赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』

を、読みました。

90年代後半に文学に目覚め、雑誌「文藝」界隈を渉猟していた高校生のぼくにとって、赤坂真理はそのドライな文体と日常をSM的なモチーフで彩る手法に、新時代の文学を感じていたものでした。いつぞやの「文學界」巻頭掲載の「ミューズ」など、舌を巻いたものです……いま、赤坂真理を小説家として記憶している人がどれくらいいるかわかりませんが、その後2000年代に入ってからはこれといった代表作がなく、ぼっと『東京プリズン』が去年くらいに上梓されて一気にいろいろな賞をとって……それでも、赤坂真理を小説家として記憶し続けている人、読み続けている人というのは、その作品のレベルに比して不幸にも少ないのかも知れません。

けれど『東京プリズン』を読まずしても、本書を読んだところで、かつてのナイフのような読者を切り刻んでくる何かはあまり感じられなかった、というのが正直なところ。まずもって講談社現代新書としてなぜこれがラインナップされてしまったのか(『モテたい理由』はあんなにおもしろかったのに……)、データの裏付けなくして物事を「……と思う」でつないでいってしまう危うさ。たぶん著者の問題意識はまだ不明瞭なままなのだと思う。『東京プリズン』のアマゾン書評を読んでいても、小説としては失敗していながらも、その主張するところを同じくする人たちはこれを絶賛している。これは評価として非常に歯がゆい。芸術としては一級だが戦争を賛美している作品と、芸術としては失敗だが戦争を否定する作品と、それは評者の思惑によって様々にしゃぶりつくされる、多くの場合、外野で。

結局のところ、戦後50年すら遠い昔になってしまい、戦争の記憶を次代につなげようとしても「死にぞこない」と言われ、そもそも記憶が薄れていくこととそもそも最初から「知らない」ということとは全然違うのだということそのことを指摘してくれる人も少なくなっていく。これは、もう、人間が長くても100年程度しか生きられないことの限界なのだろうか? 例えば100年前の明治三陸沖地震の経験は伝えられ、生かされたのだろうか? そこにもし後悔があるのならば、戦後100年となる2045年までにぼくたちは何をしなければならないのだろうか? 本書は戦後世代(という表現をするのであれば、むしろ積極的な意味合いとして)の共有しなければならない課題の、戦後世代として引き受けようとする一つの範例にはなっているのだと思います。あるいは、「戦争映画は戦争に行ったやつしか撮れないのか?」という問いに対してどう答えるのか? ということの……。

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