っていうのが若さ

あんまり眠かったから、帰ってきて布団に入って一時間くらい眠っていたら同期が部屋に入ってきたところで起きてしまった。十二時をちょっと過ぎていたのでお風呂に入りにいった。そんなわけで昨日と同じくらいの時間なんだけど、ちょっと目は覚めている(これ、いいのか?)。

むかし夢中になって読んでいた某ブログを読み返していたら、その若さとか、若さによる文章の張りとかって古びないものなんだな、と思った。

毅然とした断定は、だからこそあとで間違っていたと思い返したとしても、そのときはっきりとそう思っていたということこそが大事なのであって、曖昧なままの人はずーっと曖昧なままなんだと思う。断定って、すごくエネルギーいるし、それを表明することで読者を敵味方にわけてしまうところがあるでしょ。

でもそういう文章を書き続けるってことはなんだか憧れてしまうなー。

激しいくらいの反発は、かたくなになりさえしなければ「考える」ってことの出発点に充分なりうるだろうし、そういうのがベースになっている人間関係というのもすごく面白いと思う。というか、そういうのをちゃんと許し合える人間関係っていうの?

話が矛盾するようだけど、全否定か全肯定化じゃなくて、あなたのこういう部分はわかるけどこういう部分はわかららない、と口に出してちゃんと言い合える、みたいなさ。

過去も含めてぼくの周りにはそういうのってあんまり無かったけれど、会社という場所にいると自分という像が相手によって規定されてしまう部分がたくさんあって、それが多くは役職とか経歴とかに多く依存する。そういうのって人間のごくごく一面だとぼくは思っているのだけど、でも会社という場所は一日のほとんどを過ごしているわけだし、会社の人間と会社以外の場所で会社の人間同士ではない関係で会うってことはすごく希有なことなので(全員とそんなことはできないよ)、結局のところ一面であるという事実は変わらないのだけど、会社という場所にいる間はそれが全面にすり替わってしまう。

でも、たぶんむしろそういうところで救われる場面もあるんだろうな。全人的な関係じゃないから失敗とかも括弧の中に入れられるというか。でもそういうのは最後の最後でいいと思う。

なんだか、自分の輪郭が、新しい居場所にいてだんだんぼやけてきて、まわりからの浸食に耐えられなくなっている。あるいは、まわりがぼくという人間をこうだろうと思っているに違いない像に脅えている。

こちらから、押し返す力が、欲しい。


なんつって、明日DVD来るかなー。。。

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