よしもとばなな『赤ちゃんのいる日々』

を、読みました。

2003年後半の記録です。著者39歳。30代最後の年ですが、「あとがき」にもあるように色々な人の死を、見送っています。一方で愛息「まなちんこ」との格闘の日々も活写されていて、子育て世代には心強い一冊。「王国」の二巻目や「海のふた」を書き下ろしたタイミングのようです。

「体は〜」にせよ「デッド・エンド〜」にせよ、たぶん短編の連作で一冊の本に仕上げるというのは、この時期に集中しているように思います。そして本書にも書いてありましたが、自分の知らない人であったり、異質な人であったりが「自分を書いてくれ!」と言っている声にいちいち反応して書いたのが、これらの作品だったのではないでしょうか(この辺りだいぶぼくの方で補っていますので誤解があるかもしれませんが)。それは、著者が異質なものへ小説を通じて理解をしようとしている試みなのかもしれません。

以下の2002年のインタビューにもそれは現れています。

 二年前に出した短編集『体は全部知っている』で初めてやってみたのは、「知らない人たち」のことを書く、ということでした。それまでは、自分が共感できる人、私が「知っている」ような人を小説のなかに呼び出して書いていたんです。自分で書きながら、お互いに自然にわかりあえるような存在を。ところが、ほとんどが書下ろしの短編集を一冊書くことになって、今度は自分の知らない人たちを書いてみようかと思ったんですね。知らない誰かを呼び出して、インタビューをするようにして、その人たちが言っていることやっていることを引き出して書き写す。その書き方で一冊書き通してみたら、知らない人のことも書けるんだ、というのがわかりました。面白い経験でした。
 それからは、私の小説には知らない人が次々と出てくるようになったんです。知らない人たちが、私の知らない場所で何かをやっている。そのうちに気がついたら、自分とは本来は共感できないような人たちについて書く小説が増えてしまって、なんだか彼らの生き方をつぎつぎと見せられては、それを追いかけて書かなきゃならなくなってきた。最近どうもそれが少しつらい感じ、楽しくない感じになっていたんです。
 そして、今度の小説『王国』を書くということになったとき、もう一度、自分にとっていちばん気楽でわかりあえる人たち、知っている人たちを書いてみたくなってきた、というわけです。(「波」2002年9月号 新潮社ホームページより)

『王国』でまた図太いストーリー性が戻ってくるわけですが、個人的にはこの出産前の連作集というのは、今思えば確かに「文学史」的にはかなり異質な光を放っているようにも思えますし、そしてそれは必要な迂回だったとも思います。

それから、もうひとつの大きなテーマが「体」。

 結局、人間の全ては「体があること」につきると思う。〔中略〕
 食べたり飲んだり笑ったり手をつないだりすることを軽く見る風潮があるが、それ以外の抽象的なことは死んだらいくらでもできるのだから、生きているうちはそういう喜びを大事にしたほうがいいと思う。疲れることだって、すごい、もう大変にすばらしいことだから。

本当に、「体は全部知っている」というタイトルが2000年に既に出ているというのがすごい。とにかくすべてを言い表しているような気がする。この日記でも「体」について今後も小説で何度も何度も書いていくと宣言しているけれど、「王国」にもそれが表現されているということです。

と、思うとやっぱり「アムリタ」が20代の総決算だとすれば、30代の総決算はやっぱり「王国」シリーズなんだろうな。言ってしまえばそんなのファンだったらちょっと考えればすぐわかるだろ! という感じの結論ですが、やはり日記を通じて著者の30代のすぐそばを一緒に歩いてみて、初めて納得のいくものもあります。まあもっとも、週刊誌的な作家論的アプローチはぼくの最も嫌悪する「文学研究」ではあるのですが、今回のテーマ「三十代」については自分が三十代であるということも含めて、作品というよりは「この作品を三十代に書いた作者」をターゲットにしているので、仕方あるまい。

いやしかし「王国」シリーズは本当にぼくも好きな作品です。

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