総括「けいおん!」&「涼宮ハルヒの憂鬱」考

何を隠そう、ここ数ヶ月京都アニメーションにやられまくっていたのである・・・。表記二作に加え「AIR」、「CLANNAD」、別腹で「とある科学の超電磁砲」など鑑賞。断じて、鑑賞である。そろそろオタクに身をやつしたこの時間を総括せねばなるまい・・・と、筆を執る。

(ただし「AIR」「CLANNAD」についてはある界隈の人には名作の誉れ高いものの、どうしてもついて行けなかったので割愛)

ところで結論から先に言えば東浩紀だか大塚英志だか忘れたが、「物語は死に、キャラクターが残った」という現代のラノベ界隈で良く評される言説がまさに具現化されている現象だということ。

「けいおん!」について言えば、高校生がバンドを組んで・・・というモチーフであれば当然、苦しい練習によってだんだんギターが上達するだとか、音楽性の違いによって仲間割れが起きるとか、高校生なら男関係でもめるとか、そういうのがあるだろうと期待するのが物語読者である。

近年のバンドもので言えば「NANA」「ソラニン」「彼女は嘘を愛しすぎている」(「あなたとスキャンダル」とかもう古すぎて(ry)などは物語的傾向の強い作品であり、言ってみればビルドゥングスロマンに乗っ取った非常に古典的な作品なのである。

ところがこの作品には一切そういった筋書きのようなものは出てこない。

まずもって練習シーンがほぼ無い。あってもそこに「成長」の物語を読み込むことは困難である。

では「けいおん!」には何が描いてあるのか?

それは五人のメンバーとそれを取りまく学内関係者のキャラクターのキャラクター性を補完する、あるいは顕現するエピソードが延々と繰り返されるのである。AはAである、BはBである、CはCである、ということをただ繰り返し述べ立てるのである。

その証拠に例えばwikipediaなどでこの作品を調べるとあらすじよりも登場人物紹介に費やす字数がやはり半端無く多いのである。

いわば、それぞれの登場人物が一つの場所に集まっておしゃべりを始める、その中でキャラクター同士の差異を表すことによって両者の人物造形がより濃く上書きされていく、そのことを楽しむものなのである。

だからモチーフを変えても自動反射的にAはA的な反応が展開されるし以下同様なのである。彼らは自分のキャラクターを決して裏切ることはない。こうなると、ほぼ無限大にモチーフの数だけ「話」を作ることが可能だ。

しかしこれはなにもとりたてて言うほどのことでもないだろう。国民的と称される長寿アニメは、この国ではたいてい脊髄反射的なキャラだけで内容を構成されるものが多い。サザエさんしかり、ドラえもんしかりである。キャラ固定で行けば、いくらでも作「話」が可能だ。

ただこの作品に自閉したところがないのは、キャラ先行作品の風穴として世界外的存在とでも言うのか、闖入者とでも言うのか、もっと有り体に言えば「つっこみ役」がちゃんといるからで、他でもなくそれは和(のどか)だろう。

それはおそらく「新世紀エヴァンゲリオン」においてアスカがたびたび「あんたバカあ?」と言うのと一致するだろう。彼女もまた、いわば外部からネルフ組織にやってきた闖入者であり、その中にどっぷり染まりきっているシンジに対し「つっこみ」を容赦なく入れる。

蛇足ながらエヴァンゲリオンについて言えばこれが有効なのは作品の前半だけで、後半アスカが病むにつれてはやはり視聴者も息苦しさをおぼえながら作品世界に入り込まざるを得なくなってしまったのが、たとえそれが計算されたものであったとしてもこの作品の大きな特色なのだと思う。

繰り返しになるが彼女らは風穴として作品世界を現実とつなげているのである。それは冷静沈着な読者の代弁者でもあれば、作品が自閉的マンネリズムに陥るのを妨ぐ介助者でもある。

ひるがえって「涼宮ハルヒの憂鬱」に今の文脈で特記すべき点があるとすれば、まさにこの「つっこみ役」が語り手キョンであるということに尽きるだろう。

もちろんこの作品もそうそう要約の難しいものである。前半はSF的なノリであったものの後半に行くにしたがって謎は全く回収されず、日常系のキャラ先行エピソードパターンに陥る。

この構成の破綻ぶりの是非は置いておくにしても、例えばキョンのナレーション無しでSOS団もキョン無しで構成されていたとしたら、全くついて行けない作品となっていたに相違ない。視聴者はテレビの画面を見ながら語り手と同一化し、目の前のキャラクター性を批評していく。

だからこれは三人称小説でありながら語り手が作品内世界にちゃんと存在するという奇跡のような形式なのである。葛西善蔵もびっくりである。ちょうどチューブの内壁ようにキョンは内側に外側として存在し続ける。そして憎いことに自分の置かれている立場のアンビバレンシーを時々残念がってみせる。

そしてそれがキョンのキャラ性なんだよなって、言ってしまうともうなんだか頭の中がこんぐらがっているのでこれ以上深入りしない。とにかく、「涼宮ハルヒの憂鬱」においてはその語りの形式が非常に特徴的で、おそらくアニメーションという形式で最も効果的であるように思う。

ところで、と言うべきかだから、と言うべきか、涼宮ハルヒのキャラ造形の秀逸性はおそらくこの作品の人気を解析する中では副次的なものと言っても良いかもしれない。あるいは、そう言うべきか。

もちろんこの世界を自分の思い通りにしたい、そして行動がそれを可能にするという強烈な信念、強烈な個性は現代の多くの視聴者にとっては忘れていた感情であり、だからこそ引きつけているのかもしれない。ハルヒのOP/ED曲であれキャラクターソングであれ、いずれも強烈な前向きさが前面に押し出されたものになっている。

あれもこれも未体験 いつだってムリヤリ
まるでまるで未経験 これからしましょう
あれもこれも未体験 いつだってトツゼン
まるでまるで未経験 これかどうしたの?
──平野綾「Super Driver」

ハルヒのスキゾ性はおそらくキャラ先行作品の中では際だって異例のことで、かつそれが成功している数少ない実例なのかもしれない(これはこれで別に議論しても良いくらいだと思う)。いずれにせよ、おそらくキャラ性の消費の一つの形態ではあると思う。

「けいおん!」を含めてキャラクターソングというものがこれほど売れてているという事実はそれぞれのキャラに対する親和性(=萌えを感じる、ということか、そういうことか?)が作品を強く強く支持しているということを証明するものであって、旧来のOST購入とは全く別の消費活動がここにあるの
だと感じる。

・・・と、さて、いつになく長々と思いつくままに書いてしまいました。ほぼ下書状態で推敲せずアップロードしておきます。また機会があれば補足しますが、しかし改めて自分は中身よりも形式にこだわる人間なんだなということが読み返してみてよくわかった。色々と中身についても書きたいことはあるのだけど、とりあえずこんなところにしておきます。オタクじゃないからね! と言ってももう遅い。。。

↑上記で書いたことを逆手に取るとこういうMADが出来上がる。
 本当に、このアニメの受容のされ方は興味が尽きない。

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