本なんか。

本を読む、本が読めるってどういうことなんだろう。今まで、小説だとか文芸批評だとか、そういうものを好き好んで読み続けていのだけれど、これでよかったのかと今更のように思います。読書に目覚めたのは、14歳の時です。だから、20年は一応、本を読み続ける人生を送ってきました。常に、次に読む本が手元にあって、ぼくの手が伸びるのを待ってくれていました。でも、人生の長さから考えたらまだ20年。本の世界は文芸だけにとどまらないことは知っていても、なかなか外に出る勇気も、向学心も芽生えず、今に至るのです。それでよかったのか。たとえば文学が仕事の役に立たないだとか、無力だとか、別に人徳の寛容にならないとか、そんなことはとっくにわかっているのです。本を読まない人生もあったかもしれないし、そのほうが幸せだったかもしれない。でも、もう戻ることは出来ない。でも一方で、何か圧倒的な作品に出会って打ちのめされるということもこの先ないんだろうなと、小生意気にも諦めかけたりもしています。それは、文学の世界で、という限定付きなのかもしれないけれど。正直に言えば、例えば、平野啓一郎が京大法学部に入学するに際して、文学関係の本はすべて家に置いて行ったという気持ちも、なんとなく理解できないでもない。テクストを読む──たったそれだけのことに、もっともっと可能性があるんじゃないか。例えば君は、数式が読めるか? 楽譜が読めるか? いや、自然科学の本、政治、経済、国際関係、金融、技術、エトセトラエトセトラ……そんな本を読みこなせるのか? 自分に正直になるのは難しい。今しか役に立たない知識も貪欲に仕入れたい。読書を目的化するのではなくて、あるいは難しい本を「読んだ」という既成事実をでっち上げるためにページをめくるのでもない。本当に自分の頭で考えるための「読み」を、実践したい。本当に幼稚だった。本当に無力であった。頭のなかにたくさん言葉はあるのに、人の心に響く言葉は何一つ生み出せず、ただ頭のなかの雑言を紙に書き写しては満足する、どうしようもない人間であった。なんだかそんなふうに思うこの頃です。

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