園子温『愛のむきだし』

を、見ました。

土台のエンターテイメントのところがしっかりしているからなのでしょう、四時間というありえない長さも、まったく長いと感じさせなかった。

これだけ重い複数のテーマをこれでもかと重ねてくる、貪欲さがすごい。神や信仰、宗教、愛といったすぐに見える部分もさることながら、家族なんて幻想なんじゃないのか、とか、自分が思っている自分なんて幻想なんじゃないのか、とか、アイデンティティや共同幻想をめぐる問題がここにはかなりの濃度で提起されているように今のぼくには見れた。

自己や自己を規定する人間関係(もちろん若い主人公達にとっては家族や友達が)には、なんの保証もない。血が繋がっているから家族なのか? 家族だから血が繋がっているのか? お互いに友達だと思っているから友達という関係は成り立つのか? 相手が自分を友だちだと思っているなんてどうやって証明できるのか?

全ては君の思い込みじゃないのか?

人間関係を規定する言説にはロジカルな帰結は求められない。だからこそ、そこにつまずいて自分じゃないものになろうとあがいたところで、最後にユウがさそりさんに自己同一化せざるを得なくなったように、自分を見失う。いや、見失うべき自己も最初から無かったのだ。

これは非常にバランスの取りづらい問題だと思う。自分はこういう人間だ、と規定するのは誰か? 自分か? 純粋に自分か? そうではない。家族がいれば幼い頃からの環境によって自己規定はある部分で親の刷り込みによってなされてしまうし、社会に出れば仕事場の中の自分は職務によって規定され、あるべき振る舞いは自分でも気づかぬうちにオン/オフという二元論を飛び越えて汚染しにやって来る。けれどそれが悪いと言っているのではない。たった一人で、例えば音もない真っ白な部屋の中で20年間過ごしたらどんなに素晴らしい自己規定が出来上がるだろうか? ぼくたちはまず、社会的動物ではあるが、それに全面的に依存しているわけではない。しかし他者からの評価を黙殺して「本当の自分は…」とブツブツつぶやいていることが健康的とも思えない。

宗教団体はそれぞれの世界解釈を正しいとしているし、その外部にいても、例えばぼくたちは科学的な物の見方を「正しい」と勝手に思い込んでいる。少なくとも宗教的なものよりは。それって本当にそれでいいのだろうか? みんながそう思っているからそれが正しいっていのは全然論理的ではない。テレビから流れてくる「正しい情報」も、大学者が執筆した分厚い学術書も、見ようによっては電波でしかなくなる。「なに言っちゃってんのコイツ?」と、宗教にどっぷりはまった人がそうでない人を見るように、ぼくたちは宗教にどっぷりハマってしまった人に対して同じ視線を送る。そこにいったい有意な差異はあるのか。ぼくは断言できない。

「あなたはユウ=YOU」

と、ヨウコが最後に「真実」に気がついて叫んでも、それはあまりにも美しく演出された結末でしかない。

野島伸司のドラマで昔「LIPSTICK」というのがあって、あれも主人公の男女が「悠=YOU」と「藍=I」という名前の設定で、最終回で確か「あなたと私で無限」みたいなほぼ破綻した展開になっていたけれど、こういうのは宗教的と呼ぶにはあまりにも遠い。

繰り返しになるけれど、ユウが自己を押し隠しながらゼロの内部に潜り込み反乱を起こすまで彼は気丈なヒーローだった。それが目が醒めてみるとヨウコが好きだと勘違いしたさそりに自己を完全に預けてしまっているところに、そら恐ろしい人間の弱さみたいなものを感じた。人間って簡単にこういうポケットに落っこちてしまうんだ、と。彼はヨウコに好かれよう好かれようと必死にヨウコに好かれていない自分から離れていってしまった。好かれていない自分が相手を好きだというところからどんどん目を背けていってしまった。むき出しの愛を叫びながら体当たりをしつづけ最後には家族を勝ち取るカオリとはあまりにも対照的だ。

それにしてもコイケ役の安藤サクラが非常に良かった。「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」もそうでしたが、小奇麗にまとまらない役を非常にうまく自分のものにしている女優さんのような気がする。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA