平野啓一郎『葬送』

を、読みました。

読みました、とか言っていますが原稿用紙にして2500枚の長編です。ゴールデンウィークを費やして一気に読みました。こういう小説は一気に読まないとなかなか面白みがわからないものです。

冒頭にショパンの葬送の様子が置かれたあと、第一部、第二部を費やしてショパン、ドラクロワ、サンドを中心に革命前後のパリを舞台とした人間模様が描かれます。第二部は特にショパンの死までを丁寧に追った「物語」にもなっているので、死の場面まで来るとけっこう「ああ〜、ようやくここまで読み進めたなあ」という感慨にふけってしまいます。

ぼくはこの三人を並べられても誰一人史実に即した事実関係についてほとんどなにも知らないので、この小説のどこまでが事実でどこまでが空想なのかはわかりません。ショパンの死因もよくわかってないですよね? あと、脇を固める登場人物もたくさん出てきますが、創作上の都合で出てきた人物がどれほどいるのかもわかりません。

ただけっこう主役の三人以外、特にクレザンジェや、ドラクロワの秘書のジェニーなんかは生き生きと描かれていて、一方でショパンは主役を張るはずなのになんとなく最後まで薄いカーテンの向こうにいる感じがします。直接の感情描写が少ないからでしょうか。一次資料が書簡くらいしか手がかりがない上に、これまでの色々な史実とされている枠組みの中でしか動けないので、かえって主役三人のほうが描写が難しいのかもしれません。そんなの知ってるよってことを書かれてもしょうがないですしね。

ただ、なんとなく、芸術家を描いている割にはいちいち考えていることや会話が「いかにも」であったり、案外と下世話であったりして、神々の遊び、と言うよりは、かの大作家たちも人事関係に悩んだり、昔の人のことが忘れられなかったり考えていることは案外、現代人と同じなんだ、という印象を受けます。

というか、それが作者の意図するところなのかがいまいちよくわからないのも正直なところ。

特に日本語のことわざが当たり前のように会話の中に使われているのとか、比喩がいまいちあの時代にそぐわない感じがするとか(やや普遍的すぎる表現が多い)、あくまでもこれはあの時代の人物関係を借りた現代小説なのかな、という感じがします。

そしてそういう分析はいくら出来ても、やっぱり作者がこれを書いたのはひとえにショパンへの愛だけなのだろうか? というのがいまいちよくわからない、というのは変わりません。いや、それだけだというならそれだけでいいのかもしれないのですが……。

とにかく長い時間かけて読んだ割には裏表紙を眺めて「何だったんだろう、これは?」という気持ちになんとなく苛まれます。奇しくも三島を評した表現に「豊穣なる不毛」というのがありましたれど、それに近い感じがあります。これだけの字数を費やして作者は一体なにをしたのだろう?

今もって評価が難しい作品だと思います。作者自身はいろいろ意気込んで初期ロマンチック三部作の最後を飾るものとして位置づけているようですが、『日蝕』『一月物語』と並べられても、ちょっと分量的にも三部作というにはアンバランスです。その違和感というか、突然この分厚い本(たぶんこれは小林秀雄全集と同じ紙を使っている? けっこう薄くて良い紙で、普通の単行本の感覚より数段長いです)を本屋で見た時に感じた、平野は一体何にそんなに意気込んでこれを書いたんだろう? というのが最後までいまいちよくわからなくて、戸惑ってしまいます。

当時の文学界隈もそうだったのではないでしょうか? 本作で特に賞も取っていないし(長さから言って谷崎賞でも取りそうなのに)、誰も正当に評価できる人がいなかった、まあ塩野七生あたりが「いいんじゃないの」と言ってくれれば、当時はまだ新人だった作者も、これくらい書けるなら文壇の仲間入れさせてやろう、みたいな免状として機能した、と言ったら言葉が悪すぎますか。まあ、少なくともデビュー作から読み進めている者としてはものすごい戸惑いがあったのは間違いありません。もちろん次は何をやってくれるんだ、という期待も込めてだったのですが。

個人的には当時高校3年生だったぼくが、この第一部が「新潮」に掲載されたのを勇んで買いに走り、大学受験のまっただ中だというのにむさぼり読んだ時も、正直な感想は「擬古文の次は大時代翻訳文体か! なんでもできるな、この人!」という感嘆でしか無く(特に土地の関係で奔走する有様はロシア文学そのものという感じがしました)本人は否定するのでしょうが、まさに文の「芸」、文芸という印象でした。まあでも今読むと、一つ一つの文章は端正にまとまっているし、長いだけで、すごく読みやすいと思います。

ということで、つらつらと読後感を書いてきましたが、本気でこの作品を専門的立場から考証した記事であるとか、まともな書評であるとかがなかなか見つからないのでそれもなんでなのかなと思いましたが、特に作中でドラクロワの声を借りて「批評家」についてさんざんけなしていますから、なんとなく最初からこの小説自体を「批評」することの口が塞がれているというか、”莫迦”なこと言ったらただじゃすまさんぞ、みたいな気迫がみなぎっていて……こちらの”莫迦”もバレない程度にそろそろ筆を置きます。

まあでも、結局は好きでないと書けない世界なんだと思います。

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