メモその二

しかしながら結局一介の歯車たる一個人はもう一つの歯車との組み合わせの中でしか自らを規定できないのかもしれない。その歯車を動かしているのがどの歯車で、その歯車を動かしているのがどの歯車で…というのを延々と遡っていったところで、全体がつかめるのではない。それは結局会社は誰のものか? という禅問答とよく似ていたりもする。だから、目をつぶる。耳をふたぐ。そんな選択肢もあっていいのではないか。歯車たることに矜持を見出し、たまには逆回転してバタフライ効果をうっかり期待してみたりする。そうして十年、二十年が過ぎるのもまた良いではないか。

私は
にんげんがすきなのだよ
だから
帰る場所がないのだよ
五時の
長いおんがくが
とぎれたら
私は私を処理しよう

──三角みづ紀「ソナタ」『オウバアキル』

ぼくは笑う、高らかに。まるで歓迎されているかのように。そうなんだ、すべては「かのように」を演じきったものの勝利なのだ──本当に?

漱石の「私の個人主義」は年年歳歳、読み返すたびに違うことを教えてくれる。

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