自分の頭で考えるということ──宇仁田ゆみ『うさぎドロップ』

既刊九巻で本編は完結している。物語は、死んだ祖父の残した隠し子である「りん」を息子である「ダイキチ」が引きとって高校生になるまで育て上げる過程を描いている(途中、十年ほどすっ飛ばされているのには驚いたけれど…)。ここでは最終巻の「オチ」については、さほど重要ではない。

とにかく驚かされるのは、この漫画の登場人物たちが常に「自分の頭で考える」ということを徹底しているからだ。大きなどんでん返しや派手な演出があるわけではない。特に四巻までで描かれる、結婚もしていない「ダイキチ」が子育てに奮闘する様子というのは、どうして良いかわからないことの連続に立ち向かうことの必死さがよく伝わってくる。彼は都度立ち止まり、あるいは全速力で走りながら「どうしたらいいんだ?」と問い続け、時には無知を丸出しにしてわかりそうな人に「わからないので教えて欲しい」と持ちかける。そうして次第に自分の中に哲学を組み立てていく。会社に入ったときに自分は広い世界に足を踏み入れたと思っていたけれど、保育園に子どもを連れて行ったときに世の中というのは大卒の総合職だけで回っているのではないというごくごく当たり前のことに気がついていく。子育ては決して自己犠牲ではないということに気がついていく。それを追いかけるようにしてもう一人の主人公「りん」は五巻以降、自分を取り巻く生い立ちや「ダイキチ」との将来の関係に苦悩していく。もちろん自分ひとりで抱え込むという類のものではなく、相談相手を探し、見つかれば全力でぶつかっていく。大切なのは、これが一方通行のものではないということだ。ダイキチはりんがわからないことは教えるし、りんもダイキチのわからない自分の気持をちゃんと説明する。

人は二十代をもう一度送れないわけだし、三十代になるのは初めての経験だし、親だって四十代になるのは初めてなのだ。そこに十分な準備などありえないし、「三十代は二回目なんで、今回は全然ヨユーです」なんてことはありえないのだ。それぞれが皆初めての経験で、戸惑って、どうしていいかわからなくなる。死ぬまで、それぞれの年齢で、人はそれぞれの困難や悩み事に立ち向かっていかなくちゃならない。逃げて至って仕方が無いのだ。自分の頭で考えて、考えてもわからないことは「考えてもわからないので教えてください」と人に聞けばいい。そしてもしも自分が誰かから「わからないから教えて欲しい」と問いかけられたら、全力で答えてやればいい。

それをちゃんと出来るのが大人になる、ということなんだろうな。それが年齢を重ねるということの、責任なのだろうな。明日なにが起こるかわからない。今回は初めてだからできなくても仕方がない、なんて思っているうちはダメなんだ。一回きりなんだ。この今の感情も、境遇も、環境も、時間も。そこに全力で当たって、一回きり味わいつくさなければ生きていることにはならないんだ。

この漫画は、なにかとんでもない事件が起こってそれに巻き込まれ運命に翻弄される人間の弱い姿、みたいなものにはまったく興味はない。それは生い立ちや家庭環境の特殊性をこの作品がいかにモチーフにしていようとも、それによって導きだされているメッセージはまったく違う。登場人物たちは生活のレベルで、自分がなにをしたら幸せになれるのかを真剣に考え、少しずつ自分の足を使って実践していく。少しの勇気が大きな結果をもたらすということを彼らはちゃんと知っている、ということが大きな勇気を読者に間違いなくもたらしてくれる良書。

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