鴻上尚史『「空気」と「世間」』

を、読みました。

ポイントは次の二点。
・日本人は自分の利害関係者集団=「世間」の中で生きてきた
・敬語を使って「社会」の他の集団と繋がっていこう!

前半はアベキンを引用しながら「世間」や「空気」の分析に費やされていますが、最終章でインターネットで色々なグルーブとつながることが可能になって今こそ、「世間」という手垢にまみれた場所から「です・ます」というドライな日本語を駆使していろいろな「社会」集団とコネクトしようという提言がなされます。ここはもっと最終章にページを費やして欲しかったのですが、しかしこれは一見簡単なことを言っているようで、けっこう本質的です。

もちろん社会の諸集団と複数のつながりを持ったところで、相変わらず「世間」はつきまとってきます。ミクシーのなんとかコミュニティに参加してたまにはOFF会に参加して……なんて展開になったとしても、それで会社をやめられるわけではないし、その必要もありません。けれど、人間としての強度は、明らかに多様性を受け入れることによって強められていくはずなのです。それによって人間全体に対する理解も深まっていくはずなのだから。

もちろん卑近な例で言えば、会社だってすべてがすべて「世間」であるわけではないし、すべてが「世間」だと思ってしまうからこそ足がすくむことだってある。むしろ、自分の半径十メートル以内を「世間」だと考えてしまうことから甘えが出てしまうのかもしれません。だったら、目の前にいる人から「敬語」できちんと意思疎通することから始めてみるのも、一つの突破口になるかも知れません。

福田和也も何かで書いていました。「敬語」というのは、相手との距離感を予め固定化することで余計な探り合いを無くし、対等な会話を成り立たせるのに必要な、日本語に備わった強力なツールなのである、と。

一歩マンションの外に出ればそこは「社会」であって、けれど「です・ます」を駆使してその中を泳ぎ切っていけば大丈夫! という、少しの勇気を、そして大いなる可能性を秘めた勇気を与えてくれる良書です。

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