【小説】ノブレス・オブリージュ〈第七章〉

     七 実業家の出発

 携帯電話を閉じると圭史はちょうど大学図書館の前に立っていた。キャンパス最寄りの地下鉄の駅を出たところで電話を受け、話をしながら歩いてきたのだった。大通りの交差点を越え、いつもの通用門をくぐってきたはずだったが、通話に夢中になっていたせいか、自分が歩いていたということをほとんど覚えておらず、パチンと音をさせて二つ折りの電話をたたんだとき、初めて周囲の音や光が自分の中に入ってきた。
「ああ……まだ暑いな」
 額から流れてくる大粒の汗を手の甲でぬぐいながら圭史は独りごちる。燃えるような夏の木立の明るい影が、図書館の入り口へ上る階段を半分おおっている。その前に乱雑に並べられた自転車の群れ。石畳を強く照らす、季節としては盛りを過ぎてなお最後のエネルギーを主張し続ける太陽の光。頭から降り注ぐ蝉時雨。──と、広場の真ん中に位置する噴水が沈黙を破る。一度それが始まるとあたりは水音に満たされる。関東大震災後に立てられた堅牢な校舎の壁に反射する音が、圭史の皮膚へも届く。
 手に持っていたトートバッグを肩に掛け直すと、その中に入っている真新しいノートの重みを感じる。昨日の夕食が終わって自室に戻ったあと、圭史はすぐにペンを走らせ始めた。父である圭造から一式渡された幕張本郷の登記簿と関係書類の束からは何らのイメージも湧いてこなかった。だからまずは何らの制約もないと仮定してプランを書き出していくことから始めようと思った。
 確かに、その中に「トキワ荘」構想はあった。けれどそんな子どもの夢のようなものを圭史も最初からできると信じて書いたわけではない。堅実なプランは他にいくらでもあった。駐車場、トランクルーム、貸倉庫、あるいは商業施設への転換。万年筆を走らせながら、そういったお座なりのとでも言うべき優等生的な回答はすらすらと出てきた。そしてそうしているうちにいよいよ自分が父親の敷いたレールの上をなんのきしみもなく滑走し始める風を感じた。正確に言えば、風圧を感じた。途端に圭史はノートのページをあらためるとほとばしる本流の飛沫をすくい上げるようにして実現可能性を度外視した計画を書き始める。「アーティスト・イン・レジデンス」多くは公共機関が資金を提供し、ある場所に作家を招いて住んでもらい、創作活動に専念してもらう。
 いくつもの妥協を圭史は繰り返してきた。そしてまた抱え続けていた。偉大なる父への反発。そんな物語にからめ取られることを潔しとする男ではないつもりであった。けれどわかってもらえないことに居心地の良さを感じるほど自分の人生に楽観的でいられるような年齢でもないという自覚はあった。日々それはむしろ強まっていくのだった。形はどうであれ、具体的な挑戦を仕掛けられるのは初めてのことだった。始まりの合図。父も頭の悪い人間ではない。あらゆる計画を練りに練った上で、そのボールを圭史に投げてきた。あの場所で、記者まで呼びつけてそのことをしたということには、並々ならぬ父親の本気を読まなければならない。だから圭史もまた、同じ気持ちで投げ返さなければならないと感じていた。
 父の問いにどう答えるのか?
 それを考えるために図書館に来たはずだったのだが(彼はしばしば図書館の特定の席に座って半日近くノートを広げて過ごすことがあった)熊谷磨理との電話で思わず口走ってしまったことが、もしかしたら答えなのではないかと、不意に口をついてしまったのだからこそむしろ自分の本心に近い答えなのではないかと妙に納得する自分がいた。甘い夢の残り香と、あられもないキャッシュの流れとに橋を架ける──その発想こそがずいぶんと子供じみていると言えばそうなのだが──いずれにせよ、圭史の目に今映っている噴水の水しぶきと池の端を覆う夏の緑は端的に自分の心を反映しているようで、時代がかった私小説の世界観みたいだと、圭史は自分の中にうまれいずる新しい感情を少し恥ずかしく思いながらきびすを返す。図書館で思案に暮れている場合ではない。まずはその土地を見に行こう。


 御茶ノ水駅から総武線に乗り換えると、四十分程度で幕張本郷に到着する。東山パイプ&スチールが本社工場を構える鉄鋼団地よりさらに東側に位置する。都内から幕張地区に来ると少なからぬ変化を感じる。歩いている人の数はもちろんのことだが、それ以上にそもそも街としての成り立ちが全く異なることを、圭史は自分の幼い頃の記憶とも織り交ぜながら感ぜざるを得ない。馴染みの新宿はいくつもの歴史のレイヤーがひとつの土地の上に重なり合っている。タイムズスクエアで買い物を終えてガード下をくぐり抜け、思い出横町で一杯ひっかけていても同じ街の中にいる感覚はある。それはきっと街のあちこちに内藤新宿から戦後の闇市を経て現在に至る様々な歴史の断層が顔を出していることを、この街が「無計画性」として排除せず受けて入れてきたからこそだ。変化をそのスタイルとしたとき、街は生き始める。細分化され断片化された時代の反故があちらこちらで縫い合わされ当てがわれていく。統一感のないという統一感。
 いま、幕張本郷駅の改札を抜け南口の陸教の上に立ってこの広大な台地を見回してみると、ここが人びとが仕事を終えて安らぎを求めに帰ってくる場所であることがわかる。ここは家族と朝食を食べ、子どもを育て、父親を職場へ送り出すための街だ。線路を挟んだ北側は幹線道路を囲むようにしてて民家が立ち並ぶ。その色とりどりの屋根が、平坦な土地の眺望遙か彼方まで続く。転じて海へと向かう南側も真新しい高層マンションが文字通り林立している。きっと土曜日や日曜日には海浜幕張まで自家用車を飛ばし、アウトレットモールで買い物や食事を楽しむのだろう。圭史にとってそういった生活は創造だに難くないものではあるが、いっこうに現実味をおびないものではあった。そういうのは、小説とか映画の中の出来事のようだった。人びとの憧れる──憧れはしないかもしれないが──マイホームパパとその家族の物語。小津安二郎だったら、素敵な脚本に仕上げてくれるに違いない。
 かばんの中から目当ての土地の住所を確認しようと書類を出そうとすると、携帯電話がメールの着信を知らせた。
「そこに立っているのはひがし君だな?」
 それは、クラスメイトである日下部美佳からのものだった。近くにいるのだろうか? と顔を上げて辺りを見回すと、陸橋の下のロータリーから車のクラクションが聞こえてきた。手すりから身を乗り出して下を覗くと、その青いコンパクトカーのウインドーが下がって見慣れた顔が手を振っているのが見えた。
「何やってんの? こんなところで珍しい」
「日下部って、ここに住んでたんだっけ?」
「えっ?」
 強い風が吹いてきて、橋の上と下とで会話するには少々不便な雲行きだった。「今そっち行く」と聞こえないのを承知で言って圭史は階段を下りていった。美佳もアイドリングしながら運転席から降りてくる。
「運転するんだ」
「ここに住んでたら車がないとどこにも行けないもの」
 都内の大学に自動車で通学してくる者はもちろんいない。そもそも運転免許を取ることさえ、よっぽど就職活動で必要になったとかでも無い限り話頭にすら上らない。だから圭史にとって見れば身近な友人がごく当たり前のように車を運転しているのが
「ぜんぜん知らなかった。というか、そういうイメージがなかった」
「車乗ってるなんて言ったらなんか嫌味でしょ? こっちは不便だから乗らざるを得ないのに、都内にお住まいの方は車なんて酒やら煙草みたいな嗜好品かなにかと勘違いしていらっしゃるからね」
「ごめん」
「わかってくれればよろしい。で? どこに行くの?」
「この前のパーティーで発表があっただろう。その場所を見に来たんだ。住所はわかるんだけど、どこかわかるかな?」
 圭史はそう言ってさっきかばんの中からだそうとしていた登記簿のコピーを美佳に見せる。美佳はしばらくそこに書かれてある文字を読んでいたが、たかだか一行で済んでしまう住所を読み終えるにはいささか長い時間、彼女はそれを見つめていた。他のことを考えでもしていたのかもしれない。
「ちょっと駅からは遠いね。乗ってく? 私も見てみたいな」
「でも、だれか待っていたんじゃないの?」
 さすがに大学生といえどもなんの用もなく駅前のロータリーで車を止めておくほど時間を持て余しているわけではない。
「ん? まあいいから」
 そう言って美佳はさっさと車の中に戻ってしまう。「まあ、いいから」と圭史は繰り返すようにしてつぶやくと「早く乗って!」と急かす美佳の言葉に乗せられるようにして車の反対側に回ってまだ真新しい匂いのする車内に乗り込む。
「私だってヒマじゃないんだからね」
 と、さっきとはまるで矛盾する言葉を口にしながら美佳はハンドルを切って大通りへと出る。それから車は線路をまたぐ橋を渡って北東へとスピードを上げた。走り去る窓外の風景はどこを切り取っても変わり映えのするものではない。車内は音楽を翔でもなくただロードノイズだけが静かに足元で響く。
「もう一回さっきの住所言ってくれる?」
「習志野市花咲××ー××」
「ひがし君、最寄り駅を間違えたね。まあでもおかげで私に拾われたからラッキーだったかな」
 住宅街は迷路のように入り組んでいて、大通りが突然とぎれた後は東西南北もわからなくなるような十字路に次ぐ十字路を美佳は器用に最短ルートで車を運んでいるらしい。少なくともモニターに映されているカーナビの地図を見るともなく見ていると、彼女の「現在地」は同じ場所に戻ることなく進んでいる。
「女の人って地図が読めないって言うじゃん」
「運転しながらの景色でしかどっちに行けばいいのか判断できないのよね。だからカーナビってあんまり使わない──あ、たぶんここだ」
 と言って美佳は車を道の真ん中でいきなり止める。一瞬前のめりになった身体を起こすと、道の右側にはだだっ広い駐車場とその一角に二階建ての古いアパートのような建物が立っている。
「その駐車場に入れちゃおう」
「怒られない?」
「所有者はぼくだよ」
 冗談めかして半ば本気をただよわせながら圭史はそう言う。自社鋼材の一部を流用したらしいパイプで組まれた柵の一部がきれいにが破られていて、ちょうど車一台分が通ることができた。真っ白な砂利の敷かれたなにもない場所に車は止まる。ほこりっぽい地面に足を下ろすと改めて二人は目の前の建物をじっくりと眺めることができた。そして、だれがどう見ても「廃屋」という一言が最初に口をついて出てきそうなその建造物に「廃屋」ではない言葉を当てはめるならば何がふさわしいかを
考えなければならなかった。近づいてみると壁のひび割れや手すりの錆がいよいよ目立った。そう古くはないはずだが、人が住まないと建物というのはすぐに荒れてしまうことが、まざまざと思い知らされる。しかしそれ以上に、二人と建物の入り口との間には一メートルを優に越える雑草が生い茂っていて、駐車場からのアプローチを完全にさえぎってしまっていた。かき分けていけばなんとか通れるという程度のものではない。びっしりと根本は地面を覆い尽くし、行く手を阻んでいる。
「これは、土地利用とかそれ以前に下草を刈らないと考えが次に進まないね」
 触れれば手を切ってしまいそうなするどい葉の先を手で丸めながら圭史は言う。
「でもこういう木造アパートってなんだか懐かしいね」
「確かに。風呂無しトイレ共同、きしむ廊下に鳴り響く黒電話のベル。古き良き昭和の共同体」
「最近はやっぱりレトロブームだからこういうのも残しておけばちょっとは話題になったりしないの? 物件としては稀少じゃない?」
「じゃあここ住む?」
「え?」
 そんな意地悪な質問をするような人だっけ? とでも言いたげに美佳はうっすらと笑みを浮かべながらも困ったような顔をする。
「単に数の過多で希少価値とは決められないよ。会社の独身寮とは言ったってさすがに学生じゃないんだから、今の時代好き好まない限りは人は入らないだろうな。まわりもきれいな住宅街のようだし、この一画だけ時間が止められているみたいだ」
 圭史は常に父親との想定問答を頭の中で繰り返していた。まだ彼は、自分の思い描いている計画の実現性を測りかねている。現実という得体の知れないかたまりに向かって手を伸ばす。その感触はまだない。反発も、懐柔も、まだなにもない。当たり前だ、彼はまだ手を伸ばしたに過ぎないのだから。
「ひがし君ちは鉄が商売なんだから鉄骨で建てれば良かったのに。ほら、この表札なんて金属で出来てますっていう感じがするじゃない?」
 アプローチの入り口に建っている門柱に掛けられているのは「東山P&S習志野寮」と彫られた表札だった。長い間の風雨にさらされてか、ブロンズ製の文字の間から錆が流れ出ている。
「残念ながらうちは、建築用の鋼材は扱ってないんだよ。でも……そうだな」
 圭史は急に黙り込んで腕組みをする。伸ばした手の中に向こうからなにかがやってきてくれた。それは捕まえて手の中にとどめておく価値のあるものだったかもしれない。圭史の感触は選ぶことを選ぶ。
「なんだか、今日はいつも以上に真剣だね、ひがし君」
「この件ばかりは失敗が許されないと思っている。親父は実験だなんてうそぶいているけど、これでぼくのなにかが試されるんだ。具体的な判断が下されるんだ」
「家業を継ごうと思い始めてるってこと?」
「そうじゃない」
「そうじゃないの? だって会計の学校だって通っているわけでしょ? 準備は着々と進んでいるわけじゃない。この寮だって、ひがし君が考えているほど深刻なものじゃないよ、きっと。経験として、……変な言い方だけどむしろ失敗してくれた方がいろいろと学べるくらいにお父さんも思っているはずだよ」
 美佳の言葉を聞きながら圭史は心に揺らぎを覚える。彼の心中には二つの相反する願望があった。ひとつは、父親に肯定されたいという思い。確かに言えるのは、圭史は失敗することを潔しとしていない。勝者にしか選択の権利はない。ならばひとつひとつの挑戦に対して全力を尽くし、かつ圧勝を手に入れなければならない。接戦の末の辛勝など負けたも同然である。そうして、いつだって自分は始められるという証拠さえ残しておけば、決断を先延ばしにできるのではないかと、どこかで願っている。もうひとつは、父親に否定されたいという思い。それは一種の破滅願望でもある。言うなればそれは完敗である。不戦敗である。「お前は全く使い物にならない」とでも引導を渡され、遠い親戚でも良い、いっそのこと血のつながらぬ外部の人間を経営に呼び込む、そして圭史は三代目の凋落として名を刻む……。だがそれは、それこそは現実離れした彼の夢想であったか。既にプレスに流れた事実を彼はこの先も追いかけなければならない。そしてそれは、成功の物語を描き出すべく奇跡を残さなければならない。
「そうかもしれないね」
 たくさんの言葉が頭の中を流れては去っていったが、それを美佳に話そうという気持ちにはなれなかった。その代わり、彼女のそばから離れるとかばんの中からデジタルカメラを取りだして建物や駐車場、周囲の住宅街の様子を黙々と写していく。美佳は反応の薄い圭史を不思議に思いながらもそれ以上深追いすることはせず、手持ちぶさたに辺りの草木に触れてみたりさっきのプレートの文字を指でなぞったりしている。仕舞いには一人で放っておかれるのが飽いたのか、草をかき分けて入り口へ進もうと試みた。そして、見た目以上に雑草は柔らかく道を空けてくれることに気がつく。先に腕を伸ばせば鋭い葉に疵を付けられる。だから足で先に根本を踏みつけてしまえば、自然と前に道は出来上がるのだった。
「入れそう?」
 遠くから圭史がまるで他人事のように問うのをわざと聞こえないふりをして美佳はアプローチを突破し、基礎のコンクリートの上へ足を踏み入れた。それもひび割れ、少し蹴飛ばせば角がボロボロと崩れ落ちる。雨の跡が不気味に黒く表面を汚している。さび付いた自転車、空っぽの植木鉢、骨だけのビニール傘がいくつも窓の桟に掛けてある。二階へ上がる鉄骨の階段からは錆の匂いがただよってくる。足をかければ踏み板はすぐにでも崩れ落ちるだろう。
「危ないよ」
 と、後ろから声がして美佳が振り返ればようやく圭史も腕を疵だらけにして彼女に追いついたところだった。
「壊すんだったらちゃんと中を見ておかないと。これは義務みたいなものよ、ひがし君の」
 そう言って二人が見上げた一○三号室の扉。その傍らには差し込み式のネームプレートが設置されていて、油性ペンで「柏木錬太郎」とある。
「錬太郎さんだ」
「知ってる人?」
「ついこの前、定年を迎えた大ベテランの人だよ。今はどこに住んでいたっけな……例によってまだ居てもらっているから工場に行けば会えるよ」
「ふうん」
 と言いながら美佳はドアノブへ手を伸ばす。
「やっ、ちょっと……」
 急に部屋の主が身近な人間だとわかると身構えるのか圭史は瞬間、引きとどめるかのように腕を延ばしたが美佳の方が早かった。鍵かかかっていると思われたノブはすんなりと回り、扉は開かれる。その隙間からは埃っぽく乾いた古い空気が流


【小説】ノブレス・オブリージュ〈第七章〉」への1件のフィードバック

  1. 渡辺

    あなたの小説をすべて読んだわけではありませんが…
    おもしろくない、と思いました。はっきり言えば、才能がないのではないかと思います。

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