そうだ、ぼくには道具があるのだ。

かつてぼくにとって文章を書くことは、苦楽を伴うものではなく、単に排泄的な意味合いもあり、世間ではそういうのを自慰的な遊戯などとも称すのでしょうが、とにかく、ぼくにとって文章を書くことは、定期的に胸の中に散り積もるいとしいとしという心を世界に対して実態を伴った言葉の連なりとして、あるいはディスプレイ上に光る文字として、ポンと海の中へ投げ入れる──というよりはむしろ、だれもいない倉庫の真ん中に置かれた広い机の上にメッセージの入ったボトルをそっと残す、などという多少は詩的な余韻を伴うものでありました。

 
ぼくは何よりもウェットであることを心がけ、例えば入学試験や定期試験、日々のレポート、そしてその延長線上には当然会社に入り社会人として働く中で当然求められる論理性や一貫性が含まれてくるのではありますが、そういったロジカルな世界に対して一線を画す事を自らの勤めとしていました。ぼくはロジカルであることに何の意味があるのか全くわからず、そのわからなさをひたすら自分にしかわからない言葉で綴っていたのだろうと思います。もちろんこうした物言いは現在それを超克しているという立場を匂わせますが、全くそんなことはなく、ぼくは未だにこうして文章を書きながら気にしているのは、ここまで書いてきたこととこれから書くであろうことの首尾一貫性よりも、これを書くことてぼく自身が明日から新しい言葉を手に入れることができるかどうか、ということにしか関心がない、ということなのだろうと思います。
 
文体=スタイルがふらつくことに読者は恐怖を覚えるかもしれません。しかし最も恐れているのはこのぼく自身であり、そしてどっちにむかって走らなければならないのかわからず(こうした思考パーンがまずもって幼稚なのだろうと考えますが)、ふらつく足の向くままに壁に頭をぶつけ、瞬間痛みで頭の中がパッと明るくなるのをやみつきになっているまるで何かの中毒患者のように。いや、これはなんの比喩でもない。まさにぼくは一歩先にあるぼく自身の姿を思い描けずに他人の残像を自分と思い込む、込ませようとするパラノイアなのです。

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