村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』(35歳問題)

を、読みました。

35歳問題の取っ掛かりとして、まずは原典にあたる、と。つまりは「プールサイド」を再読。

「プールサイド」は、ある男が35歳を自分の人生の折り返し地点と認識するところから始まる。これは、やっぱりそうなんだ、というような気付きではなくて、意識的に意図的に35歳という自分の年齢をまさにターニング・ポイントとして認識するということ。

もし水泳競技にターンがなく、距離表示もなかったとしたら、400メートルを全力で泳ぎきるという作業は救いのない暗黒の地獄であるに違いない。ターンがあればこそ彼はその400メートルをふたつの部分に区切ることができるのだ。

この短編集に収録されている様々な短編の中には「もう若くない」という認識の周囲をウロウロしているものも少なくないように、改めて読み返してみると感じました。そしてこの短編集が出版された1985年は著者36歳の年。それなりに、鬼気迫るものも、相変わらずの淡々とした文体の後ろのあるんじゃないかと、勘ぐりながら。

読み方として、捉え方として、真逆を張るというのも大いにありだろう。35歳? まだまだ若造じゃねえか。肉体の衰え? それとこれとは別だ。まだまだできることはあるし、やらなければならないことはある。やれることを一生懸命やるのが人生ってもんだ。……という生き方は、400メートルを闇雲に泳ぎきるという生き方なんだろうな。いや、それはそれで一つの美学なんだと思うよ、本当に。

問題は、自分がどうするかだ。と、いうような小説を一方で書き始めています。

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