エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(田中西二郎訳)

を、読みました。

なんだかんだで『嵐が丘』は学生時代から何度か読み返している好きな小説の一つです。そして、いろいろな文庫からいろいろな翻訳が出ているというのも『嵐が丘』の楽しみ方の一つだと思います。ぼく自身は岩波の新訳(河島弘美)に親しんでいましたが、やはり往年の新潮文庫の田中西二郎訳というのはいろいろなところで評判が高く、それは多分、世の中の読書人と言われる人々の大半の世代がこれを読んだからなのだろうと思います。そもそもの新潮文庫は今は本屋に行っても鴻巣訳の新しいものしかありませんが、アマゾンのレピューが荒れているのも、多分田中訳に親しんだ「オッサン」達のおせっかいなんだろうと思いますが……。

で、当然ながら古本で取り寄せて読みました。期待通り、味のある訳文。特にこの小説は主人公たちよりもむしろ脇を固める小間使いの人間たちのおしゃべりが楽しい。いかにも田舎の頑固親父の屈折したお小言が、これでもかというくらい大時代の調子で描かれているのは、本当に楽しい。そもそもこの小説自体が冒頭の数行を除けばほぼすべて使用人の豊かな語りによる世界の構築なので、もちろんこの通り喋る人は現実にはいないのですが、そこをぐいぐいと引っ張る力が、文章にみなぎっている感じがします。

おそらくこれが新潮文庫から消えたのは、単に差別用語への配慮(もあるんだろう、時代の制約によるところも大きい。村上春樹の言うように翻訳は時代に合わせてバージョンアップしていかなければならいため)なんだろうと思いますが、それを差っ引いたとしてもまだまだ現役で生けるんじゃないでしょうか。鴻巣訳、さらに光文社古典新訳も出ているので、じっくりと他の文庫にも改めて当たってみたいと感じました。

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