よしもとばななの新刊に鹿島が出てくるよ!

主人公達が東京駅から水郷潮来行きのバスに乗って、「さんて」で温泉に入ったりするよ! ・・・なんでだ、これがファン心理というやつか・・・この著者の『王国』にも伊豆のシャボテン公園が出てきて「行ったことあるある!!」と一人でニヤニヤしていたのもやっぱりファン心理だったりするのでしょうか。

この点を差し引いても、今回も再読三読に値するすばらしい作品です。

タイトルを見て「えっ? 『ざわざわ下北沢』のパクリ?」と思いきや、いきなり冒頭でこの映画について触れられるので確信犯的。そしてもしかして単なる下町ノスタルジーの話じゃないだろうな・・・という不安は読み進めて行くにつれてどんどん裏切られていきます。

これは下北沢に寄りかかった作品ではなくて、かといって下北沢は単なるモチーフであって似たような場所ならどこでも良いというものでもなくて、おそらく、ここに登場する(有名人も含めた)固有名詞たちが生き生きとしていられるのが唯一、日本で下北沢という町だけなのかもしれない、という気がする。つまり、「下北沢を描く」というと漠然するのだけれど、これは小説なので、そこに住む人びとが描かれるわけなのだけれど、彼らが最も単なる人間として、お金を稼いでご飯を食べてという営みを続けなければならない存在として立ち現れて気安いのが、下北沢の街の街らしさなのかもしれない、と。

自分の中での小さなつまづきをそのままにしておくと、それがかなり早い時期に自分にはっきりと返ってくることを、私は学び始めていた。食は人間の本能に関
係があるから、いっそう露骨にいろんなことが出てしまうのだ。はじめは自分の胸だけにしまっておいても、なにか別の形で必ず表に出てしまう。まじめに、地
味に、個性や思い入れをなくして、ていねいにやること以外にはなにもできることはないのだ。

よしもとばななの作品は具体的な地名は出てこないもののの下北沢サイズの町の中で粛々と展開されることが多いと思う。高飛びをすることはあっても、行き着く先はやっぱり手のひらサイズの町だったりする。その意味で、今回「下北沢」を指定してきたのはやっぱり著者なりの思い入れとかこだわりはあるのでしょう。

そしてそれは、再開発が間近に迫っているということも含めてなのだけれど。

主人公のバイト先の建物が最後に取り壊されることになるのだけれど、それに対して政治的な態度は一切取られません。あくまでも、ここに描き出されてるのは生活者の視点です(それはそれで結果的に政治的なのかもしれないのだけれど)。それはバイト先の店長が新規オープンする町が青山だったら私はそこに行くだろう、という記述にからも明らかで、無闇な下北礼賛ではなく、変わりゆく中で変わらないものとか、変えてはいけないものとか、そういうことを言いたいのだと思う。

毎日私が歩くことで、地面に繰り返し私の足跡が刻まれることで、自分の中の街もできていく。その両方は同じように成長していき、自分が死んだ後も気配は残るだろう・・・そういう愛のあり方を、はじめて学んだ。
ふるさとの街ではどうしても学べなかったことだった。

土地性というのは最終的にはそこに住む人びとの人間性であり、大事なのはそっちなのだ。


よしもとばななの新刊に鹿島が出てくるよ!」への3件のフィードバック

  1. 大沢

    さかのぼって読ませてもらったら 作家さんだったのですね!失礼しました…

  2. しゃもぢ@管理人

    いやいや! 作家では決してありません。作家になれなかった人です。

  3. 大沢

    重ね重ね失礼しました…。 好きな本など共感する部分があったので、楽しく読ませていだたきました。
    とは いえ語れるほど読書家でもないし 文学にも詳しくはないんですが…。

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