祖父他界

別れ際に、普段口数の少ない叔父は「あっけないもんだな」と言った。長い長い三日間だった。確かにまだいる、と感じられていたのが、あの一瞬で「かつてあった」に召還されてしまう。一時間も待っていなかったと思う。どれだけの火力だったのか、そればかり思いやられ、そしてその力の前に、残った者は、それを目の前にした者たちは現実に追いついていくのがやっとだった。かえって助かる事務的な制服姿の男が壺の中へ入れていく。本当に、あの小さな容積の中に人は入ってしまうのだと驚かされる。それだにさえ、目の前で見えているものが心にまで届くのに多くの時間を要する(過去形ではない)。感情が追いついてきたときには、すべては終わっている。それが儀式というもののありがたみなのかもしれない。それが儀式というものの存在意義なのかもしれない、良いにせよ悪いにせよ。

もうあの声は聞かれない。私が何をしてやれたというのか。一個の人間として立派にやっていく姿を見せてやれたというのか。普通に社会でやっていく姿を、表現して、伝えようとしたのだろうか。断じて、否である。人は生きてさえあればいいのではない。人はそのことを伝えなければならない。言葉も通じなくなったとしても、どうしてお前は伝えようとしなかったのか。逃げてばかりいた。距離と時間のせいにばかりしていた。それでも、どうしようもないことはあるし、どんなに最善を尽くしてもかなわないことは世の中にたくさんある。実際、そういうことはある。それでもなお、届くと信じずに発せられたメッセージがあったろうか。届くと信じるからこそ、人は、なにかを伝えようとするんじゃないのか。

空っぽの犬小屋。枯れた盆栽。扉の開かれない書斎。主を失った安楽椅子。まだ届く郵便物。

そして残された不甲斐ない自分という存在。まだ生きてある、「私」。

「私」は何も残せないかもしれない。それかが怖さからまた生き続ける。その恐怖と戦う。同じことをまたしてしまうかもしれない。同じことはまためぐってくるはずだろうから。あるいは、自分が──。この世でのすべての修行を終えたときに仏はあの世へ戻ってもよしと許しを与える。本当にそうだね、と言い合った。参列者の数の多さを言うのではない。一番よくわかっているのは私たちだから。まだまだたくさんの宿題がある。それは答えをすぐに出すべきものではない。けれど日々、答えを出していかなければならない。出し続けていかなければならない。

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