学問の喜びここにあり 土居義岳『言葉と建築』

学生時代にはまったく興味のなかった建築というものにいつの間にか(本当は色々と書けばきりのない変遷があるのだけれど)興味が出て、これまでも色々と関連する本を読んだりしてきましたが、本書は久しぶりに建築という分野に限らず、エキサイティングな内容を持っていました。一言で言えば、学問をするということの初元の喜びを思い出させてくれるというか、それくらい言い切っても良いと思える良書です。

とにかく「言葉」と「建築」との関係について歴史を掘り起こし、丁寧に「言葉」についてしまった手垢を洗い落とし、今ではすっかり自明と思われる関係性の根幹を問い直していく。筆者もあとがきで述べているように優れてフーコー的な態度を建築批評という分野で縦横無尽に活躍させています。たとえば「空間」という言葉、「様式」という言葉、日本対西洋という図式、ヘーゲル的な思考の枠組み……こういった批評のための道具立てを、それを自明の概念とせずに、「なぜぼくたちはこの言葉を使ってこのことについて述べるようになったのか?」としつこく何度も問い直していきます。

思えば、西洋からの輸入学問であれば、まずはそこで語られる言葉そのものが日本にはない概念だから、言葉そのものについて定義やそれを使うようになった背景を問いただしていくことが、人文系学問の存在意義であるようにも思います。流行のちょっとコムズカシイ学術的隠語を散りばめて「批評の新たな地平を切り開いた!」なんて言われる「高度」で「難解」な文章も、これはこれで言葉の新しい組み合わせを発見するという意味で面白いものはありますが、学問特有の泥臭さとは別次元の、各作家のテクニックの競い合いであるとも言えます。

むしろそういうスマートさよりも、「広場、という言葉は欧米の都市論ではこれこれこうで、日本でこの言葉がタームとして定着してきたのは広辞苑の第◯版でようやく建築学的な意味での説明が付加されているところからすれば…」と愚直なまでに過去を解きほぐしていく丁寧な作業こそが尊いし、読者としてこれを読み進めることで同じプロセスを再現することができます。今では自明のものとして扱われている物事の根源を問うことによって手垢にまみれた言葉たちも息を吹き返すし、使うこちらとしても自覚的ならざるを得なくなります。

たとえば自転車の乗り方のように、一度体に染み付いてしまった事柄をあらためて問い直し言語化することによって=意識化することによって、今までスムースに行っていてことが急にぎくしゃくとしてしまうかもしれません。でももう一度、小学生に自転車の乗り方を説明するように自己に対してフィードバックをし、その上でペダルを漕ぎなおす。その時に見える風景というのは、まるで同じようでありながらまるで違った意味をもう一度持ち直すのだと思うのです。

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