志村貴子「放浪息子」

を、読みました。15巻にてこちらも完結。

なにはともあれ「性」という人間の根源に立ち向かった傑作と言ってよいでしょう。性未分化な小学生の時にふと感じた「なぜ男の子である自分はスカートをはいてはいけないのだろう?」という、シンプルでありながらおそらくいかなる人類学者、民俗学者、社会学者を以てしても明確な答えが出てこないであろう問いを抱えながら、それが解消されないまま大人になっていくことの苦しさを、淡々とした描写で読ませます。

多くの人は、男の子とはこういうものだから、女の子とはこういうものだからと、問いにフタをして解決したかのような顔をして恋愛ゲームに参加していくのでしょう。遅まきながら高槻よしのもやがてフタをして、フタをする自分を辛く辛く感じながら、女らしい格好をし髪を伸ばしていきます。一方で二鳥修一は結局最後まで問いを捨てられずに「あちら側」の世界へ入っていきます。

物語の始めでは「とりかへばや」的に「女の子に憧れる男の子」と「男の子に憧れる女の子」という対になるような主人公の二人でしたが、成長するに連れてそのバランスはどんどん崩れていきます。女の子はちょっと男の子のような魅力を出せば「中性的な魅力」ともてはやされます。けれど男の子はあくまでも男らしさの側にしか最終的な出口はなく、少しでも「可愛らしさ」を侵犯すれば「気持ち悪い」と非難される。男-性と女-性が交換可能な等価な記号であることは全くの嘘で、性の領域においては女の子のほうがずいぶんと縦横無尽な活躍を見せられる──ように見える、と言ったほうが正確でしょう。そしてその自由さに嫉妬して、やっぱり二鳥修一は最後の最後まで「どうして男である自分はかわいいものに憧れてはいけないのか」「男である自分がかわいいものと一体化してはいけないのか」「男である自分を可愛いと評価されてはいけないのか」という問いを抱えたまま「女の子になりたい」という絶唱を響かせて巻は終わります。

なんとなくわかる、──というのはぼくもまた、小学生の時、例えばプールの授業で着替えるときに履いたタオルのスカートがちょっと嬉しかったり、「女の子はズボンもスカートも履けるからいいな」と考えたり、あるいは頭の中で悲劇のヒロインごっこをしたりしていたものです。少女漫画にはまり始めたのも小五の時だったし、以来「男らしさ」を標榜するマッチョイズムに対しては言い知れぬ嫌悪感を持って生きてきました。

性に起因する「らしさ」に直面するのはやっぱり保健体育的には二次成長期を迎える小学校高学年のあたりになるのでしょうが、そこで生まれる葛藤に対して、繰り返しになりますが多くの人はだんだんとそういうものだと受けていれていくことになるのでしょう(ぼく自身はその後の男子校生活で大きな認知の歪みを経験しますが)。そういう飼いならし作戦には、ランドセルの色が黒と赤に色分けされていることから周到な準備が出来ていて、小学校の中で行われる指導の中には「男の子らしさ」「女の子らしさ」を強制する装置が至る所に発動しているのではないか? と疑問に感じます。たとえば家庭科の教科書で女の子だけがが料理しているイラストが載っていて問題になったこともありました。

現実に女装をしてしまう男の人達は苦しみぬいているはずで、かわいいものに憧れること事態は別におかしな現象ではないながらも、それと同一化したいという欲望は、やっぱり世間一般的には一線を画すものと考えられるようです。自分でここまで長々と書いてきてなかなかすっきりしませんが、その一線とはなんなのか? その一線を「気持ち悪い」と受け止めてしまうメンタリティとはなんなのか? どちらの側がおかしいのか?

といったことを読み終わってもなお考えさせられる漫画。おすすめです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA