生きるとは造花と見まがうほどに美しい

  一

 なにをしているの、と問うと「造花を描いているの」という答えが返ってきた。そんなことはわかっていた。見たまんまだ。聞き方がまずかったのだろうか。
「なんのために?」
 こんなことを聞くぼくもぼくだが「どうでもいいじゃない、そんなこと」と答える彼女も彼女だ。
 砂浜は白、という先入観があったぼくはこの浜辺に来てがっかりしたばかりだったんだ。まるで曇り空を地面に映したようなんだ、ここは。いちめんのはいいろ、いちめんのはいいろ。
 おまけに波の来ないところには二メートルの高さはあろうかと思える雑草が伸びきったまま茶色くなって死んでいるし、ちょっと裸足でたたずんでいると、異常発生したとしか思えない数のフナムシが足からはいあがってくるし、それじゃ立ってないで歩こうと思えば魚の死体をたてつづけにふんづけてしまった。
 そういううんざりさせるような場所でだ、ちょっとかわいげな女の子が波打ちぎわで画用紙を広げて、砂にさした真っ赤なブーゲンビリアとにらみ合っているのを見たら、誰だって話しかけたくなるものじゃないか。
 でもぼくはちょっとためらったんだ。彼女の姿があまりにもおあつらえ向きだったからさ。まるで他の誰かが彼女のそういう姿をどこか遠くから写真にでも撮っているんじゃないかと思うくらいにね。だけどどこを見回しても浜にはぼくと彼女しかいなかった——と言ってよかっただろう。もちろんぼくは一人で海に来ていたのだし、ずっと向こうでボール遊びをしている若い男女の一群も、あるいは反対側のずっと向こうで砂遊びをしている家族もさしあたって目の前に座っている少女とはなんの関係もなさそうだった。
 そうして、ぼくは彼女に話しかけたんだけどどうも反応が好意的じゃない。
「きみ、名前は?」
 今度はぼくはナンパを気取ってみた。こんな時じゃないと「きみ」なんて二人称はきざったらしくてやってられない。本当はあんまりこういうことは好きじゃないんだけどね。好きじゃないのにどうしてやったかと言えば、それはもう、彼女がぼくのタイプにぴったりだったからとしか言いようがないな。で、彼女はやっぱりこっちに振り向きもせずにこう言ったんだ。
「名前なんてどうでもいいじゃない」
 ふうん、なかなかポストモダン的なことを言いやがる。普通の人ならこの辺で退散するんだろうけれど、ちょうどぼくはその時ひまでひまでしかたがなかったんだ。大学二年の夏休みくらい退屈なものはないね。ぼくはあと三十九日間もどこかでなにかをしなきゃならなかったんだ。その時ぼくは電車で三時間もかけて名前も知らない海辺に来ていたってわけさ。十代最後の夏の思い出作り、というわけだ。
 ぼくは彼女の右ななめ後ろにしゃがみこんでみた。彼女の横顔と画用紙と真っ赤な造花がよく見えるようにね。似合わないのを百も承知でかけていた赤いサングラスをはずして画用紙に注目した。
 彼女は色鉛筆で簡単にデッサンをしているだけだったんだけど、なるほど素人目で見てもうまいものだった。鉛筆で塗られた鉛色の砂地の背景からどぎつい赤色の花弁が浮かび上がっていた、なまめかしいくらいに。
「うまいんだね」
 おせじじゃなくそう思ったけど口ぶりがおせじっぽくなってしまう。するとどうだろう、彼女はスケッチブックをパタンと閉じて色鉛筆もハンドバッグの中にしまっちゃったんだ。ぼくもそれでようやくやっぱりこの子はだめかなとあきらめかけたよ。
 でもおもしろいことになったんだ。彼女は立ち上がって造花を引き抜くとそれをぼくの手に握らせた。一瞬ぼくはバラのとげでもあるんじゃないかと思って手を出しかねたけど(でもぼくは最初からブーゲンビリアだって判断していたはずなんだよな)、一秒後にはさりげなく彼女の手にも触れながら受け取った。そして「ついて来て」と、彼女は言ったんだ。しかもわざわざぼくの耳元に口を近づけてさ。吐息が「つ」と「き」の発音を湿らせて、それはもう、こんな経験は生まれてこの方一度もなかったよ。いや、一度くらいはあったかな。うん、あった。陽子って、こいつはぼくの昔の恋人なんだけど彼女ときたらぼくの誕生日にふざけて——いやいや、こんな話は今は全然重要じゃないんだった。
 とにかくぼくは死にそうな砂浜で出会ったその生きている少女に突然官能的な刺激を受けたわけだ。すばらしい対比だ。芸術的とさえ言える。これはそう悪くない話だろう。ぼくはその造花をさも大切そうに抱えると、彼女のあとにひょこひょこついていくことにした。彼女は後ろから見ても実に魅力的だったね。ぼくはひざ小僧の裏側に妙なフェティッシュを感じるんだけれど、彼女のそこは歩くたびにへっこみふくらみしてぼくは何度もすがりつきたいと思ったよ。
 浜から上がって、海岸沿いを走る自動車道路の縁を南に向かって歩き出した。南かどうかはわからない。でも南に向かって歩き出した方が、なんだか具合がいいだろう。ぼくたちはアスファルトがひび割れた狭い歩道を、後ろから走ってくる自動車のサイドミラーが肩にぶつかりそうになりながら歩いた。少なくとも二十分は歩いたと思う。海辺のあんまりかわりばえのしない景色の中をもし一人で二十分も歩いたら絶対いやになっただろうね。もちろんぼくは退屈しなかった。なにしろなにかが始まりそうな予感でいっぱいだったし、彼女の後ろ姿を遠慮なく眺めることもできたわけだから。
「きみはこの辺に住んでいるの?」
「どうでもいいじゃない」
「よくないよ、家出少女だったらぼくみたいな悪い人間がとって食っちまうところだよ」
 彼女はくすりとも笑わないで淡々と歩く。こんな風に彼女は今までも生きてきたんだろうか。
「あ、もしかして君の家に連れて行ってくれるの?」
「どうでもいいじゃない」
 ぼくは彼女がそう言うと思って一緒に言ってみた。ハモりあった「どうでもいいじゃない」という言葉はそれこそどうでもいい感じだったよ。
 あそこ、と言って彼女が指さしたのは山の斜面に立てられた白い建物だった。古びた旅館が立ち並ぶ中、その建物だけはまるで地中海から切り取られてきたかのような際立つ白色をしている。よく見ると白い塀に囲まれた中に白い壁の小屋があって、きみょうキテレツにも丸屋根をかぶっていた。そのドーム状の屋根だけが青色をしている。
 ぼくはその少女を初めて目にしたときと同じような躊躇を覚えた。やっぱりあんまりおあつらえむきなんだ。まるで物語にでも出てくるようなさ。がらじゃないけど、さしずめぼくは森で道に迷った王子様なんだ。少女の妖精がどこからか突然現れてぼくを森の泉に導いてくれる——そう、そんな陳腐なストーリー。ぼくは目の前にいる見知らぬ少女と学芸会でもやっているような気分になってしまった。いずれにせよ、ぼくは役を引き受けたわけだ。
 世の中たいていの人は主役になりたがるものじゃない? でもぼくは他人の人生の脇役であることにさえ満足をおぼえていたと言っていいかな。だってそれまでぼくは自分を全くの大道具か照明かなにかだと考えていたからね。それがどうだ、急に王子様なんだ。もしここまで読んできて「つまらないお話だ」と感じたらあなたはきっと幸せな人間。残念ながらぼくとは友達にはなれなさそうだ。
 さて、ぼくたちはその白い小屋に向かって今度は坂道を登っていった。これがまたひどい坂道で、傾斜角が六十度はあるんじゃないかと疑ったくらいだった。おまけに途中までしかアスファルトで舗装されていなくて、ぼくはサンダルを履いていたものだから砂利道で何度もすっ転びそうになったよ。
 でも前を行く彼女はヒールだってのにすいすい登っていくんだ。慣れていてもああまで上手に登ることはちょっと無理なんじゃないかな。そういうところがまたよけい妖精めいていて、単純にうれしかったけど。それに紺色のスカートから出ている彼女の足は白くて細くて、操り人形の糸みたでさ。まったく、魅力的だったよ。
「きみの家なの?」
 もう彼女から答えがかえってくるなんて期待していないから、なかば独りごととして言ってみた。今度は彼女はぼくに向かってちょっと微笑んだだけだった。ああいうのを娼婦的な笑みって言うんだと思う。見たところいやらしさを匂わせているんだけど、それでいてもっと人間の本能を直接刺激してくるような、刺すような笑みなんだ。残念ながらちょっと口ではうまく言い表せないよ。本当に伝えたいものっていうのはたいていの場合、言葉にできないんだ。
 ぼくたちは小屋の中に入った。窓が開いていなかったから電灯をつけて初めてわかったことなんだけど、中には大きなベッドが一つあるきりで他にはなんにもなかったんだ。ひんやりと冷たい空気が漂っていて、ちょっと湿っぽかった。よく見ると壁の白い石膏はまだ生乾きなんだ。
 やっとという感じでそこまでたどり着いたわけだけど、そこからは早かった。ぼくたち二人はそのベッドへ絡み合うようにして倒れ、動物のように交わった。いや、動物として交わったと言った方が原理的だ。彼女の肌は白くてやわらかくて、なるほど子供をはらんでお腹がほっこり膨らむにはこれくらい肌がやわらかくないといけないのかなんて勝手なことを考えさせたりしたほどだった。何度もぼくは唇をつけ、その感触を楽しんだ。情けないけれど、ぼくは夢中だったんだ。彼女は不思議なくらい忠実だった、男の描く典型的な妄想に対してさ。
 ところが妖精でもなんでもなかったんだ。一通りのことが終わると彼女、ぼくの目の前で五本の指をピンと立ててなにか主張するのさ。なに? とぼくが聞くと「五万円」なんて言うんだぜ。その時のぼくの驚きようはいつかビンゴ大会で一等のどでかいテレビを当てたときの比じゃなかったな。
「二万円しかない」
 へどが出るようなせりふだった。「じゃ、それでいい」なんて彼女が言って、二枚の紙幣をぼくからふんだくると最後に冷たく言い放った。
「出てって」
 これには心底参ったよ。どうして弱冠十九歳のぼくがこんな目に会わなきゃならないんだ。両親健在、国立大学生のこのぼくがさ。もちろんすぐにその小屋を出て行った。金なんか払わずに彼女をぶん殴って飛び出してきちゃってもよかったんだ。でもそれはやっぱりフェアじゃないし、あとで黒服のでかい男がぼくを半殺しに来るんじゃないかと思って——だってありえない話じゃないぜ、一度彼女を見ればそんな気にもなるよ。とにかくあの二万円でぼくと彼女は元の他人に戻ったってわけだ。高いんだか安いんだか見当がつかない。いい話じゃないよな。

  二

 それなりに反省してそれから数日後、ぼくは大学に行った。恋人である美紀の所属している演劇サークルが公演をやるっていうものだからね。美紀のやつ一年のくせして結構な大役を任されたらしいんだ。おかげでぼくらは夏休みだってのに全然会えなくて、その日は四日ぶりに顔を会わせたんだ。好きな女なら四六時中一緒にいないとぼくは気が済まないからね。
 校門を入るとすぐ目のつくところに巨大な立て看板がそびえていて「劇団呵呵講演——『花町のセレナーデ』」と大書してあった。なんだ、大役って花魁でもやるのかとぼくは思いながら構内にある小劇場へ向かった。
 楽屋に行ってみると美紀はばかに派手な和服を着込んでいるんだ。あんまりそれが似合っていないものだからぼくは失望を通り越して絶句したよ。せっかく輪郭の細さがきれいな美紀がごてごてした衣装に殺されちゃっているんだ。
「ううん、そんな衣装着ていないほうがいいんだよなあ」
 と正直すぎる感想を述べたら美紀はばしんと背中を一発叩いてくる。どうもこの人はテンパるとすべてのコミュニケーションがノンバーバルになってしまう。もちろんそれがベッドの上なら話が別なのだけれど、ねえ、もちろん本番前の楽屋にのこのこ行ってしまうぼくもぼくなのは百も承知なのだけど。花束も持っていかなかったし、ぼくは他の団員の妙な視線を感じながら客席に戻った。
 なにかが始まる直前の空気、そうだな、たとえばどんなに小さなコンサートでも、オーケストラが最初に音合わせをしているときのあの胸の高まり、そういうものが客席を埋めつくしていた。そでではがたがたと物音がし足音が右から左へ駆け抜けた。そうして待っていると、ビージーエムの音量が急に上がって舞台を照らしていた弱い照明は明るくなり、前口上が始まった。……
 けれども『花街のセレナーデ』はいい作品とは言えなかったな。お涙ちょうだいなんだ。みんな身振り手振りが大げさで、劇を見たというよりは一生懸命練習しましたっていうことの証明をみんなでやりあってるっていう感じだった。ろくろく時代考証もやらないステレオタイプな江戸情緒でさ。とにかく、ぼくとしては素顔の美紀が一番だってことをよくよく再認識したってわけだ。だいたいぼくは演技なんて見たくなかったんだ。へたくそな演技なんてもう、そこらじゅうでやられているじゃないか。みんなテレビの司会者みたいにべちゃくちゃしゃべりすぎなんだよ。都市を舞台として人々は下手な演技をする。もうよせ、人間どもよこんな茶番は——こんな結論でいいだろう。
 四日目の最終公演が終わってからぼくと美紀は夕食を食べにレストランに行った。普通のファミリーレストランだけどね。高級レストランでもよかったんだけど二人とも服装がなっていなかったし、ぼくも二万円ぼったくられたばかりだったからちょっとそんな余裕はなかったんだ。でもぼくは素敵な夕食を演出するためにずいぶん話の種を用意していったんだぜ。
 いつもどおりハンバーグ定食を二人分注文した。ぼくはそれから得意の小話を始めたわけだ。最近話題のテレビドラマをこき下ろし(結論はいつだって「やっぱり君の演技が一番だね」なんだけど)、そのときはちょっと苦し紛れに、
「あの、最後の花魁道中ね、あれがよかった。きれいだったね。娼婦にしかない美しさがよく表情に出ていた」
 と言ってやったさ。でもなぜか彼女押し黙っていたんだ。いつもならホントかウソかわからないくらいに喜んではしゃぐんだけど、水ばっかり飲んでいるんだよ。これって言いたいことがあるんだけど言えない状態に彼女があるっていう決定的証拠なんだ。いつだって彼女はわかりやすいからね。
 ぼくはかまわずに次の話題に移ったよ。せっかく二人でいるのに沈黙しちゃうのがぼくは大嫌いなんだ。よく沈黙を共有できてこその恋人、みたいな言辞が弄されているけれど、ぼくに言わせればそんなのは敗者の論理でしかないんだよね。
「今ね、実はぼく脚本を書こうと思っているんだ。テレビ局で募集しているんだよ。当たれば相当のお金が入る。テレビだからね。それで君と旅行に行けたなら、こんなにいい話はないだろう?」
 彼女はコップの水をまた口に運んだ。ついに水がなくなった。しめた、やっと口を開いてくれる——と思ったときにハンバーグ定食が来ちゃったんだな。この店は注文してから料理が運ばれてくるまでが信じられないくらい早いんだ。それが気に入ってぼくたちはよくここへ来るんだけどさ、そのときばかりは恨んだね。
「こういう話を考えているんだ。ラブストーリーだ。失恋によって自分のなにもかもを人にさらけ出すようになった男と、失恋によってなにもかもを人から隠すようになった女が出会うんだ。舞台はどこでもいいな。大学でも、会社でも、コンビニでも。二人は多少とまどいながら恋に落ちる。ここには別に理由なんていらないや。もちろん男はあけすけに女を追いかけるんだけど女はなかなか素顔を見せてくれない。男はつらくなって途中別の女とつきあうようになる。この女は母親みたいな愛情を持っているんだ。だから結局二人はうまくいかなくなる——わかる? 恋愛には愛の要素も必要だけどその前に恋の要素が必要なんだ。恋・愛、って言うくらいだからね。これは他でもない、美紀が教えてくれたことなんだぜ。……それで、それから二人は別れる。ここからが問題なんだ。最初に出てきた女の心をどうやって開かせたらいいんだろう。正直ぼくにはわからないんだ。そんな恋愛したことないし。なにかいいアイデアはないかな、演劇人として」
 最後の一言を言いたかっただけなんだ。本当は男に写真とか油絵の趣味があることにして、女にモデルをやってもらう過程で会話させるとか考えていたんだ。写真にせよ油絵にせよ結構な道具になるだろうし。テレビだからね、ラブレター書いたってらちがあかない。小さな手書きの文字はあのチラチラする画面には不釣り合いだ、いくら今のテレビの性能がいいからってさ、人間の目がそれに合わせて進化するわけでもなかろうに。それにぼくは四畳半で四、五千円の小さなテレビを大事そうに見ている貧乏学生に向けて物語を作りたいと思っているからね。
 とにかくぼくは彼女からなにか言葉を引き出そうと思って急遽、会話の軌道修正をしたわけだ。ちょっと自分がかまととぶってるような感じがして気に入らなかったけどさ。
「そうね——」
 美紀はボトルから新しく水をコップに注ぎながら言った。ぼくはもちろん彼女を愛していたけど、こういうちょっとした瞬間に簡単にそれは憎しみに変わっちゃうんだ。でも同じように簡単に愛情に逆戻りする。あっちへ行ったりこっちへ来たり、二つの壁の間をピンポン球がはね続けるようにね。
「男の人に、とっても長くてとっても情熱的なラブレターを書かせたらいいんじゃない?」
 よくないね、と言う代わりにぼくはハンバーグの大きなかたまりを口の中へ押し込んだ。ぼくが用意してきた小話はまだ三百くらいあったけどもう、全部あきらめた。
 すぐ隣のテーブルじゃ高校生の女の子たちが男の話でずいぶん盛り上がっていたし、ガラスの仕切りをはさんだ美紀の背後の席じゃぼくと同じ歳くらいの男が三人、最近離婚した芸能人の悪口に花を咲かせていた。だからぼくもテレビをののしって、ついでに夢なんか語ったりしたのさ。でも彼女、なにかすごく重いものを抱え込んでいるのさ。見れば一目でわかるのにこっちから聞いてやんないと絶対に言わないんだ。
 つきあい始めた時もそうだったな。ぼくが彼女に愛の告白をさせたのさ。「あなたのことが好きです」って彼女の気持ちを知っていたぼくは誘導尋問でそう言わせたんだ。自慢になるような話じゃないけどね。それに今じゃ彼女のことをぼくは愛しているさ、世界中の誰よりもね。これは自信を持って言うよ。
 それでぼくは美紀のことがかわいくていじらしくて聞いちゃったんだよ。
「なんか、悩みあるでしょ」
 彼女の目をじっと見据えてぼくは言った。言い放った、と言うのがこういうとき適切なのかもしれない。ぼくの視線が彼女の目の中にすっと入ってそのまま胃カメラみたいに心の中を探るんだ。
「うん……。実は今日も舞台の上でずっと悩んでいたんだけど……」
「うん」
 ぼくはナイフとフォークを休め、口の中は動かしていたけれど彼女の言葉を待った。
「母がね、家出したのよ」
 これには参った。この前の売春少女と言いぼくの人生は荒唐無稽に満ちた別世界へ知らず知らずのうちに突き進んでいるんじゃないかと心配したくらいだった。テレビなんか馬鹿にしている場合じゃないよ。
 美紀の話は結構シリアスだった。こんな感じだ。
「父の事務所がつぶれたことは前にも話したでしょう?」
「ああ」
 美紀の父親は税理士で、自宅に小さな事務所を開いていた。六月くらいににっちもさっちもいかなくなったっていう話は何度か聞かされていた。その頃から彼女はぼくの存在をまるっきり忘れてしまったかのように沈黙することが多くなっていったっけ。でも、もちろんぼくはそのつど恋人として最大の役割を果たしたはずさ。彼女が涙を流せば優しくキスをして寝付くまでずっと手を握ってやったし、気分が沈んでいれば気が晴れるようにぼくの大嫌いなハリウッド映画にも見に行ったし、意味もなく宝石店に入ったりもしたんだ。
「最近、今月に入ってからかな、父が母に暴力を振るうようになったの。私は大学に逃げてこられるんだけど、母はちょっと遠くにある図書館くらいしか逃げ場がなくて。結局戻ってこなくなっちゃったのよ……おとといから。私、母を助けて上げられなかっ——」
 とうとう彼女の目から涙がこぼれ出したんだ。ぼくは彼女の話を信じようと思った。「信じようと思った」ってのはさ、つまり彼女の話があんまり新聞記事みたいでぼくには素直に飲み込めなかったんだ。知らない政治家が脱税しようと株価がめちゃめちゃ下がろうと、もっと言えば行ったこともない場所で人が殺されようと自分の目の前で起こっちゃいないんだから現実味なんてあるわけがないんだ。新聞記事が全部小説ですって言われたらぼくは信じるかもしれないぜ。いつだってぼくは自分のことで精一杯なんだ。
 で、恋人である美紀に「社会問題」としてスクープされそうな出来事が降りかかったんだからぼくはうろたえざるをえなかったさ。少なくともぼくにとって「恋人である」ということはリアルなわけだからな——「リアル」だなんて、こういう言い方は本当は好きじゃないんだけどさ、まあ仮にそういうことにしてだ。とにかく今まで自分の世界の外にあると思ってきたものが突然頭の上からべちゃっと落下してきたんだ。一体これはどういうことなんだ。思わず「それは、本当?」なんて言ってしまったよ。彼女は静かにうなずいた。
「もしかしたら父は今も家で篭城しているかもしれない」
「それなら」
 その時ぼくの頭にすてきな考えが訪れたのさ。パッとひらめいたんだ、純粋にね。
「それならぼくのアパートにくればいい。それで君のお母さんを捜して、なんなら三人で住めばいい」
 いい考えだと思ったんだけどなあ、彼女は少し怒っちゃったんだ。
「それじゃあ根本的な問題が解決されないじゃない」
 ぼくは今でもそうなんだけど現実ってやつにどうも徹することができないらしいんだ。適応できないと言ってもいいしコミットできないと言ってもいい。無理にそうしようとすると決まって冷淡になっちゃう。この前もある友達に好きな女の子とで相談されて「好きなら好きと言ってしまえばいいんだ。それでだめならだめさ」と言ってやったら「非現実的だなあ、お前は」と、こう切り返されたよ。ぼくとしては精一杯現実的なアドバイスをしたつもりだったんだけどな。
 それはともかく、美紀がやっぱりぼくの考え方に対して真っ向から否定するようなことを言ったからもう、ぼくはそれ以上何と言ったらいいのかさっぱりわからなくなった。
「父の暴力がやまなきゃなにも解決しないのよ」
 そりゃそうだ。でもあんたの父親が腕力にモノを言わせなくなったらすべてが解決するわけでもないんじゃないの? できることしかできないんだから、できることをやろうよ。ぼくは肉のかたまりを口の中でこねくり回しながら、頭の中ではそんな風な考えをこねくり回していた。
「でも、今は君のお母さんを探し出すことの方が先でしょ?」
 ああ、ぼくの言いたいことをこれ以上柔らかく表現するのは不可能だったな。
「それは……、そうだけど……」
「とりあえず捜しに行こう」
 それでぼくたちは大急ぎでご飯をかきこんでレストランを出たんだ。だんだん、ぼくは自分でなにかを動かしている感覚を手にし始めていた。けれどそれが錯覚であるということにはなかなか気づくことができなかったんだ。ぼくたちはなにかに動かされて、なにかを動かしている。そういう風に考えてみたところで何がどうなるというわけでもないのだけれど、そんな結論に至るまでのぼくの道程を語ることができれば、幸いだ。

  三

 外は蒸し暑かった。生ぬるい風が少し強く吹いていて、そういえば台風が近づいているんだっけとぼくはその時思い出した。何度も言うようだけどニュースでいくら騒ごうがぼくはこの目でみない限りは信じないんだ。
 ひとまずぼくたちは駅へ向かった。彼女の住んでいる三鷹の実家に行くことにしたんだ。もしかしたらお母さんが戻っているかもしれないし、とにかくぼくたちもどこに行ったらいいのかわからなかったんだ。
「お母さんの実家は?」
 道すがらそう聞いても美紀は首を横にふるだけだった。熊谷にあるお母さんの実家には昨日のうちに連絡を入れておいたんだけど、もどっていなかったらしい。
 午後八時の高田馬場は仕事帰りにこれから一杯ひっかけるつもりでいるらしいサラリーマンでごった返していた。みんな顔中に脂汗を流してね、一週間の労苦が終わった心地よい解放感とかいうやつに浸っているんだろうな。
 こっちはそれどころじゃなかったわけだ。なにせ恋人の家庭が崩壊寸前なんだ。このぼくでもやっぱりどこかに焦る気持ちがあったんだろうな、とにかく速く歩きたくてしかたがなかったんだ。でもあまりに人が多くてろくすっぽ前に進めやしないのさ。何度前を歩いているやつを蹴倒してやろうかと思ったか知れやしない。
 でもこんな時こんな所でいらいらしてもしかたがないってぼくは自分に言い聞かせたんだ。急がば回れ。せいてはことを仕損ずる。その手のつまらない処世術をぼくは田舎の母親から、決まって毎週土曜日の夜にかかってくる電話でうんと聞かされる。もう少しでぼくは同じことを美紀に言ってしまいそうな衝動に駆られたけれど、それはなんとかこらえた。だってさ、二人できりきりまいになってしまったら誰が止める? ぼくはあくまでも自分の立場に固執したわけだ。言い換えれば、かっこつけていたわけだ。
 新宿に出て中央線に乗り換えるとぼくたちはやっと少し落ち着くことができた。と言っても電車の中はすし詰め状態だったけどさ。それでもあとなん駅なん駅って数えることができると、家に近づいている実感が多少は増すってことだよ。
 つり革にだらしなくぶら下がりながらぼくは暗い窓に映る美紀の顔を眺めた。少しうつむいて一つのことを一生懸命考えている様子だったな。こんなに重苦しい彼女は正直、初めて見たんだ。ぼくはどうしたらいいのか皆目見当がつかなかったよ。だってこんな状態の二人を一体誰が予測できたって言うんだ。優しい言葉でもかけるべきなんだろうけど、どうもこのときばかりはうまい言葉が見つからなかったな。それになにか言うことができたとしても絶対にくだらないテレビドラマとか映画のラブシーンに出てくるような常套句にしかならなかっただろうしね。エキセントリックを極めている割にはどうしたってブラウン管の中の方がいやに現実味を味付けしたりしているものだから、いざ自分の身に降りかかってくるとなんだか照れくさくて悲劇の主人公にでもなったような気分だったね。いい話じゃない、絶対に。
 と、美紀が顔を上げた。ぼくたちは窓の中で顔を見合わせた。とっさに口元を緩めて笑顔らしきものを作って見せる。でもぼくの目は全然笑っていないんだ、自分でもいやになるくらいにね。美紀は逆だった。口はつぐんだままなんだけど目は笑っていたんだ。これが本当の作り笑いよ、と言わんばかりにさ。 
 頼りなかったな、お互いに。ぼくたちは誰をあてにしたらいいのか全くわからなかったんだ。でも不安はなかったな。少なくともぼくは不安ではなかったよ。確かにぼくは彼女の恋人ではあるけれど彼女の家庭の問題まで背負いたくはないんだ——と言うよりは、そんな必要は最初からないとぼくは心の中で勝手に決め付けているところもあったな。
 ぼくはただ美紀と楽しい時間を過ごして、それで彼女の素敵な笑顔を見ていられれば十分なんだ。そしてそのためならどんな犠牲も払ってきた。そんなものは恋人とは言わないって誰か(ねえ、たとえばどんなやつかなんて話は避けるけどさ)が言うのはわかっている。実際に言われもしたしね。でも、ぼくにとっての「恋人」っていうのはそういうものなんだ。「あんたは不幸な人間だよ」と言われようがぼくにとってはそういうものなんだ。
 もちろんぼくがこういう主張をすることによってあなたはもしかしたらぼくの深層心理を邪推して黒を白と読み替えるかもしれない。それはけっこうだ、それは大いに結構だ。けれどとりあえず今の所はぼくの言うことをそのまま信じて欲しい。ぼくの話をそのままのかたちで聞いて欲しい。何も難しいお願いはしていないはずだ。
 電車は大体二十分で三鷹に着いた。その間ぼくたちは結局ただの一つも言葉を交わさなかった。すごく長い二十分だったね。美紀もそんな風に感じていてくれたらうれしいのだけど、まあ人が何を考えているかなんてわからないな。そういうものについては言及しないようにしておこう。なぜだかはもうわかるよね? いまのいま、言ったばかりなんだから。
 改札を出る前にぼくはトイレにいって用を足し、鏡を覗いて乱れたところがないかどうか確認した。万が一母親が帰っていたら顔を合わせることになるからな。まだ一度も会ったことがなかったんだ。こういう微妙な緊張感を演出する、そんな余裕があったなんて自分でも驚きだ。
 改札を出て左に曲がった。階段を下りた。バスターミナル。たくさんの人が並んでいて、みんな仕事帰りなんだろうな。同じような道のりをぼくたちは帰ってきたわけだ。
 美紀が左に曲がればぼくも左に曲がる。ぼくはただ彼女についていけばそれでよかった。花屋があって、本屋があって、携帯ショップがあって。普通すぎるくらい普通の町並みだったな。日本の住宅街を全部集めて平均をとったらこんな感じなんだろうね。
 ぼくがこんなに平凡さを強調するのはさ、あたりまえだけど美紀の身にふりかかっているドメスティックバイオレンスとやらの非日常性を強調したいためであって、特に描写に力を入れているわけでないことくらいはお分かりだと思う。けれどちょっと真面目な話をすればさ、この二項対立をある意味でぼくたちは崩してはいけないと思うんだ。あくまでもこの事件はあってはならないものであってさ、まあこのくらい平凡な街なら暴力の一つや二つあっても不思議じゃないね、なんてことは絶対に言わせないようにしていかなくちゃな。
 小さな公園を通り抜けると、五メートルおきに立っている街灯しか道を照らすものがなくなっていた。
「もう、すぐそこ」
 美紀はその時初めてぼくの方を振り返った。たぶん光の加減で彼女からぼくの表情は丸見えだったと思う。逆にぼくから彼女の顔はほとんど見えなかった。でもそれがどうしたっていうんだろう? ぼくはついついこんな描写をしてしまったけれど、じゃあ彼女が満面の笑みを浮かべていて、それをぼくが真っ正面から見たとしたらそれで満足なのだろうか? そんなわけないよな、そんなわけないんだけど、……ぼくは見たかったんだよ、彼女の顔をさ。結局わからないってことに耐えられなかったんだ。うん、これは独り言だから気にしなくていい。
 静かだったな。妙に静かだった。ぼくは自分の部屋にいるときは四六時中ラジオをつけっぱなしだし、外を歩くときも耳にイヤホンを突っ込んで大音量で聞いているもんだからいまいちこういう所に来るとだめなんだ。自分の周りに響いている音楽をコントロールすることによってぼくは自分の感情をコントロールしているような所があるからね、静寂ってのが一番厄介なんだ。どしんどしん低音が響いて、しゃかしゃか高音が響くような音楽が欲しい。二人で靴音鳴らしながら神妙そうな顔で黙り込むなんておもしろくないじゃないか、そうだろう?
 やがて「宮川」と掘られた表札の家が目の前に現れた。なかなか立派だったな。いや、本当に立派だった。庭も広かったし、門柱には丸いランプがついていたし、門はガラガラと音を立てたし。ぼくの判断基準といったらこんなところだ。宮川税理事務所の文字が彫られた看板もご健在だ。
「中は明かりがついていないね、見た感じ」
「うん……」
 美紀はそっと門のとびらを開けて玄関へ続く石畳を進んでいった。ぼくはやっぱり彼女の後ろについていった。これは失敗だった。ぼくが今度は前を進むべきだった。でもさ、ぼくはなんだかんだ言って女の人の後についていくのが好きなのかもしれないな。これは一つの発見だ。海辺での出来事も含めて、今度はあなたに判断してもらおう。おもしろい問題提起だと思わないかい?
 玄関は木製の大きなとびらで、簡素な彫刻がなされていた。外に出してある傘立ては空だった。人気はなかったな、ぼくの感じた限りでは。この家だけじゃなくてこの近隣もひっくるめてさ。たとえば夕食の匂いもお風呂をわかしている音もしていなかった。静かだってさっき言ったのはそういう意味も含めてなんだ。
 美紀の父親がどんな人相か全くわからないけれど、体は少し細くて金縁の眼鏡なんかかけてさ、ぼくとは正反対に完璧主義で几帳面な人間なんだろうな。ぼくがそれを何を手がかりにして想像できたのかは自分でもよくわからないけれど、まあとにかくそんな人物が髪の毛を乱して帳簿を引き裂きながらわけのわからない奇声を発して妻に平手打ちを食らわせる図はちょっと説得力があるな、と思った。
「絶対、中にいるよ。気をつけて」
 ぼくの勝手な妄想は台所のすみに隠れて包丁を研ぐところまで膨らんでいってしまっていて、いらぬことを美紀に耳打ちした。でも彼女は何も言わずにかばんの中からかぎを取り出すと、まっすぐにそれを差し込んだ。その無言がたとえばぼくに対する拒否なのか肯定なのかはたまたもう他の人にかまってられないということなのか、なかなか判断がつかなくてぼくは一瞬かたまったよ。
 がっちゃんと大きな音を立ててかぎが解かれ扉が開いた。こんな表現をすればさすがになにかが待っていると思うだろう。実際ぼくだっていろんなことを期待したんだよ。まあそのいちいちを述べるとあまりに脇道にそれてしまうからそれはしないんだけどさ。ただでさえ変なところに迷い込んでいるんだ、メインストリートをなるべく歩もうではないか。
「おじゃましますよお」
 ぼくは暗い廊下の奥へ向かってささやいた。ささやいた! ばかだねえ、せめて怒鳴り込んでやろうよ。話せば話すほどあらが見えてくるな。
「おとおさあん?」
 美紀は思い切ったように玄関の明かりをつけるとそう叫んだ。はっきりと声を出してそう言った。そうしながら彼女は靴を脱いで家に上がる。ぼくはとりあえずかばんだけを足下におろして靴は脱がずにいた。
 それよりも靴箱の上に置いてある時計の方が気になったんだよ。いわゆるロココ調ってやつでさ、ごてごてと小さな金色の人形が文字盤の下でくるくると踊り回っているんだよ。舞踏会だ。それがまた巧妙に出来上がってたんだ。右に回転したかと思いきゃだんだん回転速度が遅くなって今度は左に回転し出すんだ。
 どうしてそんなめずらしくもなんともないものにぼくがこんなに言葉を費やすのかって? ぼくはこういう自分と正反対の趣味のものがあると、もう嫌悪感を通り越して例えばN極とN極とで反発しあって地球を一周してまたくっつくような、そういう変な興味を抱いてしまうんだ。なんだってこんなものが世の中に存在するんたでよっていうさ、一種の恐いもの見たさが働くんだろうな。
 きっとぼくを動かしているのはそういうプラスかマイナスかわからないけれど、とにかく激しい感情を引き起こすなにかなんだろう。いつだってそうだ、ぼくは自分を憎む人間にもっぱら興味を抱いてしまう。美紀だって初めはそうだったんだからね。このことはまた機会があれば語ってみたい。うん、ぼくたち二人の出会いがいかなるものであったかという話をね。でも今のところ美紀の問題を解決することが先なんだ。
「いないみたい……、ねえ、あがって」
 先に家に上がった美紀が廊下の奥から戻ってきてぼくに言った。それで靴を脱ぐことにする。美紀が廊下の電気をつけると、ぼくはとたんにこの家の相当な大きさを感じた。一階部分は玄関を上がるとすぐ左手に洋間があって、ピアノやらソファーやらテレビやらが置いてある……と、簡単に言うけれどそのどれもがめったやたらに大きくてさ、しかも部屋だって手狭に感じないんだ。やっぱりこういう光景にも興味津々な自分がいたな。
 初めての場所っていうのはまず何がどこにあってどれくらいの広さでどこに立つとどんなふうに見えるのかとか、まあそういったたぐいのことを認識したいっていうのがぼくにはあって、それはつまり自分の知らないなにかがあるっていう状況が怖くてしかたがないんだろうな。だもんだからまずもって一人で知らないところへ行くっていうことはあまりないんだ。大抵の場合、人と一緒に行ったところへあとで一人で行くことが多い。その点、恋人がいるっていうことはぼくにとってすばらしいことだと思うんだ。行動範囲が広がるからね。
 でもさ、正直なところここへはこんなかたちで来たくはなかったよ。それはまじめにそう思う。廊下の奥へぼくを案内する美紀の後ろ姿を見ながら、ぼくはだきしめてやりたかった。そうしたって良かったんだ。でもぼくがこうして事件のあらましを展開しているっていうことが可能なのはそうしなかったためなんだよ。もし彼女を引き寄せていたらその瞬間からぼくは主人公になってしまう。ぼくは行動することしかできなくなってしまう。それは趣味じゃないんだ。……もっとも、これはぼくが勝手にそう思っているに過ぎないのだけれどね。
 突き当たりは思ったようにキッチンだった。ぼくたちはテーブルをはさんで向かい合った。ぼくは美紀の向こう側に見える隣の部屋の大きなテレビが、その大きくて真っ暗な口を開けているのを見やりながら手持ち無沙汰に立つしかなかった。
「悪いんだけど、二階を見てきてくれない?」
 美紀がそう言って、ぼくは「ああ」と自分でも発声したのかどうか不確かなくらいの返事をひとつして廊下に戻り、二階へ続く階段を上っていった。
 階段を上る? ぼくたちが生きている間に何段の階段を上るのかは知らないけどさ、その時ばかりは思い出してしまったんだよ、この前の浜辺での「事件」をさ。小屋に行くまでの坂道に彫り込んであった階段がやっぱり急だったんだよ。あの小屋でのことは思い出したくもないけれど、時々思い出してしまうんだ。正直言って、今思うとあれは悪くなかったな。あれだけはね。で、急に美紀とこのうちでそういうことをしてみたくもなったんだけど、それが無理だってことくらいはぼくも承知しているよ。そういう場違いなときに性欲がむくむくと立ち上がってくることがままあるんだな、悲しいことにさ。
 階段を上がりきると一階と同じように廊下が横に伸びていて、それに沿って五部屋の洋間と一部屋の和室があった。すぐ左手の扉には「美紀の部屋」と江戸文字で浮き彫りにされた木の札がかかっていた。ふん、ここが彼女の部屋なんだ。
 ぼくはもう彼女の親父がどこにいるかなんてことはどうでもよかったな。とにかく好きな人の住む家のすみずみまでを眺め回す自由を得たことに浮きだっていたのかもしれない。その人の住む家の屋根にとまっている鳥までもが愛しいなんて言葉もあったはずだよ。変態かな。
 反対側はドアが開けっ放しで、そこが和室だった。とりあえず与えられた仕事だけはやらないとね。美紀の部屋をのぞくのは最後の楽しみにしておこう。和室は電気をつけたけど誰もいなかった。半分物置と化しているようで段ボール箱だけが無造作に積まれていた。
 一番奥の部屋は寝室だった。やっぱりでかいベッドが二つ並んでいて、寝るほかにはこの部屋の使用目的がないように見えたね。その代わり壁一面にくくりつけられた大きな本棚にぼくは気がついたんだ。よく見ると分厚い六法全書や四季報まじって「原価計算原論」やら「金融と資本」なんて背文字が乙にすましている。そのすぐ隣には会計や財務の専門書(なんだろうな、きっと)が並んでいて、いよいよぼくとこの家の主との間に乗り越えられない壁と埋められない溝とを作り出しているっていう気がしたな。それだけお堅い本を置くならさ、せめてカント全集の一冊だってあったっていいじゃないか。たぶん世界を半分に切り分けたとしたら、そのボーダーラインはぼくとこの本棚との間に引かれるはずだよ、絶対に。
 と、ちょっと本棚に過敏に反応しすぎたかな。そういう感想も当然だ。小説や哲学をたしなまない人間がいたってぼかまわないし、きっとその「ゲンカケイサン」とやらに興じているやつらから言わせればぼくの方こそ世の中をわかっていないんだと思うよ。ここで言いたいのはさ、本棚を一つのシンボルにしたぼくと美紀的なるものとの関係性なんだよ。そんなことはどこかの有名私立中学とやらの国語の入試問題にだって応用されているはずさ。ぼくは非常に模範的で良心的な比喩しか使えないと見た、ここら辺でほぼぼくの受けてきた国語教育がどんなものだったか勘のいい人だったらわかっててしまうんだろうな。やれやれ。
 話を先に進めよう。ぼくは寝室を追い出されるようにして出て次の部屋へ足を運んだ。
 次の部屋は件の父親が仕事に使っている部屋のようだった。扉を開けるとカーテンも引かれていない大きな出窓の前に書斎机がでんと構えていて、その上にはワープロと電卓と大量の書類が無造作に置かれていた。床に落ちた書類も何枚かあった。ついさっきまでそこに誰かがいたみたいだったよ。もし部屋の明かりがついてワープロの画面も明るかったとしたら、たとえばちょっとトイレに行ってきた父親がぬっと戻ってきてもぜんぜんおかしくなかった。もしかしたら倒産してから机の上をそのままにしているのかもしれないね、子供を亡くした親が子供部屋を全く手を付けずに残しておくようにさ。
 その時突然階下で電話のベルが鳴ったんだ。家の電話だった。ぼくはびっくりして廊下にもどると手すりから身を乗り出して下を覗いた。電話はちょうど玄関の靴箱の上に置いてあって、赤色のランプがベルの電子音とともに点滅していた。奥から美紀が出てきて受話器をとる。
「はい宮川です。はい……そうです、はい。……はい、……はい、え? あ、はい、そうです、父です。母はちょっと……、はい」
 ふっと美紀はぼくの方を見上げた。顔中に不安をめいっぱいたたえてさ、ぼくの方を見るんだよ。ぼくは一秒でも早く彼女の元へ行くために、もう少しで階段を全部すっぽかして飛び降りようとしてしまったよ。
 美紀の電話は続いた。
「総合病院ですか? ちょっとわからないんですけど……。駅前をまっすぐ、はい、ああ、はい、ありますね。そこを右に。はい……、最初の交差点を左に。はい、……はい、わかりました。すぐにうかがいます。はい、ありがとうございます……はい、……はい、失礼いたします」
 ぼくは「どうした?」と言いながらつとめてゆっくりと階段を下りていった。そうしたら美紀ってばしっかりとメモ帳に病院までの地図を完成させてやがんのさ! これには驚いた。ぼくはてっきり「気が動転して何を聞いたさっぱり忘れちゃった」とでも言うのかと思ったからさ。それともぼくはだいぶ彼女のことを誤解しているのかな。
 とにかく彼女の応答の様子から父親は見つかったけれど普通の状態で見つかったわけではなさそうなことは想像がついていたから、ぼくは慎重に言葉を選んだ。
「無事そうなの?」
「交通事故にあったみたい……持っていた名刺からここの電話番号がわかったみたいなんだけど、今手術を受けてるって……」
 これ以上不謹慎なことを言うのはやめておこう。でもさ、この言葉を聞いたとき、ぼくがどんな気持ちになったかくらいは容易に想像がつくだろう。
 一点残念だったのはさ、結局美紀の部屋には入ることができなかったということかな。

  四

 ぼくたちはすぐに家を出た。警察から美紀に教えられた病院に向かってぼくたちは急ぎ足で向かったんだ。車庫に自転車があったからぼくが美紀を後ろに乗っけていってもよかったんだけど彼女が「危ないし夜だから」と言って却下しちまった。それならタクシーを使えばいいと言っても、彼女にとってはこの家にタクシーが来るまでの時間さえも待てないらしかった。
「いやなの、たとえタクシーで行ったほうが結果として早かったとしても何かを待っているっていう状況がだめなの。立ち止まっていられないのよ」
 ぼくたちは同じ道を倍の速度で引き返した。ちょっと小走りになるだけでぼくの耳は自分の息遣いと心臓の音以外を受け付けなくなった。地面を蹴るたびに長い前髪がばさっばさっと額を打って、前を走る美紀の姿を隠す。
 美紀はぼくに地図を持たせたままさっさと行ってしまうから、ぼくは本当に彼女が道を把握しているのか心配だった。でも美紀はしっかり駅前に戻って、駅を通り抜けて反対側の出口に出る、そこからまっすぐ突き進むと突き当たる公園を右に曲がる、それから最初の交差点を左に曲がる、すると目の前に総合病院があった。大きな病院なのだから、きっとこれが総合病院なのだろう。
「ここだよね?」
 って言われてもなあ。白いはずの外壁は外灯の光の加減でうっすらと紫色に染まっていて、不健康そうにぬっと立っている感じがした。滅入りそうに小さな窓、ひからびた噴水、枯れ葉に埋もれた庭木。そんなのを見ていたらぼくは本当にここが病院なのかどうか疑わなければならなかったよ。
「ここ……だろうね」
 ぼくはそう答えながら、いやもしかしたらこれこそが病院のあるべき姿で、ぼくの感覚の方が間違っているのだろうと考え直すことにした。眠気も手伝って頭がだんだん働かなくなっていたんだ。
 ぼくたちは夜間専用の受付を探した。でもそんなものはなくて、結局非常口の小さなドアをくぐって中へと入るしかなかった。まったく呼びつけるだけ呼びつけておいてどこから入っていいのかも教えてくれないんだからな。それともこれこそ美紀が動転して聞き逃したことなのかもしれない。ぼくは彼女の口数の少なさが不思議でしょうがなかったんだ。それが冷静さを示しているのかそれとももっと他のことをぼくに知らせようとしているのか、考えるための素材は明らかに不足していたのだけれど。
 入ってみると控え室は真っ暗だったよ。受付の中だけ非常灯みたいな小さな明かりがついているらしくて、その小さな穴から光の筋がいすの上に伸びていた。どこもかしこも病院だった。
 それなりにその雰囲気にあらがおうとしていたんだ。環境が人間を変えるなんてことを信じたくなかったんだ。ぼくはどこまでもこの状況を外から眺め、そしてそういう立場にいる人間だけが送ることのできるメッセージを高らかなテンションとともに伝えたかったんだな。……って言ってわかる? わかるわけないよな。完全に自分にしかわからない。簡潔にまとめよう、ぼくはとにかくかっこつけたかったというわけだ。くどいだけだから先へ進もう。
 美紀はまっすぐ受付に向かって行って、自分の名前と用件を伝えた。中にいた看護婦はぼくには聞こえない声でひそひそ美紀になにか一言二言ささやいたあと、ちょっと身を乗り出してぼくの方をちらっと見た。それから美紀がまたなにかささやいて看護婦も納得したような顔を見せる。大方ぼくのことを言っていたのだろう。ぼくは彼女の恋人だ。それを証明するものはなにもない。ぼくは美紀の言葉によって通行証を手に入れる。それが事実であり、特に感想はない。
 しばらくして別の看護婦が出てきてぼくたちを手術室の前まで連れて行ってくれた。一階の長い長い廊下を通り抜けて左に折れると、窓のないアルミニウム製のドアが行く手を遮っていた。扉の上にはお約束のように「手術中」という表示が赤く光っている。
「ここでお待ちください。いつ終わるかはちょっとわかりませんが、長くともあと三時間はかかるかと思います」
 若いその看護婦は手慣れたそぶりを見せながら一音一音はきはきと、小学一年生の音読のようにそれだけ言うと去っていった。
「長くとも?」
「言葉尻をとらえないで」
 お気づきかもしれないが、ぼくは美紀の表情というものをほとんど見ていなかった。だからここに伝えることができないんだ。少しでも彼女と言葉を交わすことができればそれを手がかりにしてなにか言えるのだけれど、ぼくがちょっとでも口を開くと美紀のやつ、今みたいな調子でシャットダウンさせる。
 しかしそんなことを言っても始まらないよね。そうだ、ぼくは見たものを正直に感じるままに、ありのままに(!)あなたの前に並べることに専心しよう。
 看護婦の後ろ姿は暗い廊下の向こうへ消えていった。ぼくはそれを見送ると、なぜかそこだけスポットライトで照らされたクッションつきのいすに座った。そうして固く冷たい壁に頭をもたせかける。少しだけ視線が上に向いて、その先に美紀の姿があった。「手術中」という赤い表示をじっと見つめている。
「とりあえずさ、座ろうよ」
 ぼくは自分の隣の空いたスペースをぱんぱんとたたいて(なんといっても安っぽい合成皮革の音しかしなかったな)美紀を落ち着かせようとした。「落ち着かせようとした」のは確かだ。それが目的だった。美紀はうなずいてぼくの隣に座った。その素直さがちょっと意外ではあったのだけれど。
 正直に言おう、ぼくは美紀がどんな気持ちでいるかを知りたかった。知らなければならないと思った。それは恋人として必要なことだ。いや、そうじゃない、もし彼女がぼくの恋人ではなかったとしてもぼくはきっと同じ気持ちになっていると思うんだ。
 でもさ、ぼくの頭に浮かんでくるのは「つらい」とか「悲しい」とか、そんな貧弱な語彙でしかなかったんだ。それ以上の複雑な感情をぼくは知らなくて、きっと本当は彼女が抱えていたはずの多くのなにかを見ることができなかった。
 そこでぼくの手がかりにできるのはあれほど軽蔑しているお座なりでお涙頂戴のテレビドラマでしかなかった。でもこれは最初っからやっぱりそういうものなのか? そういうお座なりの中にぼくがいよいよ腰までつかり始めたということなのか? あるはこういうデリケートな場面を一番傷つかずにいられるための方法はお座なりでいることでしかないのか?
 ぼくは結局一番安全な方法をとるしかなかったんだ。だって、いきなりアルミの扉をぶち破って「ぼくが執刀します」なんて言うことも、美紀を平手打ちして「しっかりしろ、目を覚ませ!」って怒鳴ることもできないじゃないか。できないんだ、そう、危険すぎる。荒唐無稽が成功するのはテレビの中だけだ。
 いらいらする。
 いらいらする。
 どこまでもぼくは他人に興味が薄いんだろうな、そうやって生きてきたツケをこんなところで払わないといけないんだろうな。
「助かるでしょ、きっと」
 結局ぼくはそう言うしかなかった。それが一番平凡で当たり前で、そして求められている言葉だった。美紀はうなずいた。腕時計を見ると十時だった。そこには掛け時計がなくて、それが意図的なものだとしたらこうして手術が終わるのを待っている者たちにどんな心理的影響を及ぼすのかなんてことには少しも興味がわかなかった。
「洋介」
「ん?」
 あっ、そうだ。いまさらのようだけどぼくの名前は吉田洋介だ。ミッキー・マウスやドナルド・ダックのご多分に漏れずイニシャルを取ると同じ記号が並ぶようになっている。ぼくは自分の名前が割に好きだ。
 徳島から出てきたんだけどそうは見えないってよく言われる。それをほめ言葉ととらえるかそうではないなにか別の意図を持ったものとしてとらえるかはぼくの勝手なのだけれど、どっちにしろいい気持ちはしないな。どうも徳島県民だけでなく四国地方の人間は田舎ものっていう通念が関東人にはあるみたいでさ——っと、ぼくの自己紹介なんてのは今はどうでもいいんだった。
 でもさ、今はどうでもよくったっていずれにせよ大事なものっていうのは確かにあって、その優先順位っていうのはけっこう大きな問題だと思うんだ。
 たとえばあなたが他でもないぼく自身に興味を持ってくれてここまで話を聞いてくれているのならやっぱり流れを中断してでも自己紹介をしなければならないのかもしれない。でもぼくのこんなつまらない話でもとりあえずその内容に興味があるのなら《デーヴィッド・カパーフィールド》式のあれこれには首をつっこみたくないと思うんだ。
 だから中庸を選ぼう、ここでは。ぼくの親父もお袋も幼年時代も好きなように想像してくれたまえ。おそらくその通りだと思うんだ。
 話を戻そう。
「遅くなるから、帰ってもいいよ? ていうか、もうだいぶ遅いかもしれないけど」
 二人で座って、互いのつま先をながめながらぼくたちはやっと話らしい話をし始めた。でもそれは始点ではなくて、単に最大瞬間風速を記録したにすぎなかったんだ。
「なあに言ってんだよ、こういうときくらい役に立たせろよ」
 なにも言わないよりもいくらかましだろうくらいにしかぼくは思っていなかったのだけれど、美紀のやつ、ぼくのその言葉を聞いてちょっと笑うと(鼻をすすったのかもしれなかった)頭をぼくの肩にあずけてきた。ぼくも彼女の方に頭を傾けた。ぼくの耳に彼女の髪の毛が当たって、彼女の耳がぼくの肩に当たった。
 ——誰かに揺り動かされて、ぼくは自分がいつのまにか自分が眠ってしまっていたことに気がついた。ぼくが目をあけると目の前にさっきここまで連れてきてくれた看護婦の顔があった。そんなに美人でもなかったけどぼくは寝ぼけていたものだからじっとその顔を見つめてしまったよ。でも正確に言うとピントはだいぶずれていて、焦点は空間的に言うと彼女のうなじの後ろ五センチくらいのところにあったと思う。ぼくはゆっくりと起き上がった。いすに横になっていた。
「手術が終わりました。こちらへ——」
 彼女はそう言ってぼくが立ち上がるのを手伝ってくれる。美紀の姿がなかったから聞いてみるともう病室に行っていると言う。なんだかよくわからないけどそういうことなんだからしかたがない。寝ぼけた頭じゃ自分が眠っていた間になにがあったかなんてことをうまく追いかけることができなかったんだ。とにかくぼくは彼女のあとについていった。エレベーターで三階まで上がった。窓の外はもううっすらと青い光に満ちていた。前を女の人が歩いていく、ぼくはついていく、こういうシチュエーションは前にもあったな。で、ベッドのある真っ白な部屋に向かっていく、と。
「こちらです」
 通された三○五号室は個室だった。ぼくも実は昔、小学生の時分だったけどトラックに接触したことがあってね、足の骨を折って入院したことがあるんだ。だけどその時は教室みたいな病室にベッドが十台もひしめき合っててさ、どれが誰の点滴なのかさえわからなくなるくらい隣と距離が近いんだ。テレビも部屋に一台しかなくて、周りが年寄りばっかりだったからてんで退屈だったよ。なんで毎日毎日お決まりの時代劇だけで満足できんのか小学生のぼくにはぜんぜんわかんなかった。それは今でもそうなんだけどね。とにかくひどい環境だったわけだ。一刻も早くそこから逃げ出したかった。だからリハビリを誰よりもがんばったんだ。変な話だよ。
 で、とにかくぼくは入院ってのにそういうイメージしかなかったものだから、この目で個室のでかいベッドに寝転んでいる美紀の親父さんを見たとき、かわいそうな気には全然ならなかったってわけだ。なるほど、事務所は倒産したけれど命を取られたわけじゃない。事故にあっても生き延びた。いい個室に寝かされて、娘が心配している。ぼくは幸せと不幸せのボーダーラインがみるみる消えていくのを感じたよ。
 美紀は病室に据えられたソファーに座っていた。ぼくは変な格好で寝ていたらしく、首がうまく動かなかった。上を向こうとすると首筋が痛んでとてもじゃないけど耐えられなかった。
 親父さんは麻酔ですうすう寝息を立てていた。頭に包帯が巻いてある。
「どうなの? 親父さん」
 ぼくが美紀に聞くと看護婦が答えた。
「大丈夫です、右足と左腕を複雑骨折しただけで。頭もなん針か縫いましたが大したことありません」
 看護婦の言う損傷が自分に降りかかってきたらとても「大丈夫」な気はしなかったけどぼくはとにかくその言葉を信用して「大丈夫」なんだ、人間の体はそうそうやわなものじゃないと思ってみた。
 看護婦は病室を出て行った。ぼくは鼻から大きく息をはいた。ソファーの方に行って、美紀の隣に深々と座った。
「まあ、よかったじゃん。看護婦さんもああ言っていることだし」
「うん……」
 無理はないとは思うけど美紀はまるで魂が抜けたようなありさまだったんだ。
「何時……?」
 美紀が唇だけ動かしてそう言った。ぼくは腕時計を見て今が五時半であることを伝えた。ぼくだってその時初めて今が早朝だっていうことに気がついた。多くの場合、もしぼくが主人公だったらさ、あれからどれくらいの時間が過ぎたんだろうか……(幼稚園児並みの時間をかけてその計算を頭の中でする)……とてもそんなに多くの時間が経ったとは思えなかった、なんてことを思ってみたりするのだろうけれど、残念ながらぼくは自分を主人公でもなんでもなくて、まああわよくば美紀の物語の脇役にでもなれればいいやって思っていたから(その時は本当にそう思っていたんだ)とくに同様もせず静かにその現実を受けて入れた。ねえ、体が痛いっていうことはとにかくそういう風にぼくを「現実的」「論理的」な思考にがんじがらめにさせるんだ。好きでやっているわけじゃないんだよ、そこんとこよろしく。
「もう、始発があるよね……。ごめんね、引き止めちゃって……」
 ぼくは首を横にふった。ぜんぜん気にすることはないよ。
「どうする? ぼくは……自分の部屋に帰るけど」
 病院に残ると言う美紀を残してぼくは自分のアパートに戻ることにした。立ち上がる前にぼくたちはキスをした。それがせめて美紀の笑顔につながればいいのだけどと思ってさ。ああ、いやだいやだ、しけた面は見せて欲しくないんだ! ぼくの理想はみんながいつでもニコニコ笑って楽しく時間を過ごすことなんだ。そのためにはどんな方法でも使うべきなんだ。せめて人前では笑っていなくちゃ! 二人でいて悲しい顔をされるとぼくは自分が全く無視されたような気分になるんだ。その悲しさがぼくに原因があるならまだしも、なんでもないことばかりが彼女を悲しくさせるんだ。道端の猫の死体とか、転んで泣いてる子供とか、親父の骨折とか。とにかく感じやすいんだ、彼女は。そのうえ劇団に入ってるときた。話は飛躍するかもしれないけれど同じことを別の言い方で言おう。どうせやるならもっと実利的な演技をして欲しい、と、そういうことなんだ。それでみんなが幸せになれるような。少なくとも方向はそっちへ向いているような。ぼくは美紀のことが好きだから、そうなるように努力しているんだ。なあ、ぼくの努力は正しいよな? ぼくは正しいことをしているんだよな?
 ……病院を出て三鷹駅に向かって歩いていると、飲み屋街の入り口のところでどう見ても若い女の子がぶっ倒れていた。ピンクのキャミソールに黒のプリーツスカートというオイオイあんたそれでそんなになっちゃまずいだろうというかっこうで、電信柱を肩と首ではさんだまま仰向けになっている。ぼくはふらふらと吸い寄せられるように彼女のところに行ってみた。頭はぜんぜん働いていなかったけれど、体は正直なもんだ。起きたばっかりなんだよ、起きたばっかり。
 大丈夫ですか、と声をかけながら肩をゆすってみると、ううんと声にならないような声を出して彼女は目をぱっちりと見開いた。でもすぐにまた閉じてしまった。こういう時どうしたらいいんだろう。一番いいのは最初から関わりあわないことに決まっているんだけど、二番目にいいのはこのままかついで——と思った矢先にぼくの背中でキキイっという自転車の止まる音が派手に聞こえた。振り返ると警察官が立っていた。助かったという気持ちと面倒なことになったという気持ちの二つが湧き上がる。沸騰する。
「その人、どうしたの? こんな時間に」
 鼻の下がやたらに長いその警察官は必要もないのに背伸びをしてぼくと倒れている女の人を見下ろしてきた。泥酔して倒れているんだよ、見ればすぐにわかるだろ。何しろ眠かったんだ。体も汗でべとべとしていたから少しのことでいらいらせざるをえなかった。
「知りませんよ、倒れているから起こそうとしてみただけです。ぼくは——」
 と、自分がぜんぜん関係のない通りすがりに人間であるということを訴えようとしたら、警察官はするりとぼくの前へ身をかがめると女性の肩をゆすって「起きてください! こんなところで寝てちゃ危ないですよ!」と大声で怒鳴り始めた。ぼくは無性に腹が立って二人をその場に残したまますたすたと駅のほうへ向かって歩き出した。やっぱり、最初から関わらなけりゃよかったんだ。後ろから「あっ、おい君ぃ!」なんて声が聞こえてくれば少しの慰めにはなったんだろうけれどもちろんそんなことはなかった。ぼくが見つけたんだ。あんたが見つけたんじゃない。そりゃあ、責任を持つのはあんたかもしれないけどさ、でもぼくを最初からいなかったみたいに扱うのはやめてくれ。やめてくれ……。
 やっと駅について、ドアを開け放したまま出発時刻になるのを待っている車両に乗り込んだ。席に座っている人間たちにこれから別のどこかへ出かけようとしている表情はほとんどなかった。世界を永遠に包んでいると思っていた夜の疲れを体中にためていた。日の出を迎えて、長い昏睡から覚めたような、大きな嘘の中に自分がいたことに気づいたような、短くとも激しい恋が終わったような顔をしていた。きっとぼくも同じような顔をしていたんだろう。
 ふと思い出したようにぼくはかばんの中を見てみた。ウォークマンと何枚かのMD、文庫本、ずっと入れっぱなしのドイツ語の教科書。それから手帳と下痢止めの薬——いつどこでお腹を壊すかわからない体質なんだ。財布と定期入れ。それもいちいち出して中を見た。二万五千六百十二円。それからレンタルショップのカードに眼科の診察券、図書館のカード、学生証、その他一度しか使っていないポイントカードが五枚ほど。例えば、この中に友達に借りたシーディーとか美紀と見た映画の半券とか貸してほしいと頼まれていた本とかがはいっているといいのだろうけれど、そんなものはなかった。つまり、どうやらぼくは人と何かの関係を持つのを面倒だと感じてしまう人間のようなんだ。美紀とのこともそうだ。ぼくはどんどん彼女とのことをあらかじめ想定された芝居の一場面のようにしか感じることができないでいる。もちろんそれが悪いことだって決めつけるわけにはいかないよ、事実とそれに対する価値判断は区別すべきだって言うしね。もしかしたらぼくは仙人になってとてつもない悟りを開くかもしれないんだ。実際、ぼくは一人でいるには退屈しない人間だ。だけど、ぼくがかばんの中をその時突然調べ出したのは自分がどんな人間なのかを確認したくなったということのまぎれもない証左なんだろう。一週間に一度くらいは人間、そういう瞬間があっても損じゃないと思うよ。むしろ健康なくらいだと思うんだ。深刻に考えないのが一番だ。考えすぎは禁物だ。そのときもぼくはバカボンのパパよろしく「これでいいのだ」ってわざとらしくつぶやいてかばんを閉めてまぶたを閉じた。
 あっという間に西国分寺に着いた。ほんの少しの間だけだったけど仮眠が取れたから気力体力、五分くらいの全力疾走ならできそうなくらいにまでは回復していた。すぐにまた眠りの波が来そうな予感がしていたからぼくはここぞとばかりにさっさと歩いて部屋に戻ることに決める。自動販売機でコーラを買って一気に飲み干す。それでもうあと二分くらいは全力疾走できそうな気がした。
 部屋に入ってあんまりの暑さにぼくは扇風機をつけた。窓は開けて家を出たんだけど外の空気もそれなりに暑くて部屋を涼しくするには不十分だったようだ。コンタクトをはずして、上はティーシャツだったから下だけ部屋着に着替えてぼくはベッドに身を投げ出した。枕元にいつも置いてあるステレオのリモコンを取って電源を入れる。二つのスピーカーからはラフマニノフのピアノ協奏曲が流れてきた。それが何番のものであったのかは思い出せなかった。それでいい、それは番号にすぎない。
 ぼくはそれから昏々と眠った。

  五

 とにかくお金が無かったんだ。親からの仕送りは下宿しているほかの友達に比べても少ない方だったし、その上ぼくは初めての一人暮らしで金銭感覚が定まらなくって吝嗇に小金を溜め込むような生活をするかと思えば突然「金は使うためにあるものだ」と思い込んで一度に三千円も四千円も使う日々を続けたりもしていたんだ。おまけに浜辺で買春まがいのことをさせられたもんだから財布の中はすっからかんだった。
 暇があるとぼくは渋谷に行ってうろうろと目的もなく歩き回った。もちろんなんにも買わない、食べない。ただ駅の周辺を徘徊しているだけで、ハチ公前で人と待ち合わせているふりをしながら道行く人間を観察したり、辻音楽師のけたたましいバグパイプの音に耳を傾けたり、近くに座り込んでいる女子高生の話を盗み聞きしたり、同じ本屋に朝昼晩の三度も立ち寄ってみたり、まあだいたいそんなようなことをしていた。
 人の集まるところが好きだ。人が好きだからかもしれない。人が何かをしているのをガラスのこちら側で動物園の動物を見るようにして見るのが好きなのかもしれない。彼らはぼくに襲いかかってくることはない。彼らもまたぼくを同じように見るのが大好きなんだろう。
 その日もぼくは青山通りの端から公園通りの端までのみちのりを往復していた。そのうち足が疲れてどこかで休みたいと思い、さりとてカプチーノにたばこをくゆらす金銭的余裕もないから小さな雑居ビルに入っていって、外からは見えない奥の非常階段に座り込んだ。ときどき路上にふらふらと座り込んで目をつぶっているやつも見るけれど、ぼくに残されている最低限のプライドがそれをさせていない。ぼくが腰を下ろしたそこは時々エレベーターに乗る人が前を通るだけで、明かりらしい明かりと言えば背を向けた先の踊り場で、非常口を示す緑色の看板がちかちかと不規則に明滅するくらいだった。一人で一息つくには絶好の場所だ。ぼくはかばんの中から気温ですっかりぬるくなり揺られることですっかり気の抜けた、きわめて擬人的なコーラを取り出した。口を付けるとまるで今のぼくの生活をあますところなく表現したような甘さがひろがる。もちろんぼくの好きな種類の甘さだ。
 ぼくは薄暗い階段の下で足を休め、硬直した筋肉を伸ばす。首をぐるぐる回すと、階段の壁に貼ってあった張り紙がふと目に入ってきた。黄色い紙の上に朱墨で書かれた張り紙は、深緑色の壁にはちょっと気味が悪かったな。書いた当人は一生懸命目立つようにこんな珍妙な配色に至ったんだろうけど、とりあえずその目論見は達成されたことにはなるだろう。それにはこんな風に書いてあった。

    急募 日時*三日間(泊り込み、食事つき・時期は応相談)
       場所*砂浜
       内容*軽作業
       条件*知性あるも芸術性なき若者
       報奨*二十万円
    興味のある者はこの階段を三階まで上り「アトリエN」の扉を三三七拍子でたたくこと

 ぼくはなんと言ったって「二十万」という数字に驚いた。四日間拘束されるけれど食事もついている。決して悪くない。いや、むしろこんなおいしい話はないと思った。でもさ、こんな人目のつかないところで人目につくように張られたビラを信用してよいものか? まるで怪しげな金融業者のチラシみたいにさ。ターゲットはきわめて限られているんだ、はじめから。でもそのことを好意的に解釈するならさ、ぼくは選ばし者なんだ。もしこの「アトリエN」の主が、ぼくみたいにふらふらとこのビルに吸い寄せられるようにして入ってきた者のためにだけ訴えようとしてこんな工夫を凝らしたのなら、ぼくはその何万分の一かの確率に見事命中したことになる。それにさ、「知性あるも芸術性なき若者」ってのがさ、まるでぼくのことじゃないか。ますますぼくは夢中になったよ。早速ぼくはその深緑色に塗りたくられた重苦しい階段を上っていったんだ。
 二階はバーのようだった。昼間だからまだ開いていない。入り口のガラス越しに暗いカウンターが見える。が、あらゆる形のビンがその上に転がっているようにも見えた。もう店はとっくの昔に閉じてしまったのかもしれなかった。生きているんだか死んでいるんだかよくわからない空間だった。
 三階まで上がると踊り場に直接扉が面していて、その扉に「アトリエN」とやっぱり朱墨で大書された張り紙がしてあった。そしてぼくは胸を高鳴らせながら三三七拍子でその扉を叩く。
 トントントン
 トントントン
 トントントントン、トン・トン・トン!
 最後の三拍子は思い切って渇いた木の扉に手の甲を打ち付けた。始まりの合図。ほこりによごれた二階のバーの扉はこんなふうにたたきたくはならない。
「入れ」
 と中から声がした。ドアノブを回して扉を開ける。とたんに扉と壁の隙間から針金を巻いたものや石膏の砕けたかけらがごちゃっと外へ流れ出してきた。扉だけを引いて部屋の外から中をうかがうと、床には足の踏み場もないほどのペンキや油絵のパレットや壊れたイーゼル。つま先でぴょんぴょんと空き地を探りながら前進することだってこれじゃできなさそうだ。
 ぼくは扉を引いて部屋の外から中をうかがった。三階のフロアー全部をぶち抜いて借りているらしかったのだけれど、目を上げればその半分くらいを恐らくはNという人物の作った作品が占めていた。うん、まあ、きっと作品なのだろう。例えばまず目に付いたのは高さ二メートル幅三メートルほどの巨大なワニ型クリップだった。薄暗い室内でもびかびかと全身を光らせている。そしてよくよく見るとその巨大クリップには小さなスナップ写真が挟まれているんだ。写真に何が写っているのかは入り口からではよくわからなかったけど、とにかくそういうものが天井近くまでそびえていた。他にも針金をぐるぐるに巻いてりんごの形にしたものやピエロの人形がくるくる回っていたりとさまざまなものが乱雑に並べられていた。
 でも、こういうのってぼくはとても好きだったな。なぜって演劇の楽屋っていうのはたいていがこの調子で、なんだか美紀のことを思い起こさせてくれたからさ。たとえば床にどんと置かれたあの振り子時計の陰から彼女がひょこっと顔を出してきそうな、そんな気にさせるんだ。ここしばらくは病院に通いづめの彼女のことを、ぼくはそうやって思い出す。
 窓は入り口から見て左側の壁一面あって、そこからの光だけが午後三時、このアトリエの唯一の光源だった。もちろん窓もいろいろなオブジェでふさがれているから部屋の中は決して明るくない。さてそれではあの張り紙を書いた本人はどこにいるのかなと目をこらしてみれば、窓側の一番奥に大きな机を前にして一人の老人が座っていた。
 これがまた、いかにもって感じだったのさ。豊かなひげとだいぶ薄くなった髪の毛は真っ白で、ロイド眼鏡かけてさ、油絵の具が飛び散った白衣を着てぶっとい万年筆を動かしてんの! ぼくはこの前の砂浜での出来事以来、こういうある種コスプレ的な型のはまり具合には警戒心を持つようになっていたんだ。そりゃあ、あっち側の世界にずっと埋没していられれば問題はないよ。でも決まって一番いいときに、しょせんお客様でしかないぼくは引き戻されるんだ。突っぱねられるんだ。たとえば目の前で五本の指をたてられたりしてさ。
「失礼します」
 ぼくは老人に届くよう大きな声で言うと後ろ手でドアを閉めた。
「そこにかけなさい」
 と老人はこちらを一瞥だにせず言う、やっぱり大きな声で。けれども彼の言う「そこ」がどこなのかぼくにはちょっと飲み込めなかったんだ。この部屋の中で「かけなさい」と言われてかけてもいいのかなと思えるようなものはひとつもなくて、あえて言えば部屋の真ん中にあるちゃぶ台くらいだった。ちゃぶ台の下には三畳の畳が敷いてあって、もしお客を招き入れるのだったらたぶんそこに座らせるのがこの部屋では妥当なのだろう。でもさ、もしそれが作品だったなら? わからないよ、ぼくがあぐらをかいたとたんに「わしの大事な作品を尻に敷くとはいかなる所存か! 無礼者、切って捨てる!」とかなんとかわめかれて、せっかく大金を得るチャンスが目の前にあるというのに台無しにしてしまうかもしれないんだ。慎重すぎると思うかい? そんなことはないと思うよ。
「あの……、そこの畳に、ですか?」
 ぼくは「ご冗談でしょう?」とでも言う代わりのようにそう聞いてみる。老人はやっぱりこっちをちっとも見ないでうなずいて見せる。あいかわらず机に向かって何か一生懸命書き物をしている。ぼくはとにかくその畳スペースに靴を脱いで上がった。
「お茶でも飲みなさい」
 と、また声だけがやってくる。
「はあ」
 とだけ答える。確かにちゃぶ台の上にはきゅうすとポットと湯飲みが置いてあって、旅館のセルフサービスのようだった。ぼくは遠慮なくお茶っ葉をざらざらと急須の中に入れて濃いお茶を作るとそれを飲みほした。すると不思議と落ち着いてしまったんだ。ちょうど古びた旅館が群生する中に真っ白な地中海式の小屋がぽつんとあるみたいなその畳の空間でだ、ぼくは少しの既視感を肴にお茶を飲み続けた。
 それから十五分ほどしてやっと老人は椅子から立ち上がるとぼくの方にやってきた。立つと背の低い人物だった。
「私は永井だ。見ての通り、芸術家だ。君の名前は?」
「吉田洋介です」
 ぼくはそう名乗りながら新しい湯飲みに新しいお茶を注ぐと目の前に座った永井氏にさしだす。主客転倒? いいや、この場合ぼくと彼の関係は主客ではないだろう。
「作業は明日から早速行いたい」
「それじゃあ——」
 もうぼくは採用決定ということじゃないか。
「たいていの人間はここに来ると私に質問を投げかける。あれはなんだ、これはなんだ、それにはどういう意味があるんだ……それは愚かなことだ。君はそれをしない」
 彼はたぶん「知性あるも芸術性なき若者」について述べているのだと思う。でもよくよく考えてみれば知性と芸術性なんて一体どこで線引きをするんだ? 理性か直感かってことか? でもこの際問題なのはそんなことじゃないんだ。このじいさんがぼくを雇ってくれるかどうかだ。ぼくは知性とやらを働かせてこの際あまりよけいなことは言わないことにする。
「いいかい、世の中の人間は二つに分けることができる」
 ご託宣は続く。
「すなわち、思想家と制作者だ。たとえば私のような芸術家、小説家、詩人、画家、彫刻家、政治家なんかが思想家に含まれる。制作者というのは大工や教師、医者といったいわゆる『現場』にたずさわる者のことだ。世の中の大部分は後者に入るんだろうが、もっとも君のような学生というのはどちらでもない。思想家としてははなはだ頼りないし、制作者としての責任なんぞ持たせるわけにはいかない。私の言う意味がわかるかい? たとえば建築家というのは設計はするけれど実際に建物は建てない。造るのは大工だ。建築家は思想家であり大工は制作者だ。わかりすぎるくらいわかりやすい例示だと思うよ。もっともこういう言い方をするとすぐに職業の貴賎について云々したがる知性のかけらもない輩がいるんだが……うん、もちろん君はそんな質問はしないだろう。思想家も制作者もどちらが欠けてもこの世は存在することができない。なにもなくなるか物だらけになって地球を食い尽くしてしまうかのどちらかだ。このことを私は何度でも主張する」
 そこで一度老人は目を強くぎゅっとつぶる。そのまま、心持ち顔を天井に向ける。ぼくは自分の湯飲みに五杯目のお茶を注ぐとまたぐっと飲みほした。
「本は書く人間と実際に印刷製本する人間とがいなければ生まれない。音楽は作曲する人間と演奏する者とが必要だ。すべて同じように世の中はできあがっておる。ところで、繰り返すようだが私は思想家だ。私には表現すべき激情が山とある。まあ、もっとも君にはまだわからないだろうがね。世の中に対する不満、怒り、同情、悲しみ、あげればきりがない。君にはまだ早いだろう……うん、まだ早い。ともかくそういうものを私は作品として提示していっているのだ。ここが大事だよ、君。私が全てを一から十まで作っているように聞こえたとしたらそれは間違いだ。私はあくまでも思想家の粋にとどまることにしている。余計なことはしたくないんだ。余計なことをすると余計なエネルギーがいる。当たり前のことだ。ここにある作品は全て私が実際この手を使って作ったものじゃない。君みたいなアルバイトの学生に作らせた。ただし彼らには絶対に口出しはさせない。私の言うことをその通りできないやつはすぐに首だ、なにも知らないくせになんでも知っているかのような顔をする学生の甘ったれた。いちばんたちが悪いのは小説とかいうものをちょっとでも読んでいるやからだ。すぐに『先生、その意味するところはなんですか?』だ。書生気取りで、馬鹿の一つ覚えのように……いいかい、私が言ったとおりに私の思想を忠実に形にする、これが君の仕事の全てだ。君は——大学生だね?」
「ええ」
「学部は?」
「理学部です」
 ここでうっかり文学部でイタリア語やっていますなんて本当のことを言ったらせっかくの話が全部だめになってしまうよ。ぼくは彼が求めているだろう答えをすばやく察知して言ってやった。
「そう、よろしい。理学部でなにをやっているんだね」
「ええと……がっ、学校建築です」
 言った瞬間から理学部で建築なんかやるわけがないなんてことはすぐに気がついたんだけど、ご老人、全然気にしてないんだ。あんなどうしようもなく二元論的で単純な世界観を聞かされた後だったから、少しも驚かなかったのは言うまでもないけどね。
 それにしても——と、ぼくは部屋の中を改めて見回してみたんだ。ここのある作品とやらは全部人に作らせた物だって? 例のクリップも、針金でぐるぐる巻にされたテレビも、こんぺいとうのような大量のガラス玉も、ここにある全て、ぼくのようなひまな大学生に作らせて、私の作品ですって威張りくさっているのか? そんなのってありか?
「なあに、心配することはない。私は技術といいうものを軽蔑している。ハリウッド映画なんぞ金をかければ誰にでも作れる。私はそういうものは一切否定する。金がかかっていなくとも技術が未熟でも、誠心誠意、心がこもっていればいいんだ。簡単なことだ。こんな簡単なことを世のごみのような自称芸術家連中はわかっていない!」
 ぼくはいろいろ言いたいこともあったけれど、さしあたり理学部で建築をやっている人間だったから言わないことにした。この人の理想はよくわかるし。
「制作者は思想を持ってはいけないわけですね」
「その通りだ、全くその通り」
「ええ、ぼくも宗教は軽蔑します」
「うんうん、いい心がけだ」
「ぼくたちは信念や思想をリジッドに持ってしまったとたんにそれに縛られてしまいます。ぼくたち手を動かす方の人間なんて何にも考えない方がいいんです。もっともっと大きな者にとってすればそれは雑念でありノイズです。偶然の傑作を期待するにはあまりにも頼りないものです」
「そうそう、君はすばらしく飲み込みが早い。明日の朝午前六時、荷物を持ってここに来てくれたまえ」
 そういうわけで、ぼくは晴れて採用されることになった。

  六

 翌朝は朝の四時に起きて身支度を整えた。九月とはいえまだまだ暑い時分だったからそんなに荷物は多くならなかった。ボストンバッグに下着とティーシャツを何枚かと歯ブラシ、くし、下痢止めを放り込む。万が一を考えて読みかけの『無関心な人びと』は置いていくことにした。タイトルはすごくいいと思うんだけどね。念のため。それから携帯電話もお留守番だ。美紀には昨日の夜に少しのあいだ東京を離れます、とだけメールを入れておいた。返信はない。そのことでざわついた心を少しでも忘れ去るために。そういうことに関するもろもろの技術は人よりはたけていると思う、たぶん。
 朝ごはんを食べようかどうか迷ったけれど途中で弁当を買っていくことにして五時にはもうぼくは部屋を出た。ちょうど夜が明ける頃だったんだ。部屋の扉を開けて外に出たときに見えた東の空は紫色の絵の具をうすく溶かしたようで、ぼくはずっと小さいころに家族でスキーに行ったときのことを思い出した。あの時もすごく朝が早くて、高速道路の上でリアガラスから朝日が一気にさしこんで来たんだ。こういうフラッシュバックは、ひまさえあれば男も女もひっぱりこんで酒を飲んでいるお隣りのお姉さんにはちょっと味わえない幸福なんだろうね。でももしかしたらこのまえ病院から帰るときに見た、飲み過ぎて道ばたにぶっ倒れていたお姉さんなんかはっと目が覚めてしののめ、なんて瞬間をけっこう味わってきたんじゃないかな。これはぼくの空想だけどさ。
 さて、ぼくはそんな生まれたての大気の中を駅へ向かって歩いていった。シャッターの下りきった商店街を抜け、ぼくは駅前のコンビニに入った。昨日の夜中にビールを買いに来たときと同じ店員が眠そうに突っ立っていて、自動ドアが開いて三秒くらいしてからやっと「いらっしゃいまアせ」とへんてこりんなアクセントをつけて——つまりはあくびをかみ殺しながらそう言った。ご苦労様としか言いようが無いからぼくは奮発しておにぎりをいつもなら三つのところを四つ買った。
 渋谷には五時四十分を少し過ぎた頃に到着した。普段大学に通うのにも使っている井の頭線だけれど、普通この時間だったら後輩たちとよっぴいてカラオケ三昧のあとで疲れ切った体を乗せるためのものだ。それがどうだ、まったくのまったくの逆をいまぼくは行っている。すごい。としか言いようがない。ぼくを突き動かしているのが決してあの報酬だけでないことは確かだ。昨日訪れたばかりの雑居ビル目指してぼくは改札を抜け長いエレベーターを下りていく。ピンクチラシの丸まったのが転がっていくスクランブル交差点を渡る。朝の渋谷を闊歩! それだけのことでぼくはうきうきしていたんだ。なんだか調子が狂うよ。
 公園通りからアトリエNのある雑居ビルへ抜ける道なんて、昨日の今日で忘れているはずがないとたかをくくっていたんだけど意外にも迷ってしまい、タワーレコードの前を行きつ戻りつした。そんなことをしているうちに常に一分早いぼくの腕時計は六時一分になってしまった。まいったな。あのじいさん、時間にはうるさそうだからな、と思って顔を上げたら「宇田川ナイトウビル」って入り口の看板に「3F アトリエN」って書いてあるのが目に飛び込んできてくれた。急いで中に入れば両側の壁を深緑色に塗られた階段が、昨日と同じようにぼくの前に異空間へ導き入れてくれる。階段を駆け上がって昨日と同じように三三七拍子でノックした。
「入れ」
 中からすぐにに声がして、ぼくはドアを開けた。アトリエの様子は昨日となんの変わりもない。もっとも作品の一つや二つ増えたところで気がつく方が珍しいと思うけどね、こんなごちゃごちゃしたところだと。 永井氏はお手製らしい大きなひじかけいすになかば体を埋めて新聞を読みながらコーヒーをすすり、FM放送を流していた。わきの小机の上にはひげそりと洗面台まである。この人は究極のながら族だな。
「あ、おはようございます」
「やあ」
 永井氏は新聞の向こう側から言った。ぼくは実際に「やあ」なんて挨拶をする人を初めて見たよ。マンガだな、こりゃ。
「実は君の他にもう一人来る予定なんだが、まだ来ない」
 これは新事実だ。
「もう一人来るんですか」
 ぼくは例の畳スペースに靴を脱いで上がる。
「コーヒーでも飲むかね?」
「あ、はい、いただきます」
 もちろんちゃぶ台の上にはインスタントコーヒーの粉が入ったビンが並んでいる。
「お砂糖とか、ないですかね——」
 と、ぼくが言いかけたとき、ドアをどんどんと強く叩く音がした。入り口へ振り返るとドアの磨りガラス越しに誰かが立っているのがわかる。永井氏は相変わらずコーヒーをすすり、ラジオから流れてくる最近流行の曲につま先でリズムを取りながら新聞で顔を隠したままだ。
 ドンドンドン、と再び音がして「おい! こんな朝っぱらから呼び出しておいてなんだ! さっさと開けろ!」という怒声まで聞こえてきた。どうやら今日から仕事をともにするのはこの凶暴な男のようだ。あーあ。
 シュボッとライターの点く音がしたからもう一度顔を部屋の中へ戻すとご老人、今度はたばこを呑み始めているんだ。しかたないからぼくはドアの方へ行こうと立ち上がった。
「約束を守らないやつをここに入れるわけにはいかん」
 ぼくは背中でその言葉を聞く。そうは言ってもさ、一応あんたが雇ったわけなんだろ。朝からささいなことで不快な思いをしたくないんだよ。わかるだろう? ……なんてことはこの人に言っても聞かない、か。
 相変わらずドアの向こうでは「おい!」とか「いるんだろ!」とかいう怒声が続いていたんだけど、ぼくはとにかくもう一度座り直したんだ。らちがあかないってこのことだ。ビンのふただけを開けて途中になっていたコーヒーを作るともう砂糖もミルクもあきらめて一気に胃の中へそれを流し込んだ。きゅうっと、胃酸が噴射されるのを感じる。
 でも扉の外は急に静かになったんだ。「あ、そっか」とまたひとりごちるのが聞こえてきて、次の瞬間、聞き慣れた三三七拍子が響いた。ぼくは改めておどろいたんだ。このドアはそうやって叩かないと開かないようになっているんだ。これって、けっこうすごい技術なんじゃないのか? けっこう原始的だけどかなりの防犯効果があるんじゃないのか? 芸術とかなんとか言ってないでどっかの警備会社にでも売り込めばけっこうな金になるんじゃないのか? っていうか、もうすでにそんなことはやっていて、だからこそこうやって悠々自適に学生アルバイトを高級で雇っても暮らしていけるんじゃないのか? などと、いろいろなクエスチョンマークがぼくの頭の中をあっちこっちに走り回った。
 ドアを開けて入ってきたのは髪の毛をとさかのようにおっ立てて四角い眼鏡、なんて一昔前のテクノボーイ風情、かと思えばカーキ色の作業着に身を包み、軍手にはヘルメットがつかまれ、肩からはまだ身につけていない安全帯をぶら下げていた。
「おまえが作ったドアだろう、自分で手こずってどうするんだ」
「うるせえな。おれが作ったんじゃないよ。おまえが作らせたんだよ。おれが作ったんじゃない」
「いずれにせよ遅刻だ」
 なんだって? ぼくは相手のあまりのインパクトに視覚と聴覚をいったんバラバラにされちゃったんものだから、危うく今の短い会話を聞き流すところだった。要は彼もまた「知性あるも芸術性なき若者」でさ、バイトとしてこのドアを作ったというわけだ。「おい学生、三三七拍子で叩かないと開かないようなドアを作ってくれ」と永井氏はリクライニングチェアから札束を投げ出す——そんな図がすぐに頭に浮かんだ。この若者はぶつぶつ文句を言いながらもその、技術的には相当難しいであろうドアを作り上げる。なぜ三三七拍子なのか? なぜドアなのか? そんなことは考えなくてよい。それを考えるのは永井であって、彼やぼくではない、というわけなのだろう。ぼくは昨日聞かされた老人の談義の実際に触れることができたわけだ。いい導入だ。
「いかに不条理であろうとマニュアル通りにことを進めるのが法学部生たるもののつとめじゃないのか? そんなていたらくじゃ、今日からの仕事も先が思いやられるな」
 老人の高笑いが部屋中に響いた。ぼくはこの人がこういう対応をする相手は本当に心を許している相手に限られているんとじゃないかと思った、直感的にね。彼らは憎み合っているわけじゃなくて、お互いがお互いに必要なものを知りすぎるほど知っているんだ。だからなにを言い合ってもその関係が壊れるという心配がない。老人は彼に「芸術性」をさしだし、彼は老人に「知性」と「若さ」(それは往々にして労働力という意味に還元されてしまうけど)をさしだす。もしそうなら幸福な関係だと思う。
「そこにいるのが吉田君。二人で仲良くやってくれ」
 ぼくがそうやって紹介されると、男はじろりとこちらに目玉だけを動かしてきた。
「おまえか。なんだかなよなよした文学青年みたいだな。なんだその芥川みたいな髪型、なんだその三島みたいな柄シャツ、なんだそのカバン、梶井の文学全集でも入ってそうだな。まあいいや、よろしくな」
 ぱっと手を差し出されてぼくは反射的に立ち上がって右手を差し出した。握手。
 男は名前を平田といって、聞けばぼくと同じ大学だった。あとでうっかりキャンパスで出くわさないように気をつけなくちゃいけない。なにしろ文学部と法学部は建物が同じだというのに犬猿の仲だからな。
 それからすぐにぼくたち三人は階段を降りていった。ビルの前には一台の白い軽トラックが止まっていて、荷台には○○プラスターと印字された段ボール箱だとかセメントの詰まった砂袋だとかコンクリートのブロックだとかが大量に積まれていたんだ。これがもしやこれから作らされる作品の素材たちなのか? かなりの重労働になりそうな予感がその山からびしびしと伝わってきた。
「よし、行こう」
 永井氏はさっさと助手席に飛び乗る。あんないすに日がな一日座っていたら足腰が弱るんじゃないかと思うんだけれど、そうでもないみたいだ。
「俺が運転するように頼まれてんだ。お前は荷台につかまってろ」
 平田はそう言うとぼくの背中をどんと強く叩く。三三七拍子で叩かれたらたまったものじゃない。ぼくが荷台に乗るとすぐにエンジンがかかり、車体が振動に包まれた。荷台の隅に丸まっていた毛布をコンクリートブロックの上に広げ、かばんを枕代わりにして大の字に寝転がった。トラックが走り出すと同時に、ぼくの視界も動き出す。近くに見えるビルの外壁は次々と目の端を通り過ぎる。その上に広がる空はどこまで行っても変わらない。
 この車がどこへ行くのか全く知らされていなかった。というか、ぼくはほとんど仕事の内容を聞いていなかった。自分から聞きもしなかった。たいていがこんな調子だ。
 交差点で止まるたびに歩行者から奇異の目で見られることにも慣れた頃にはもう、ぼくは毛布を体に巻きつけて眠る準備をしていた。ひとたび目をつぶったら急に眠気が襲ってきた。やっぱり朝が早かったからな。でも下は硬いし車が曲がるたびに体が揺さぶられたから当然浅い眠りで、当然夢を見た。こんな夢だ。
 ぼくは車道を走っていた。「走っていた」というのは、決して車か何かで走っていたわけではなくて文字通り自分の足を使って走っていたんだ。それも、ほとんど自動車並みの速さでさ。足が勝手に走るんだ。ぼくの上半身はほとんど静止していて「走る足」にすとんと乗っかっているって感覚だった。
 車道は二車線で、でもぼくは真ん中の白線の上を走っていた。むしろ道路は一車線しかなくて、白線はぼくの進路を示す目印だったのかもしれない。ほら、よくあるじゃないか、白線を書いておくとその上をセンサーが感知してその通りに進むのがさ。それとおんなじだった。ぼくが止まれと思ってもてんで足は止まりやしない。
 道路の脇は一面の芝生で、きっとそれはどこまでも広がっていたにちがいないね、北海道の道路のように。それにしてもぼくの足は疲れを知らないんだろうか? どこかその辺で寝そべってひなたぼっこでもしたほうが具合がよさそうなのに、止まらない! 止まらないんだ。でもぼくはすぐに思いなおしたんだ。この足がすすむ方向に、この白線が示す方に目的地ってやつはあるんだと。そういうことにしておけば安心だ。目的地なんか本当はなくったって全くかまわない。でも、あると思うってことが大切なんだな。
 そのうち交差点が迫ってきた。でも曲がりたいと思ったって曲がれやしないんだ。その証拠に交差点の真ん中を白線が突っ切っていたよ。ぼくの前に道はある。それだけ。曲がるべきクロスロードはない。
でも衝突すべきそれはあったんだ。四つ目の交差点でぼくはとつぜん横切った黒くて大きななにかにつっこんだ。
 あっと思った次の瞬間、ぼくは学校の教室にいた。よくある光景だよ。誰もいなくってさ、木の机に木の椅子、西日がさして、ノスタルジーの権化みたいな。
 前の大きな黒板には「私は幸福です」ってでっかく書いてあった。それから教室の後ろには大きな鏡がしつらえてあって、そこには前の黒板が映っている。でも、よくよく見てみると鏡には「私は不幸です」って映っているのさ。
 ぼくは前に出て行くと黒板消しで「私は幸福です」って文字を全部消してやった。振り返ると鏡にはなにも映っていなかった。今度は「私は孤独です」って大きく書いてみて鏡を見ると「同情が好物です」って書いてあんのさ。これは面白いと思って「私は自殺します」って書いたら「ニヒリズムは嘘をつきます」。「私は治療します」には「親を殺す」、「声を出さずに笑う」には「ウーマン・リヴの憂鬱」、「吉田洋介」には「表象の結晶」……こんなことを書いていた遊んでいたらひらひらひらと紙が一枚どこかからか飛んできてぼくの顔面に張り付いてきた。それを見ると「問い 両者の関係を説明せよ」。いやなこったって、ぼくは紙を丸めてドアの横にあるゴミ箱に投げ入れてやった。言葉の乱数表。そんなところで車ががくんと大きく揺れて、教室もがくんと揺れて、ぼくは目を覚ました。

  七

 大して長い夢ではなかったと思ったのだけれど、実際かなり眠りこけていたようだった。時計を見ればもう十時だった。ぼくは背伸びをして荷台から軽やかに飛び降りた、とびうおのように。ついさっきまで眠っていたなんて人にゆめ思わせないように、これがプロ意識。
 車は車道を外れて道沿いの空き地の中に止まって、エンジンが切られた。風がやたらと強い。永井氏と平田も運転席から降りてきた。
「ここじゃ、ここじゃ」
 永井氏が満足そうな笑顔で言う。平田は車の後ろに回って草むらに向かって放尿をし始める。ぼくは道路を渡ってガードレールから身を乗り出す。
 海だった。
 しかも、この海岸沿いの道路、道路と砂浜との間の崖、崖に寄りかかるようにして建てられている海の家、海の家の前に広がる灰色の砂浜、砂浜に生うるは死んだすすき野、すすき野のまにまに船虫の異常発生……そうだ、もしかして、造花、白い家、あの女! まちがいなくあの名も知らぬ海岸にぼくはつれてこられたんだ。
 ぼくがあっけにとられて口を開けていると、いつの間にか永井氏が横にいる。彼はわざわざ双眼鏡を取り出して砂浜を左から右から眺め回している。この男の興味にかなうなにがここにあるっていうんだ? 自動販売機だって潮風にさび付いて死んでいる。
「ここは、なんていうところなんですか?」
「名前なんてどうでもいい」
 出た、これだ。
「吉田君、むしろわしの作品がこの空間に意味を付与し名付け親とならなければならないんだ。これは壮大な作品になった」
 なぜ過去形?
 そうか、永井氏の頭の中ではもうすでに作品はできあがっているんだ。というか、それが彼にとって作品の完成を意味しているんだ。まあ雇われの身だからこれ以上彼の個人的信条についてとやかく考えることはやめることにするよ。これは誓っておこう。そうじゃないと頭がおかしくなっちまう。
「おい、吉田ぁ! 手伝え、仕事だぞ!」
「いま行きまあす!」
 平田は軽トラックの荷台からもう重そうな袋を抱え上げて、ふらふらとよろめいていた。
「それよりきみたち、石膏の扱いはわかるかね」
 よくわからないとぼくが正直に答えると、平田は「水をぶっこむんでしょ」と誰だってわかっているようなことを言った。
「そうじゃ。君たちにもよくわかるように言えば、焼き石膏に加水し二水石膏として固形化させる。石膏の重さに対して水の量は七・九五パーセント。いいか、まちがっても海水を使うなよ。おまえたちはわしの言うとおりにしていればいい」
「いったい今回はなにを作んのさ」
 平田は石膏のつまった嚢を両肩に担いで道路を渡ってき、ぼくもまたさっきまでベッド代わりにしていたコンクリートブロックを抱えた。
「壁じゃ。砂浜に真っ白な壁を立てる——ちょうどほれ、あれと同じような」
 そう言って永井氏が指をさしたのは、大当たり、ぼくがとんでもないことをさせられたあの小屋だった。山側の斜面にそれは太陽に光を浴びて真っ白に浮き上がっていた。なにも変わっていない。白い壁、青いドームの屋根の小屋。
「それが……あんたの作品か? 例えば、なにか? この砂浜の色と石灰の白との対比が世界の光と闇の交錯を表すとか」
 三人は並んで砂浜への石段を下りる。これじゃ完全に二人と一人だ。
「解釈はご勝手に。私は制作者の意図を必ずしも百パーセント尊重しない。作品の完成は常に見る者の存在が前提に無ければならない。誰にも読まれなかった小説は書かれなかったと同じことだ」
「まあ、いいけどさ。けど金になんのか? 毎度聞くんだけどよ」
「こーれが今度ばかりは金にはなるんじゃよ、ハッハッハッハッ!」
 まるで今までのことは全部うそだったみたいに老人は笑い出した。それは本当に出し抜けに大きな声だったんだ。さすがの平野も「なんだ、気持ち悪い」とかつぶやきながらさっさと先に行ってしまった。
 ぼくがこのときどんな気持ちだったかわかるかな。ご老人は売春宿をもう一つ、こんな砂浜のど真ん中に建てようとしているんだ。皮肉な因果だ。浜に壁を建て、小屋を作りそれでまたあの造花の女の子がまたやってきて、いや、もしかしたらあの子が小屋の中に入って歌を歌うのかもしれない。その歌声に惹かれて、一体どんな女の子が歌っているのだろうかという気持ちが嵩じて壁の向こうへ砂浜を掘って下からなんとか入ると、ほうれ見たことか、かわいい女の子だ。そこで二人は声を殺しながら互いの肌をこすりつけ合う。小屋は満潮の波にいつ崩れるかわからない。もちろん小屋の中にまで潮は次第に入り込んでくる。そんな中あせるようにしてこすり合う! そして最後に……入館費? 参加型の芸術ここに完成! てわけだ。
 ぼくは二万円を払って造花を描く女の子の不思議な魅力を味わい、不思議な小屋でのセックスを買った。そのすべてが例えば小説を読むこと、映画や絵画を見ることと同じだということか。いわばぼくは永井氏によって企まれた芸術的空間による囲繞という作品を体験したことになるのか? まさか。それはセックスであり、いやセックス以下の単なる欲望の交換でしかなかったはずだ。
 ぼくが急にしょげかえってしまったのは言うまでもないことだよ。一刻も早くここから逃げ出したかった。もちろん偶然の一致だ。ここに来ることを選んだのはこのぼくだ。あの女の子にお金を払ったことを永井氏が知っていて、ぼくをわざと連れてきたわけじゃない。
 ぼくは連れてこられた、ここに、この場所とこの境遇とに、ぼくは連れてこられたんだ。まったく人生というのは選ぶことができない。そう思うことにした。
 それからぼくと平田は持てるだけの石灰の嚢を持って海岸とトラックとの間を何度も往復した。
「とりあえず、ブロックを積んで鉄筋を通し、コンクリートを流し込む。それから表面に石膏を塗りたくればいいんじゃないか?」
「それでいいと思う」
 ぼくは頭の裏をぼりぼりとかいた。まあ、石膏だけで粘土みたいに壁を練り上げていくのは無理だろうな。
 ぼくたち二人の足下に積み上げられたのは二十キログラム入りの石膏の麻袋が三十ばかり、石灰の袋が十くらい、骨材の細長い鉄棒が三十本ほど、ベニヤが三枚、コンクリートブロックが五十くらい。けっこうな量を運んだと思ったんだけどな。足りないのは明らかだった。石膏が多いのに、コンクリートが少なすぎる。素人目に見てもそれは明らかだった。
「なあ、下にビニールシートでも敷かないと海水が染みるだろ。さっきあのじじいに——あれ?」
 ついさっきまで波とたわむれていた老人はもうどこか他のところに行ってしまったらしく、姿が見えなかった。
「それよりお昼にしよう」
 腕時計を見るともう午後二時を過ぎていたんだ。それにしてもこのまま平田のテンションに合わせていたらへとへとになっちまうよ。
 ぼくたちは砂浜から上がり、レストランを探した。探した、と言っても眼で海岸沿いを見渡せば「ランチ」という文字も判別しかねるくらい色あせたのぼりが一本はためいているだけだった。選択肢は他にない。けれど平田のやつ、よけいなもんを見つけちまったんだ。
「おい、あの白いのなんだよ」
 指差したのは紛れもなく真っ白な壁に青い天蓋をいただく小屋だった。
「ちょっと行ってみようぜ、な」
 急ぐ平田のティーシャツをぼくはあわてて後ろから引っ張った。でもさ、こういう大げさな反応ってのは得てして相手に不信感を抱かせるものなんだ。でもまさかぼくは自分でそんな子供っぽいとも言えるような反応をとっさにしてしまうとは思わなかったんだ。何事もなかったかのようにふるまうのがぼくの美学だったはずなんだ。
「なあんだよ、気になるじゃねえか。何かあるかもしれないんだぜ、なんか面白いもんがさあ」
「なにもない。ニチェボー、ニエンテ、ナッシング」
「は? お前、ヘン」
 確かにヘンなやつに見えたことだと思う。でもそれ以上平田は白い小屋についてなにも言わなかった。
 ともかくぼくたちは一つしかないレストランに入ってカレーを注文した。空腹の方が好奇心よりも勝っていたのかもしれない。ぼくたちの他に客はおらず、ほこりの積もったバーカウンターの上のテレビはベトナム戦争や第二次世界大戦を振り返る番組を音もなく流していた。夏という季節はいつまでたっても戦争の臭いからのがれられない。
 食べるのがおそろしく速い平田はそうそうに皿を空けるとそばにあったスポーツ新聞を広げる。時々舌打ちしながらどうやら野球の試合結果を見ているようだった。
 ぼくは大きな窓の向こうに広がる海を眺めながら口を動かす。視界の端には白黒の逃げまどう人びと、緑の海に落ちていく爆弾、ビルにつっこむ飛行機。こういう瞬間が人生の中でもう二度と来ないような予感がして——なんて注釈を横から付け加えたくなるような。ぼくはいったいどこにいて、どこから来て、これからどこへ向かおうとしているのか? なんて疑問が全部意味を無くしてしまうような、そんな感じ。
「おまえ食うのおせえなあ。さき行くからな」
 ぱっぱっと新聞をたたむと平田はさっさと店から出て行ってしまった。たぶん平田はあの小屋への坂道をのぼっている違いない。よく考えればあの場所に行かれてぼくが困る筋合いはないか。でもなにかしらさ、あそこにぼくがいたっていう形跡が残っていたらいやじゃないか。というより、なんというか、とても言いにくいけど、ぼくのとても「内面的」なものが「発散」された場所を見られるというのはやっぱりいやなものじゃないか?
 ぼくはそういうもろもろの感情から目をそらすために海から店内のテレビへ視線を移す。今度は波のしぶきが視界の端に追いやられる。
 あいかわらず戦争は続いていた。ニクソンの、ブッシュの演説。いけない、いけない、このレストランはいやに感傷に浸らせるんだ。人をむやみにノスタルジーに陥らせるんだ。店の中をよくよく見れば、大昔はこの浜辺にも人がたくさん来ていたことを物語るたくさんの証拠があるんだ。ぼくの知らない「有名人」の色紙やらスナップ写真やらメッセージカードやら、まるっこい字でナウなヤングたちが書き残して行ったんだろうな。
「昔は、ここも夏になると大変な騒ぎだったよ」
 と言いながらお冷の変えをもってきてくれた男はこの店を一人で切り盛りしているらしい。ちょびひげを生やして、もう若くないけれどまだまだサーファー現役でがんばっていますという貫禄だ。だめだ、このはまり具合は永井のじいさんと相通じている。
「でも、人いるじゃないですか。……こうして、ぼくも来ているわけだし」
 のどを通る「お冷」はずいぶんぬるかった。
「きみは? なにしにここに来たの?」
 カウンターに片腕をつっぱって男は興味なさそうに聞いてきた。片手には缶ビールときたもんだ。
「まあ、仕事で」
 ぼくも自分になんて興味ない素振りで答えてやった。男はなにも答えない。テレビは場面が変わって佐藤栄作の訪米阻止の様子を映していた。次は浅間山荘か、よど号か、湾岸か。「暗い世相」だ。
「ふん、コメディーだな」
 男はテレビに向かって鼻で笑うとふたたび奥にひっこんでいった。ああ、ああ、吐き気がする! ああいう人間は感傷から外にでることはできないんだろうね。あいつのめんたまにはぼくの姿さえ映っていないんだ。それがどうした! 過去なんて捨てちまえばいいんだ。過去は捨てるべきものだ。昨日の自分なんて捨てて、ドンドン新しい自分でいようじゃないか。ぼくがもしこの店舗をまかされたらベトナムも安保も湾岸もそんなガラクタ俺にはいらねえよってかなぐりすてて「クリムト」と店の名前を変えて分離派を気取ろうじゃないか。立地もこんな道路沿いにあっちゃ自動車の排気ガスで壁が真っ黒になっちまうからいっそ浜辺で青空の下カレーを食べられるようにすればいい。おいしいだろうなあ。真っ白な壁を建てて出店にしよう。コバルトブルーの屋根! いいだろうねえ、いいだろうなあ。
 店のおやじはふたたびはぼくの目の前に現れなかった。レジ台の上にお金を置いてぼくはレストランを出た。
 浜辺に永井氏が立っているのが遠目に見えた。彼の足元に赤いものが落ちていて、よくよく目を凝らすと見覚えのあるものだったよ。ブーゲンビリアの造花。永井氏はそれを拾い上げると白衣のポケットにさした。それから不意にこっちを見た。ぼくと永井氏との間には高低差十メートル、距離にして百メートル以上はあったけれど、その視線の先はぼくを通り越して、そのままぼくの後ろに広がる山の斜面に届いていた。それを追いかけるようにして後ろを振り向くと——ちょうど、そう、ちょうどその時だったんだ、平田とあの女の子があの小屋に入っていくのが見えたのは。
 ぼくは、胸の奥の奥のそのまた奥の方からなにかが吐き気とともにもよおされるを感じた。こみ上げてくる、という性質のものじゃない。ぼくは口の中に残るカレーの味と一緒にそれを押し流そうと、レストランの入り口にあった自動販売機にコインを入れた。もちろん世界共通語コカコーラ。その冷たい缶を取り出して振り返ると砂浜に永井氏はもういない。彼は——なにを見ていたんだろう。これからだまされる平田を? これから平田をだますあの女の子を? それとも平田が自分の二の舞になる現場を目撃したぼくを? それとも彼の懐に入ってくるいくばくかの金銭を夢見ていたのか?
 派手なげっぷをしながら一人ぼっちになったぼくは浜辺へ降りていった。なに、平田なんかいなくたって立派に白壁を作ってやるさ、と、別段彼がいなくなるわけではないのにぼくは妙に意気込んでいた。この仕事をやり遂げてやるんだ。あいつがしょげた顔して小屋から出てきたときにはもう出来上がっているくらいの勢いで、やっつけてやるんだ。全ての歴史と、全ての意味を拒否して、ぼくはぼくの梱包芸術を実現させよう。ぼくはもう、その仕事が永井氏からの依頼であるということを忘れようとしていた。忘れることはできないけれど、ぼくは一度それをカッコの中に入れて自分の仕事として引き受けようと思ったんだ。そんな気持ちが一体どうしてぼくの内側から湧き出てきたのかはわからない。
 スコップでぼくは穴を掘り始めた。表面は乾いているように見えても少し掘れば海水に湿った部分が現れた。それでも、今より乾いた場所へ移れば浜辺とは呼べないところへ後退しなければならない。あくまでも、波打ち際の砂の城のような危うさを追究する。ぼくのスコップの一打一打が汗の玉となって体に反撃をを加え始めた。カキ氷をさくさくと崩すつもりでぼくは穴を掘っていった。穴の角はスコップの先で器用に直角にし、穴の底面も足の底を使って平面にならしていった。どうやら仕事がぼくを一番うまく忘却へ誘ってくれるようだった。

  八

「作業の三日目になっても平田は戻ってこなかった。永井氏もあいかわらず姿を見せず、ぼくは一人で作業を続けていた」
 と、ぼくは独り言が激しくなり過ぎて、自分で自分の傍らに次々とそうやって描写を置いていった。一日中変わり映えのしない単純作業を繰り返していると、脳が萎縮するのを防ぐためになのかどうかは知らないけど、とにかく独り言が口をついて出て来るんだ。一人暮らしという強靭な基盤があるぼくはなおさらのことだ。自問自答を繰り返して、ぼくは作業よりもそっちの方にへとへとになりかけていた。「知性」ってやつが邪魔をするんだな、労働においては。
 確かにあれからもう三日も経っているのだ。あの募集要項には「三日間(泊り込み、食事つき・時期は応相談)」と書いてあったはずだ。いったいどうなっているんだ。夜は軽トラの固くて狭い座席に寝るしかないし、三食同じレストランに行くものだからすっかりあの店の亭主には気に入られるし、娯楽はない、人はいないで気が狂いそうになってきたよ。だからこそ(この接続詞は非常に大事だ!)ぼくは作業に没頭した。没頭できたんだ。
 鉄筋を立て、それだけでは足りなかったから近くの竹やぶから竹を切ってきてそれを割き、横の骨組みに使った。いや、そんな創意工夫なんか報告したって仕方がないな。ぼくは白い壁の完成が近づくにつれてちょっととまどい始めていたんだ。この諦念をもてあましていたんだ。もう少し具体的に言おう。例えばこの海の色、海の色だけはきれいなんだ。それは母のように、「海」は「うみ」であり「産み」なのだ、とかなんとかいいかげんな説教をたれたくなるくらいにさ。そしてもう九月だ、セミの鳴き声も哀愁ただよう。やつらはの声はセミを油にあげているみたいだ、その死への合唱、とかなんとかいいかげんな三文詩人のまねをしてみたくなるくらいにさ。サアじゃあそんな文学的表現を弄してぼくはぼくのやっていることを描写しようとした。そうだ、このスコップの一撃が労働の尊さなのだ、だとか俺は今形而上の何かを降臨させているんだ、だとか。しかしそのどれもうまくいかなかった。最後の最後には、神経患者の日記みたいにむき出しの「行動」を記述することしかできなかった。まだ見ぬ白壁はすべての比喩を否定した。それでもぼくは時々自分をアウシュビッツの労働者になぞらえたり一つ一つの工程を終えるごとに「レベルアップ」してみたり報酬に思いをはせたりした。あのレストランの雰囲気に、ひいては永井氏的なるものに毒されているのは確かだった。なにしろこれは自己防衛のシステムだ。
 携帯電話をわざと置いてきたことをぼくは後悔していた。美紀に電話をしたかった。彼女の声を聞きたかった。いや、そうじゃない。彼女を置いてこなければ、彼女から逃げてこなければここに来ることはなかったのだろう。でも逆からも同じことを言えることに勘のいい人は気づいただろう。ここから逃げればぼくは美紀の「事件」に今度は関わらなくてはならなくなる。そしてもっと勘のいい人は、ぼくが決して幸福な人間でないということを見抜いてしまうだろう。
 結局のところ、ぼくが一九八二年に徳島県海部郡牟岐町に生まれて小学校、中学校を地元で過ごし高校は阿南市に出て大学は東京の国立大学に入り、英語検定二級と漢字検定一級を持っていて、今年四月の健康診断では身長が一七七・五センチメートルで体重は五五・三キログラム、視力は——なんてことを積み重ねてもなんにもならないんだっていうことを言いたかったんだ、と思う。ぼくは何度かぼく自身のことを語ろうと試みたんだけれど、そのたびになんとか言い訳を見つけ出して頓挫させた。それを確認するためにもう一度こんな文章を読み返さなくてもいい。もしも記憶に残らないようなことを言ってしまったのならそれは全部ぼくの責任だ。
 このあたりでそのことは証明されたのだろうか。

〈了〉


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