ノスタルジーの温度差 『ノルウェイの森』と『マイ・バック・ページ』

奇しくも、松山ケンイチをカードの裏表とするように全共闘世代の映画が去年から今年にかけて公開された。ぼくは村上春樹の作品の中でも『ノルウェイの森』は最も好きな作品であるので、映画化が報道された時からずいぶんと楽しみにしていた。主人公のワタナベはノンポリで、しかし無関心というのではなく意志的に「運動」に対しては背を向けている。映画の中でも、校舎から出てきたワタナベがデモの渦に巻き込まれる場面があるが、彼は唇をきっと結び「自分は関係ない」という積極的無関心を貫く。そして彼は直子と会い、緑と会い、そして失っていく。

一方で『マイ・バック・ページ』は、川本三郎の自伝に基づく。赤衛軍事件の片棒を担いでしまった氏の実体験を、主犯格であり自称運動家の梅山の姿も丹念に描きながら事件の全貌を映像化している。こちらはむしろあの時代の熱気を再現するという触れ込みである。

『ノルウェイの森』が学生運動を真正面から描かないからと言って、それが作品の背景と無関係とは言えない。むしろ書かないからこそ、その不在が際立つ。「なぜ描かないのか?」という。もちろん場面の所々でデモ行進があり、クラス討論があった。しかしワタナベはそれにくみせず、ひとりで旅に出、ひとりで女の子たちに会いに行き、ひとりで本を読む。その対照性が、個人の歴史として一つの叙述のスタイルを生み出す。「あの時代に人々は連帯を求めて孤立を恐れなかったけれど、にもかかわらず、このぼくは………」という。あるいは、「連帯を求めて孤立を恐れなかったのはむしろぼくの方である。なぜなら………」、という。この際、ワタナベが孤独を好んでいたか好んでいなかったかが問題なのではない。ノンポリを貫くことでしか得られない、自分の形というものを彼は愛したし、そうすることでしか彼は自分を確かめる術がなかった。

『マイ・バック・ページ』は、雑誌「ユリイカ」での特集のように様々な角度から語ることができる。山下監督のキャリア、妻夫木聡の演技、川本三郎の知られざる過去……しかしぼくにとって今問題なのは映画の中で語られていることだけだ。

もちろん論点は多くあるが、やはり解釈を慎重にしなければならないのはラストシーンの沢田の涙だ。物語は、新聞記者である沢田が身分を隠して山谷での潜入取材をしている場面から始まる。そこで世話になった男が何年も後に結婚して構えた飲み屋に偶然、沢田が入る。お互いに「久しぶり、今までどうしていた?」という話をするところが、ラストシーンにつながる。相手は沢田のことを山谷時代に偽っていた「マスコミ志望の青年」として扱ってくれるが、沢田自身は赤邦軍事件の後に新聞社を首になり映画ライターを細々とやっている身分。「結局ダメでした」と、沢田は誤魔化すが、出されたビールを飲んでいるうちに嗚咽にむせぶ、というラストシーンだ。これは一体どういう事だろうか?

物語の中核である赤報軍事件は、結局首謀者の梅山に沢田がいっぱい食わされる形で終わる。梅山もまた、運動家としての自分を演出し自分の手は汚さないように事件を進めてしまう。その彼に沢田は「本物の」革命家を見てしまう。自衛隊殺害事件という「行動」にまで出たとき、沢田は偽りの中に本物を見てしまう。だが最後には「どうしてあんなヤツを信じてしまったのか…」という無念に終わる。

その沢田が、元フーテンたちに「マスコミ志望の青年」としてラストシーンで扱われることは耐え難かったに違いない。彼は潜入取材によって市井の本物を見たと信じた。しかし自分はなんだったのか。身分を偽り、そして最後まで彼らにはそれを明かさない。まるで梅山と同じではないか。自分がいっぱい食わされたと梅山を憎む筋合いなど無いではないか…という涙か。新聞記者だった頃、沢田は既に「マスコミ」の中にいた。志望する必要もない。しかしそこから追い出され、新聞や雑誌編集からかればアウトサイダー的なライターをしている今の自分からすれば「結局ダメだったよ」というのは偽りのない言葉だ。嘘から出たまこと。偽物が一回転して、本物に追いついてしまった。その皮肉。

もちろんこれはノスタルジーの涙でもあろう。メインストリートから外れた仕事をしながらも「マスコミ」にしがみついている今の自分からすれば、偽物でも本物でも、何かを求め、信じようとした、その事自体の是非はともかくとしても、上司に「あなたは見たんですか」と食って掛かるほどの熱は既に去っている。それを思い出す。その頃の自分の熱を知っていて、その熱を今でも持ち続けているものと扱ってくれたその時に本当の自分との落差に愕然とする。それがノスタルジーだ。

『ノルウェイの森』は始まりの終わりである。『マイ・バック・ページ』は終わりの始まりである。そう言ってもいいかもしれない。

直子を失い、突撃隊もいなくなり、永沢さんも就職し、ハツミさんも何年か後に自殺することが語られる。彼らはきっといつまでもワタナベにとっては別れたその時の姿のまま記憶されることだろう。最後に残ったのはミドリだ。彼はミドリに「いまどこにいるの?」と聞かれ、「ぼくはどこにいるのだろう?」と答える。それはすべてを新しく始める場所。ミドリとの関係をそこから始める場所として「どこでもない場所」がある。失うものは全て失い、彼はミドリを愛していく。

しかし「泣く男なんて男じゃないよ」とうそぶいていた沢田が泣いたとき、「私は泣く男の人が好き」と言った倉田眞子も自殺してこの世にいない、梅山はもちろん、フーテンにも自分の本当を語ることはできない。結局彼にはなにも残らなかった。そんな境遇にまでなって初めて、彼は泣くことができた。もう全ては終わっている。気が付くのが遅すぎた。絶望的なラストシーンである。けれど、泣くということが、泣くことができたということが、彼にとっての気づきであるならば、それ自体は祝福されるべきであろう。いずれにせよ、川本三郎は評論家としてのキャリアを積んでいくことになるが、もし物語の中の沢田が同じ道を歩んだとしても、ジャーナリストとしての原点からは大きく遠ざかることにはなるのだろう。

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