エヴァンゲリオン考(「Q」に向かって)

年末に一度、そして昨日もう一度エヴァンゲリオン新劇場版「Q」を観てきました。映画を劇場で二回観るというのはあまりないことなのですが、一回目の消化不良感に耐えられず、ネット上に日々生成される流言飛語、あるいは「冬月が『31手先で君の詰みだ』と言った31分後にカオル自爆」といった本当かどう分からないが本当にそうらしいという「ネタバレ」と称する各人の謎解きなんかも色々と仕入れ、「破」もビデオで見なおしてから「Q」をもう一度見てきました。

「破」が一度は父親に対して不信感を抱き世界を拒絶したシンジがミサトとの信頼を回復していく、あるいは彼が自分の欲望するもの=自我に目覚めるという大団円に向かっていく割と骨太な人間ドラマだったのに対して、「Q」ははっきり言ってしまえば「劇的」ではありません。

あまりに状況の変化が激しいのです。14年の時間が経過し浦島太郎状態のシンジと同じ視点を観客は強いられ、その状況変化の種明かしで時間の半分位が終わってしまいます。ミサトたちはネルフから造反し、新たな組織と新たな人材、新たな武器ヴンダーを操ります。このあまりに大きな状況変化に、ついていくだけで精一杯でもあるのです。

それはつまり、ぼくたちは旧劇場版までの長い物語を消化してきた中でシンジの学園生活や、ネルフという組織の中ではまるでぼくたちが毎日会社に通うようにミサトや加持が働いている姿をこの物語の大前提としてどこかで受けれてしまっていたからではないでしょうか。永遠の夏、永遠の少年、永遠の謎。それらは相変わらず物語の所与の条件としてどんと居座り、ぼくたちの「謎解き」はその周辺状況をかき集めてはペダンチックな方向へひたすら淫していく……そういったある種、この作品の周辺事情に対して自らのノーを突きつけてきたのが「Q」であると言えるかもしれません。

けれど「破」でセカンドインパクト前の人工的に再現された青い海にシンジ達が感激するように、旧劇までの長い物語も、エヴァの世界からすればほんのほんの一部しか描いていないとも言えます。セカンドインパクト前にはゲンドウや冬月の研究生活があり、ミサトは父との確執に悩む生活があった。セカンドインパクト後の本編では赤い海しか知らない子供たちの生活がある。そしてサードインパクトが……ということになれば、本編で描かれることに咲かれた時間の長短によって判断することは控えなければならないかもしれません。

つまり、エヴァンゲリオンという物語はいくつかの「インパクト」を契機に生物が絶滅しては誕生していくという長い長い命のプロセスを問題にしているのであって、むしろ人類が繁栄している時間は本編では長く描かれていても(そもそも人間、あるいは擬人的要素が出てこない小説や映画は想定しにくいのですが)、物語が前提としている気宇壮大な時間軸の中ではほんの一瞬出来事として捉える必要があるのかもしれません。

実際、劇場に足を運んだぼくたちは「破」と「Q」との間に重要なインターバルを挟み込まれます。それは「巨神兵東京に現わる」であり、もちろんこの作品をエヴァと同列に置くことには判断の余地をおかなければなりませんが、けれど、ここで林原めぐみが語りるメッセージ、つまり災厄は全てを滅ぼしてしまうかもしれないが次の新たな何かが誕生する素地づくりでもありそしてこの営みを長い年月をかけて生物は繰り返してきた……というのは、「インパクト」を災厄と読み変えれば自ずとエヴァ本編のも物語の構造に寄り添ってくるように思えます。

そこでは人間が生き延びんとする意志と、生物の「歴史」の意志とがせめぎあいます。そして「人間」という概念を、個々人の自我の積算とするか、「補完計画」によって心を一つに融合させ総体としての人類の意志として捉えるかとでヴィレ(ドイツ語で「意志」!)とネルフとはまたせめぎあっています。

さて「Q」の最大のテーマは「ガキシンジ」というアスカの評言にすべて集約されることでしょう。とにかくここまでひどいシンジは見たことがない、なぜこんなシンジが主人公に居座っているのか? という違和感は「Q」を見た誰もが思うはずです。

「破」の最後でようやく開花したシンジの主体性はどこに行ってしまったのでしょう? 気がつけば浦島状態で、唯一心を許せていたであろうミサトからも不要のレッテルを貼られた(ように思い込んだ)シンジは文字通り茫然自失に追い込まれます。「Q」のシンジはこれ以上の内的展開を見せてくれません。

作中でシンジとの対話の相手はほとんどがカオルでしたが、「Q」が決してシンジとカオルとの友情が育まれていく心温まるストーリーと言えないことは確かで、それはシンジの主体性が完全に滅失しているところに原因があります。目覚めてからレイの声が脳内に反響して「レイはどこだ!」と怒鳴りちらす様や、「君が言ったんじゃないか」「ぼくはどうしたらいいんだ」と執拗にカオルに繰り返す様は、精神に異常をきたした者のようにしか見えません。それはひとたびカオルから「REDO」のための解決策を提示されてそれに飛びつき急に活き活きとし始める様も含めてです。状況判断を完全に他者に預けてしまっています。完全に自らの意志を失っています。アスカの顰に習えば、理性を持った近代的自我が発現する以前の幼児=「ガキ」でしかないシンジがゾンビのようにさまよい歩くのが「Q」です。

「人類補完計画」というのが、結局のところ個々人の自我や個性をすべて融合してしまうことであれば、それは「近代的自我の目覚め」みたいなものとは真逆にある考え方であって、エヴァンゲリオンというのは登場する個々人のキャラクター=人格と、「人類補完」というキャラクター不在の世界・状況との拮抗の物語であるとも言えそうです。

「破」のラストシーン、つまりカシウスの槍によって「サード・インパクト」がニアミスで終わったというのも、シンジという「自我」によって図らずも引き起こされた非「自我」への世界の扉を、カオルという別の「自我」が引きとどめた、というこれぞまさに拮抗と称するほかありません。もちろん「Q」では結果としてサードが引き起こされ、物理的な自我が壊滅せられたという悲しい現実を開陳されるのですが……。

けれど、この非「自我」の世界は本当に「自我」の対立項なのでしょうか? ゲンドウは実体としてのユリを失って以来、ユリを「取り戻す」ことを常に念頭においています。ここにゲンドウの意志のすべてが集約されているし、あるいは彼の急所でもあるとも言えます。一人の男の妻への追慕のみが、先の対立項を引き起こしているのだとすればこれだけ複雑怪奇な因果関係をまき散らしながらも、本質はあまりにも悲しい物語だと言わざるをえないのかもしれません。

宇多田ヒカルのエンディング曲があまりにも良かったです。赤い大地を歩いて行く三人の儚げな後ろ姿とよく合っていました。

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