非日常は日常に~震災後断想

3月に入って、ブログを更新していなかった。今年度も終わるので少しばかり今考えていることを記しておきたい。

言うまでもなく、三月十一日午後二時四十六分頃、地震が起こった。ぼくはその時、会社にいてそこは晴海のオフィスビル十二階に位置する。最初の揺れを感じたときには「まあ、いつもの地震だ」くらいにしか思わなかったが、そう思う間もなくずいぶんと揺れが長いことに驚き、そしてその次にこの揺れがずいぶん大きいことに驚いた。防災訓練でいつもは冗談のようにしか思ってなかった「地震時は机の下に隠れる」という行動が、本当にそうすることでしか身を守れない唯一の選択肢だった。船底にいるような横揺れが続く。それでもその時はまだ向かいの人と「これでまた工場が調子悪くなって減産対応ですね」「いや、これくらいなら大丈夫でしょ」などと机の下で冗談を言い合う程度の認識でしか無かった。

二度の長く大きな揺れをカーペットの上でやり過ごし、再び机の下から這い出ると、世界の様相は一変していた、と言うべきだった。ブラインドを上げると、向かいのビルがまだ揺れている。こちらが揺れているのか向こうが揺れているのかわからない。下に見える公園にはちらほらとヘルメットをかぶった背広姿が集まってきている。やがて交差点は渋滞にまみれ、消防車や救急車のサイレンが鳴り始める。橋の向こうからは早速帰宅を初めているのか、人々が続々と歩いて向かってくる。お台場の方に目を転ずれば、もくもくと黒い煙が空を覆い始める。

誰かが携帯電話を取り出してワンセグのテレビを見始めた。どうやらずいぶんと大きな地震であったらしい、そして関東ではなく東北地方を震源とする地震であるらしいことが伝わってくる。ここ東京にいてこれだけの揺れなのだから、推して知るべしである。情報は時を追うごとに悪化の一途をたどる。

時間が経つのはあっという間だった。待機を命じられて、ただ日が暮れていくのを待つばかり。お台場の火事はおさまらない。そのうち最後の光も地平線の下に隠れてしまうとそれさえ確認できなくなる。一体なにが起きているのかわからない。ここは大丈夫なのか。椅子に座ってパソコンに向かっていても、なにも手につかない。やるべき仕事は、エクセルのシートを開いて、あるいはメールの新規作成のウィンドウを開いて目の前にあるのに頭が働かない。手が動かない。これが恐怖というやつかと、おののく。恐怖を感じるというよりは、自分が恐怖を感じているという事態が出来している、そのことに恐怖する。

この日は結局、地下鉄は今日中の復旧の目処が立たないらしいという放送が入り、「歩いて帰宅可能な者は帰ってよし」というお達しが出たので独身寮組は一緒に歩いて帰ることにした。車で何度か出社したことのある人もいるので道に迷う心配はない。ただこの寒い中、三時間以上も歩き続けるのにはかなり体力が必要なことは確かだった。はっきり言って会社に泊まって明日地下鉄が動き出すのを待ったほうが、トータルで考えれば賢明な選択だったかもしれない。それでもやはり、「自分の家」とか「自分の部屋」というのは非常時だからこそ拠り所として強い力を持っているのだということを感じた。いつ動くかわからない地下鉄を待ってオフィスビルの食堂で雑魚寝をしながら不安を感じ続けるよりも、少しでも自分の足を動かして進むことの方を人間は選択するらしい。もちろん、ぼくたちよりも遠いところへ歩いて帰る人もあった。あきらめて非常食を口にしながら次の日が来るのを待つ人もあった。「まさかこんなことが本当に起こるなんて」と、何人もの人が何度も同じことをつぶやいていた。

帰り道は銀座、新宿を経由する。どこもものすごい人の数だった。すぐ隣りの車道を走る車も渋滞で全く動いていない。途中で捕まえられたら……と少し希望を持っていたバスやタクシーも姿を全く見かけない。たぶん捕まえられたとしても、この道路状況では歩いた方がよっぽどましだったろう。大通りなのに街灯が消えてしまった中を黙々と歩いた。最初のうちは少しは会話をしていたかもしれない。少しはお祭り気分になっていたかもしれない。それも、銀座を過ぎて東京駅皇居付近の信じられない人ごみにもまれた頃にはすっかり、もうどこかで休みたい、どこがで暖かいものを口にしたいという気持ちが全員の中で勝っていた。

開いている居酒屋をたまたま見つけて、とにかくメニューの中から直ぐにできそうなもの、今お店にある食材で出来るものを聞いて頼んだ。お店の人もたぶん次のシフトの人なんて来なくて、たまたま地震が起きたときに働いていた人がお店を開け続けざるを得なくて大変だったろうと思う。歩いて来る道みちも沿道のビルではトイレを貸しますとか、少し休んでいってくださいとか、たまたま地震が起きた時刻にたまたまそこに居合わせた人たちが一生懸命手書きの張り紙を出していた。彼らだってさっさと帰って暖かいお風呂に入って妻子供に今日は会社で地震にあって大変だったよ、君たちは大丈夫だったかい、ケガなんかしていないかい、なんて会話をしたいに違いないのに。例えば自分が歩いて帰れないとあきらめて晴海に取り残されたとして同じことをしていたかというと、迷わずイエスと答えられないのが正直なところだ。

居酒屋にいる間も携帯電話のテレビを見ていると、津波の映像が次々と入ってきていて車をまるでおもちゃのように軽々と押し流している様を見ては息を飲む。歩いて帰れるだけ全然ましで、ここで起きている以上のことが東北で起きているらしい。その、じわじわと苛む感覚が、長く歩いてきた疲労と、新宿のビル群まであと少しという安堵感とまぜこぜになって、なんとも言えない複雑な気持ちにさせる。ここは東北ではない。あと少し我慢すれば家にたどり着く。よかった、ここでは大きな被災は発生しなかった。単純にそう割り切ることが出来ればどんなに楽だったろうか。けれどぼくたちの想像力は一度見てしまったあまりにもショッキングな映像に向かって否が応にも足を引っ張られ続ける。口ではどんなに冗談を言い合っても、九人もの人間がテーブルを囲んで座っても、ぼくたちの間にはただただ見えないため息の淀んだ空気だけがじっとあった。運ばれてきた暖かいお味噌汁がどれくらいありがたかったことか。

それからまたぼくたちは歩いた。結局六時半くらいに出発して、寮に到着したのは十二時近かった。

報道されている内容についてはここで書くことは重複になるのでしないが、個人的な生活圏内での、生活感覚の変化を中心にもう少し書いておきたい。

電力の問題。ぼくは居住地域も勤務先も二十三区内に位置するため計画停電の対象からは外れている。したがって、たとえば計画停電についてそれが行われる対象者にしか事実が通達されなかったとしたら、ぼくの生活はすぐに震災前の状況に戻っていた(戻していた)はずだ。けれどぼくは計画停電が広く行われていることを知っている、あるいはそこに住んでいる人の苦労も知っている。漠然とした「エコ」ではあまり動くことはないが、どこでどれくらい停電が行われていて不足電力がどれくらいかという具体的な数値が示されるとさすがに危機感を持つし、通勤で使う地下鉄が本数を減らして運行してたりオフィスビルもかなり照明を落としているという環境の変化も肌で感じている。だからぼくは計画停電の対象・非対象の線引きについてそれを恣意的なものと認識した上で暖房を消し待機電源を落とし電気ポットは魔法瓶モードにし、ホッカイロを貼って眠る。

物言いにだいぶこだわっているようだが、例えば計画停電の対象地域も通常の時間帯で不便を取り返すかのように無駄遣いをしまくる、あるいは二十三区内の居住者が我関せずといつもどおりの生活を続ける、という選択肢は現実的に可能であるにもかかわらず、多くの人間がそうしていないということは特筆すべきだと思う。無限ではないにしても、今日明日でなくなるわけではないと誰もが毎日思い続けていたという点で無尽蔵だと思われていた資源が有限であることを、多くの人が痛感している。いままでの節電が単なる家計の収支による必要性に基づいていたのに対し、現在の節電は純粋に資源の公平な配分を問題化している。これは需給バランスとかそういうレベルの問題ですらない。我々の国民生活における必要最低限がなんなのかを問われる、実にクリティカルで政治的な問題であり、人々の生活の一挙手一投足に対して選択を迫られる。スイッチをひねるか否か、それが問題だ。

電力の供給というのがどこまで「公益」と呼べるのか、同時にどこまで国家というものに責任を求められるのかというのは別の問題としてあるだろう。電力を供給しているのは東京電力、東北電力といった一私企業である。業績が悪くなれば無配どころか倒産だってあり得る。ぼくたちは過去、それもかなり近い過去に、つぶれないと思っていた業種がいとも簡単に株式市場から姿を消した事実を目の当たりにしている。にもかかわらず、それでも、エネルギーという眼に見えないもの、人々の生活やほかの製造業が活動の大前提としているエネルギーの供給というものがまだなおも聖域として認識されていたことに驚く。電力の安定供給などというものは疑うべくもない当たり前の大前提と考えてはならなかったのだ。

ぼくたちはここで二つの認識を新たに持つ必要があるだろう。

あらゆる私企業の活動はいつなんどき途切れるかわからない。電力しかり、電話しかり、食品しかり。けれどガスは? 水道は? 郵便は? もはやここで自治体の管轄なのか私企業の活動なのかは大きな問題ではないだろう──東電の社長は、菅総理はなにをやっているんだとか責任の所在を議論したがる人間にとってのみ大きな問題なのだろうが、そういったことは事後的であり、関係者のお祭り騒ぎでしかない。また企業の社会的責任は自発的なものだろうが、それが無いからといってどこまで追求できるかは残念ながらこれまた別の問題とすべきだ──逆に言えば国家の管理にあってもなおそれをあたりまえだと考えることは思想として弱すぎるのだ。こうしたライフラインの存在を当たり前と思わず、自衛手段、第二の選択肢を意識すること。これが一つ。

そして相反するようだが二つ目の認識は、こうしたライフラインの「当たり前さ」を維持するにはどうしたらよいかを考え続けること。ある集団を形成し維持し、そのためにエネルギーの分配が必須であるならば、ぼくたちはそれを支える責任と義務とがあるだろう。対価が必要ならば、あるいは対価を支払うことでそれが満たされるのならばそうするし、パンクチュアルな需要に対して供給に不足があるならばそれを知り、理解し、対処する。これは官邸の存在の有無にかかわらず、それを国家と呼ぶかどうかにかかわらず、民主的であるとはそういう事なのではないか。とりたてて美談とする必要もない。実にシンプルに、クールに、考えていけばいい。

もちろん上記の認識によってモラルハザードが起きるかもしれない。先に浪費した者勝ちだ、と。けれど電気も水も、貯めておくには限りがある。安定供給とは、安定需要があって初めて意味を成す。死蔵されることによってほんとうに必要なところへ回らなくなってしまっては元も子もない。だから、矛盾することを言うようだけれど、この非常事態が日常になるのを待つしか無い。計画停電もおそらくは長期化する。これによって毎日ストレスを感じ続けることほどつらいことはないだろう。だからたぶん人間は計画停電があることを「当たり前」だと感じるようになる。ここが境目だと思う。

いつまでも「ある」のがあたりまえだと考えている人間にとってはここから先の長い戦いを続けていくのは無理だ。けれど「ない」のが当たり前だと、この非日常を日常へとさっさと宗旨替えをしてしまえる強さを人間は持っているのではなかろうか。認識のゼロリセット。ぼくが言いたいのはそういうことだ。

この何年かの間に、今まであたりまえだと思っていたことが次々と崩れていった。82年生まれのぼくは阪神大震災・オウム・酒鬼薔薇世代とずいぶん言われ、大学に入った最初の年に同時多発テロ、熱くならない青色発光ダイオード型新入社員と揶揄されながらようやく社会に出るとリーマンショックに今回の地震と、とにかくそれまでの日常が破られる連続を生きてきたように思う。けれど過去は全て過去として、既に起きた現実の出来事として認識され、それはいつしか「当たり前」になる。日常に回収されていく。震度3程度の地震速報では「またか」とうそぶく。カップラーメンのおいしさに気が付き、携帯電話の不便さに気が付く。

それで良いのだと思う。

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