってきびしいノルマとか無いしね」
 ついさっき大野さんからクラシックのチケットを買ったぼくはなんと言っていいのかわからなかった。丸山先輩がどの程度大野さんとどの程度の中なのかわからず、一人でひやひやしてしまう。ぼくはその時もっと二人の顔を見れば良かったんだ。二人がどんな様子で互いを見ていたのかに気づくべきだったんだ。
「それじゃあなっ」
 と、どんと背中をたたいて丸山先輩は先にとっとと階段を下りていってしまう。
「じゃあまた来週ね」
 続いて大野さんもぼくを追い越していく、丸山さんを追いかけるようにして。
 なにかがストーンと音を立ててぼくの中で理解された。そこに存在したのは三人の人間ではなくて、一組の人間と一人の人間だった。もしも関係が尊敬ならば——言い直そう、ぼくはきわめて一方的ななにかを「関係」と呼んでいるだけなのかもしれなかった。
 ぼくは少しも落胆していなかった。三人でカレーライスを生協食堂で食べる、なんて図を一瞬でも思い描いてしまった自分をむしろほほえましいくらいに感じた。彼らはあまりにも似つかわしかった、芸術なるものにくみする人間として。一方でぼくは芸術家的たらんとする気取りと原稿用紙に万年筆を走らせるポーズとにおぼれるだけの「俗物」だった。そういう二項対立的な考え方は実にすばやくぼくの心を支配し麻痺させる。ぼくはただあこがれてさえいればそれでよかった。

 ボロディン作曲・弦楽四重奏曲第二番。第三楽章は「ノクターン」として単独でも有名。その日の帰り、渋谷まで出てレコード店に行くと、大野さんが指さしたその曲が録音されているCDを探した。
 ふだんはポップスの置いてある四階で下りるそのビルを八階までエレベーターで上っていくと、少しだけ空気のはりつめたフロアーが目の前に広がる。明るい色の絨毯と昼光灯のような照明。革靴がその上を泳ぐように滑っていく。かすかなピアノの音が天井のスピーカーから降り注ぐ。そういうひとたび口にすればこっぱずかしくてしかたがないような比喩を惜しげもなくまとっている。
 勝手のわからなかったぼくは一番端の列に並べられている協奏曲のコーナーから、作曲者名がアルファベットに並ぶのを丹念に見ていく。Bの段はバッハ、ベートーベンが幅をきかせていてバルトークやベルリオーズでさえ肩身が狭い。Bの次がOのボロディンはますます後ろへ追いやられる。目をこらして、小さい文字を読み取っていく。
 苔のようにくすんだ緑色とさえない紫色との二色がグラデーションを織り成す背景に「BORODIN QUARTET NO・2」という文字が白抜きされたその直輸入盤のジャケットは、見る人が見ればひどく安っぽいのだろう。けれどぼくにとってはそれが大野さんへ少しでも近づくためのピースでありキーでありパスポートだった。大真面目だった。
 アパートの部屋にいそいで帰るとすぐにステレオの前で文字通り端座して聴いた。ディスクが回り始めると第一楽章冒頭、遠雷のような小さくかすかな音が急に近づいてくる。次々と重ねられていく和音、転調。それ以上のことはわからない。ただただ耳を傾ける。音に身を任せながら他のことをする余裕はなく、むしろ一音たりとも取りこぼさぬよう耳を傾ける。目をつぶる。弓が弦の上を走る絵が浮かぶ。もちろんぼくの想像のよりどころは一つしかない。
 第四楽章の最後の音がスピーカーの奥へ消えてCDが止まった時に初めてぼくは、ああ終わったのか、と思った。ああ、終わったんだ。
 畢竟、ぼくが聴いたのはボロディンの曲というよりは膨大な言葉のない時間だった。ただ音の高低と強弱とだけが繰り返され、そしてそれだけの単純な原理の繰り返しがとてつもない量の体験を送ってきた。
 それまで人並みに音楽は聴いてきた——という話は既にした。ぼくが曲を聴き終わったあとすぐにCDに付いていた解説から作曲者の生涯についての知識を求め、さらに次の日には大学の図書館に行って人名事典をめくったことにはそれなりの理由がある。ちょうどぼくは初めてプールに入った子供のようなものだった。空気の乏しさにもがくばかりで、泳ぎ方さえ覚えれば気づくことのできる水の豊かさを知らないでいる。飢渇感は言葉へと向かい、ぼくは曲から勝手に解釈された幾篇かの詩をしたためてはこっそりとライナーノーツの間にはさんだ。

 二週間が経ち、霜月祭は第一日目を迎えた。
 ぼくの所属する表象研究会は「コギト」という雑誌を作っていて、これを売らなければならなかった。いくつかの同人誌サークルが集まってテントを借り、長机の上にそれぞれの会誌を平積みにする。交代で店番をする。毎年のことだ。手に取る人はごく身内の人間だけであり、ぼくの書いた小説も幾人かの後輩に「章司さん、去年のよりずっと落ちついていていい作品じゃないですか」と、あるいは幾人かの先輩に「章司、去年の方が勢いがあって良かったぞ」と言われるためだけに存在する。
 ぼくはしみったれたテントの下、二次創作を主にやっている「満月お茶の会」というサークルの女の子たちと三人でパイプいすに座っていた。
 昨日の夜に降った久しぶりの雨が地面のアスファルトを濡らしている。木の枝から落ちくる雨滴ががときどきぱらぱらと天幕に音を響かせる。そのはね返ったしずくがまた、雑誌の表紙に落ちてきて濡らした。
 ぼくたちの存在が彼らには見えていないのではないかと疑ってしまうくらい、目の前をたくさんの人が通り過ぎていく。
 ぼくはひざの上にポータブルCDプレイヤーを載せて、小さな音でボロディンを聴いていた。開演の午後一時まであと三時間ある。この瞬間も大野さんは学生会館の廊下で練習をしているのだろうか。それともどこかでチケットを売り続けているのだろうか。不意にぼくの前に現れて当たり前のような顔で雑誌を買っていってくれたりしないのだろうか——ぼくを楽しくさせる空想はとりとめもなく断片的に続いた。そういう時ほど時間が経つのを忘れることはなかった。
 十二時になると後輩がお汁粉を持って店番の交代にやってきた。
「売れ行きはどうですか」
「吉本君が二冊、鉄平さんが二冊、それからぼくが一冊の合計五冊。第一日目の午前中にしちゃいい走り出しだ」
「みんな身内じゃないですか」
 ハハハ、と二人で渇いた笑い声。
「やっぱり色気を出さないとブンガクはこのさき生き残っていけないな」
「でも去年みたいに豚汁と一緒に売るのはまっぴらですよ。どっちがついでなんだか途中からわからなくなりましたからね」
 あとのことを後輩に任せてぼくはテントを出た。
 会場は十一号館二階の中教室。ちょうどツルゲーネフのゼミが行われている1113教室の真向かいに位置する。二階へ上がる階段の白い壁の上にはぼくも一枚持っているビラがきれいに並べて貼り付けられていた。それを眺めながら階段を上る。教室の外には誰もおらず「午後一時開演です。どうぞ中へお入りください」と筆書きされた白い紙がとびらに貼り付けてあった。教室の中を覗くと人がまばらに座っている。空き教室と思って外で買った焼きそばを食べている集団もいる。まだ一時間前だ。いつもは国際関係論の授業を後ろの方で受けている教室のずいぶん前の方にぼくは座った。
 教壇に黒い布をひいた舞台の上には黒い譜面台が五つと黒い椅子が一つ、強いスポットライトを浴びて光っている。窓には暗幕が引かれ、客席側はまだ蛍光灯が照らしている。ぼくはかばんの中から読みかけの『ボロディン——その作品と生涯』という本を取り出すとようやくさしかかった晩年の章に没頭した。

 「お待たせいたしました。ただいまよりカルテット『Tableaux』霜月祭演奏会を開催いたします」というアナウンスを合図に場内の照明がライトダウンされる。上手からそれぞれの楽器を抱えたメンバーが登場した。靴音をこつこつと響かせながらバイオリンを持った髪の短い女の子を先頭にセカンドバイオリンは眼鏡をかけた背の高い青年、ヴィオラの大野さん、そして大きなチェロをかかえた体格のいい男。拍手がわき起こる。黒いドレス姿で歩いて出てきた大野さんに向かって、ぼくも強く手をたたく。柔らかい生地のロングスカートが揺れる。それだけでぼくはうれしかった。
 だが次の瞬間、場内は音のないざわめきにつつまれる。ぼくもまたその中にいた。場内の観客のほとんどは同じタイミングでそのことに気づいたのだ。つまり、大野さんが小さな写真立てを持っているということに。
 ぼくは前から二列目に座っていたからその写真に写っている人物をはっきりと見ることができた。同じように演奏会用に正装した一人の若い男の肖像。笑っている。画面の端には弦楽器の胴が写っている。それがすべての黒を喪服の黒に意味を変えていた。どういう事情なのかはわからない。けれど、彼らの背負っているなにかが客席側にも伝播してくるのが肌でわかった。
 それぞれが自分の前に置かれた譜面台の上にスコアを置く。それから五つ目の譜面台を大野さんは舞台の中央に客席側に向けて置く。そして、写真立てをその上に乗せた。四人は舞台の上で深々と頭を下げる。ぼくたちは彼らにもう一度拍手を送る。とにかく、開演だ。
 ボロディンもその一人に数えられる五人組は本場西欧の音楽に追随することを否とし、ロシアのロシアによるロシアのための音楽を作ることを目指した。十九世紀後半のことである。彼らの活躍によってロシア音楽はクラシックの仲間入りを果たし、その国民性を反映した音楽は逆に西欧へも影響を与えていく。彼らはいずれも職業作曲家ではなかったが誰よりもプロ意識を持っていた、先駆けとなるべき者として。弦楽四重奏曲第二番はわずか二ヶ月の早さで作曲され、初演は一八八二年一月二六日、ペテルブルクにて。妻のエカテリーナに捧げられたと言われている。
 第一楽章、第二楽章と移りゆく時間は想像以上に早く、ぼくは手にびっしょりと汗をかきながら舞台を見つめ続けた。ボウイングは基本的に緩やかだけれど、ときどき急にダウンへ変わることがある。大野さんはそういう折、目をぎゅっとつぶる。なにを考えながら弾いているのだろう。なにを感じながら弾いているのだろう。楽章が終わり、また次へ移る間のほんの少しの空白には、一つのことをやり遂げた達成感よりも次に来たるべき新しいなにかに立ち向かう気持ちの方が勝っているようだった。楽譜をめくるその指の先の先までがぴんと張り、……と、ぼくは大野さんの姿にばかり見とれていたわけだ。
 ついに第四楽章が終わりを迎える。
 放たれた弓が空中で止まる。張りつめていた息が胸の奥の置くから吐き出され、それから一瞬の_の後、拍手がわく。始まったときよりもずっとたくさんの拍手だ。振り返れば教室は観客でびっしり埋まっている。机の列と列の間にも人々は座り込み、後ろの壁も埋め尽くされていた。もう一度舞台へ振り返る。大野さんは笑っていた。四人が互いに顔を見合ってなにかを確認しあう。それから楽器を肩からおろして一礼。大きくなる拍手。
 それからおもむろに大野さんが前に出てくる。拍手がやむ。そして写真立ての乗った楽譜台の横に立つと、まっすぐ前を向く。水を打ったように会場は静まりかえる。
「市ノ瀬は私たちの大事な仲間でした。このヴィオラを残して彼は逝ってしまいましたが、彼の好きだったこの曲をこれからも毎年弾いていきたいと思っています。関係者の方々にお礼申し上げます。それから、今日来てくださった皆様には本当に感謝申し上げます」
 ぺこっと、いきおいよく大野さんは最後に深く深く頭を下げた。わっとわく拍手。彼女の言葉は、ぼくが短い間に仕入れたボロディンの知識をことごとく無意味化する。たくさんの固有名詞と年号と作品番号とがぼくの頭の中から逃げ出していく。妻のエカテリーナに捧げられた? そうじゃない。もっと強く大きな動機が目の前にあるじゃないか。ぼくは背骨の上から下へ真っ逆さまに滑り落ちるような感覚を覚える。それは初めて丸山先輩と大野さんとが二人で歩いていく後ろ姿を見たときの感覚とよく似ていた、。

 教室の外で待っているとメンバーや「関係者」に囲まれて大野さんが出てきた。すぐに彼女はぼくに気がついてくれて、バイオリンケースを揺らしながら近寄ってくる。
「ありがとう、来てくれて」
 一緒にいた他の人々は先に階段を下りていった。「おつかれさま、とてもよかったよ」と月並みなお世辞を言うのはあまりにも軽率な気がした。といって「でも、一体あの写真立てはなんだったの?」と続けざまに言うこともはばかられた。
「うん、あの……ボロディンね。うん」
 ぼくは壁に貼られたビラに目をやりながらもごもごと言う。なにも知らない者はいつだって弱い。丸山先輩の顔がぽっと浮かぶ。
「終わっちゃった公演のビラくらい寂しいものはないね」
 大野さんはそう言ってぼくの視界から一枚をはがしてしまう。A4用紙一枚分の白い壁が二人の間に現れる。それがどうしようもなく遠い距離を象徴しているような気がした。きっと演奏がうまくいけばいくほど、この世のどこかの誰かの悲しみがいや増しに増されるはず。そういう種類の演奏会。ここで完結しない何かがある。
「楽しんでくれればいいのよ、私たちは私たちのためにしか曲を演奏することができないのだし、……本当なら人前でするべきことじゃない。それはいろんな人から言われた」
 ぼくの頭に浮かんだ丸山先輩の顔は容易に消えてくれない。なぐさめるでもなく、ほめたたえるでもなく、甘くも辛くもないような言葉をぼくは探し続ける。
「章司君、明日ヒマ?」
 唐突に大野さんが言う。
「あ、あした? ヒマ?」
 いま、そう言った?
「午後二時に図書館の前で、ね」
 それだけ言うと大野さんはスカートをひるがえしてぱたぱたと階段を駆け下りていってしまった。十一号館のエントランスで待っていたさっきの集団と合流するのが上から見えた。
 まさかデートの誘いでもないだろうと思いつつぼくは他の解釈が成り立つのを恐れながら考えをめぐらす。そしてすぐに午後二時という時間が丸山先輩の演劇が開演する時間とちょうど一致しているという事実にたどりつくのだった。

 日が暮れて、ぼくはなおも一人でキャンパスをふらふら歩き回っていた。まるで学生会館で大野さんを探すともなく探したような足取りで歩き回っていた。
 たいていの客はもう出払っていて、これから夜通し飲み明かそうという学生たちがそれぞれの出店のテントの下に車座になって紙コップの準備などし始めている頃だ。あるいはそういう場所のない展示系の学生たちもそろそろ後片付けを終えて渋谷に繰り出そうと裏門へぞろぞろ歩き始めている頃だ。
 ふと学内の小劇場の前に出たので中に入ってみた。今日の分の公演はすでに終わっていて、明日の公演を行う劇団が交代でリハーサルを行っているようだった。運良くその時、丸山先輩の劇工舎オプティカルが舞台に入っていた。舞台の真ん中にそびえる張りぼての安田講堂に、赤いヘルメットと手ぬぐいで顔を覆った役者がうろうろしているのを見ればすぐに「時計台放送よ、再び」という題名が思い出された。
「なんだ、ちょうど今クライマックスだぞ」
 と、声がする。その方を見れば男が足を前の席の背もたれに投げ出して客席に座っている。
「変なヘルメットかぶってるから丸山さんだって一瞬わかんなんかったですよ」
 ぼくは笑いながら隣に座る。
「おまえなあ、これには俺たちの忘れた熱い熱い情熱が込められているんだ。前衛に走りすぎた今の演劇界にもっとも必要なものだよ」
 先輩は「フロント」とマジックで書かれた緑色のヘルメットを脱いだ。
「で、……どうだった?」
「よかったですよ」
 そう聞かれればそう答えるしかない。
「ねえ、おまえさ、俺がいまわざわざカマかけたの、わかってる? いま『よかった』って言ったのはおまえのしょーもない恋愛小説が載った『コギト』の売れ行きか? それとも——」
「ああ」
 と、ぼくはやっと自分の頭の中が一つのことでいっぱいになっているのを自覚する。ぼくは正直に大野さんの演奏会の感想を述べ、それから明日の丸山先輩の公演も楽しみしているということを伝える。写真立てのことは触れなかったけれど。
「ふうん」
 先輩は持っていた缶コーヒーのプルタブを上げる。舞台の上では照明の調節が始まった。激しく様々な色が短い間隔で切り替わっていく。ぼくの手元も青くなったり赤くなったりした。団員がちらちらとこちらの様子をときどきうかがってくる。
「あっち行かなくてだいじょうぶなんですか?」
 先輩はぼくの質問に答えなかった。答えなかったというよりは、ぜんぜん聞いていない風だった。
「おまえ、あいつが何でヴィオラやってるのか知ってるか?」
 だいぶ長い沈黙のあとで先輩が言う。ぼくは横でライティングのチェックをしているのかと思っていたから、その「独り言」が自分に向けられているのを悟るのにすこしの時間がかかった。
「ぼくは丸山さんと大野さんが知り合いだったってこともついこの前知ったばかりだし、大野さんとは週一回のゼミで顔を合わせるだけなんです」
「でもおまえは大野のことが好きだ」
 すかさず言われる。
「え、……ええ、まあ」
 ぼくは直感的に悟った、丸山先輩は全部知っているのだ、あの市ノ瀬とかいう写真の中の人物についても。自分の感情さえそのとき指摘されるまで定義を先延ばしにしていたぼくは、たぶん先輩から見れば手のひらの中でばたばたと走り回っているように見えたに違いない。でも、怖かった。安易すぎた、恋と呼ぶには。
「大学一年の頃、立川の喫茶店でバイトをしていたことがある。ステージのある喫茶店で、近くの音大から学生を呼んで弾かせてた。市ノ瀬はその中の一人だったんだよ」
 丸山先輩はまだずいぶん残っているだろうコーヒーをぐいっと飲み干してしまう。ああ、この人はぼくに伝えようとしてくれている。そのことがうれしかった。胸の底がじんと熱を帯びる。
「やってただろう? あいつ、写真立て持って——おいっ、そのバリケードはもう少し左にやってくれないか! 影になっちゃってる!」
 不意に舞台に向かって怒鳴った。舞台の方からも「はーい」と間延びした声が帰ってくる。さっきまでこちらをうかがっていた団員だった。
「……はい」
 ぼくの、遅れる返事。
「おまえ、たぶん勘違いしてるから先に話しておく」
 先輩は立ち上がった。
「このあと音響チェックが入る。外で歩きながら話そう」
 ぼくたちは小劇場を出た。いつも甘いカレーを食べてる生協食堂へ続く小道は真っ暗で、歩を進めるたびに地面を覆い尽くしている落葉がたてるかさかさという音だけが目印だった。この区画だけは出店を出せない指定になっていて、キャンパスに残っている者たちの喧噪はもうすこし遠くからこだまして聞こえてくる。それがかえってさびしさを与える。
 先輩はきわめてゆっくりと歩きながら、きわめてゆっくりとぼくに語ってくれた。
「俺はウェイターもやっていたんだけど渉外担当でもあったから、あのカルテットのリーダーだった市ノ瀬とはよく会っていたんだ。ヴィオラを弾いていて、大野もまだそのころはセカンドバイオリンだった。あいつらしょっちゅうノクターンを弾きに来てたよ。市ノ瀬は市ノ瀬でピアノの弾ける女の子を連れてきちゃ『おとぎの絵本』なんてのもときどきやってた。要領がいいんだな。ちょっとした有名人だったよ」
 先輩はなつかしむようにそこで一呼吸おく。
「それが、どういうわけだか……死んだんだ、ある日突然。冬の寒い日で、俺がバイト先にいくと店長が伝えなくちゃならないことがあるって……横に立っていたのがヴィオラ学科の主任だった。それで、聞かされた、死んだっていうことだけ。ロシアに修行に行ったんだって言いはるやつもいたけど、そのあと俺は警察にも会ったしあいつの親にも会った。でも詳しいことは知らない。おれはただ聞かれることに答えるだけだった。もしかしたら大野は全部知っているのかもしれない。でももう二年経った。
 それからすぐにあいつはバイオリンをやめてヴィオラを始めた。猛烈に練習して市ノ瀬の持っていたレパートリーを全部マスターした、らしい。セカンドは別の大学からなんにも事情を知らないやつを連れてきて、いまのあのカルテットがある」
 立ち止まる。道はとぎれ、そこから先はアスファルトでおおわれた食堂前の広場だった。大きな鍋を持って走っていくエプロンの女の子、食堂入り口の階段に座り込んで缶ビールを空けているアメフトの選手、ブルーシートの上で寝袋にくるまっている学生、入りきらないゴミ箱、今にも倒れそうな立て看板、地面に散らかる色様々なビラ——そのどれもが遠くに見えた。
「本当に……、なんか、信じられない」
「そのあとのことは知らない。知らないっていうのは、もう俺は関与しないってことだ。大野がどんなやり方で市ノ瀬を思おうが、あとはあいつのやりたいようにやればいい」
 大野さんと丸山先輩との間に一人の友人の死が与えた深い溝を、ぼくはのぞきこんでいるようだった。そう、ぼくは「のぞきこむ」ことができるところにいた。ぼくはようやく事実を知るに至ったにすぎない。
「おまえで二人目だ、大野のああいうところにころっといっちゃうやつ」
 ぼくはそのことを知る前から、と言おうと思ってやめた。めずらしく丸山先輩が弱気な顔をしているのに気がつく。いつもだったらなんでもちゃかして笑いのめすのに。
「どいつもこいつも、どうしようもないロマンチストだ。じゃあなっ」
 丸山先輩は怒ったようにそういい捨てるとくるりときびすを返してさっさと小劇場の方へ帰って行ってしまう。肩を落とし背中を丸め両手をポケットにつっこんで。そういう姿を見るのは初めてだった。明らかだった。自分だって大野さんのこと好きなんじゃないか、とぼくはその背中に力いっぱい言ってやりたかった。
 あまりにも多くのことを抱え込んでいる人たちに、ぼくは触れてしまったようだった。クラシックという新しい趣味ができればいいと軽く考えていたぼくの目の前には、もっと別の広くて深い世界が現れ始めていた。でもまだその中へぼくは入り込んでいない。その時だったらまだ引き返せたと思う、もし自分の足でそれが可能ならば。

 翌日、午後二時きっかりに大野さんは現れた。「本日閉館」と書かれた立て札の前に立っていると、うしろから声をかけられる。そして大野さんはぼくをある場所に連れて行きたいと言った。学園祭は三日間の日程の中日を迎え、落ち着きというか中だるみというか、初日ほどの盛り上がりはない。大抵の学生は酔いつぶれて部室でいびきをかいているのだ。
「いつもは一人で行くんだけどね」
「丸山さんの演劇を見に行くんじゃないんですか」
「誰がそんなこと言ったの?」
 大野さんはいたずらっぽく笑って見せ、どんどん先へ行ってしまう。ぼくは丸山さんの昨日の話を思い出して、もしかしたら、と思う。そして案の定井の頭線で吉祥寺まで出ると立川行きの中央線に乗り換える。カルテットが出入りしていた喫茶店に行くつもりなんだ。
 電車の中で大野さんは一言もしゃべらなかった。ぼくたちはまるで知らない者どうしのように、たまたま行き先が同じものどうしのように電車に揺られていた。大学から一歩出てしまえばそこは普通の日曜日の午後で、ベビーカーに子供を乗せて歩く若い夫婦や、競馬新聞を広げたおじさんや、予備校へ向かうらしい高校生のグループが目に入ってくる。けれど、やっぱり彼らもぼくからはずっと遠いところにいるようにに思えた。
 立川駅の改札を出ると南口の階段を下りる。歩くのが速い大野さんの後についていく。横断歩道を渡って歩道がいくらか広い反対側へ移る。そしてちょっとした大通りを進んでいく。北口界隈は買い物によく行くけれど、反対側はあまり来ることがなかった。楽器屋の角を曲がると、そこはだいぶさびれた横町といった風情だった。
「あそこよ」
 大野さんはそこでやっと口を開いた。「コーヒーステージ」と書かれた店の看板が狭い路地の上に立っている。近づいていくと店の様子がわかった。外に面する部分は大きなガラス張りになっていて、ステージが奥の方に見える。女の子が一人でピアノを弾いているのが、いすやテーブルにさえぎられながらもわかった。「寒いから早く入ろう」と言われてとびらを押すと曲が聞こえてくる。ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」。なにかの映画で聞いたことがあった。
 ぼくたちはおのおの注文をしてカップを受け取ると窓際の席に向かい合って座る。店内の客たちはステージに耳を傾けながらもそれぞれの会話を楽しんでいるように見えた。
「こういうところ初めて?」
「そうですね」
 たぶん、深い意味はない。ついてきてくれる人が欲しかったのかもしれない。それでいいとぼくは思う。大野さんはぼくをこの大事な場所に連れてきてくれた。この場所を実際に訪れることができた。でも、ステージを見つめる大野さんの目になにが映っているのかを想像することは容易なだけにかえってつらかった。
 やがて曲が終わる。終わらない曲はない。ぱらぱらと拍手が起こり、演奏者はステージを下りた。店内は真空のように静かになる。その時だった。
「大野さんのこと、好きなんですよ」
 ぼくはぽろっと言ってしまう。不意に涙がこぼれるように、自分ではどうしようもない大きな何かに肩を押されるようにして。なぜその時だったのかはわからない。でも、たとえば入念に計画したデートを予定通りこなした最後に言うよりもずっと本当のような気がする。
「わたしも君のこと好きだよ」
 ぼくはすぐに返ってきたその答えをおどろくほど暗い気持ちで聞く。
「ほら、信じないでしょ」
 大野さんはその時だけぼくの方を向いた。その目はあらゆる悲しみとあらゆる怒りと、それからぼくの知らない様々な感情ををたたえていた。
「どうしたらいいんだろうね」
 店内は暖かく、通りに面した窓ガラスは結露でくもっていた。外から入ってくる光は白く彼女の横顔を照らして、ぼくは胸の底の底がうずくのを感じる。この人を守りたい、なんて思うのは思うだけにとどめておいた方がいいのかもしれなかった。丸山さんにもできなかったことをぼくができるわけがないのかもしれなかった。でも……。
「『力及ばずして倒れることを辞さないが力尽くさず挫けることを拒否する』って知ってる?」
「なんですかそれ」
 顔を上げる。大野さんはあいかわらずステージの方へ顔を向けている。
「市ノ瀬の好きだった言葉。よく知りもしないくせにね、ああいうの好きだったのよ。……丸山君、今頃舞台でがなり立ててるだろうねえ」
 大野さんはくすくすと小鳥のように笑う。ぼくは砂糖を入れ忘れたカプチーノを口に付ける。舞台にはまた一人、バイオリンを持った青年が上がる。演奏が始まって、ぼくたちはそれ以上の会話を断念しなければならなかった。

〈了〉


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