エマソン『自己信頼』

を、読みました。季節の変わり目だからなのか、心が不安定なることが多くなりました。とくに休日。森田療法などひっくり返して読み返したりしています。

エマソンの『自己信頼』は自己啓発本の元祖と言われているようですが岩波文庫にも採られているようなので、とりあえず読みやすい新訳を買ってきて読みました。かつてよく考えていた「スタイル」とか、森田療法の考え方にもかなり通ずるものかあるように感じました。なかなか頭の中がまとまっていないのですが(この手の本に手を出してしまっていることも含めて)、とりあえず引用だけしてお茶を濁しておきます。

心のなかで確信していることがあるなら、声に出して語るがよい。

私たちは吟遊詩人や賢人たちが放つ、目もくらむような輝きよりも、自分の内側でほのかに輝いている光を見つけ、観察するべきだ。

あるものが記憶に残るのは、それがおさまるべき場所が自分の中にあったからだ。

食事の心配をする必要のない少年たちは、人を懐柔するために何かをいったり、したりすることを軽蔑する。この王侯のごとき無頓着さこそ、人間本来の健全な態度だ。

家に帰って、わが子をかわいがってやりなさい。あなたのために薪を割っている労働者をねぎらいなさい。穏やかで控えめでありなさい。そうした美点を自分のものとするのです。自分の冷酷で無慈悲な野心をごまかすために、はるか彼方の黒人に途方もない情けをかけるのはやめなさい。

仮に矛盾したとて、それがなんだろう。記憶だけに頼らないこと、たとえ記憶がはっきりしているときでも、なるべく頼らないようにすること、常に現在の視点から過去を徹底的に検証し、日々新しい一日を生きること、それこそが賢明な態度だと思われる。

いま考えていることを断固として語りたまえ。そして明日は、たとえ今日いったことのすべてと矛盾していても、そのときに考えていることを断固として語るのだ。

世間に迎合していては、どんな行動も説明できない。自分の道を行くのだ。そうすれば過去の行為が、いまの自分を正当化してくれる。

世界は自分のためにあるのに、まるでもぐりの商人のように、のぞき見したり、盗みをはたらいたり、こそこそと歩きまわったりする必要があるだろうか。

本を読むときも、人々はまるで物乞いのようにこびへつらう。

王たちの偉業は歴史に刻まれたが、ふつうの人々が今日、人知れずに行う行為にも大きな報酬が与えられていいはずだ。

もし自分は神を知っており、神を語ることができるという人物が現れ、どこかの国の古い言葉をまくしたてて、あなたを過去に引きずり戻そうとしても信じてはならない。

過去は、魂から健全さと威厳を奪う陰謀者である。

もう少し大きなると、今度は偶然出会った才能豊かな人々や人格者の言葉を必死にそらんじるようになる。やがて自分も同じような見識を持つにいたると、ようやく彼らを理解し、その言葉を手放す気になる。

新しい認識を得れば、後生大事に取っておいた記憶も、ホコリをかぶったがらくたとして、なんのためらいもなく捨てられるようになるだろう。

力は活動を止めた瞬間に消える。そして過去から新しい状態に移る瞬間、深い淵を飛び越えるとき、目標に向かって突き進むときに現れる。

それに対して、ニューハンプシャーやバーモントの田舎町から出てきた屈強な若者は、あらゆる職業に挑戦する。
家畜を追い、畑を耕し、商品を売り歩き、学校を経営し、説教し、新聞を発行し、議員になり、土地を買う。そうこうしながら、どんな苦境も猫のようにしなやかに脱していく。

古いものに囲まれていると、若者でさえ年老いていく。

人々は異国風の家を建て、外国趣味の装飾品で棚を飾り、自分の意見や趣味や能力よりも「過去のもの」や「遠くにあるもの」を好み、それをまねる。しかし優れた芸術はどれも、人間の魂がつくりだしたものだ。

社会が前進することはない。ある部分が進めば、別の部分が後退する。

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