安冨歩『原発危機と「東大話法」』

を読みました。

日曜日の午後、一気に通読しました。題名から察せられるとおり、原発事故後のネット上も含めた色々な言説についての分析。その中でも筆者が「東大話法」と呼ぶのは、当事者であるにもかかわらず傍観者的な態度を取り続けて全く責任を取ろうとしない評論家的物言い。その実例を都度都度取り上げ、その裏に潜む日本の社会が個々人に強制する「役割を果たすこと」の圧力にまで言及していくという内容で、原発に対する直接の議論をしているのではなくて原発をめぐる議論のある種の不毛さがいかに現代日本に巣食う病魔を図らずも表現してしまっているというところを突いていきます。

と、紹介しましたがまあこういう本の紹介の仕方ももしかしたら東大話法なのかもしれないのですが。「東大」を槍玉に挙げるのではなくて「東大的なるもの」、というのはつまり権威主義とか、それにおもねりすぎるあまりおもねっている自分が権威かなにかと勘違いしてしまうような危険性を十二分に指摘していく本書は決して難解な学術書ではなくて誰でも読めば分かる内容であるし、日々自分が発してる言説に欺瞞が知らない間に入り込んでいないかチェックするきっかけにもなります。

しかし大企業病というのもやっぱりこういう組織の中で与えられた役割に対して滅私奉公するところから、そしてそれになんの疑問も持たなくなってしまうところから始まるんでしょうね。「滅私」とは恐ろしいもんで、今やっている仕事はたまたま自分に与えられた役割を求められる役割に沿って遂行しているだけで、自分の個人的な心情とかしそうというのはまた別なんだよという態度にだんだん呵責を感じなくなってくる。でも実際はそういう自分個人と会社の中の自分を一致させるように生きて行くことなんて不可能で、会社なんて別に誰かの自己実現のためにあるわけではないし、結局は上役の意思決定に追随するしかない──なんて信じこんでしまうところから欺瞞が生まれる。その不可能さに対してギリギリまでしんどさを感じ続けることしか解決はないんじゃないのか。金を貰っている以上できないことはある。でもそういう思考形態こそが批判されるべきなのか。企業活動が直接間接にでも人命に関わるという意識を少なくとも持つのであれば、なにを再優先しなければならないかは自ずと分かってくるものなのだろうけれど、たぶんぼくのような一般サラリーマンは医療現場とか、原発の補修作業の現場とか、全然知らずに一日バックオフィスでパソコンをいじっているので頭がパッパラパーになっても気づかないんでしょうね。だって自分がもし東京電力に勤めていたらどんな意思決定をしていたか、させていたか、させるような数字を並べた資料を作っていたか、考えるだけで批判は自分に返ってきます。

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