源氏物語読了~けれど再読だけが読書なのだ

ついに読み終わった。去年の年末から読み始めたのでおよそ半年。この間、軽めの本なら同時並行で読んだりもしていましたが会社の行き帰りは新潮日本古典集成にどっぷりつかりきる毎日でした。まあ、時々意識がぶっ飛んでいたけれど。

古典を読むきっかけというのはなかなか難しい。かく言うぼくも、大学の国文学科を卒業してから五年以上経ってようやく手を伸ばしたのだから。源氏について言えば、高校生の時分に「あさきゆめみし」を体育の時間に読んでいたのと(高校三年時の体育の授業はなにをしてもよかったのです)、円地文子訳の文庫本を途中までちょびちょび拾い読みしていたくらいで、もっぱらそれは楽しみのためというよりは受験対策の一つとして読んでいたに過ぎません。文学自体には興味はありましたが、古典よりは近現代の小説がぼくの関心の中心だったので、大学に入ってからも江戸以降の授業しかほとんど受けませんでした。

卒業してから、それがちょっともったいなかったような気がして、二年目の夏のボーナスで新潮日本古典集成を全巻買い揃えました。これは東京に引っ越してきた今も本棚に収まっています。たぶん、この先読みたくなる瞬間が来るはず、その時に手元に無かったらいやだな、という予感がなんとなくありました。だから買ったその時も、『三人吉三廓初買』とか江戸ものを何冊か読んだだけで九割方は積ん読状態でした。

でもきっと、読みたくなる瞬間が来るはず。それだけは確信していました。老後になるかもしれない。でも、持っておこうと思ったのです。

高校生の時に読んでいた例の実況中継シリーズで世界史の文化史というのがあったのですが、筆者が大学時代の読書体験について書いていました。その中でも、同じ寮に住んでいる友人が夏休みを使って源氏物語を読破するというくだりが印象的に残っています。細部は忘れましたが、筆者も資本論だったかを読んでいて、朝になって二人で朝食を食べながら「昨日読んだところでは葵上が~」とか語り合う。そういう熱のこもった読書って学生の時にしかできないのだと思います。著者は、ハイキングじゃなくて登山のような読書をしてくれと、書中で若い高校生に訴えていました。実況中継シリーズならではの、飛沫です。

大学の時も某西洋史の先生が、解説本ばかり読んで足踏みしていないでどんどん岩波の黄色帯を買ったらいいという話をしていたのも印象に残っています。恐れる必要はない、フーコーだってカントだって、原典にどんどんあたったら良いのだ。当たって、砕けたとしても、その砕けたという痛みが読者にとっての貴重なオリジンになるのだ。

なにが言いたいのかというと、役に立つとか立たないとか、そういうの度外視で、とにかく重厚な物語を読み進めるという体験をもう一度したかったということです。ぼくにとってのそれはかつて『ジャン・クリストフ』『レ・ミゼラブル』『死霊』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『豊饒の海』でした。それらの作品からは沢山のエネルギーを貰いました。その上で、せっかく大学で文学を専攻した者として我が国最高峰の古典に挑戦しようという気持ちが、ある日、湧いてきたというわけです。

新潮日本古典集成には、原文の脇に色刷りで現代語訳がルビのように振ってあります。これのおかげで初心者のぼくでも解釈をしながら読み進めることができました。それが一体どこまで純粋に「源氏を読む」という行いと言えるのかはさておき、やはりあらすじだけを押さえておくのとは違った発見が沢山ありました。あらすじというのはプロットの連鎖・因果関係を述べたものですから、当然派手な展開があればその印象が強くなります。しかし原文で描かれる強度と、あらすじの印象の強弱とは必ずしも一致しません。さらっと書き流されている時もあれば、もういいじゃないかと言いたくなるくらいにつらつらと心情吐露が続くところもあります。

総じて源氏亡き後は各登場人物の印象も薄くなり、薫と匂宮との物語もあまりパッとしない。宇治十帖も、姉妹といい浮舟といいただただ状況に翻弄されているだけで、源氏を取り巻いていた六条院の個性豊かな女性たちに比べると、なんとも味気ない。それが当時の貴族社会の世相をどれだけ反映しているかとか、そういう研究者的な視点で語ることはぼくには全くままならなのだけれど、ぼくの持ったこの印象がまずは源氏の読みに対する一つの出発点になるのだろうと思う。ぼくは今回の一回目の読了で今後の人生で源氏物語とのかかわりを終えるつもりは毛頭なくて、ようやく豊かな森の入口に立つことができくらいにしか思っていません。

前にも書いたけれど、夏目漱石の作品群だって『門』以降は三十代、四十代で再読するのをぼくは楽しみにしています。『吾輩は猫である』や『三四郎』『坊ちゃん』などは今後再読しても大きく印象が変わることはないだろうと思う。『それから』は働き始めてから読み方がだいぶ変わった。中・後期の暗い作品は、今はまだわからない、理解なんてできるはずがないくらいにしか思っていません。

それと同様に、源氏もたぶん今読めていないところがたくさんあって、それは今後色々な研究書やエッセーに触れていく中で、読み方も変わってくるのだと思います。そしてまた何年か後に再読の機会が来るかもしれない。再読をするためにはまず初読がなければならない。ぼくにとって読書の楽しみというのは、あっと驚くあらすじを追うことでは全く無く、むしろそんなことには興味がなくて、その出来事を作家がどう料理してくれるのか? そしてそれに対して自分はどう感じるのか? そしてその感じ方が年令を重ねることでどう変わっていくのか? というところに、近頃はだいぶ傾いています。そしてそういった読みを許してくれるのは多くの場合、クラシックと呼ばれる作品たちなのですね。

「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」
「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。
「バルザック、ダンテ、ジョゼフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に答えた。
「あまり今日性のある作家とは言えないですね」
「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる、そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。なあ知っているか?ワタナベ? この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」
             ──村上春樹『ノルウェイの森』

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