「あの花」はあれでよかったのか? よかったのだ。

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「あの花」の最終回は、なんだか無理にあとからドロドロ感を付け加えて「実は生きている人間って、こーんなにも純粋になりきれないしょうもない存在なんです」なんてことを演出しているような気がした。その割には、ラストシーンは小ぎれいにまとめ上げられていて(「かくれんぼ」の比喩もうまく乗り切れていないような気もしたけれど…)後味すっきりで終わらせるのなら最終回の前半は必要なかったのでは? という気もした。もしあのくだりを出したかったのならもっと手前の段階で「みんなの手前こう思っているけど、本当はね…」という伏線がもう少しあっても良かったんじゃないかな。もちろん花火発射のところでだいぶそれは明らかになるけれど、それまでの語りが仁太中心に動いていたので、そこからいきなり複数の感情描出が始まるとちょっと違和感は感じた。

まあ、けれどこれは些細な問題であると思う。異色な作品であったけれど、シックスセンスのような単なる構造的なオチ(あれは寒いギャグを聞かされているような感覚だったけど)で終わらなかった点が、良かった。たぶん、昨今の作品って前提条件に疑問を持ってはいけないのだな…。

この物語は、結局それぞれの人物がとらわれていた過去の精算を終えることでしか終わることはできない。確かに、視点は仁太を中心にして動いていたし、仲間たちは途中から吸い寄せられるようにして集まってくる。最終的に、互いを昔のあだ名で呼び合うところにまで「過去に戻る」。そうやって生き直すことが、そしてその時のウラの意味を(これがそのまま彼らの本音であるとか、本物の感情であるとは思わないけど)言葉にして互いに認め合うことが、必要な階梯だった。決して歩幅を越えて階段をすっ飛ばすことはできない。

過去の人間関係を復活させる、その当時の感情にまで遡及してまで。それはノスタルジーではなくて、決してそうではなくて、見た目にはどれほど同じように見えたとしても全く新しい人間関係の構築なのだ。「あの花」の彼らが最終的にそこまでたどり着いたかはわからない。最後の最後で、せっかくお互いを向き始めていた視線がまたメンマに一点集中してしまうようにも見えた。それもまたひとつの階梯か? 個人的には「メンマなんかもうどうでもいいんだ、今大事なのは僕達が生きて行くことなんだ」というメッセージに収斂されるのかと思っていたのだけど、露骨にそうはならなかった。あくまでも「あの花」のラストシーンは、メンマのラストシーンであり、仁太たちのラストシーンであってはいけない。

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