断片的なメモ

そして、常に既にぼくたちは断片的にしか物事を語れなくなっている。これは質の悪い冗談だ。したがって、あまり冗談になっていないところが、ある。

組織とは、ある一定の量を超えるとビューロクラシーを奉ずるしかなくなってくる。だって、五人の組織の中のあなた一人の価値と、千人の組織の中のあなた一人の価値とは残念ながら大きく異なるし、残念ながら組織の大きさにきれいに反比例する。だって、人一人が扱える仕事量なんてすぐに限界が来てしまうから。「そんなことあるはずない!」って言っている当のあなただって、目の前にいる人間のことを1/5ではなくて1/1000としてすぐに扱うようになってしまうだろう。

ビューロクラシーにおいては、絵に書いたような上意下達というわけではない。中心はむしろ存在を隠している。けれど人々の心は既に「自己植民」に蝕まれている。一人一人は話も通じるし、こんなところであっていなければうまい酒を呑む仲間にもなれたに違いない。けれど、ぼくたちは組織の中の一人だ。その時、「こうすればこうなるに違いないからこうしておこう」とか「前例から言ってこうなる確率が高いから事前にここまでやっておこう」とか「どうもこういうことが前提となっているようだからここまではやっておかないといけないな」とか、それはものすごい自己検閲が人々を動かしている。

かえって、人と人との関わりはクールで最低限で、言葉数も多くはないだろう。なぜそこでスケジュールについて文句が出ない? 隣の部はどうしていると一言出ない? おいおい、俺達はこうしたいからこうするぜ、という「俺達」はどこへ行った?

それが消耗だということをみんな知っているのだ。だからできないとはできるだけ自分の時間で穴埋めする。不夜城。あるいは、土曜日曜の休日出勤。仕事の持ち帰り。それが一番効率よい仕事のスタイルなのだ。そうでしょ? どうせやらなければならないのだから。

全体、とはなにか? それは最後まで把握のできないものだ。

議論は無いのだ。あるのは情報の伝達だけだ。そしてそれをいち早く嗅ぎける嗅覚。つぎには「こうなりそうだから今からこれをやっておこう」と口を開き、誰に頼まれたのでもないのに自分を脅迫していく。

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