堀田善衞『空の空なればこそ』

を、読みました。

一人の作家としての宮崎駿について考えたいと思っています。一連のNHKのドキュメンタリーによって、ジブリを動かして自らの美学を貫いて作品作りをしてきた一人の男の姿が随分と以前に比較して明確に見えてきたような気がします。ナウシカやラピュタそれぞれの作品世界があまりにも壮大で完結しているため、宮崎作品というのはとにもかくにもまずは作品論から始まる事が多いのですが、そろそろ宮崎の作家論がひとつでもキチンとした形で理解しなければならないタイミングなのではないか、そしてそれに必要な情報も随分と出揃ってきているのではないかと思っています。

実は堀田善衞という作家についてはほとんど知りません。以前に『方丈記私記』を読んだのか読まなかったのか、それさえ忘れてしまいましたが、書架にあった気もするのですが今探しても見当たりません。鈴木プロデューサーも含めて、宮崎が堀田善衞に言及することは多く、そしてアマゾンで検索するとなんと司馬遼太郎と三人の鼎談もあったりするようです。いずれにせよ、「思想的」にずいぶんと影響を与えているようですが、本書を一読して思うのは、時評と言いながらも随分と戦争の色が濃い結果になっているということ。

1998年の出版ですが、戦争責任についてここまで同時代の評論を通じて訴え続けている作家というのもなかなかいないのではないか、あるいは、著者の亡くなる約半年前の季節が銘打たれた「あとがき」のタイミングによるものなのか……。けれど、おそらく戦争責任について、いつまでもウヤムヤにせず、「戦後」という言葉の後に続く数字がいくら増えようとも厳しい眼差しを変えなかったことが、たとえば宮崎のやや教条的な平和主義なりテクノロジーへの懐疑なりへとつながっているのでしょう。

継続的に考えていきたい課題です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA