保坂和志『遠い触覚』

『真夜中』が創刊された時、ぼくは田舎の本屋の文芸誌コーナーに真新しい顔が並ぶのを期待を込めて眺めていた。結局、買うことはなかった。保坂和志の連載が乗っていることは知っていたけれど、単行本化されるまでここまで時間がかかるとは思っても見なかった。そういう意味でも、この本を読むことでここ十年くらいの出来事をさまざまに思い出すし、作者の小説作品はこの『遠い触覚』というエッセイ(と呼んで良いのかどうかわからないが)に先行してどんどん刊行されるので、やはり生の声というか、作品に先行する思考(こういう考え方をもちろん作者は否定するだろうけど)の、ナメクジのような軌跡をひとつひとつ追うことは決して無駄な読書体験ではない。書くことと考えることは違う。でも、書くことで考える、書くことで考えるという営みが触発される、ということもあるだろう。でも保坂の場合、考えたことを書き、書きながら考え、考えては書く。たとえば彼が夕食の買い物に近所のスーパーへ向かう道々、例えば朝起きてコーヒーを淹れるわずかの間に顔を洗ったりパンを焼いたりする所作の最中にも彼はきっと考え続けているし頭のなかで書き付けている。それが作家というものなのだろう。翻って「読む」ということは、そういう作家の動きに身を浸し、一体化し、その資格を我が物とするためになされる。案外と、この『遠い触覚』は書くことを通じて読むことの定義を、あるべき「読む」ということの営みのなんたるかを、一番教えてくれる本なのかもしれない。

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