高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』

 ──フィクショナルに

 M──のブログを久しぶりに読み返していると、高山ゼミのことが書いてあった。駒場で、一番「意識の高い」ことで有名なゼミだ。彼女はそこに所属していて、大抵そのゼミの出身者が回顧するように、あれは自分の学問的成果の原点だったと、洗礼であったと、述べていた。
 そのころのぼくといえば、女の子にどうやって振り向いてもらうかについての考察が頭の八割を占めていたし、残り二割で多少学問的なことをやりくりしていたとはいえ、もっぱら心象風景を文字に書き起こして「小説」であると仲間内に主張するくらいが関の山だった。
 だから、その頃、だいたい自分と同じ年齢の人たちが「国際関係論」の講義に殺到したり、受験勉強では到底触れることのなかった法律の授業に向けてどの出版社の六法を買おうか悩んだりしているのはまるで理解の枠外にあった。
 ぼくにとっては才能の乏しい自分がこれからどんな人々と出会って、どんな影響を受けて、それによってどんな文章にものすことか出来るようになるのかが大問題だった。ましてや、「高山ゼミ」なんて、そういうものがあることすら彼女のブログを読み返していて「そういえばそんな授業もあったな」と、記憶の奥底の方から残滓をかき集めなければ思い出すことはなかっただろう。
 あるいはぼくはY──のことを考える。学問的な高みを目指すことを当然のように体現していた男だ。Mと似ているといえば、似ている。法律や経済や金融や政治を勉強し論じることを当たり前のようにやっていたし、そういうことをあの大学でやることを使命と感じているようだった。年を追うごとに、たぶん彼はまるで受験勉強をしていた時と同じ勢いのベクトルで、新しい知識を渉猟し咀嚼したぶん教官陣に生意気な言葉として投げつけたりもしたのだろう。だからそれなりのところへ就職していった。彼の就職先のホームページを見ていたら、「当社は文理問わず幅広い人材を確保しています。昨年の実績では──」に続く部分に「文学部」の文字はなく、どうして「意識が高い」というのは「法律や経済や金融や政治」のことになってしまうのだろうと、ぼくは少し自分に自信をなくした。
 言葉は無力だった、と、思いたくなかったが、そう言わざるを得なかった。もちろんその頭には「ぼくの」が必ず付帯する。
 それでも、言葉でしか追求できないのも事実だった。けれどそこで使われる言葉に力が無かった。バベルの図書館の何処かには書かれているはずなのに、「知らない」ということがこれほど無力なのかと、びっくりするくらい思い知った。ぼくは文学を信じていたし、文学に力があると思っていた。けれど、三島由紀夫が言うように、文学は時に人をとんでもない場所へ拉し去り、その言葉の建築物の壮麗さにそれこそ言葉を失わさせ、無力感を植え付けることもある。彼はまた、音楽についても「危険」なものとして手放しで礼賛することはしなかった。
 会社を出て、本屋に行くと山川出版の世界史リブレットのシリーズが置いてある棚に行った。高山ゼミは今でも存続していて、検索すれば課題図書が出てくる。その中でもとりあえず気軽に、最初の一歩を踏み出すにふさわしい本を選ぶ。2007年刊行だから、ぼくはもう卒業してしまっている頃だけど、いいじゃないか、「あの頃」と同じ目を持った学生たちが今でもキャンパスにはうようよといるのだろう。そして相変わらずでかい夢を描いては、ブルドーザーのようにそれを実現していくのだろう。その力を少し貸して欲しくて、ぼくはレジに向かうのだった。

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