スーザン・ソンタグ『書くこと、ロラン・バルトについて』

を、読みました。

彼女の文体に触れるにつれ、いつも思うのは「世界文学」と言ったときの「世界」ってなんなのだろう? ということです。この本の中は例えばグーグルで(日本語の、カタカナで)検索しても一件も引っかからない作家、詩人が出てきます。けれど彼らが英語圏では抜群に著名で、誰もが邦訳の待ち望む存在であるかというとそういうわけでもない。英語圏でも、もっと読まれるべきだと彼女は主張している。だからソンタグ自身、「英語圏」と「世界」文学とを厳密に区別しながら論を進めているのです。そこにこそ、読むものとしては彼女の審美眼に絶大な信頼を置きたくなる所以でもあるのですが。

マルケスはたしかに「発見」されたのかもしれません。ボルヘスも、あるいはコルタサルもスペイン語で書いたのです。だからこそ彼らは「ラテンアメリカ文学」というある種のブームに見出されたという面も否定出来ません(その文学的価値がそれによってそこなわれることは決してないにせよ)。もちろんぼくたちが今『百年の孤独』をいくつもの邦訳で読めるというのもその恩恵というものでしょうが、そこに連なるべきブラジル出身ながらポルトガル語で書いたマシャードの作品で今邦訳で手軽に読めるのが光文社古典新訳文庫の『ブラス・クーバスの死後の回想』だけだということにもっと思いを馳せなければならないのかもしれません(というか、光文社古典新訳文庫のセレクションに改めて舌を巻きました)。

大学時代、日本は例えば岩波文庫などで古今東西の名著が邦訳されていて自国語だけしか操れない人間にとっても学問への道が豊かに開かれている稀有な国であるということを言われたことがあります。同じレベルをこの先も、この先の文学を愛する人達のために翻訳家の皆様には繋いでいって欲しいと思います。「世界文学」というのがどこまで行っても一つの理想であり、概念として解決されるものではないことは百も承知ながら、そこに向かっていく叡智というのは、相変わらず人間同士でしか作り上げ得ないものだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA