平野啓一郎『決壊』

を、読みました。単行本発売の時に一気に土日で読んだ覚えがありますが、こちらも再読。

最初読んだ時は、作者にしては珍しい現代を舞台にした長編ということで、いろいろ興奮したように覚えています。今読み返してみると、ジャーナリスティックな道具立てに鼻白む部分が多く、これが小説として書かれる理由がどこにあるのだろうかと、考えこんでしまいます。

ラジオでも作者は「分人主義」のはじめの一歩として本作を位置づけているようですが、その考え方がネット社会を前提とした人間関係についての考察に裏打ちされていることは間違いないのでしょう。けれど、ネット社会だからこそ「分人主義」的な人間関係が今になって「可視化」され論議の対象となりえているだけで、市民感覚からすれば「分人主義」なんてことは太古の昔から、それこそ西欧からの「個人主義」に毒される以前から「我々」の間では当然のようにまかり通っていた考え方なのではないかと邪推します。わざわざ「主義」を名乗るようなほどのものなのか……?

それにしても崇の人物造形が、それこそ西欧の個人主義に貫かれたある意味で一般的な小説を読むようにして読んでいては、いまいちつかめません。そういう風にあえて作者は書いているので、近代小説というある意味で西欧個人主義を源とする形式の中で、崇という人物は極めて異例というか、そもそも小説という器には入らない人間を描き出しているのではないでしょうか。そしてそれを許容していくことに、「小説」というジャンルの持つとんでもない奥深さが現れているように思います。

なぜ崇は最後に自殺したのか? 情報の束である「分人」というあり方を受け入れることが出来なかったのか? 死んでしまえば、分人は解消されるとでも思ったのだろうか? そもそも分人という概念で崇に救済はあるのだろうか? そこはすごく疑問です。ネット社会の危険は、ある一部分の分人がちょっとしたきっかけで肥大化し、分散し、一般化されて、まるでその人の全部であるかのように解釈される可能性を、そこに参加する全ての人間が否応なく負わされるということなのでしょう。それが文字や映像でのみ情報共有される世界での「影響力」を行使する切符なのでしょうが。

この小説が書かれた当時よりもずっと今のほうが、現実世界とネット社会との垣根は低くなっていて、「ネット社会」のような「ムラ」はもはや存在しないのかも知れません。十年前は、ブロードバンドで24時間使い放題という人はそうは言ってもやはりそこにコミットする意志を持つ人だけだったと思います。今や携帯電話でもそれなりの速度で定額通信が可能なのですから、ある意味で現実社会の方にヴァーチャル・リアリティのほうが寄り添ってきて、薄皮一枚隔てるだけになっているように思います。それらはもう、「あっち」と「こっち」で区別されるものではなく、「こっち」側でしかないのだろうと思います。

「決壊」は予言的であるとしても、あと10年後にはもしかしたら非常にチープなものになっているかもしれません。それを「チープ」と言ってしまう「現実世界」の方がどのように変容しているのか、そして「分人主義」の限界すらその時見えているのではないかという気すらしますが、そのあたりが楽しみでもあります。

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